夜空を見上げれば、其処には丸い月が在る。
それはまるで俺達が演じてきた喜劇の傍観者の様にも思えた。
だが、そんな喜劇を終わらせる為に、俺達は団結し此処――夜の学校へと集った。
ふと目線を下げると、日中の騒々しさが嘘のように静まり返った無人の校舎が、月明かりに照らされて青く光っており、中央校舎の最上部にある時計に掲げられた『故障中』の看板を観ることも出来た。
「さて……いよいよだな」
背後から聞こえてきた折原の言葉に、俺は振り向く事なく頷き返す。
ひゅおぉぉぉ――校庭に一陣の風が吹いて、俺達の髪の毛や制服を靡かせた。
風に目を細めつつ、月明かりを受けて闇に浮かぶ故障中の時計を見据えたまま、改めて考える。
――今が何月何日の何時なのか?
今の俺達にはそんな、ごく当たり前の事が判らない。
しかしそんな漠然とした不安も、今夜で決着を付けてやる――確固たる決意を胸に、俺は一歩前へ踏み出すと振り向き、皆を見回しながら口を開いた。
「今までの成り行きからすると、全てはこの地、つまり学校にその端を発している。人知の及ばぬ超常現象か? 何者かの陰謀か? いずれせよ人気の絶えた夜の内に調べれば何かが掴めるはずだ。……さぁ、乗り込むぞっ!」
最期の叫び声を合図に、皆が一斉に手にした懐中電灯を灯す。
「万が一を考え、郁未先生と佐祐理さんはこの場で待機! 残りは俺に続けぇっ!」
俺は気合いを入れるために、水瀬家から持ってきた木刀を突き上げて叫ぶ。
『応っ!』
皆の大きな声が夜の校庭に響き渡ると、俺達は一斉に校舎へ向けて走り出した。
■第13話「暗中模索」
正面入り口を勢い良く開けると、俺達は校舎内へと雪崩れ込んだ。
照明の電源が落とされている為、真っ暗な校内は、それだけで不気味な雰囲気を醸し出している。
ついこの間まで、泊まり込んでいた学校だというのに、今目の前に広がる雰囲気は余りにも異質に思えて仕方がない。
そう思ったのは俺だけでは無いだろう。数人がはっと息を飲む声が聞こえてきた。
連れだって中央階段の前まで来ると、俺は手はず通りに指示を出す。
「南と澪ちゃんは一階の右回りだ! 南っ、澪ちゃんはお前が守れよっ!」
「りょ、了解っ!」
『判ったの』
俺の声に強張った表情の二人が応じる。
尚、澪ちゃんだけは他の者と異なり、手にしたスケッチブックを使えるように、懐中電灯を付けたヘルメットを被っている。
「沢口、暗闇に二人きりだからって、澪ちゃんに手出すなよ」
「南だ! お前と一緒にするな!」
緊張気味だった二人だが、住井の軽口に普段の調子を取り戻したらしく、南の表情は幾らか和らぎ、澪ちゃんはと言えば、両手で持ったスケッチブックで住井の顔面をバシバシと叩いている。
「痛いよ、冗談だって!」
『はははは』
そんなやり取りに周囲から笑い声が漏れる。
緊張していたのは二人だけでは無かったのだろう。
先程まで張りつめていた皆の表情に、ゆとりの様な物が感じ取れる。
「よっし! さぁ行こうぜ澪ちゃん」
澪ちゃんは南の言葉に元気良く頷き、彼の先導の元、闇の中へ消えていった。
「北川と香里は反対側、左回りで頼む」
二人の背中を見届けると、俺は北川と香里を指名した。
「うお〜っし!」
「判ったわ」
香里と二人で行動できる事で気合いが入りまくりの北川と、こんな状況でも冷静な香里。実に対照的だ。
「お姉ちゃん気を付けてね」
「大丈夫よ心配しないで。それより貴方こそ無茶しちゃ駄目よ」
「いや香里、気を付けるのは北川に対してだぞ?」
「北川、解ってるとは思うが襲うなよ?」
「あ、当たり前だっ! お前等俺を何だと思ってるんだよ!」
折原と住井の言葉にどもる北川。
何か後ろめたいことでもあるのだろうか?
「さ、行くわよ」
「お、おう!」
二人の背中を見送って、四人に一階を任せると、残った俺達は中央階段を登り二階へと向かう。
「住井と栞はこの階を右回りで調べてくれ」
二階に着いたところで、今度は住井と栞に指示を出す。
「よっし任せろ!」
「任せて下さい!」
こんな状況でもノリの良い返事の住井と、ガッツポーズの栞。
「栞ちゃん、無理するなよ?」
「大丈夫ですよ」
栞を気遣う住井の声が闇に消えて行く。
「よっし、七瀬と名雪は反対回りだ! 七瀬、名雪を頼んだぞ」
「判ったわ」
「判ったよー」
俺の声に反応する二人。
「しっかり水瀬を守れよ七瀬。それから……間違っても襲うなよ?」
「襲うわけ無いでしょ! あんたこそ瑞佳に怪我でもさせたら殺すわよ? 瑞佳、気を付けてね」
折原への七瀬の返答に長森が「あはは……大丈夫だよ」と苦笑を交えて答える。
どうも七瀬は今朝の一件以来、すっかり開き直った様だ。
「じゃ、祐一行ってくるね。よろしくね七瀬さん」
「うん。任せて」
名雪の言葉に「おぅ」と返事をして、残った俺達は更に階段を登り三階へと向かった。
「川名先輩と深山先輩は三階を右側からお願いします」
「頑張るよ」
「はいはい。判ったわ」
俺の言葉に楽しげに頷く川名先輩と、そんな彼女にほんの少しだけ呆れ顔の深山先輩。
当初、川名先輩には家に帰って貰うつもりだったが、最後まで一緒に行くと言い張ったので、結局手伝って貰うことにした。
「浩平君、私頑張るよっ」
「おう、気を付けてな」
見れば川名先輩は、折原にいつもの笑顔で手を振っている。
「あの、深山先輩……お願いしますね」
そんな様子を見て、俺が小さな声でそう言うと、深山先輩は少しだけ寂しそうな笑顔で俺を見る。
「大丈夫よ。こう言ってはなんだけど、みさきにとっては今の状況も昼間も変わらないから」
「あ……」
俺が間抜けな声を上げると、深山先輩は今度はちゃんと微笑んで「それじゃあね」と言って、川名先輩と一緒に闇の中へと入っていった。
「雪ちゃん、お腹空いたよ〜」
「さっき食べたばっかりでしょ!」
そんな日常的な会話が闇の中から聞こえてきた。
「ふぅ……」
折原の溜息が聞こえた。
「んじゃ、折原と長森は三階の左回りだ。頼んだぜ」
「オッケー!」
「うん」
二人の姿が闇に溶け込むと、残ったのは俺と舞の二人になった。
真っ暗な廊下に残った俺は、ふと隣に佇む舞の姿を見る。
窓から差し込む月明かりに、日本刀――雪風を構えた舞の姿がうっすらと見える。
舞は雪風を持っている為、懐中電灯を装備していない。
いや、夜目が利く舞には元々必要ない物であろう。
「何だか懐かしいな」
「……」
俺の独り言の様な呟きに、無言のまま頷く舞。
(俺達が再会した時も、こんな感じだったな)
――誰もいない夜の校舎で、一人で見えない魔物と闘っていた少女。
ほんの一瞬、その時の舞の姿が脳裏をよぎる。
「よっし、それじゃ舞、俺と屋上へ行くぞ」
俺が手にした木刀――かつて、舞と共に闘った時に使用した物――を握り直し、舞の目を見つめて言う。
「……解った」
舞の返事に俺も頷く。
(見えざる者との戦い……か)
俺はかつての闘い――舞が作り出し暴走した魔物との闘いを思い出しながら、屋上へ通じる階段へと足を踏み出した。
|
§ |
校庭に残った郁未が、月に照らし出されている校舎を見上げている。
郁未には今夜も何かが起こる事を確信していた。
世界が狂ったとして、その原因は未だに不明だが、何者かが関与している事は恐らく間違いないだろう。
タクシー運転手や自らも目撃した白い幼女。そして頭に響いた声。
昨夜ここで同じようにして校内を調査した久瀬が消えた。
であるならば、今まさに昨夜の蒸し返しを――しかも大人数で行っている以上、何らかの反応が有るはずだ。
(私は判断を誤った)
そう思って校舎を見上げると、時折校舎の窓が懐中電灯に照らされて光るのが見える。
今、その校内には新たに調査をしている一四名もの生徒達がいる。
(昨夜の内に、皆に協力をしてもらえば、久瀬君を助けられたのかも)
背後から聞こえてきた車のエンジン音が郁未の思考を遮る。
「先生、一応持ってきましたー」
佐祐理が校庭の隅に停めていたインプレッサ――トップを畳んでいる為、今はオープンカー状態になっている――を、郁未の横へと停車させる。
サイドブレーキを引いた小さな音がはっきりと聞こえてくる。
まだ騒ぎは何も起きていない。
「有り難う助かるわ」
そう言いながら郁未が助手席に乗り込む。
「さて……どう出るか」
小さく呟きながら、助手席から改めて見上げる郁未の視界に、月夜に照らし出される校舎が映る。
(あら? 思ったより早いわね)
校舎に明らかな異変が起きたのは、皆が突入してほんの数分後だった。
|
§ |
屋上へ向かう階段を登り踊り場を曲がった所で、俺達は直ぐに異変に気が付いた。
「舞!」
「……判ってる」
俺達の前に広がる光景――Pタイルで構成された階段とコンクリートの壁、そして飾り気のない天井と装飾の無い普通のサッシ。
だが、この一見何の変哲もない普通の校舎の中で見かける光景にこそ、大きな異変がはっきりと現れていた。
この踊り場は俺達が佐祐理さんと昼食を食べる場所であり、階段の先は屋上へ通ずる扉が有るだけだ。
しかし、俺達の目の前にその扉は無く、代わって在るはずのない四階の廊下が存在しているのだった。
「なっ……どう言うことだ? みんなに連絡を……」
踊り場から無いはずの廊下を見上げ、俺は慌てて携帯電話を取り出すと、郁未先生の携帯電話番号をメモリから呼び出した。
だが、電話が繋がる事はなく、耳障りな電子音だけが虚しく響くだけだった。
「ったくこんな時に……なっ!?」
通話を打ち切り携帯電話の液晶をよく見ると、圏外を示す表示がされていた。
「え? さっきまで使えたはずなのに……」
「……祐一、先に行く」
俺が役に立たない携帯電話に焦っていると、舞が雪風を腰に構えて――居合の構えだろう――存在しない四階へと駆け上がって行く。
「舞、待てって! 先走るな!」
俺は慌てて携帯を仕舞うと、舞を追って階段を駆け登る。
一瞬、脳裏をかすめたのは、血塗れの佐祐理さんと、自分の腹に己の刀を突き刺して倒れた舞の姿。
(もうあの時の様な辛い思いはごめんだ! これからは俺が舞を守るって約束したんだから)
俺が追い着くよりも早く、舞は階段を登りきって廊下(?)を右へと曲がって行く。
舞を追って俺が階段を二段とばしで急ぎ登りきったのは、彼女に遅れること二〜三秒程度だろう。
だが――
「な、何だよこれ?!」
階段を登り、舞と同じように右の廊下へと進んだ俺の視界が彼女の背を捉える事は無く、眼前には教室の扉らしき物が有るだけだった。
「舞〜っ!!」
誰もいない暗闇の中、俺の叫び声だけが虚しく響いた。
|
§ |
闇が覆う深夜の校舎を、南と澪の二人が進む。
一時は緊張がほぐれた南だったが、真夜中の――しかも真っ暗の校舎を懐中電灯の明かりだけを頼りに進んでいる現実が、彼に再び恐怖による緊張を招いていた。
「なぁ、澪ちゃん怖くない?」
一階の校内調査を初めて三つ目の教室の中で、南は自分の緊張を悟られないように、ゆっくりと声をかけた。
『大丈夫なの』
澪はそう書いたスケッチブックを懐中電灯の光りにかざしてみせるが、その字は震えていおり、澪が極度の緊張状態にある事を伝えている。
涙こそ見せてはいないが、今にも泣きだしそうな表情である事に変わりはない。
それでも一度は見せたスケッチブックをしっかりと胸に抱きながら、南にぎこちない笑顔を向けている。
そんな澪の姿に、南は黙って手を差し出した。
「え〜と、その何だ、深い意味は無いけどさ……」
「?」
首を傾げて悩みを表す澪。
「いや、はぐれるといけないから……」
少し照れくさそうな南の手を、澪はそっと掴んだ。
「よっし、行こう!」
南は自分の言葉に、笑顔で頷ずく澪の顔を見ると、次の教室へと向かうべく廊下へと進む。
「なあ、澪ちゃん?」
「?」
「澪ちゃんはさ、何で演劇部に入ってるの?」
廊下を歩いている途中で、南は以前から少し思っていた事を質問してみた。
南の問いに、澪は”う〜ん”と悩むような仕草の後、手を離してスケッチブックに答えを書き南に向ける。
『伝えたいこといっぱいあるの』
スケッチブックを差し出すその表情は、とっても輝かしいものだった。
「そうか」
元気良く頷く澪の頭――といってもヘルメット越しにだが――を、南はそっと撫でる。
「よーし、頑張ろう!」
そう言って再び差し出した南の手を、澪は笑顔のまま”ぎゅっ”と掴んだ。
手から伝わる澪の体温が、南の心にある緊張を溶かしていった。
|
§ |
職員室、保健室、会議室と見て回った北川と香里が、次の調査場所へと向かっていた。
「しっかし、何も変わったところなんて無いな」
「全くね」
北川の問いかけに短く答える香里。
彼としては何とかして会話を盛り上げたいと思っているのだが、どうにも会話が続かない。
(おかしい……こんなはずでは。そもそも俺の予想では――
『きゃぁ北川君怖いわ』
『大丈夫だ美坂、この俺が付いてるんだから、怖いものなんてないぜ』
『本当?』
『ああ美坂……いや、香里。お前はこの俺が守る!』
『嬉しいわ北川君……ううん、潤』
――って感じだったはずだっ!)
「な、なぁ美坂、怖くないか?」
北川は幾度となく繰り返したシミュレーションを反芻しながら、現実とのギャップを埋めようともがいていた。
「別に大丈夫よ」
さもあっさりと答える香里。
北川にとっての現実はかなり厳しい様子だ。
「そ、そうか」
ガッデーム!――心の中で叫ぶと、彼の大脳は新たなシミュレーションを実施する。
(ではこういうのはどうだろう? ――
『美坂……実は俺、闇が怖いんだよ……』
『え? 貴方……』
『闇が俺を何処かへと誘う様な気がしてならないんだ……』
『あたしが……貴方を守るわ』
――う〜ん、美坂って結構母性本能が豊かな感じがするからな、こういった方向性が意外と上手く行くかもしれん。よっし!)
「み、美坂」
「何?」
「実は俺、闇が怖いんだよ……」
「あら、そう?」
香里はそうとだけ呟くと、スタスタと先へ進んで行く。
「お、おい!」
「何よ?」
「闇に恐怖するいたいけな少年を放っておくのか?」
「……馬鹿? それじゃ私こっちを調べるから、北川君はそっちをお願いするわね」
呆れた口調でそう言うと、香里は目の前の扉を開けて中へ入っていった。
「えっ? あ、おい美坂〜」
慌てて追いかけようとする北川の前で、勢い良く扉が閉まる。
「おい美坂〜! 開けてくれ〜!」
涙を流しながら扉を一心不乱に叩きながら叫ぶ北川。その姿をもし見ていた者が居たら、さぞ不気味に思うであろう。
「うるさいわよ! ここは女子用なんだから、貴方は隣を調べなさい!」
「え?」
香里の声に懐中電灯を当ててふと見上げると、”職員用トイレ”と書かれたプレートが見えた。
「おい美坂、別に一緒でも良いんじゃないか? ま、まさか! 今、中で……」
「それ以上先を言ったら殺すわよ?」
扉の向こう側から強烈なプレッシャーが漂ってくる。それは常人ならば良くて金縛り、悪くて失禁してしまう程ものだが、北川は「わ、悪かった」と言い残して、男子用の教職員トイレへと入っていった。
普段の北川は、どちらかと言えば善人であるし、明るく人当たりも良い。
そして不屈の闘志に物怖じしない剛胆な性格、そして考えを即実行できる行動力を持っている。
しかし惜しむならば、彼は非常に頭が悪かった。
そして本来長所であるべき部分が、こと香里の事となると全てがマイナスに働き、更に彼がその事に気が付いていないという事で、問題が悪化しているのだった。
「全く、馬鹿よね……」
女子職員用トイレの中で、香里は北川の事を考えてそう呟いた。
才気煥発な彼女であるから、当然北川が自分に対して好意を持っている事には気が付いている。
「でも、アレじゃね」
好意を持たれたからと言って、自分もその相手に好意を持つ必然性は無いのだ。
「全く……判らん。何故俺の想いは美坂に伝わらないんだ?」
男子トイレの中で北川が呟いてる。
いや、想いは確実に伝わっているのだ。
問題なのは、その手段や表現方法に間違いが有る事に気が付いていない部分だ。
「このやり場のない憤りをどうしてやろう……おっ?」
北川の懐中電灯が照らし出した先に、小便器が見える。
「畜生! 何故教職員便所にだけ、このカラーボールが有るんだ? 使用頻度からいっても明らかに生徒用のトイレの方に置くべきじゃないかっ!」
北川はそう言うと、目の前の便器の中にある、鮮やかな緑色をしたボール型芳香剤を恨めしげに見つめている。
「こんな物はこうしてやるっ!」
そう叫ぶと、北川は掃除用具箱から取り出したモップの杖の部分で、カラーボールを粉々に砕いた。しかも全部。
「庶民の怒り、思い知ったか!」
その顔は、一仕事を終え満足げな微笑みを浮かべた表情だった。
|
§ |
二階の調査を行っていた住井と栞は、本来の主旨も忘れているかの様に、楽しげに会話をしながら歩いていた。
「……で、ですね、その時お姉ちゃんって酷いんです。『私に妹なんて居ないわ』なんて真顔で言うんですよ! どう思います?」
「まぁ、判らないでも無いが、ま結果的に今はうまくいってるんだから良いんじゃないの?」
「ぶぅーっ。それじゃ私が悪いんですか?」
「違うって……おっと、このクラスは何だ、郷土研究発表だと? くだらん!」
住井が新しく入った教室の出し物を見て、吐き捨てるように呟く。
「全く、変に真面目ぶってる奴等はこれだから困るよな。”客を喜ばせてこそイベントはナンボのもの”という興行原則が理解できてない」
其処まで言い切って、壁に貼られた資料――調べたこの街の歴史の書かれた模造紙を興味なさげに眺める。
「そう言えば、栞ちゃんのクラスは何やってるんだ?」
住井はそう言うと、模造紙から目を離して栞の方を向き直って尋ねる。
「えーと、うちはお化け屋敷です」
えっへんと胸を張る栞。
「そりゃまた定番だが、うまく出来たのか?」
「はい! そりゃもう怖いですよ」
「へ〜……異常なしっと、よし次行こうぜ」
懐中電灯で教室内を隈無く照らし終えると、住井と栞は再び廊下へと出て行く。
「で、栞ちゃんは何かお化け役やるのか?」
「いえ……それは流石にお姉ちゃんが許可してくれませんでした」
「あ、そうか…」
住井はばつが悪そうに頭を掻きながら、視線を栞からずらす。
普段が元気なので、時折彼女が病弱である事を忘れがちになるのは、彼に限ってではない。
「じゃ裏方なんだ」
だが、こうして直ぐに機転が利く処が、彼の長所であろう。
「はい。いっぱい怖い絵を描きました。大好評でしたよ」
「……そりゃそうだろうな」
にっこりと笑う栞の背後に、先日貰った栞の絵が想い浮かび、住井は思わず冷や汗を流す。
「そ、それより次の教室行こう」
次の教室に入ると、住井はまた手にした懐中電灯で、辺りを照らし調べ始める。
「ねぇ住井さん?」
「何だ?」
調査の手を休めずに、住井は返事をする。
「住井さんって彼女居ないんですか?」
「ぶっ!」
唐突な質問に思わず吹き出す。
「あー、やっぱり居ないんですね?」
そんな住井を見て笑う栞。悪気は無いのだろうが、その無邪気さが余計に痛い。
「ああ悪かったな、居なくて」
「何ででしょうね? 顔だって悪くないですし、性格だってとっても面白いですし……」
「いや……その話題は止めようよ」
面と向かって誉められる事に慣れていないのか、何処かぎこちない態度で住井が答える。
栞の言うとおり、住井は別にモテないわけではない。
容姿も悪くないし、明るい性格でむしろ人を惹き付ける資質もある。
しかし彼には恋い焦がれていた女の子が居た。
残念な事にその想いが成就する事は無かったが、その娘の事を――態度にこそ出さないが――未だ少し引きずっているのだった。
「実はですね。私のクラスに住井さんの事好きな子が居るんですよ」
しかしそんな秘めたる想いも、目の前に餌がぶら下げられたら薄らいでしまうのは、年頃の少年であれば仕方なき事だろう。
住井は栞の言葉に”ブンッ”と音がするほどの勢いで振り返った。
「マジか?!」
「マジです」
「紹介してくれっ!」
「良いですけど条件がありますよ?」
「何だ? アイスか?」
「えーとですね。私の絵のモデルになって下さい」
「やっぱその娘諦めるわ」
住井は即答した。
「うーっ酷いですっ! こんな可愛い子の誘いを断るなんて、住井さんひょっとしてゲイですか? ヤオイですか? それとも男色家ですか?」
「何故そうなる?!」
「だって、せっかく紹介するって言ったのに、女の子に興味が無いんですよね?」
「違う! その子には興味があるが、栞ちゃんの絵のモデルになるのが嫌なだけだ」
「そんな事言う人嫌いです!」
頬を膨らませてそっぽを向く栞。
「ところで、その女の子ってどんな娘?」
「知りません」
そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに答える栞。
「栞ちゃ〜ん」
「………」
住井は猫なで声を出すが、栞の機嫌は直らなかった。
「栞ちゃん?」
「もう良いです。住井さんなんか、お姉ちゃんにぶっ飛ばされちゃえば良いんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「暗闇に乗じて、私の身体に悪戯したってお姉ちゃんに言いますよ?」
「それって脅迫だぞ? あーっ! もう判ったよ。絵のモデルにはなるから、機嫌直してくれ」
「はーい♪」
住井が観念した様に答えると、栞は待ってましたとばかりに微笑んだ。
「はぁ〜はいはい……っと、お、今度は俺達の教室か。そういや、あのレオパルド1A4はどうするんだよ?」
そう言いながら、住井が自分の教室へ入って行く。
栞が笑顔で後に続く。余程モデルの件が嬉しかったのだろう。
懐中電灯に照らし出された教室内は、今朝来た時と何ら変化はなく、レオパルドの置いてあった部分がぽっかりと開いた空間になっており、どこか閑散とした雰囲気が漂っている。
「やれやれ……うわぁぁぁぁっ!」
突然、住井は懐中電灯に照らし出されたものを見て盛大な悲鳴を上げると、その場で気を失っい倒れてしまった。
言うまでもなく、それは栞に描いて貰った、ドイツ軍将校の肖像画だった。
「酷いですーっ。こんな事で気絶する人なんて大嫌いです! 人類の敵です!」
一人残された栞は、気絶した住井の身体を揺らしながら、抗議の声を上げていた。
|
§ |
「それにしても許せないわよね〜、折原の奴、こんな乙女を捕まえて『逝っちゃっても良い奴』だなんてさ」
暗闇の中を、七瀬はひたすら折原に対する文句や恨み言を言いながら歩いていた。
「七瀬さん何かと折原君に妙な事されてるもんね」
名雪は、そんな七瀬を宥める様にして、後に続き歩いている。
「全く、あいつが居る限り、あたしに平穏な学生生活は訪れないわね」
腕を大きく振り回す七瀬。手にした懐中電灯の明かりが、その影響で辺りを出鱈目に照らして行く。
そんな様子を、名雪は苦笑交じりに眺めている。
「ところで、調査って言っても何をどう調べたら良いのか皆目判らないわね……」
七瀬が廊下を歩きながら、思っていた事を素直に口にする。
「はは、祐一って無計画で出たとこ勝負なところあるから」
そう言ってにっこりと微笑む名雪の顔が、月明かりに照らされて見て取れた。
「はぁ〜」
「七瀬さんどうしたの?」
溜息をついて七瀬が急に立ち止まる。
「やっぱり、名雪みたいな女の子には憧れちゃうわね」
「わっ七瀬さん。私はその……え〜と、ノーマルだからね?」
七瀬の言葉に、顔を真っ赤にして慌てる名雪。
「な、何言ってるのよっ! 別にそういう意味で言ったんじゃないわ。単純に名雪が持ってる女の子らしさに憧れてるだけ」
七瀬はそう言いながら溜息を深くつくと頭を垂れる。
「そうなんだ? でも大丈夫だよ。七瀬さん十分女の子してるよ」
「瑞佳にも似たようなこと言われたけどさ……自覚ないな」
「ふぁいとだよっ!」
名雪が笑顔で七瀬にガッツポーズをしながら声を掛ける。
「有り難う名雪」
「ねぇ、七瀬さん聞いていい?」
「なに?」
「本当に瑞佳の事が……その、好きなの?」
「うん、好きよ」
「わっ、そうなんだ」
躊躇いのない返答に驚く名雪。
「でもね……瑞佳はよりによって折原が大好きみたいだし……はぁ〜只でさえ報われないのに、完全に手詰まりよね」
廊下の窓から中庭を眺めながら七瀬は自嘲気味に笑うと、不意に視線を名雪へと向けて口を開いた。
「名雪こそどうなのよ?」
「え? 私??」
名雪は突然自分が質問された事で戸惑う。
「そうよ。従兄弟とはいえ、名雪は相沢と一つ屋根の下で暮らしてるんでしょ? アイツには何も感じないの?」
「……う、うん」
肯定とも否定ともとれる返事。
「ふーん……ま、良いわ。人は人だし。あたしはあたしの気持ちに素直になって、精一杯ぶつかるだけ。駄目なら仕方ないと諦められるし、少なくとも何もしないで後で後悔するよりは何倍も良いわ」
きっぱりと言う七瀬の姿を、名雪は少し驚いた表情で見つめていた。
「七瀬さん……格好良いね。そっか……うん。そうだよね」
「そうよ名雪。乙女には恋をする権利があるの!」
「うん、そうだね」
七瀬の主張に、元気良く頷く名雪。
「さ、次行こうか?」
「うん……わっ!」
「名雪っ!」
飾り付けか何かだろうか? 廊下に落ちていた物に躓く名雪の身体を、七瀬は咄嗟に腕を伸ばして引き寄せた。
そのおかげで名雪は転ばずに済んだが、その身体は七瀬の腕に抱き寄せられた形になっている。
「大丈夫?」
「え……あ、うん。大丈夫だよ」
「名雪って陸上部なんだから……脚でも怪我したら大変よ? 気を付けなさい」
「う、うん」
「名雪って結構おっちょこちょいよね」
「うーっ……そ、それよりも七瀬さん?」
「何?」
「あ、あの、もう大丈夫だから……その」
「あっ、ご、ごめんね」
慌てて名雪の身体を解放する七瀬。
二人の間を気まずい空気が流れる。
「な、名雪? わ、ワザとじゃないわよ?」
「わ、判ってるよー」
二人とも、妙に赤い顔をしているが、幸いにして辺りは真っ暗なので、互いの顔をはっきりと見ることが出来ない。
気まずさを感じた二人が思わず黙ってしまうと、周囲は静寂に包まれた。
”ガタン”
だが、突然目の前の教室内より発せられた音が、静寂をうち破る。
「え?」
「何だろ?」
「しっ静かに」
二人に緊張が走り、押し黙って耳を澄ませる。
”ガタッガタッ”
二人の耳に、目の前の教室から確かに何らかの音が聞こえてくる。
七瀬は辺りを見回し、目に付いた廊下の壁に立て掛けられていたデッキブラシを足で引っ掛けて、傾いたところを素早く手に取ると、手首の動きだけで器用に二〜三回転させてから中段に構えてみせる。
時間にして僅か数秒の間に行われた一連の流れるような動作に、名雪は思わず息を飲む。
「名雪、下がって」
「え? あ、うん」
そう答えると、名雪は小走りに七瀬の背中へ隠れるようにして、目の前の教室の扉を見つめる。
「相沢との約束だからね……名雪は守るわ。安心して」
名雪を庇うような格好で、七瀬が扉を見据えたまま呟く。
「そんなの駄目だよっ!」
名雪がそう言った直後、廊下の彼方から『うわぁぁぁぁっ!』という住井のものと思われる叫び声が轟いだ。
「きゃぁっ!」
名雪が反射的に叫び声を上げると、次いで中から”カタッガタッ・ガターン!”と、何かが崩れる激しい音が響く。
「破っ!」
七瀬は躊躇わずに教室の扉を蹴破って、中へと突貫した。
|
§ |
「ねぇ雪ちゃん?」
「何、みさき?」
「何かあった?」
「うーん、今のところ何も無いわね」
「そっか……何かないと面白くないね?」
「私としては特に何事もあって欲しくないわよ」
それは深山の本心であり、彼女はこうして人気のない夜の校舎を懐中電灯片手に歩いている現状自体に嫌気を感じていた。
「はぁ……」
溜め息をついて、ふと手を繋いだ友人の顔を見る。
いつもと変わらぬ、ボーッとした顔のみさきが見えた。
「あ、雪ちゃんもう曲がり角だよ?」
「えっ? あ、そうね。有り難う」
「駄目だよ雪ちゃん。ぼーっしてたら」
「貴方に言われちゃお終いね……気を付けるわ」
口ではそう言ったが、実際情けない話だと深山は思う。
(目の見える私が、ちょっと暗闇の中だからといって、壁にぶつかりそうになり、そして、目の見えないみさきに注意を受ける……か)
「……」
深山は思いつきで懐中電灯のスイッチを切ってみた。
今まで周囲を照らしていた光源が無くなり目の前に闇の世界が広がると、深山は歩くのが怖くなり、その速度が自然と落ちる。
だが隣を進むみさきの歩くスピードは全く変わらず、今までとは逆に彼女が深山をリードする形になった。
「雪ちゃんどうしたの?」
「え? あ、ちょっと待ってくれる」
廊下に立ち止まると、深山は目の前の闇と隣の友人を見比べる。
(みさきの居る世界……この子はずっとこんな闇の中に居るんだ。もし、私が同じ境遇だったら……耐えられるだろうか?)
深山は黙って自身への問いかけに首を振った。
暫く闇の中に佇むだけで恐怖を感じた自分に耐えられるはずがない――だからこそ、彼女は親友の強さに敬服する。
懐中電灯のスイッチを入れると再び視界が戻る。
「さ、先行きましょう」
「うん」
みさきの返事を合図に、二人は再び歩き出す。
「それにしても、何を調べれば良いのかしらね?」
「何かおかしなところだよ」
屈託のない笑顔で答えるみさき。
「はぁ〜…大体みさきに何が調査出来るのよ?」
「うーっ雪ちゃん酷いよ」
「ほら行くわよ、みさき」
「うん……」
「あら?」
目の前の教室の扉を空けると、その中は他の教室とは異なり、机が普段と変わらない列びをしていた。
「どうしたの雪ちゃん?」
「この教室は……学園祭の準備をして無い様子ね」
「う〜んと、此処は三年二組のはずだけど?」
みさきが自分の記憶から、教室の名前を言い当てる。
懐中電灯に照らし出された黒板に「ボイコット貫徹」と大きく書かれているのが見えた。
「ああ、確かこのクラス委員長は、反生徒会筆頭の……って、こらっ! みさき勝手にうろちょろしないのっ!」
深山が思案に耽っていると、みさきは勝手に廊下へと出て行ってしまった。
「みさきーっ!」
深山は慌ててみさきを追って教室を飛び出したが、廊下にその姿は見つけることが出来なかった。
「ど、何処に行ったの? 出てきなさいみさきーっ! こんな時に……怒るわよっ!」
深山は叫びながら、廊下を走り始めた。
「雪ちゃ〜ん! 何処? ねぇ冗談は止めてよ〜」
同じ頃、みさきもまた、声を出して彷徨い歩いていた。
彼女自身、深山と別れて勝手に何処かへ行くつもりなど毛頭無かった。
ただ、自分が何処に居るか把握できていたし、ちょっと先に廊下に出てみただけだった。
自分の記憶に鮮明に刻み込まれた校舎の姿を思い出す事で、彼女はまるで目が見えているかの様に、校内を自由に歩くことが出来た。
しかし、先程の教室から出た処から、自分の記憶との差異が生じている。
無いはずの壁に当たり、鼻とおでこをしたたか打ち付けた。
「雪ちゃ〜ん! 返事してよ〜」
手を前方に差し出しながら、みさきはよろよろと歩く。
「ウサギにちょび髭描いた事は謝るよ……、それから借金も返すし、手伝いも真面目にするから……ねぇ、返事してよっ!」
みさきはその場で蹲り、両手で顔を覆うようにして泣き崩れた。
(これが外の世界……わたしの知らない世界なんだ。わたしが出ていかなければいけない世界……それはこんなにも真っ暗で怖い場所なんだ)
記憶に無いものは映像化出来ない。
学校の中であれば、みさきの脳裏にはその風景を思い浮かべる事が出来た。
しかし、ひとたび自分の居場所が把握出来なくなると、それも叶わなくなる。
今の自分が何処に居るのか?
何処に向かっているのか?
物音一つしない夜中の校舎にあっては、みさきが得られる情報は、手と足から得られる物の感触だけが全てである。
暗闇の中で、みさきはただ泣く事しか出来なかった。
|
§ |
三階の廊下を、折原と瑞佳は列んで歩いている。
「ねぇ浩平?」
「んあ?」
気怠そうな返事の折原。
「今朝は……ごめんね」
「何だ?」
「ほら……その信用してあげられなくて」
「ああ、あれか」
折原は思い出すように答えると、「別に気にしていない」と続けた。
三年生のものと思われる教室へ入り、中を照らしながら、折原は話し始める。
「それにしても、七瀬には驚いたな。まさか本当に男なんじゃないか?」
「それは酷いよ。でも私てっきり、七瀬さん相沢君の事が好きなんじゃないかって思ってたんだよ」
そこまで言って長森の言葉は途切れる。
「迷惑か?」
ほんの暫く無言で教室の中を調べていた折原が、静かな声で瑞佳に尋ねた。
「え?」
「七瀬に好きだと思われて迷惑か?」
改めて言い直した折原の問いかけに、瑞佳は間を空けずに答えを返す。
「ううん、そんな事ないよ。ただ、私には……浩平が居るから」
「それじゃ今まで通りに付き合えるか?」
「うん大丈夫。私だって七瀬さん好きだもん」
「そっか……」
そう呟く折原の表情は、たまにしか見せない穏やかなものだった。
「なぁ瑞佳?」
「なに?」
(それは……オレが居なくても、お前を守ってくれる奴が居るって事だよな?)
折原は言葉には出さずに、心の中で呟いた。
「いや、何でもない。さ、次の教室に行くぞ」
踵を返して教室から廊下へと戻る折原を、慌てて追いかける瑞佳だが、扉のレールに脚を躓かせて姿勢が崩れる。
「あっ」
「大丈夫か?」
「うん平気だよ。ふぅ……足下も照らさないと危ないね?」
「ああ、配電盤があれば照明も点けられるんだがな」
「そうだね」
(暗闇か……)
この時、折原が思い浮かべていたのは、みさきの事だった。
(オレ達は照明さえ点けば光を感じるし、景色を見ることが出来る。でも……みさき先輩は、その当たり前の事が出来ないんだよな)
懐中電灯で照らされる床や壁を見て、折原は考えている。
その時、廊下の先から人が走ってくる音が聞こえてきた。
「ん? みさき先輩達と落ち合うには早すぎるな……」
この階を反対回りで調査している先輩ペアとは、いずれ何処かで落ち合うだろうが、まだ調査は始まったばかりで接触するには早すぎる。
そして今この階にいる人間は、自分達四人以外に居ないはずである。
とするならば――
「浩平?」
近付く音に、長森が不安げに浩平に身体を寄せる。
普段ならば照れて逃げ出すかチョップをかます折原だが、流石にこの状況では長森を庇うように自分の背中に隠して身構える。
「確かこの先には、階段が有ったな?」
「うん……」
ゆっくりと歩く二人の耳に、何者かの走る音が更に近付いてくる様に聞こえてくる。
「誰だ!?」
折原が影になっている階段に向かって声をかける。
と、その時、目の前にある階段の影の部分から、低い姿勢のまま目にも留まらぬ素早い動作で人影が飛び出して来た。
「あっ」
折原の目の前に現れたのは、先程別れて祐一と共に屋上へと向かったはずの舞の姿だった。
「何で川澄先輩が!?」
「……浩平と瑞佳?」
有り得ない現実を確認するよう彼等の名を呟いた舞は、慌てて背後を振り向き、自分のすぐ背後に居るはずの人物の姿が無いことに気が付いたのか、珍しく目を見開いて驚きの表情をしている。
「浩平ここは何階?」
舞の言葉の真意が掴めず、折原は「え?」と口ごもる。
「三階ですよ?」
折原に代わって長森が舞に答えると、舞は目をパチクリとさせる。
そして次の瞬間にはハッとした表情に変わり、「祐一っ!」と、相沢の名前を呼びながら慌てて階段へと戻って行った。
「あ、ちょっ……」
状況が飲み込めていない折原には振り向きもせず、舞はそのまま下へと降って行ってしまった。
「お、おい! 川澄先輩?」
「どうしたの?」
「わからん……ん?」
長森との会話の合間に、折原の耳に別の音が聞こえた。
「浩平?」
「しっ、黙ってくれ」
『ううっ……グスッ……』
二人が黙ると、僅かだが女性の啜り泣く声が聞こえてきた。
「こ、浩平……」
怯えた様な声で、長森が折原の名を呼ぶ。
「この声は……行くぞ瑞佳!」
「え? ま、待ってよ浩平〜」
二人は懐中電灯で先を照らしながら、足早に声のする方――前方の闇の中へと入って行った。
暫くして、二人の懐中電灯の光りが、廊下の隅で泣き崩れている女生徒の姿を捕らえる。
「浩平、あそこ!」
長森の緊張を含んだ声に折原は頷いてみせる。
「おい、大丈夫か?! ……って、みさき先輩?」
女生徒がみさきであると判ると、浩平は慌てて駆け寄る。
「うわーん!」
まるで子供のようなみさきの泣き声が、辺りにこだましていた。
|
§ |
一階を調査していた南と澪であるが、今まで見た教室や廊下には何の変化も見られず、現在は別棟の調査に入っていた。
お互いの手は握ったままだ。
「なぁ澪ちゃん」
南が尋ねると、澪は「何?」と言う様に首を傾げる。
「疲れてない?」
そんな問いかけに、澪は握っていた手に力を加え、”ふるふる”と首を横に振ってみせる。
「そっか、でも無理はしないでよ?」
『判ったの』
「よっし」
そんなやり取りの後、二人は新しい教室の中へと入る。
二人の懐中電灯が室内を照らして行き、今までの教室と同様、特に何もおかしな部分は見あたらなかった。
「う〜ん……何も無いなぁ〜。澪ちゃん、次行こうか?」
南が問いかけた直後、繋いでいた澪の手から力が抜けたかと思うと、彼女はその場に倒れてしまった。
「み、澪ちゃん?!」
慌ててしゃがみ込んで澪の身体を軽く揺するが、彼女は気を失ったらしく、ただ目を回してたまま口をパクパクとさせている。
南は倒れた澪の上半身を片手で支える様にして介抱し、余ったもう一方の手で懐中電灯を握り、周囲を見回してみる。
「一体どうしたんだ? ……ん?」
やがて懐中電灯の明かりが、教室の暗がりの中に潜んでいた異質な光景を照らし出す。
その光景は、彼の精神を激しく揺さぶるに足りるものだった。
「うわあぁぁぁlっ!」
教室の出入り口付近を見て、南は思わず声を上げた。
廊下へ通ずる扉の向こう側には、当然廊下が照らし出されなければならない。
だが其処に在るのは、今まさに彼らが居る教室内の光景そのものであり、澪を支えながら扉の向こう側を見て愕然としている南の背中が照らし出されているのだった。
そしてそれは、何処までも――まるで合わせ鏡で見た光景の様に、果てしなく続いている。
「な・な・な……」
懐中電灯を持った腕を震わせながら、南は鯉の様に口をパクパクさせながら呟く事しか出来なかった。
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§ |
「まさか屋上へ出る扉って訳じゃないよな……すぅ〜」
一度深呼吸をして気を落ち着かせると、俺は目の前の扉に手をかけて一気に開き、そのままの勢いでその中へと転がり込んだ。
前回り受け身の要領で床を転がりそのまま素早く立ち上がると、懐中電灯と木刀を持った腕を交差させるようにして構えて周囲を素早く見回す。
「……?」
目の前に広がる光景は何処か異質で酷く不気味な物だったが、それが学園祭の出し物らしい事に気が付くまでさほど時間はかからなかった。
「こりゃ、お化け屋敷か?」
机を積み重ねてベニヤ板や暗幕を張ってこしらえた迷路と、そして不気味なオブジェがそこかしこに見える。
「ったく、お化け屋敷に一人で来るほど、俺は無粋じゃ無いぜ」
呟きながら、俺は舞とお化け屋敷に入ったらどうなるか? その時起こりうるであろう事態を想像してみて少し笑った。
「屋上に行くはずが一人でお化け屋敷とはな……何者かは知らないが、面白い事してくれるぜ」
呆れ口調で呟くと、俺は構えを解いて改めて懐中電灯を当てて教室内を調べる。
流石に殆ど完成している模擬店を壊すのも忍びないので、”順路”と書かれた矢印の表示に従って律儀に進む事にした。
「ふ〜ん結構頑張って作ってるな」
並んでいるオブジェは高校の学園祭レベルとして見れば、結構うまく出来ている思う。
普通の人間なら、真夜中に一人で中を歩く事すら難しいかもしれない。
「さて、さっさと出て舞を探さないと……ってうおっ!」
迷路状の細い通路を曲がったところで、突然懐中電灯に照らし出された物を見て、俺は叫び声こそ出さなかったものの、反射的に後ずさり後ろの壁――実際には机とベニヤ板で作られた物――に背中を打ち付ける。
”ガタガタ!”
その衝撃で、組んだ机が音を立てて揺れ動く。
「やばっ!」
慌てて両手を伸ばして作られた壁を抑えようとするが、生憎とどちらも塞がっており、手にしていた木刀と懐中電灯が当たり、余計に事態を悪化させてしまう。
「うおおっ!」
”ガタガタッ…ガタンッ!”
俺の声が机やベニヤ板が崩れる音にかき消される。
崩れる物体を避けるように慌てて飛び出すと、目の前にある扉の向こう側から「きゃぁっ!」という、聞き覚えのある女の子の悲鳴が聞こえた。
俺が手にした懐中電灯を投げ捨て、木刀を両手に構えて飛び出すと、危ういバランスで保っていた周囲の壁が一気に崩れ落ちる。
「名雪っ!?」
”カタッガタッ・ガターン!!”
騒音にかき消されながらも、俺はそう叫ぶと目の前の扉に駆け寄った。
すると目の前の扉が突然吹き飛び、何者かが手にした棒の様な物で襲いかかってきた。
廊下から差し込む僅かな月明かりの元で、実戦――魔物との闘いで得た教訓を活かすように、俺はサイドステップで上段からの攻撃をかわすと、がら空きの横っ腹に木刀を水平に叩き込む。
だが、目の前の何者かは、そんな俺の反撃に素早く反応し、手にした棒で脇をガードしていた。
(何っ!?)
驚く間にも、俺の木刀は俺自身の力を利用されて、そのまま斜めに受け流される。
バランスを崩した俺の側頭部に、相手の棒が凄いスピードで迫る。
その水平な軌道を俺は直感で読みとり、仰け反る様に交わすと、そのまま床を蹴り、手を床に着けて後向きにバク転をして態勢を整える。
その合間に相手は、先に俺にかわされた一撃の勢いをそのまま使って――身体を一回転させ更に加速させた一撃を、俺を追うように下段から中段に変化する様な形で打ってきた。
態勢が整っていない俺は避けることが出来ず、手にした木刀でその一撃を受ける。
相手の持つ棒は、俺の持つ木刀に比べて随分稚拙な得物の様で、あれだけスピードが乗った一撃も何とか受けることが出来た。
しかし、気が付けば俺の後ろはもう教室の壁だ。もう後ろに避ける事は無理だ。
相手も自分の得物の方が不利と瞬時に悟ったのか、得物を振り回す事を止めると一歩踏み込んでからの鋭い突きを打ってくる。
片足を移動させて身体をひねり、最小限の動きで突きを交わすと、木刀を素早く振り上げ――
「であぁっ!!」
叫び声と共に、渾身の一撃を振り下ろした。
「くっ!」
瞬間、聞き覚えのある声が聞こえ、次いで”バキッ!”と何かが折れる音が響き渡った。
|
§ |
無人の廊下を二筋の光と共に、北川と香里のペアが進む。
「ねぇ北川君、廊下の電気何とかならないかしら?」
「う〜ん、そんな事言ってもこの暗さじゃな……ん?」
そう答えながら、廊下の突き当たりまで辿り着いた、北川が手持ちの懐中電灯を壁に当てると、都合良くお目当ての配電盤の姿が浮かび上がる。
「あ、有ったじゃない」
「おっし、ちょっと待っててくれよ」
北川が近づいて配電盤の蓋を開け、香里はその中を懐中電灯で照らしている。
「え、え〜と……どのスイッチ入れれば良いんだ?」
名誉挽回と意気込んで配電盤を開いてみたものの、ブレーカーの数はあまりにも多かった。
「面倒だから片っ端から点けちゃいなさいよ」
香里が人差し指を突き出して「どれにしようかな〜」と口ずさみながら悩んでいる北川を急かす。
「よ、よっし! そりゃ」
北川が掛け声と共に並んだブレーカーのスイッチを片っ端から入れて行く。
廊下や教室の照明が一斉に点灯を始め、暗闇が支配していた世界が一転して光りに包まれて行く。
そして、闇に隠れていた異変がその姿をさらけ出した。
「な、何だ?」
「何よこれ……」
北川と香里は、目の前に広がる光景に、ただ唖然として立ち尽くした。
二人の手から、点灯したままの懐中電灯がすり落ちる。
百メートル足らずの長さしかないはずの校舎にあって、照明に照らし出された廊下は、果てしなく何処までも続いていた。
|
§ |
突然照明が点いた事で、驚き固まっていた南の視界が急に開ける。
その結果、”目の錯覚では?”という一縷の望みは儚く砕け、病的な光景が現実として、目の前に突き出された。
「うわっ!」
片膝で澪の上半身を支えたままの格好で、慌てて後ろを振り向くと、同じように澪の身体を支えたまま後ろを見ている、自分の姿が見える。
「お……俺が一杯! 俺がっ……」
南は前後を何度も振り返りながら驚きの声を上げる。
彼が動くたびに、前と後ろに居る自分もまた、鏡に映った自分の様に、全く同じ動きをしている。
「おわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
南は大声を上げ澪を抱えると、まるで合わせ鏡の様に続いている扉の”向こう側”へと走り始めた。
すると、一斉に他の澪を抱えた自分もまた走り出した。
いくら走り続けても、目の前を同じようにして走る自分には追いつけず、後ろを振り向けば、やはり同じように後ろを振り向いて走っている自分が居る。
「何なんだよこれぇっ!!」
何処までも続く教室の扉を、南は抱えた澪の重さも忘れてひたすら走り続けた。
|
§ |
深山は目の前が急に明るくなった事で、一瞬目眩を起こしその場で立ち止まった。
「あら照明? 誰かが点けたのかしら……」
そう呟きながら、周囲を見回すが、やはりみさきの姿は見えない。
「全く、何処行ったのかしら……みさきーっ!」
深山はみさきの名前を大声で呼ぶ。
「居ないわ……もうみさきの馬鹿っ!」
みさきを見失ったのは自分の不注意だという自責の念に駆られ、深山は廊下を走りながらみさきの名前を呼び続けた。
「みさきーっ、返事をしなさい! みさきーっ!」
しかし、いくら呼んでも返事は帰ってこない。
何度も親友の名を呼び、廊下を走る深山だったが、やがて彼女は、不思議な事に気が付いた。
(何で、向こう側に辿り着かない!?)
廊下の先は見えているのに、いくら走っても先へ進めないのだ。
確かに景色は動いているし、一歩一歩脚を踏み出しているのも事実だ。
しかし一向に、廊下の端に辿り着くことが出来ない。
まるで、リス用の滑車の様に、ルームランナーの様に、自分だけが同じ場所で走り続ける感覚。
「ちょっと! どういうこと?!」
深山が狼狽して、さらに走るペースを上げるが、状況は変わらなかった。
「はぁ……何よこれ……はぁ……」
やがて深山の息は上がり、その場でしゃがみ込んでしまう。
廊下に座り込んだ深山の視界、廊下の端の景色が陽炎の様に揺らめくと、突然その中から、雪風を構えた舞が現れた。
「川澄さん?!」
「……雪見、大丈夫?」
舞は、深山の脇に立つと、空いた手を差し伸べる。
「ええ、大丈夫。それよりもみさきを見なかった?」
深山が差し出された手を掴み立ち上がる。
「みさきは見ていない。私も祐一を捜してる」
「川澄さんもはぐれたの?」
「……」
頷く舞を見て、深山は「うーん」と悩む。
「取りあえず指示通り外に出た方が良い」
そう言ったのは舞の方だった。
「でもみさきは?」
「……良く判らないけど、祐一の言っていた”反応”が起きている。深追いはいけない」
そう言うと舞は、深山の手を取って走り出した。
|
§ |
照明が点いた事で、目の前の光景がはっきり見えるようになると、廊下に座り込んで居るみさきの姿が見えた。
「先輩っ!」
叫びながら走って近付くと、その声に反応してみさきが顔を上げる。
「浩平君?」
「みさき先輩! 深山先輩は?!」
「うーっ、判らないよ〜」
「瑞佳、一旦退くぞ!」
「判ったよ」
折原が携帯電話を取り出して、他のみんなに連絡を入れようとするが、圏外のマークが表示されていた。
「ちっ、携帯は使えないのかよっ! コンチクショウ!」
使い物にならない携帯電話を床に投げつける。
「瑞佳、とにかく外だ。外に出て郁未先生と合流し、それから深山先輩を捜すぞ」
「うん判ったよ。浩平は先輩をお願いね」
「ああ、とにかく校庭を目指すぞ。さてと……」
呟くと折原はみさきの身体を抱き上げる。
「わっ、ねぇ浩平君、誰かがわたしを持ち上げたよ?」
「オレに決まってるだろ?」
「そう……なんだ」
「う〜ん、ちょっと先輩重いな。食べ過ぎじゃないのか?」
「うーっ酷いよ浩平君」
折原がいつもの調子で悪戯っぽく言うと、みさきもまたいつもの調子を取り戻した感じで答える。
「そうだよ浩平、女の子に体重の話なんて……まったくデリカシー無いんだから」
瑞佳が呆れたように言う。
「うむ〜この持ち方だとやっぱり辛いな……よっと。先輩ちょっと良いか?」
そう言いながら折原はそうっと、みさきを床へ降ろし、ハテナ顔のみさきの前にしゃがむ。
「ほら? 先輩、今目の前でオレしゃがんでるから、背中に乗ってくれ」
「え?」
「おんぶだよ、オ・ン・ブ!」
「う、うん……こうで良い?」
みさきが恐る恐る手を伸ばして、折原の背中を見つけると、身体を彼の背中へ乗せた。
「よっし、そりゃ〜行くぜ先輩、瑞佳遅れるなよ!」
「わっ」
「うん。がんばるよ」
折原はみさきを背負うと、長森と列んで階段へと向かう。
「浩平君有り難う……とっても嬉しかったよ」
みさきは折原の背中で、顔を埋めながらそっと呟いた。
|
§ |
「すーみーいーさん! 起きて下さいーっ!」」
栞は二年四組の教室で、彼女の絵を見て気を失ったままの住井の身体を揺らしていたが、うなされているのか、彼は「う〜ん」と呟くだけで、意識が戻る事はなかった。
その時、『ドカッ・ガターン!』と、どこかで物が崩れる音が聞こえてきた。
「住井さん! ほら? 何か音が聞こえましたっ!」
身体を揺らす力を強くするが、住井の意識は戻らない。
「もーっ! 叩いちゃいますよ?」
栞はそう言って、住井の頬を軽く叩いてみるがほとんど反応がない。
「あ?」
教室の照明が点灯したのはその時だった。
改めて教室で倒れている住井を見て、栞は「ふぅ〜」と溜息をつく。
栞は住井の身体から手を離すと、制服のポケットに手を入れて何かを探し始める。
「よっし、こうなったら仕方がないですね」
そう言って取り出したのは、錠剤と缶コーヒーだ。
尚、コーヒーの銘柄が「マックスコーヒー」なのは、彼女らしいと言うべきだろうか。
「えーっと、失礼しますね?」
呟くと、栞は仰向けに倒れている住井のすぐ横に座り、彼の頭部を自分の膝に乗せた。
いわゆる膝枕という奴だ。
住井に意識があれば、『くぅ〜っ男の浪漫〜っ! 萌え! ファイヤー!』と喜んだに違いないが、生憎彼は未だにうなされ続けている。
「よいしょ……っと。それで、鼻を摘んで口をこうして……」
膝の上の住井の鼻を指で摘み、顎を上に向けさせる。
そして口を開かせると、手にした錠剤を数粒放り込み、すかさずコーヒーを流し込んだ。
「ぶふーっ!! うへっ、げへっ……」
咽せながら突如跳ね起きる住井。
「あ、やっと起きました。駄目ですよ住井さん、こんなところで寝ちゃ。風邪をひいちゃいますよ?」
「ゲホッゲホッ……し、栞ちゃんか?」
「はい」
「うっ、な・何を飲ませた? あた…頭が…クラクラするぞ…」
「別に変な物じゃないですよ? ただのカフェインですから」
「カフェイン……って、今コーヒーと一緒に飲ませなかったか?」
「効き目が倍増です。これで眠気もバッチリです!」
「俺は寝てた訳じゃない! ううっ気持ち悪い……一体何錠飲ませたんだ?」
「え〜と、五〜六錠程度だと思いますけど? 大丈夫ですか?」
無邪気な顔で住井の身を案じる栞。その表情に悪びれた様子は全くない。
ちなみに、カフェインを大量に、しかもコーヒーで飲むと覚醒剤に匹敵する破壊力を生む。
「し、栞ちゃん……俺を殺す気……か……」
そんな屈託のない栞の笑顔を見ながら、住井は再び気を失った。
|
§ |
照明が点灯して教室内部が明るくなると、俺は目の前の状況に驚いた。
机やベニヤ板そして暗幕が崩れ、半壊した出し物のお化け屋敷。
そして目の前に、両手にそれぞれ折れたデッキブラシを持った七瀬の姿がある。
「な、七瀬か?」
半ば放心状態のまま、七瀬は微動だにしない。
「お、おい大丈夫か?!」
俺が手のひらを顔の前で動かすと、はっと七瀬が瞬きをした。
どうやら意識が戻ってきた様だ。
「あ、相沢?」
「おう、大丈夫か七瀬?」
「だ……」
「だ?」
「大丈夫なわけあるかーっ!!」
大声と共に、七瀬が折れたデッキブラシを俺に投げつける。
「痛てぇ! な、何すんだよっ!?」
「死ぬかと思ったわよっ! あたしが後数センチ頭ずらさなかったら確実に死んでたわ」
「それはこっちの台詞だっ! 最後の突きは当たってたら身体に穴空いてたぞ?」
「何よっ!」
「七瀬さーん!」
突如、横合いからそんな声がかかると、名雪が七瀬に抱きついた。
「な、名雪?」
「ねぇ大丈夫? 本当何処も怪我無い?」
名雪が少し涙目で、七瀬の身体の心配をしている。
「……名雪お前も大丈夫か?」
俺がそう尋ねると、名雪が珍しくキツイ表情で俺を睨む。
「祐一のばかーっ! 七瀬さんが怪我でもしたらどうするんだよー」
「は?」
(俺の心配は無しか?)
「だ、大丈夫よ名雪。心配してくれて有り難う」
七瀬は少しひきつった笑顔でそう言うと、名雪の肩を両手で掴んで身体を放す。
「びっくりしたよー」
引き剥がされた名雪が、胸に手を置いて心配げに呟く。
「相沢、言って置くけど、あんたとの約束を守ろうとした結果よ?」
「は?」
「”名雪を頼む”って言ったじゃない」
「それはそうだが、せめて相手を確認してからにしてくれ」
「その言葉貴方にそのまま返すわ…って、それよりも! 何であんたが此処に居るのよっ!」
突然思い出したように、七瀬が声を張り上げる。
「そ、そうだった! おい、七瀬”反応”が起きた!」
「何よ反応って? ……えっ?」
そう言って、意味に気が付いた七瀬が驚きの表情になる。
「とにかくこれからどうなるか全く判らない。一度校庭に出た方が良い」
「わ、判ったわ」
俺の言葉に、黙って頷く七瀬。
「でも七瀬。お前本当に強いんだな?」
「そうね〜相手が木刀、そしてあたしがデッキブラシじゃ無ければ負けなかったわよ?」
「……だろうな。はぁ〜」
俺は闇の中でのやり取りを思い出して盛大な溜息をつく。
「あら? 溜息なんてついてどうしたの?」
「あのなぁ俺はこれでも男だぞ? 女のお前にそんな事言われて悔しくないわけないだろ」
「ふふっ。でも相沢もけっこう強いわよ。私が腰を痛めてなければ、ちゃんと手合わせ願いたい程よ? ちょっと見直したわ」
「そりゃど〜も」
「何よ誉めてるんだから、喜びなさいよ」
「どうせ俺のは、付け焼き刃の我流だからな」
「へぇ〜そうなんだ」
少し感心した様に七瀬が言う。
「うーっ」
「七瀬はどうなんだよ? あの動きはどう見たって何かやってた奴の動きだが」
「剣道をね。五歳くらいの時から中学生までやってたわ」
「うーっ」
「へー、すげぇな。それで腰を痛めたのか?」
「そうね。ま乙女のやる物じゃないけど」
「そうか? 暗くて顔は見えなかったが、動きはすげぇ格好よかったぜ、今度俺の練習にでも付き合ってくれよ」
「相沢の練習?」
「うぅーっ」
「ほら、舞はあんな性格だろ? 練習といっても実戦みたいなものしかしないし、残念だが俺なんかじゃ舞の足下にも遠く及ばないからな」
「ふふっ、本調子じゃないあたしなら丁度良いって事かしら?」
「ううぅーっ!」
「そんなんじゃねーよ……って、名雪さっきから”うーうー”五月蠅いぞ?」
「私の事無視してるんだおーっ!!」
会話に入れなかった事がさぞ悔しかったのか、名雪が両手を上げながら叫ぶと、「行こ、七瀬さん!」と言って、七瀬の手を掴み、廊下へと出て行ってしまった。
「おい、名雪待てよ」
そう言って、ふと見た教室の中に、不気味な絵を見る事が出来た。
「俺が驚いたのはこれか」
それは紛れもなく、栞の手によるものだった。
「これも一つの才能ではあるよな」
俺はそう呟き木刀を肩に担ぐと、慌てて二人を追って廊下へと出て行った。
|
§ |
「どうやら始まったみたいね」
インプレッサの助手席に座って、事の成り行きを見守っていた郁未がそう呟く。
見れば、校舎の照明が次第に点いて行き、それと同時に校内のあちこちから叫び声が聞こえてきた。
「舞や祐一さん達、大丈夫でしょうか?」
運転席で同じように校舎を眺めていた佐祐理が、心配そうな顔をして郁未に尋ねる。
「どうだか……ま、あれだけ念を押しておいたから、みんな驚き慌てて逃げ出して来るわ」
「そうですよね……中では何が起きてるんでしょう?」
「校舎をよく見てみなさい」
郁未にそう言われて改めて校舎を見上げる佐祐理が、「あっ」と小さく驚きの声を上げる。
「築六年、鉄筋コンクリート三階建ての中央校舎、いつから四階建てになったのかしらね。みんなが中でどんなドタバタを演じてるか目に浮かぶわ」
「それでは、先生は初めから知っていたんですか?」
インプレッサの運転席で、ステアリングに上半身を預けるようにして、校舎を見上げながら佐祐理は郁未に尋ねる。
「今回の一連の騒動の中心には、確かにこの学校が有る。でも学校の建物自体にその原因が有るわけじゃないから、恐らく校舎自体を調べたところで”何か”が見つかるわけじゃないと思うわ」
「……」
郁未の言葉を佐祐理は頷きながら聞いている。
「だから、要は事を起こす事。昨夜の様にね」
そこで一端区切ると、佐祐理に向かって微笑む。
「必ず何か反応が有る。それを見定める以外に核心に迫る方法は無いわ。さぁ、倉田さん手伝って貰うわよっ!」
「はいっ」
佐祐理は郁未の言葉に力強く頷いてみせた。
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