”チリ〜ン……”
緩やかな風が清々しい音色を運んでくる。
昨夜の雨が嘘のように思えるほど晴れ渡った空の下、俺達は一路学校へ向けて歩いている。
普段は名雪と二人、あるいは舞と佐祐理さん達と通う道を、十三名もの大所帯で進む。
先頭を郁未先生が進み、その後ろを舞、そして直ぐ後ろに俺と佐祐理さん、やや遅れて名雪と美坂姉妹と続き、すこし間を置いて住井、北川、南の三人がふざけ合いながら歩いている。
更にその後ろには、七瀬と長森が談笑しながら歩く姿が見える。
最後尾は折原で、どこで手に入れたのか判らない風鈴を手にぶら下げ、眠そうな顔をしながら歩いている。
無論、奴の突拍子もない行動は今に始まったわけではないので、この程度では誰も気に掛ける事は無い。
俺や七瀬等は、むしろ猫の首の鈴の様で、神出鬼没な折原には丁度良いのではないか? とさえ思って、敢えて何も言わないでいる。
”チリ〜ンリ〜ン……”
折原が歩を進めるたびに、風鈴が奏でる涼しげな音が俺の耳に届く。
■第10話「五里霧中」
道路の轍に昨夜の雨が水たまりとなって、その表面にのんびりと進む俺と佐祐理さんの姿が映っている。
二年に進級してからというもの、舞や佐祐理さんは俺と登校する日が増えたが、照れているのか、未だに舞は俺の横を歩こうとはしない。
そんな仕草も可愛く思えるが、その事を口にすれば容赦のないチョップが来るので俺も、佐祐理さんも黙って前で揺れる舞の後ろ髪を眺めている。
「わぁ〜、お姉ちゃん綺麗な空ですね」
「ふふ。本当ね」
俺の後方からそんな会話が聞こえ、俺もつられて空を見上げる。
「おお〜っ」
思わずそう声が漏れるほどの青い空が広がっている。
雲は疎らで、快晴に近い。
「気持ちいいですねーっ」
すぐ横合いから掛けられた声に、俺は視線を声の主――佐祐理さんへと向け短く「ああ」と笑顔で応じた。
透き通るような青空の下、俺達はゆっくりと学校へと向かって歩いている。
何となく、その道程は普段よりも長く感じられた。
「ふあぁ……」
後方から風鈴の音色に交じって、大きなあくびをしているらしい折原の声が聞こえてきた。
見れば最後尾で、目尻にこぼれた涙を手で拭っている姿が見て取れる。
「何だか、良い陽気だなぁ〜」
穏やかな陽気に、溜まらず住井が背伸びをしながら呟いた。
「こうして歩いて学校に行けるって良いよね。ねぇ浩平〜?」
「全くだな」
長森がふいに折原へと投げかけた言葉に、若干の皮肉が篭められていたのを感じた俺は、後ろを振り向いて力強く同意した。
俺と長森が清々しさを感じているのは、何も陽気だけが要因ではない。
こうしてのんびり歩いて登校している事自体が重要だったりする。
皮肉が向けられた相手は、俺と長森のやり取りに「むっ」「うーっ」と唸り声を上げて反応を示している。
そんな二人の態度に、皆が可笑しそうに――香里は微かに鼻で――笑っていた。
「折原と水瀬さんのどちらが遅いか? で毎朝賭が出来るもんな」
そう言う住井こそが恐らくは元締めなのだろう。
そんな賭博が行われていた事実も驚異だが、賭の対象になる当人達の生活態度こそ驚異とも言える。
「まったく、あんた達はいつも心臓によくない登校よね」
「そう言う七瀬だって結構遅刻ギリギリの日多いだろうが」
「そ、そんな事無いわよっ!」
折原の言葉にたじろぐ七瀬。
確かにそう言われてみれば、七瀬も結構遅刻寸前の日が有る。
「あ、でも確かにそうかも。だって七瀬さんとよく一緒になるよ」
「え? あ、あたし別に瑞佳を待ってるわけじゃないわよ。うん。絶対に違うんだから」
長森の言葉に妙に慌てて弁明する七瀬だが、どうも自爆っぽい。
顔を赤らめて取り繕っている七瀬を見て、周囲の人間は含み笑いを浮かべている。
当人達は気付いて居ない様だが、クラスの人間の中では七瀬が長森に友情以上の感情を抱いていると噂されており、そして七瀬の態度を見る度に、俺はその噂が事実である確信を深めて行く。
それでも当の長森は、七瀬が狼狽している原因に気付いていない。
変わらぬ表情で「そうなんだ。すごい偶然だね」と感心した様な表情で頷いてる。
頑張れよ七瀬――決して報われる事は無いだろう恋路を思い、俺は心の中でそっと声援を送った。
「でもさ、付き合わされてる長森さんが一番可哀想だよね」
南の言葉に香里と七瀬が「本当よね」「全くよ」と頷くが、どこまでもお人好しで、世話焼きな長森は――
「そ、そんな事ないよ。わたしが好きでやってる事だから」
――と言い、しかも照れながら「浩平ってわたしが居ないと駄目なんだもん」と続けた。
殆どノロケにしか聞けない言葉を受けて、顔を真っ赤にた折原が長森の後頭部にチョップを入れた。
「痛いよ〜」
そんな言葉とは裏腹に、長森の表情は実に楽しげだ。
そしてその横を進む七瀬は、実に険しい表情で折原を睨め付けている。
っく……頑張れよ七瀬――俺はもう一度エールを送った。
「わたしが遅刻しちゃうのは……最近、祐一が私を置いて先に行っちゃうからだよ」
俺のすぐ後ろで名雪が頬を膨らませて抗議するが、それは幾ら何でも他力本願すぎるってものだ。
確かに、引っ越してから暫くの間は、大量の目覚まし時計に囲まれつつも眠り続ける名雪を起こしていたが、何時までも俺に頼りっぱなしってのも問題あるだろう。
事実秋子さんからも、あまり甘やかさないようにと言われているのだ。
「名雪よ、まぁ何だ……俺も舞と佐祐理さんとの待ち合わせがあるからさ……頑張って自力で起きてくれ」
「うーっ」
名雪が懇願する様な表情で俺を見つめてくるが、此処は無視を決め込むしかない。
この視線に負けたら、ずるずると名雪を起こし続けなければならなくなる。
俺は逃げるように視線を隣の佐祐理さんへ向ける。
いいんですか?――俺に向けられている佐祐理さんの目がそう言っている気がした。
いいんですよ――そう目で合図を送ると、視線を前方を進む舞の後ろ姿へと向けた。
「うーっ」
名雪の唸り声はその後も、香里にたしめられるまで約数十秒間続いた。
透き通るような青空の下、俺達は賑やかに進む。
先頭の郁未先生は黙って歩いていたが、一度だけ彼女の呟き声が俺の耳に届いた。
だが「結局何も変わらないのね」――という、その呟きの意味が判るはずもなく、故にその次の瞬間には、先生が呟きを漏らしたという事すら忘れる事となった。
見上げた空は、どこまでも青く美しかった。
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