■第12話「一致団結」







 俺が郁未先生に呼ばれたのは、折原の治療が終わった後だった。
 もっとも治療と言ったところで、並はずれた耐久力を持つ折原のことであるから、怪我らしい怪我は殆ど無かったという。
 空砲とは言え、一〇五ミリ砲が発射された衝撃を至近距離で受けたのだから、まことに頑丈な身体構造である。
 そんな折原と入れ替わりに俺が保健室へと入室した時、先生は窓辺に立ったままコーヒーを飲んでいた。
 手近な丸椅子に勧められるまま腰を下ろすと、先生は新しいコーヒーを注いだカップを俺に差し出し、彼女自身も向かいの椅子へと腰を下ろした。
 先生に呼ばれた立場である俺は、ただ与えられたコーヒーを口に運び、彼女が口を開くのを待ち続けるしかない。
 その間、先程の騒動が収まったばかりだからだろうか? 校内の喧騒もいつもより静かな感じに思えた。
 不躾と知りつつも郁未先生の顔を伺ってみれば、彼女は暫く何も言わずにコーヒーを飲みながら、考え事をまとめているかの様に目を閉じていた。
「さて……」
 先生がそう口を開いたのは、俺がコーヒーを飲み終わって、空のコーヒーカップを手で弄び始めた時だった。
「俺に用って話ですけど……何ですか?」
「うん。その事だけど……相沢君、その前に幾つか聞きたいことがあるの。良いわね?」
 躊躇いがちに言葉を選ぼうとしていた郁未先生が、急に俺の目を見つめながらそう言った。
「は、はい」
 吸い込まれるような深い瞳に、思わず姿勢を正して返事をしてしまった。
「相沢君は最近自分の記憶があやふやだと感じた事無い?」
 郁未先生の態度からもっと凄い質問が来るんじゃないかと、身構えていただけに、その質問はちょっと予想外で拍子抜けするものだった。
 だから思わずうわずった声で聞き返してしまう。
「はい?」
「言葉が悪いかな? なら、そうね……デジャヴを感じる事ないかな?」
「あ……それなら最近よく感じますよ。疲れてるんだと思いますけど。それが?」
「そう……なら、具体的にどんな時に感じる?」
 質問の意味が判らぬまま、俺は最近漠然と感じていた既視感を思い返す。
「そうですね〜、何が……というよりも毎日がそんな感じですかね。ほら、今朝もそうですけど、ここ最近ず〜っと、ドタバタしていて、何かこう同じ様な毎日が続いているじゃないですか。だから漠然とそんな感じがするんじゃないか、と思うんですよ」
 黙って聞いていた郁未先生は、俺の言葉が終わると一呼吸置いてから切り出した。
「そうね。相沢君のその感覚は間違ってないわ」
 その言葉に、俺は首を傾げる。
 自分自身がよく判らず口にした言葉が正しい?
 意味が判らないといった表情を浮かべた俺に、郁美先生は少し顔を近づけて、諭すような口調で話し始めた。
「今から私が話すことは仮説的なものではなく、ましてや冗談なんかじゃない。断定的なものと思ってほしいの」
「……はい」
「相沢君。さっきも言ったけど、貴方のその直感的な判断は間違いじゃないわ。ううん、むしろ正しいと言って良いわね」
「はぁ」
 相変わらず俺が何の事か判らない様な感じで答えると、郁未先生は殊更口調を真面目な物に変えて話を続けた。
「ねぇ、昨夜は何処で寝たか覚えてる?」
 またもや想像外の質問だった。
「へ?」
「だから、昨日は何処で寝たの?」
 答えない俺に、先生はもう一度同じ質問をよこす。
 表情から察するに、冗談で聞いているわけでは無さそうだ。
「嫌だな先生。先生も一緒に俺の家……まぁ正確には名雪の家ですけど、そこで寝たじゃないですか」
「そうね。それじゃ何で家に帰ったの?」
「はい? そりゃ学校に泊まるのを禁止されたからじゃないですか」
「では、誰が禁止したの?」
 新たな質問に、俺は一瞬口ごもった。
 別に難しい問いかけではない。
 だが、俺の頭は瞬時に答を導き出す事が出来なかったのだ。
「え? え〜と……あれ? あ、そうだ、前からそういう決まりじゃなかったでしたっけ?」
 自分の記憶の曖昧さに驚き、俺は思った事をそのまま口に出した。
 気が付けば、俺の鼓動は普段よりも早いリズムを刻んでいる。
 俺の返答に満足しなかったのか、残念そうに目を閉じて小さく首を振ると、郁美先生は新たな質問を口にした。
「久瀬君……知ってるわよね?」
 だが、それも拍子抜けする内容だった。
「そりゃ勿論。あいつがまた何か悪さでもしましたか?」
「ふふっ……貴方は本当に彼が嫌いなのね。ま、その事は今はいいわ。今、私が言いたかったのは、昨夜あなた達を学校から帰したのが彼だって事よ」
「そうでしたっけ? そう言われれば……そうだった様な気がします」
 そう言われる事で、頭の中の霧が立ちこめた記憶の向こうに、昨夜の状況が朧気に見えてきた。
 そうだ……確かにそうだったはずだ。
 ――雨が降り注ぐ闇の中。
 ――音を立てて閉まる校門。
 ――その門を挟んで対峙する俺達と久瀬。
 これらは確かに昨夜の光景のはずだ。
 何故そんな事を忘れていたんだ?
「それじゃ、久瀬君が貴方達を学校から追い出した時、彼とあなた達が何て言い合ったかを覚えている?」
 昨夜の光景を頭の中に思い描こうとしていた俺に、更なる質問が投げかけられる。
「は? 久瀬と俺達が? ……そう言われれば、何か言われて……それで俺達が何か反論した様な気がする」
 再び昨夜の事を思い出す。
 より詳しく。
 より鮮明に。
 ――追いすがる俺達に、普段の奴とは違う強気な態度で強制帰宅を命ずる久瀬。
 ――冷たい雨の下、奴が何事かを喚いている。
 ――そして住井が、折原が、そして俺が何かを久瀬に向かって言った。
 だが、特別な言葉を言った訳じゃないはずだ。ごく普通の言葉だったはずだ。
 それこそ記憶する事すら不必要に感じる程に。
「覚えてない? それじゃ単刀直入に聞くわよ。学園祭はいつからかしら?」
 頭を抱えて記憶を引っぱり出そうとしていた俺だが、新たな問いかけに対する答は簡単に思い浮かんだ。
 間違えようがない。
 だから俺は頭を抱えていた手を膝に戻し、郁未先生の顔を見つめてその答を口にした。
「そりゃ明日が初……」
 そこまで言った時、俺は強烈なデジャブに襲われ、と同時に昨夜の校門前での久瀬とのやり取りが思い出された。
 ――「……ところで久瀬……明日は何の日か判って……だよな?」
 ――「さて……ただ君よりは理解……と思うよ」
 ――「何?」
 ――「いや失敬。明日は学園祭の初日……ろ? せいぜい朝早く……準備するん……もそんな必要はないだろ……ね」
 ――「最高責任者とは……発言……」
 ――「気にするな、他意は……僕の話は終わ……たまえ。それともまだ何かあるのか?」
 ――「いや何もな……。それじゃ名雪……ぜ」
 何だって?
 確かに何気ない会話だ。
 だが、不自然な部分が有った。
 有り得ない。
 だからこそ、身体の震えが止まらない。
「思いだしたのかしら?」
 俺が無言で頷くと、先生はゆっくりと言葉を続けた。
「……昨夜、貴方と久瀬君の間でかわされた言葉の中に『明日の学園祭初日』というものが有ったはず」
 再び無言で頷く。
「それじゃ……何故昨夜の言葉なのに、今日という日は学園祭の当日じゃないのかしら?」
 有り得ない現実を必至に否定しようとしていた俺の頭は、その先生の言葉で現状を受け入れざるを得ない状況へ追い込まれた。
 昨夜が学園祭前日であれば、当然今は学園祭の初日でなければならない。
 子供にだって判る理屈――いや、世界の摂理だ。
 だが現実にはどうか? 俺達は今だに模擬店の準備に追われているし、今この瞬間でさえ校内の各所からは、明日の学園祭に備えた作業の騒ぎが聞こえてきている。
 何だこれは?
 何が狂っているんだ?
 周囲の喧騒がどこかエコーがかかったように俺の頭の中で響き渡る。
「相沢君!」
 ふいに肩を揺さぶられ意識が戻ると、眼前に真剣な表情をした郁未先生の顔を認識した。
「……何なんですかこれ。有り得ないですよ、こんなの」
「そうね。有り得ないわよね。でも知ってしまった以上、黙って受け入れる訳にはいかない。……違う?」
「そうですけど……じゃ、何で俺にそんな話しを?」
「私が相沢君を今此処にこうして呼びだしたのは、貴方に協力して貰いたいから」
「俺に?」
「そう。正確に言えば貴方達……かな? みんなに協力を仰ぎたいけど、事が事だけに信じてくれない人も多いだろうしね。でも貴方なら、真剣に取り合ってくれそうだし、一番理解が早そうだから。何しろ不自然な現象を見るのは初めてじゃないでしょ?」
 郁未先生はそこで一端区切って微笑むと、空になったコーヒーカップを背後へ放り投げた。
 放物線を描いて落下すべきカップは、ゆっくりとした速度で移動し、割れることなく背後にあったテーブルの上に着地した。
 郁未先生が持つ不可視の力の一部だ。
 過去、佐祐理さんを襲い、そして俺にまで襲いかかってきた魔物達――暴走した舞の力から咄嗟に庇い、そして瀕死の重傷をおった佐祐理さんの身体を回復させたのも、他ならぬ郁未先生のこの力なのだ。
「それにね。川澄さんの一件で見せてくれた行動力。私はそれにかけてみたいの」
 郁未先生の青みがかった深い目が、俺を真剣に見つめる。
「先生……」
 思わずその目に吸い込まれそうな感覚になる。
「貴方と一緒なら、真実に近づける……そんな気がするのよね」
「買い被りも良いところですよ」
「そうかしら?」
「ええ。俺は普通の高校生です。折原や住井と違ってね」
 そう言って笑うと、郁未先生も笑顔を返してくれた。
「でも、郁未先生の言うことは信じますよ。俺自身何かが周りで起きている様な気はしてましたから」
 あやふやだった自分の記憶が少しずつ戻ってくる。
 そうだ、今なら思い出せる。
 確かに俺達は、何日も前から同じ一日の、同じドタバタ喜劇を演じて来た。
 ――「何か判らないけど……何か起きる。ううん、もう起きてるかも……」
 一体、何日前のことかは判らないが、舞が俺にそう言った事があったはずだ。あいつも、朧気に気が付いていたんだろう。
 俺は決心した。
「それに、郁美先生には大きな借りもありますから。俺でよければ」
「そう言ってくれると助かるわ。それじゃ今の時点で私が気付いた事を教えるわ」
 郁未は安心した様に微笑むと、俺にこの異変について話し始めた。


 学園祭前日が続いている事。
 そしてそれは気の遠くなるほど前から続いている事。
 毎日の出来事が、基本的に同じ事の繰り返しだという事。
 異変に気が付いた久瀬が消えてしまった事。
 昨夜、俺達が家に帰った後で、郁未先生に起きた不可思議な事。
 そしてこの異変に潜む何者かの存在。
 様々な事を聞いて、改めて俺は今現実に起きている不可思議な事態に驚きを隠せなかった。


「しかし具体的にはどうすれば良いんでしょうか?」
 説明を聞き終えた俺は、郁未先生にそう尋ねる。
「まずは、情報収集と対策会議ね。昨夜の一件に関わったみんなを集めて欲しいの。問題が問題だけにそう易々と受け入られる事じゃないし、皆を説得するのは難しいかも知れないわね。まぁ詳しい事は私から話すから、相沢君は皆を集めてくれれば良いわ」
「判りました。それでは」
 一礼をして保健室を出て行こうとする俺の耳に、「有り難う」という郁未先生の声が聞こえた。
 俺は軽く手を挙げて答えると、そのまま皆が待つ教室へと向かった。
 果たして他の奴等が現実を受け入れるかどうか……不安を感じつつ。





§






 日暮れの商店街を俺達は久しぶりに歩いていた。
 人の姿は普段より疎らに見えるが、学校でのお祭り騒ぎとは異なる賑やかな雰囲気は、どこか心地よい。
 仕事や学校帰りの人々や、夕食の準備をしている人々の居る商店街を、俺達は大人数で歩いている。
 やはり人数が人数なので、周囲からは何かのサークルや部活の一団と思われているかもしれない。
 郁美先生を先頭に、住井と南、長森、七瀬、折原と続き、澪と深山先輩に先導された川名先輩、名雪と美坂姉妹、直ぐ後に北川、最後尾に俺達(俺、舞、佐祐理さん)という総勢一六名、今朝の登校時よりも三名増しの大所帯だ。
「わぁ〜久しぶりだよ」
 名雪のものに似た、どこか間延びした声が、集団の中程から聞こえてくる。
 見れば深山先輩に手を引かれて歩きながら、あれこれとはしゃいでいる川名先輩の姿が見えた。
 彼女にしてみれば、こうして商店街に来ること自体、数年ぶりとの事なので、こうしてただ歩いているだけでも楽しい事なのだろう。

 俺達がこうして連れだって歩いているのは、郁未先生に相談を受けた件に関して、皆で話し合うためだ。
 だが今のところ、まだその趣旨用件を具体的には話していない。
 それでも一部の者は、郁未先生の表情が普段よりもやや厳しげである事に気が付いており、これから話し合う内容が単に世間話で無い事程度には想像している。
 もっとも、殆どの者共はいつものように、各々が好き勝手に騒ぎながら歩いているので、重たいイメージは全く無い。
 さてさて、荒唐無稽な現実を如何に理解させ、そして協力を取り付けるか――郁未先生の手腕を拝見させてもらおう。


「ねぇ相沢君、少し頼めるかな?」
 百花屋に着いたところで、郁未先生からそう声を掛けられた。
「何ですか?」
「用意したい物があるから……簡単で良いから皆に説明しておいて欲しいの」
 またもや予想外のお言葉。
「え? だって説得は先生がやるって……」
「お願いっ! どうしても今すぐ用意しなきゃいけないの」
 郁未先生はそう言うと、顔の前で”ぱしっ”っと掌を合わせて頭を下げ、上目遣いで俺の顔を伺っている。
 ずるい。
 そんなお願いをされたら、断れるわけないじゃないですか!
「くっ……そういう事でしたら別に良いです。でも上手く説明出来るか自信ないですよ? それに皆の協力を取り付けられるかどうかも保証出来ませんからね?」
「貴方なら大丈夫よ。それじゃ任せたから」
 慌てる俺を後目に、急に態度を改めるて答えると、郁未先生は商店街に奥へと逃げるように姿を消した。
「ったく……大丈夫かなぁ?」
 不安を胸に、俺は百花屋の扉を潜った。





§






 普段から利用していた喫茶店「百花屋」。
 流石に一六名も列んで座れるスペースは無いので、店内中程のテーブルを四つ並べて貰って、何とかスペースを作ってもらった。
 適当に皆が席に着くと、俺は郁未先生が遅れて来る事を伝えた。
 だが、先生が居ない事もあって緊張感ゼロの面々は、勝手気ままにオーダーをし雑談に興じている。
 まぁいきなりってのも仕方がないので、俺は暫くそのまま場を放置した。
「さて、皆に集まってもらったのは他でもない」
 暫く経って場が和んだのを見計らって、俺ははそう切り出し、この度の異変の説明を行った。
 行ったのだが……。
「俺自身、今日郁未先生から聞かされるまで、はっきりと気が付かなかったが――
「いっちごーいっちごー♪」
「確かに俺達は同じ一日をひたすら繰り返していると思われる――
「アイスッアイスッ♪」
「今朝の戦車事件と言い、昨日の夜の一件と言い――
「お前等たまには他の物食えよな」
「消えちまった久瀬の事と言い――
「瑞佳、何も喫茶店でまでわざわざ牛乳を頼むこともないだろ?」
「余りにも不可解な事件が多すぎる――
「え美味しいよー?」
「事此処に至って、もはや疑問の余地はない――
「折原こそゲルルンジュースなんて頼まないでよ、気持ち悪いわね」
「俺達は今こそここに真相究明委員会を結成してだな――
「うわーっ、これ美味しいよ〜雪ちゃん」
「最近身の回りに起きた不可解な出来事に関してだな――
「貴方はこれ以上食べちゃ駄目よ」
「皆から意見や情報を聞いてだ――
『美味しいの』
「俺達の置かれている立場というものを理解して――
「浩平〜ほら、こぼしてるよ?」
「今後どう対処して行くかを話し合いたく――
「……お茶が美味しい」
 隣で茶を啜る舞にチョップを喰らわせると、俺の頭脳から忍耐という言葉がオミットされた。
「シャラーップ! お前等人の話を聞けぇっ! それからそこ毎度毎度同じ物ばっか注文するな。たまには俺の予想を裏切ってみせろ!」
 俺が大声と共に、机を叩いて皆の注意を引く。
「どうしたの祐一?」
 スプーンを加えたまま名雪が不思議そうな表情で俺の顔を見ている。
 俺か? 俺が変なのか?
「相沢、すぐに怒鳴るのは脳の血管が切れる恐れもあるし、メンタルな部分に悪影響が出るから止めた方が良いぞ?」
 折原が妙に真剣な表情で俺に言う。
「お前等……俺の話を聞いていたのか?」
 俺は心の奥底で沸き起こる感情の高ぶりを必死で押さえながら言葉を絞り出すと、回りの面々を見回した。
 幸せそうな顔をして、目の前の物を食べている名雪、栞、澪、そして川名先輩。
 目を閉じて悩んでいるそぶりの住井と南。
 良く判ってなさそうな七瀬。
 多分、話を全く理解していない北川。
 話を聞いてくれて、在る程度理解できた様なのは、香里と深山先輩、そして佐祐理さんくらいだろうか? 舞は……よくわからん。
「う〜ん、一応は聞いていたが……何かこう現実味に欠けるっていうかだな……イマイチ問題の概要が掴めないんだよなぁ」
 住井の言葉に舞と佐祐理さん、そして香里と深山先輩以外の人間が頷く。
「だから言ってるだろ? 俺達はずーっと、同じ一日のドタバタ喜劇を演じさせられてるんだって」
「わっ、びっくり。そうなの?」
 名雪が真顔で俺に尋ねる。
「そうなんだよっ!」
「そうなんだー」
「……お前、意味判ってるのか?」
 あまりに反応が乏しい名雪に俺は頭痛を覚える。
「でも、何となく思い当たる節はあるわね」
 香里が呟く様に言う。
 流石は委員長兼・学年主席殿。助かります。
「……」
「はぇー」
 香里の言葉に――舞は相変わらず判らないが――佐祐理さんは感心した様に驚き声を上げる。
「う〜ん……」
 南は腕組みをして深く溜息をついているが、あまり動じた様子がない。
 というより、理解の範疇を越えていると言った方が正確だろう。
「それじゃ、もう一度簡単に説明するから、今度はちゃんと聞いてくれよ?」
 俺はそう言って皆の顔を一通り眺めた後、郁未先生からきかされた事を、俺自身の推測を付け加えて皆に説明した。



「言われてみれば、昨夜のことすら記憶が曖昧ね?」
「私すっかり忘れてたよーっ」
 香里の言葉に改めて驚く名雪。
「同じ一日をひたすら繰り返す……か。そんな事信じられないわ」
 深山先輩の呟きに澪も”うんうん”と頷いている。
「なるほど……そうだったのか!」
 住井が手で膝を叩くと、妙に納得した表情で呟く。
「いつまで経っても模擬店が完成しないと思ったら、こういう事だったのか? いやぁ、おかしいとは思ったんだよな」
「それじゃ、あの瞬間移動みたいなやつも?」
 七瀬が今朝の事を思い出す様に言う。
「恐らくは、何か関連があると思う」
 俺の答えに、七瀬は「そうなんだ……」と呟き、折原の方をちらっと見る。
「あたし、てっきり折原の所為だと思ったわ」
「オレはおかげで死ぬ思いをしたぞ」
「ま、これで転校初日に貰った肘鉄は、チャラにして上げるわよ」
「わたし、奇妙な声を聞いたよ?」
 七瀬と折原のやり取りを楽しそうに聞きながら、目の前のパフェを食べている川名先輩が呟いた。
「何ですかそれ?」
 俺の質問に、皆が川名先輩を注視する。
「うーん、はっきりと思い出せないよ。でも多分在ったこと無い女の子の声だったと思う。屋上で何か言われて、そしたらプールの戦車の中にいつの間にか移動してたんだよ」
 みさきの言葉に、一同が息を飲む。
 狂った世界への恐怖心――それは確実に皆の心に影を落としている。
 何よりみさきの証言は、この度の問題が何者かの介入によって引き起こされ、その者がこの世界を狂わせている――という事を語っている。
「それで祐一、私達はどうすれば良いの?」
 名雪がおっかなびっくりとした口調で尋ねてきた。
「ずばり俺達が解決する!」
 俺がそう答えると、みなの表情が驚きに変わる。
 そんなの無理だよぉ――名雪の目は、そう語っていた。
 他の者達も何処か困惑気味だ。
 まぁ思った通りとは言え、説得は難しそうだ。
 やはり郁未先生の到着を待って、彼女に期待するしかないか?
「相沢この話は無しだな」
 不意に折原が俺に向かって話し始めた。
 彼は手にしている空のコーヒーカップを弄びながら、悪戯っぽく笑みを浮かべている。
「何故だ?」
 俺が理由を求めると、折原は軽く溜息をついてから話し始めた。
「なぁ相沢、お前の仮説だと、今この世界の時間と空間がおかしくなってるのでは? ……という事だろ?」
「そうだな」
 折原の言葉に俺は短く答える。
「判った、それはオレ達も認めよう。なぁ?」
 そう言葉を続けたのは折原に、回りの皆が「異議なし」と口を揃える。
「しかしだ、オレが問いたいのは、そんなご大層な問題をオレ達一介の高校生風情がどうにか出来る問題なのか? という事だ」
 折原の言葉に、皆が一斉に頷く。
「そ、それは……」
 確かに折原の言うとおり、俺達がどうこうして解決出来るという確証は何も無い。
 口ごもる俺を少し見てから折原は続ける。
「そして、『その事によってオレ達にどういう実害があるか?』それこそが問われなければならない」
 折原はそこまで言うと、俺から視線を移し、テーブルの回りの皆の顔を見回す。
「なぁ相沢。確かにこの世界に何か異変が起きているとしよう。そしてオレ達で何かをしたとする。それは危険な事ではないのか?」
「う……」
 それこそ俺が危惧していた問題だった。
「何かをしたい……というお前の気持ちは良く判る。しかし、さっきの説明を聞く限り、現に久瀬は消えちまったんだろ? それが”死”を意味するのかどうかまでは判らないが、結果が分からない以上、危険な事には違いない。そんな事に皆を巻き込むのはどうだろうか? 例えばお前は川澄先輩や倉田先輩、そして水瀬を巻き込めるか?」
「……」
 俺は折原の言葉にはっとして、改めて回りを見回す。
 みんなが黙って成り行きを見守っている。
「お前の話を聞いて、オレ達は皆、記憶が曖昧になっている事は自覚できた。しかし一晩寝ちまえば、オレ達が此処で集まった事や、今この場で話し合っていた事などは綺麗サッパリ忘れているんだろう。だったら、それでも良いんじゃないか?」
「何?」
 折原の言葉に俺は思わず声を上げる。
「誰が何の為にこの茶番をオレ達に演じさせてるのかは知らないが、知らないフリをしていれば、別に危害は無いんだろう? 実際今までだってそうだったんだ。だからさ、それも選択肢の一つだと思うぜ」
 そこで折原は手にしていたコップを口に運び水を飲んだ。
「確かに、皆の危険まで考えが及んでいなかったのは事実だ。済まなかった。だが俺は……俺一人でも……」
「おいおい相沢、オレは何もお前を責めてる訳じゃないんだぜ?」
 俺の言葉を遮って折原が言う。
「確かに気味悪い異常事態ではある。しかし放置しておけば問題はない。でもやっぱり気になるけど、それは危険かもしれない。ならば……」
「……ならば? 何だというんだ?」
「やるなら『逝っちゃっても良い奴等』だけでやろうぜ、って事さ」
 そう事も無げに笑顔で言う折原に、俺は思わず姿勢を崩す。
 俺だけではない、他のみんな(舞とみさき先輩を除く)もオーバーなリアクションでずっこけている。
「お、折原……あれだけ格好付けてそういう事言うのか? 大体、逝っても良い奴って誰だよ?」
「決まってるだろ? 野郎共と七瀬だよ」
『俺達かよっ?!』
 住井、北川、南が声を揃えて突っ込む。
「あんたねぇ……見直して損したわよっ!」
 七瀬も呆れ口調で応じる。
「何を言う七瀬。武力120のお前は貴重な戦力だぞ?」
「嬉しくないわよっ!」
 そんな折原と七瀬のやり取りを聞いていて、俺は場の雰囲気が一気に軽くなるのを感じた。
 コイツにはかなわんな――俺は、いつもの調子で七瀬をからかっている折原を見て、心の中でそう呟く。
「……私も協力する」
「あははーっ、祐一さんの頼みですもの、佐祐理も及ばずながら手伝いますよ」
 俺の横で舞と佐祐理さんが言う。
 二人の声は決して大きなものではないが、その声はとても力強く感じられた。
 俺が二人を見つめると、舞は照れて俯き、佐祐理さんは笑顔を返してくれる。
「有り難う二人とも」
 俺はあえて「危険だから来るな」とは言わずに、共に進むことを誓った二人を歓迎した。
「よっし、それじゃ決まりだな? んじゃ参加者は相沢に俺、住井、北川、南、七瀬と、川澄先輩に倉田先輩……っと」
「俺等の意見は聞かないのか?」
 折原が指折り数えていると、住井達が声を揃えて詰め寄る。
「んあ? 面倒だし、どのみち何言っても却下だ」
『酷ぇ!』
 揃ってそう言う野郎共だが、実際には三人とも別に心底嫌がっている様には見えない。
 あくまで、ノリを大事にしているのだろう。
「ちょっと待ちなさい」
 そう言ったのは香里だ。
「何だ香里?」
「貴方達だけで勝手に話を進めないで頂戴。あたしだって一緒にやるわよ。こんな馬鹿げた騒ぎ、何時までも続けてらんないわ」
 俺が尋ねると、怒った顔で香里が言う。
「あ、お姉ちゃんずるいです。私もやりますよ。巨大な謎を解き明かさんとする美少女……格好良いじゃないですか」
 そんな香里に栞も頬を膨らませて続く。
「私も頑張るよっ」
 栞に続いて名雪までもが手を挙げて宣言する。
「名雪……良いのか?」
「うん。みんなだけに任せるなんて出来ないよっ」
 そんな名雪の言葉に、川名先輩がうんうんと頷いている。
「わたしもやるよ〜」
「みさき!?」
「雪ちゃんも一緒に行こうよ」
「わ、私は……」
『やるの』
「ちょっと上月さんまで? ……もう、判ったわよ! みさきや上月さんだけ行かせるわけにも行かないし……相沢君、私も参加するわ」
 観念した様に深山先輩が、俺に向かって苦笑交じりに言う。
「浩平、私も当然行くよ?」
 長森の言葉に、折原は一瞬悩んだ様な表情をしたが、直ぐに笑顔になって応じた。
「こうなっちゃ仕方ないな。でも、無理するなよな?」
 口ではそう言っているが、折原もまた何処か嬉しそうだ。
 先程までの気落ちした雰囲気は消え失せ、皆やる気に満ちている。
「良かったですねー」
「……みんな良い人」
 俺の両脇で佐祐理さんと舞が囁く。
「ああ。全くだな」
 そう二人に答えると、目の前の折原に向かって拳を突き出す。
「折原、サンキューな」
「気にするな相沢。世界の危機だろ? なら俺達の出番だ」
 俺が差し出した拳に、折原は笑顔で自らの拳を軽く当てなが答える。
「ははっ、そうだな」
 何気なく応じる俺だが、心の中では、皆の心から正体不明の黒幕に対する恐怖を払拭し、なおかつ一つにまとめ上げてみせた折原の手腕に舌を巻いていた。
”パチパチパチ”
 突然拍手を受けて音のする方向を見ると、紙袋を抱えた郁未先生が立っていた。
「郁未先生?」
「無事、皆を説得出来たみたいね」
 笑顔でそう言いながら、郁未先生が空いていた席に腰を降ろす。
「あの……何時から居たんですか?」
「うーん、相沢君が『お前等人の話を聞けぇっ!!』って怒鳴った辺りかな?」
「……」
 あっけらかんと答える郁未先生の顔をじっと見つめると、彼女はすぐに目をそらした。
 結局面倒事を押しつけられていたらしい。
「おっほん。さて、相沢君の説明でもうみんな気が付いていると思うけど、今まで繰り返された日は、概ねパターンと言うものがあるわ。でも昨夜は久瀬くんと私の行動でそれが崩されたの。今朝の戦車事件は無理矢理元のパターンへ戻そうとした結果だと思うわ」
 咳払いをして座った郁美先生が、皆を見回しながら話し始める。
「その為に、あたしや折原、そして川名先輩が瞬間移動……って言って良いのかわからないけど? そんな事になったんでしょうか?」
 七瀬の質問に郁未先生は――
「多分そうね」
 ――と答えた。
「何でそんな事を?」
 南が控えめに尋ねる。
「そうねぇ……多分『演出』じゃないかしら?」
「随分迷惑な演出家ね、私の舞台には願い下げだわ」
 深山先輩が心底迷惑そうな表情で呟いた。
「ねぇ、同じ一日を繰り返している事は判ったけど、それって何の意味があるのかな?」
 長森が誰に尋ねるでもなく言うと、皆が一様に首を傾げた。
 確かに何か意味があるからこそ、同じ一日が繰り返されているはずだ。
「そうですねー、それにどうしてそんな事が起こりうるのかも問題ですね」
「しかも誰もその事に気が付いていないのよね?」
 佐祐理さんが口にした疑問に、すかさず香里が続く。
「じゃあ、お母さんや真琴も、やっぱり何も気が付いてないのかな?」
「昨夜それとなく聞いてみた限りはそうね」
 名雪の疑問に郁未先生が答える。恐らく、昨夜泊まった時に、何か話をしたのだろう。
「俺達が昨日、家に帰れなかった……ってのも何か意味があるのか?」
 昨夜の事を思い出したように住井が言うと、郁未先生は頷いてから答えた。
「私の予想だけど、この世界……ううん、この街に何か”まじない”の様ながかけられて、外界と遮断されているんだと思うの。あくまで異変が起きているのはこの周辺だけで、そんなに広い範囲では無いはずよ」
「つまり、私達の家はその外界にあるって事ですか?」
 栞の言葉に皆――昨夜家に帰ることが出来なかった者達が不安気な表情をする。
『心配なの』
 澪がスケッチブックを開く。
 その言葉が指すのは恐らく家族の事だろう。
「昨夜電話が通じなかったのはその所為なんですね」
 佐祐理さんも家族が心配なのだろう。表情がやや曇っている。
「状況が状況だから、こっちも普通に考えてちゃ無駄よね」
 七瀬が椅子に寄り掛かったまま、お手上げと言わんばかりに、大げさなポーズで言う。
「問題は其処だ。有り得ない現実を突きつけられた俺達は何をすべきか……いや、何が出来るか?」
 折原が七瀬を指さして答える。
「考えても無理なら行動あるのみだぜ! 迷う暇があれば行動せよ、だ」
 北川が立ち上がって熱く叫ぶが、周囲の反応は冷ややかだった。
「そんな事言って……実際にはどうすれば良いのよ?」
 香里が皆の意見を代弁すると、北川は「う〜ん」と腕を組んで悩んだまま椅子に伏せてしまった。
 どうやら考える事は苦手の様なので、代わりに俺が答えてやろう。
「決まってる。パターンを崩せば良いんだよ」
「え?」
「はい?」
「……?」
「何?」
 俺の言葉に皆が頭を捻る。
「今までの成り行きから考えれば、この世界が望むのはパターン通りに事が進むことだろ? だからさ……昨夜の蒸し返しをするのさ」
 俺がそう結ぶと、郁未先生が手を叩いて皆の視線を集める。
「そこで〜私からみんなへプ・レ・ゼ・ン・ト」
 郁未先生は手提げ袋から同じ物を人数分取りだすと皆に配った。
「?」
「はい?」
「何?」
「はぇ〜」
「何だ?」
「むむっ?」
「何ですかこれ?」
「え……っと?」
「これって……」
「懐中電灯……ですね?」
「何に使うんですか?」
「これで一体何を?」
 手渡された懐中電灯を片手に、皆が頭にクエスチョンマークを浮かべている。
「さてと……それじゃ先生、準備したい事が有るので俺は一足先に行きます」
「判ったわ。それじゃ学校でね」
「はい。それじゃ……佐祐理さん、車出してくれます?」
「良いですよー。舞も行く?」
「……」
 舞は無言で頷くと、湯飲みをテーブルに置いて立ち上がった。
「おい相沢、ほらこれ」
 店から出て行こうとする俺に、折原が紙切れを差し出して来た。
「何だこれは?」
 一瞥して俺は折原を睨み、声を低くして尋ねた。
「何って、伝票だが……知らないのか? 飲食店で商品を注文するとだなぁ、その商品の金額が記載された……」
「そんな事聞いてるんじゃない! 舞と佐祐理さんの分ならともかく、何で俺がお前等の分まで払う必要があるんだよっ!」
「そう怒るな相沢。誘ったのはお前だろ? それにみんなを説得したのも実質的にはオレなわけだし、まぁここは一つネゴシエーションの代金だと思えば安いものだって。それにさっきも言ったが、あまり怒鳴ると脳の血管が破裂して寿命が縮むぞ?」
 俺の中で、先程折原に感じた尊敬や感心が一気に薄れていった。
 ちなみに、代金は佐祐理さんが支払ってくれた。
 俺、格好悪い。





§






 百花屋を出たとき、既に陽は落ちて街は闇に包まれていた。
 商店街を行き交う人々の数は疎らで、夕方に比べて酷く寂しく思えた。
 希にすれ違う人々の表情が、何か芝居がかったものに思えて不気味に感じる。
 彼らもまた、同じ一日をずーっと繰り返しているのだろうか?
 日暮れと共に商店街の店は軒並み店じまいをしており、時間に対する概念が欠落している事を裏付ける。

 佐祐理さんの車は校門前に停めたままなので、俺達は三人でいつものように通学路を学校へ進む。
 少し先行して歩く舞の後ろで、俺は佐祐理さんと列んで歩く。
「祐一さん?」
「何、佐祐理さん?」
「私は……結構楽しんでましたー」
 まるで内緒にしていた事を打ち明ける様に、はにかみながら佐祐理さんが告白する。
「繰り返してた毎日を?」
「はい」
 笑顔で答える佐祐理さんを見て、確かに「悪くない」とも思った。
 しかし――
「そうだな。確かに毎日お祭り騒ぎってのも悪くないけど、やっぱり問題あるぜ」
「問題ですか?」
「ああ、だって毎日が同じ日で先に進めなかったら、いつまで経っても舞や佐祐理さんと一緒に暮らせないから……ははっ」
 自分でも判るくらい恥ずかしい台詞に、俺は鼻の頭を指先で掻いた。
「そうですねー」
 しかしそんな俺の台詞にも、佐祐理さんは嬉しそうに笑顔で答えてくれた。
「舞ーっ今の祐一さんの言葉聞いた?」
 佐祐理さんが笑顔のまま前を行く、舞に問いかけると……舞はもの凄い早さで走って行ってしまった。
「お〜い」
「あははーっ、舞って照れ屋さんですねーっ」
(あれは照れているのか?)
 苦笑交じりに舞の背中を見つめてから、俺は改めて佐祐理さんへと向き直り――
「それにお祭りは終わりがあるからこそ、盛り上がるもんだ」
 ――と真剣な表情で告げた。
 俺の言葉に、佐祐理さんは黙って頷いていてくれた。


 校門前に着くと、学校から生徒達が下校を始めていた。
 こいつらは家に帰られるのかな? ――校門から出て行く生徒達の姿を見て、俺はそんな事を考えていた。
「祐一さーん」
 横合いから俺を呼ぶ佐祐理さんの声が聞こえたので、考えるのを止めて、俺は彼女の車に乗り込んだ。
「それじゃ佐祐理さん、俺の家に向かってくれるかな。取りに行きたい物があるんだ」
「はい」
 こうして俺達は水瀬家へと向かった。






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