”チリ〜ン……”
 緩やかな風が清々しい音色を運んでくる。
 昨夜の雨が嘘のように思えるほど晴れ渡った空の下、俺達は一路学校へ向けて歩いている。
 普段は名雪と二人、あるいは舞と佐祐理さん達と通う道を、十三名もの大所帯で進む。
 先頭を郁未先生が進み、その後ろを舞、そして直ぐ後ろに俺と佐祐理さん、やや遅れて名雪と美坂姉妹と続き、すこし間を置いて住井、北川、南の三人がふざけ合いながら歩いている。
 更にその後ろには、七瀬と長森が談笑しながら歩く姿が見える。
 最後尾は折原で、どこで手に入れたのか判らない風鈴を手にぶら下げ、眠そうな顔をしながら歩いている。
 無論、奴の突拍子もない行動は今に始まったわけではないので、この程度では誰も気に掛ける事は無い。
 俺や七瀬等は、むしろ猫の首の鈴の様で、神出鬼没な折原には丁度良いのではないか? とさえ思って、敢えて何も言わないでいる。
”チリ〜ンリ〜ン……”
 折原が歩を進めるたびに、風鈴が奏でる涼しげな音が俺の耳に届く。








■第10話「五里霧中」








 道路の轍に昨夜の雨が水たまりとなって、その表面にのんびりと進む俺と佐祐理さんの姿が映っている。
 二年に進級してからというもの、舞や佐祐理さんは俺と登校する日が増えたが、照れているのか、未だに舞は俺の横を歩こうとはしない。
 そんな仕草も可愛く思えるが、その事を口にすれば容赦のないチョップが来るので俺も、佐祐理さんも黙って前で揺れる舞の後ろ髪を眺めている。
「わぁ〜、お姉ちゃん綺麗な空ですね」
「ふふ。本当ね」
 俺の後方からそんな会話が聞こえ、俺もつられて空を見上げる。
「おお〜っ」
 思わずそう声が漏れるほどの青い空が広がっている。
 雲は疎らで、快晴に近い。
「気持ちいいですねーっ」
 すぐ横合いから掛けられた声に、俺は視線を声の主――佐祐理さんへと向け短く「ああ」と笑顔で応じた。
 透き通るような青空の下、俺達はゆっくりと学校へと向かって歩いている。
 何となく、その道程は普段よりも長く感じられた。
「ふあぁ……」
 後方から風鈴の音色に交じって、大きなあくびをしているらしい折原の声が聞こえてきた。
 見れば最後尾で、目尻にこぼれた涙を手で拭っている姿が見て取れる。
「何だか、良い陽気だなぁ〜」
 穏やかな陽気に、溜まらず住井が背伸びをしながら呟いた。
「こうして歩いて学校に行けるって良いよね。ねぇ浩平〜?」
「全くだな」
 長森がふいに折原へと投げかけた言葉に、若干の皮肉が篭められていたのを感じた俺は、後ろを振り向いて力強く同意した。
 俺と長森が清々しさを感じているのは、何も陽気だけが要因ではない。
 こうしてのんびり歩いて登校している事自体が重要だったりする。
 皮肉が向けられた相手は、俺と長森のやり取りに「むっ」「うーっ」と唸り声を上げて反応を示している。
 そんな二人の態度に、皆が可笑しそうに――香里は微かに鼻で――笑っていた。
「折原と水瀬さんのどちらが遅いか? で毎朝賭が出来るもんな」
 そう言う住井こそが恐らくは元締めなのだろう。
 そんな賭博が行われていた事実も驚異だが、賭の対象になる当人達の生活態度こそ驚異とも言える。
「まったく、あんた達はいつも心臓によくない登校よね」
「そう言う七瀬だって結構遅刻ギリギリの日多いだろうが」 
「そ、そんな事無いわよっ!」
 折原の言葉にたじろぐ七瀬。
 確かにそう言われてみれば、七瀬も結構遅刻寸前の日が有る。
「あ、でも確かにそうかも。だって七瀬さんとよく一緒になるよ」
「え? あ、あたし別に瑞佳を待ってるわけじゃないわよ。うん。絶対に違うんだから」
 長森の言葉に妙に慌てて弁明する七瀬だが、どうも自爆っぽい。
 顔を赤らめて取り繕っている七瀬を見て、周囲の人間は含み笑いを浮かべている。
 当人達は気付いて居ない様だが、クラスの人間の中では七瀬が長森に友情以上の感情を抱いていると噂されており、そして七瀬の態度を見る度に、俺はその噂が事実である確信を深めて行く。
 それでも当の長森は、七瀬が狼狽している原因に気付いていない。
 変わらぬ表情で「そうなんだ。すごい偶然だね」と感心した様な表情で頷いてる。
 頑張れよ七瀬――決して報われる事は無いだろう恋路を思い、俺は心の中でそっと声援を送った。
「でもさ、付き合わされてる長森さんが一番可哀想だよね」
 南の言葉に香里と七瀬が「本当よね」「全くよ」と頷くが、どこまでもお人好しで、世話焼きな長森は――
「そ、そんな事ないよ。わたしが好きでやってる事だから」
 ――と言い、しかも照れながら「浩平ってわたしが居ないと駄目なんだもん」と続けた。
 殆どノロケにしか聞けない言葉を受けて、顔を真っ赤にた折原が長森の後頭部にチョップを入れた。
「痛いよ〜」
 そんな言葉とは裏腹に、長森の表情は実に楽しげだ。
 そしてその横を進む七瀬は、実に険しい表情で折原を睨め付けている。
 っく……頑張れよ七瀬――俺はもう一度エールを送った。
「わたしが遅刻しちゃうのは……最近、祐一が私を置いて先に行っちゃうからだよ」
 俺のすぐ後ろで名雪が頬を膨らませて抗議するが、それは幾ら何でも他力本願すぎるってものだ。
 確かに、引っ越してから暫くの間は、大量の目覚まし時計に囲まれつつも眠り続ける名雪を起こしていたが、何時までも俺に頼りっぱなしってのも問題あるだろう。
 事実秋子さんからも、あまり甘やかさないようにと言われているのだ。
「名雪よ、まぁ何だ……俺も舞と佐祐理さんとの待ち合わせがあるからさ……頑張って自力で起きてくれ」
「うーっ」
 名雪が懇願する様な表情で俺を見つめてくるが、此処は無視を決め込むしかない。
 この視線に負けたら、ずるずると名雪を起こし続けなければならなくなる。
 俺は逃げるように視線を隣の佐祐理さんへ向ける。
 いいんですか?――俺に向けられている佐祐理さんの目がそう言っている気がした。
 いいんですよ――そう目で合図を送ると、視線を前方を進む舞の後ろ姿へと向けた。
「うーっ」
 名雪の唸り声はその後も、香里にたしめられるまで約数十秒間続いた。
 透き通るような青空の下、俺達は賑やかに進む。
 先頭の郁未先生は黙って歩いていたが、一度だけ彼女の呟き声が俺の耳に届いた。
 だが「結局何も変わらないのね」――という、その呟きの意味が判るはずもなく、故にその次の瞬間には、先生が呟きを漏らしたという事すら忘れる事となった。
 見上げた空は、どこまでも青く美しかった。





§






 折原は集団の最後尾を、彼にしては珍しく何もせず黙ったまま大人しく歩いていた。
”チリ〜ンチリ〜ン……”
 手にぶら下げた風鈴を目の高さまで上げてみせると、揺れたそれは快い音色を奏でる。
 水瀬家を出てしばらく歩いた後、彼は道端のゴミ捨て場に有った風鈴を何気なく手にし、そのまま通学路を進んでいた。
「風流だねぇ〜……ん?」
 風鈴の音色に聞き入りながら目の前を歩く友人達の姿を見て、彼は一瞬不思議な気分になった。
「う〜ん……」
 その場で立ち止まり、たった今感じた違和感に考えを巡らせる。
「浩平どうしたの?」
 風鈴の音が聞こえなくなったことで不思議に思ったのか、長森が振り返りながら尋ねる。
「いや何でもない」
「そう?」
 短く笑顔で答えると長森は制服のケープの裾を靡かせながら向き直り、そのまま七瀬と並んで歩き始めた。
 しっかし、うちの女子の制服って変わったデザインだよな――そんな彼女達の後ろ姿を見て折原はぼんやりと思う。
 確かに可愛らしくはあるが、機能性と実用性から考えると相当に問題が有る制服だった。
(大体、スカートっていうかワンピースか? よくわかんねーけど、丈が短すぎるんだよな。あれじゃ簡単に中身が見えるっての)
 折原がついつい心配してしまう程、見た目を優先してデザインされたその制服は、女子にとってのバイタルパートを防御する力が余りにも脆弱過ぎた。
 ともすれば世の中の制服愛好家や痴漢にとっては最高のターゲットとされるわけで、そういった被害に遭う生徒も決して少なくなかったが、ある時期を境にして、そんな被害は減少の一途を辿っている。
 ある時期というのは、ずばり七瀬が転校してきた頃だ。
 隣駅から電車通学をしている彼女は、痴漢に遭う都度、不埒を働こうとした者を一人残らずボロ雑巾の様に叩きのめし、その無様な姿を世間に晒した。
 その無惨に、本校の制服を着た女子に痴漢を働く事が自殺行為だという認識を、痴漢コミュニティの間に広げる事と相成ったわけだ。
 なお、七瀬が痴漢に遭遇する確率が高いという事実は、彼女が黙っていれば十分に可愛い容姿をしている――つまり、客観的に見て十分「乙女」である事を証明しているのだが、生憎本人は全く気が付いていなかったりする。
 それはともかく――
「むぅ……」
 折原は再びじっと、前を歩く長森と七瀬の後ろ姿を見つめる。
 えんじ色をした服とその上に羽織る白いケープ、そして学年毎に異なる色をした大きなリボンのコントラストが、青空の下で華やかに映る。
(にしてもだ……夏服は暑苦しくて、冬服が寒々しいデザインってのも問題あるんじゃねーのか? あんなケープ一丁で寒さがしのげるとは思えないんだが……って、あれ?)
 そこまで考えて、折原は先程感じた違和感の正体に気が付いた。
 彼女達の後ろ姿と、自分の手にした風鈴を見比べてみる。
”チリ〜ン・チリーン”
 風に揺られて涼しげな音色を奏でる風鈴と冬服姿の後ろ姿。
 慌てて自分の身体を見つめ直す。
 見る間でもなく、長袖のワイシャツとセーターにブレザー姿だった。
 ふいに頭の中を不安が渦を巻き始める。
 何だこれは? ――それはごく普通の日常風景の中で、誰も気が付いていない綻び。
(何で……何でこんな陽気だっていうのに、オレも含めてみんな冬服の制服着てるんだ?)
 折原は咄嗟にその疑問を、他の者に問いただそうと口を開く。
「なぁ……」
 しかし、その直後に襲いかかった強烈な眠気に、折原が言葉を続ける事は叶わなかった。
「ふあぁぁぁぁ〜」
 大きな欠伸が彼の口から出かけた質問をかき消した。
 欠伸の影響で涙腺が緩み、目尻に涙が溢れてくる。
 手の甲で涙を拭うも、視界は幾分かぼやけたままだ。
「参ったな……ふわぁぁぁぁぁっ」
 涙を全て拭うよりも早く、新たな眠気が彼に襲いかかる。
 眠気を押さえられず、特大の欠伸をしていた折原の耳に、突然少女らしき声が聞こえてきた。
『今日は何もしないの?』
「ん?」
 ふと立ち止まって辺りを見回すが、特に声の主は見あたらない。
 新たに感じた疑問は、先に感じた違和感を彼の脳裏から綺麗さっぱり打ち消してしまった。
「あれ? うーん……おーい瑞佳何か言ったか?」
 目を擦りながら、前を進む長森に尋ねる。
「え、あたし? 何も言ってないよ?」
「そうか、オレに何かしてもらいたそうな……そんな声が聞こえたんだが」
「気のせいでしょ。”何もするな”とは頼むかもしれないけど”何かしろ”なんて絶対に誰も言わないわよ」
 七瀬のそんなはっきりとした答えに、隣の長森が苦笑している。
「そっか……それにしても、ふわぁ〜ぁ」
 歩きながら再び大欠伸をする折原を見て、長森は微笑ましそうな表情を、七瀬は呆れた様な表情をそれぞれ浮かべて視線を戻す。
 今だかつて感じた事が無い強烈な眠気に、折原は目眩を覚える。
 前を進む友人達に何かを訴えようと思っても、それを声に出す事すら出来なくなり、ふらふらとした足取りで歩みを進める。
 まるで泥酔者の様な姿勢となった折原は、目の前に横たわる水たまりを回避する事も出来ず、そのまま足を踏みれる。
 パシャッ――小さな水音を立てて折原の靴が水たまりに沈み込むと、彼の身体はまるで底なし沼に沈む様にずぶずぶと沈み込み始めた。
 既に意識を失いかけていた折原は、驚きの声も出せずにそのまま水たまりの中へと姿を消して行き、ぶくぶくぶく――と、吐き出す空気の泡を水面に残して、どう見積もっても深さ数センチしかない水たまりの中に完全に沈んでしまった。 
 明らかに異様な出来事だが、折原は集団の最後尾を歩いていた為、彼が消えた瞬間を見た者は誰も居なかった。
「ねぇ浩平……ってあれ?」
 折原の数歩前を七瀬と雑談しながら歩いていた長森が、折原に話を振ろうと振り向いたが、その時には既に彼の姿は完全に水たまりの中へと消えていた。
「あれ? 浩平が居なくなった……」
 長森の声にみんなが振り向くが、彼が突然姿を消すのは日常茶飯事である為、正直、皆あまり感心を持っていない。
「あれあれ? ねぇ七瀬さん、浩平知らない?」
 確かに先程までは直ぐ後ろを歩いていたはずの折原の姿が、突然見えなくなった事で長森だけが一人慌てている。
「また居なくなったの? どうせその辺りに隠れてまた何か企んでるんだから……いいから放っておきなさいよ」
 折原の行動にはうんざり気味な七瀬は、そうきっぱりと言い捨てる。
「そうね。たまには放し飼いにしておいた方が良いかも知れないわよ。せっかく鈴だって付いてるんだしね」
 間を置かずに七瀬の意見に同意する香里。
「あはは……わたしちょっと探して来るね」
 級友二人の容赦のない返答に苦笑いを浮かべると、長森は路地へと小走りに入っていった。
「はぁ〜。全くあんな奴の何処が良いんだか……」
 そんな後ろ姿を見て七瀬が溜息を付きながら呟いた。





§






 折原と長森を欠いた一団は、住宅が密集する細い路地の合間を歩いていた。
 少し高くなった日差しが路地裏に影を落としており、日向と影の部分とのコントラストを強いものにしている。
 一団の最後尾を一人で歩いていた七瀬が、小さな四つ辻に差し掛かった時―― ”チリ〜ン……”
 という、風鈴の音が聞こえてきた。
 すぐ前を歩く住井達には聞こえていないのか、彼等はそのまま何事も無かったかの様に四つ辻を素通りして行った。
「ん? 折原……瑞佳も居るの?」
 七瀬は思わず四つ辻の中心で足を止めて、路地の奥――両脇に民家が列ぶ小道の奥を見つめた。
 すると彼女達が歩いていた道の一つ向こう側の路地を、風鈴売りのリアカーが通過して行くのが見えた。
「今でもあるんだ……へー、珍しいわね。あ……」
 今の時代には存在自体が珍しいと思える風鈴売りだが、七瀬が驚きを感じたのはそれではなく、そのリアカーの後を追うように歩く一人の少女……いや、幼女の姿に対してだった。
 その幼女は、白いワンピースに同じく白い大きな帽子を深く被り、やはり白いソックスと靴を履いていた。
「あれ? あの子どこかで……」
 その姿は彼女の立つ位置からだと、路地を横切る一瞬しか見ることは出来なかったが、その一瞬の間にも彼女は不思議な感覚に戸惑った。

 七瀬が曖昧な記憶を思い出そうと躍起になっていると、更にもう一つ奥の路地を先程の風鈴売りが逆方向から通過してゆく。
「……」
 七瀬が呆然として再び通過して行く風鈴売りの姿を見ていると、路地の奥から差し込む日差しが急に強まった。。
 逆光に視界がぼやけ、風鈴売りのリアカーの姿が光の中に溶け込むように見えなくなったが、逆に耳に届く風鈴の音は大きくなり、七瀬には沢山の風鈴だけが空中を彷徨っている様に思えた。
 そして混濁しかけた意識の中、彼女の直ぐ背後から鳴り響く多数の風鈴の音が聞こえてきた。 「え? え?」
 七瀬が慌てて後ろを振り向くと、その景色はまるで鏡に映ったものの様に、今さっきまで見ていたものと同じ光景が広がっていた。
 路地の奥から差し込む溢れんばかりの光の中で――そのおぼろげな視界の中で、路地上の中空を沢山の風鈴が流れている。
「え……な、何? 何なの?」
 呟くと七瀬は思わず、進行方向を――友人達が歩いていたはずの道路を見るが、その方向もまた横の路地と同じ光景が広がっているだけで、友人達の姿は見えなかった。
 驚いた七瀬が四つ辻の中央で、ぐるりと身を回して四方を確かめるが、どの方向を見ても光に包まれた細い路地が続いているだけだ。
 見えるのは空中を流れる風鈴の群れだけ。
「ちょ、ちょっと……ねぇみんな〜っ何処? 折原〜っ住井〜っあんた達の仕業なの?」
 急に不安に駆られた七瀬は、叫び声を上げながら闇雲に走り始めた。
 何処までも続く細い路地を――鳴り響く風鈴の群れの下を駆け抜けて行く。
 しかし何処まで駆けても路地は風鈴の音色が満ちており、走れば走るほどその音は強く七瀬の聴覚を支配していった。
 やがて路地の奥の光が更に強いものへと変わって行くと、何時しか民家や壁の姿も光りの中へ溶けて行き、七瀬の視界に残ったものは、眩い光の中で辺り一面を漂う風鈴の群れだけになった。
 それはとても幻想的な光景だった。
(あぁ……)
 七瀬は眩しさに目を閉じる。
 やがて自分が地面に立っているのかどうかも判らぬ程、意識が混濁としていく。

 鳴り響く沢山の風鈴の音色に囲まれた七瀬の脳裏に、かつての自分が映る。
 剣道をしていた頃の七瀬留美。
 その姿は、七瀬自身から見ても、輝いて見える程楽しげだった。





§






 自分が自分を眺める、というのは何処かおかしな気分だった。
 あたしは目を閉じているはずだから、今見える光景は全て脳裏に浮かんだイメージ……記憶という事なのだろう。

 初めて竹刀を握って楽しげなあたし。
 防具の重さによろめき苦笑いの私あたし。
 初めての大会で、初戦敗退し悔し涙を流すあたし。
 練習に次ぐ練習、血豆を潰し痛みに歪んだ顔のあたし。
 練習試合で、男の子に勝って得意げなあたし。
 初めて公式戦で勝利して喜ぶあたし。
 昇級試験に合格して師範から頭を撫でられ照れるあたし。
 その試験会場で出会った先輩に惹かれて頬を染めるあたし。
 その憧れの先輩を追う様に同じ中学に入学し喜ぶあたし。
 中学生になって、新しい竹刀と防具にはしゃぐあたし。
 一年生でレギュラーに選ばれ誇らしげな顔のあたし。
 個人戦で準優勝し、嬉しさと悔しさに涙するあたし。
 憧れの先輩の個人戦優勝を自分の事の様にはしゃぐあたし。
 二年生最後の大会の決勝で腰を痛め、悔しさに顔を崩すあたし。
 卒業してゆく先輩から、次期主将に任命され戸惑うあたし。
 そして自分が率いたチームが、大会で団体優勝を果たし感涙に咽せるあたし。
 ……全てが過去に実在したあたし。
(あたしは……あたしの夢は……)
 七瀬は思う。
(強くて綺麗だった先輩……あたしは、貴方のようになりたかった)
 彼女の脳裏に、袴姿で凛とした表情の先輩の姿が浮かぶ。
(でも、貴女は……あたしに剣道を捨てて生きろと言った。これからは面を被るな、髪を伸ばしてリボンを付け、女の子らしく生きなさい。そこに女の子としての幸せがあると。……だからあたしは貴方の言う通りにリボンを付けた)
 その時、先輩から貰ったリボンは今でも大切に使っている。
(でも……女の子としての幸せって何? 好きな男の子と付き合う事?)
 その答えは今もなお判らない。
 幼少の頃から中学三年生まで続けた剣道。
 自分が強くなる感覚が好きで、剣道を生き甲斐と感じるほどに、ひたむきに打ち込んだ。
 女だてらにがむしゃらに頑張り、そんな努力の甲斐もあって随分と強くなった。
 その分”女らしさ”とは疎遠になって行くが、剣道こそ全てだったあたしには、それも些細な事に思えていた。
 しかし身体を痛め、生き甲斐と目標を失った。
 生き甲斐とは剣道であり、目標たる先輩には、剣道を続ける事でしか近付く事が出来ない。
(でも違った)
 あたしは先輩の様になりたいのではなく、彼女自身を欲していたんだ。
 そんな自分の事にはっきりと気付いたのは何時だろう。
 女らしさが足りないから、妙な気持ちになるんだと、自分に言い聞かせて、闇雲に女らしさを追求する様になった。
 乙女になって、素敵な男の人に出会うんだから……そう決めたのは高校生になった時だ。
(でもやっぱり駄目だった)
 新たな気持ちで臨んだ高校生活。慣れない女の子らしい仕草が直ぐに出来るわけもなく、また周囲には魅力を覚える男子も特に居なかった。
 しかも学区が中学と変わらないから、以前のあたしを知る者も多く、あたしの豹変はよく物笑いの種にされた。
 その都度暴れたり追いかけ回すから、結局女らしさも身に付かず、あたしの目指す私の理想の女の子からは遠のいて行き、新たな目標は直ぐに頓挫した。
 二年生になって直ぐの転校は、そんなあたしにとって機運だった。
 あたしは今までのイメージからの脱却を計るべく、転校までの間に綿密な計画を立て、脳内で様々なシミュレーションを実施し、リアルシャドーまで実行し、その甲斐あって新たな自分へと生まれ変わる予定だった。
 しかしそんな努力も、転校初日に出会った二人によって、敢えなく水泡に帰する事になった。
 初登校のその日、学校の目の前の交差点で折原と衝突し、その際彼に肘鉄を食らわされたのだ。
 そしてその瞬間、七瀬の怒りはあっという間に頂点に達し、隠しておきたかった粗暴な面を露わにしてしまったのだ。
 以後、折原には何かとつきまとわれ、何とか乙女としての体裁を取り繕うあたしを邪魔されてきた。
 そしてより致命的だったのは、初対面のその時に折原と一緒にいた少女に介抱された事だった。
 その少女――長森はまさにあたしが思い描く理想の女性像そのものだった。
 しかし彼女の心の中心には、幼なじみの男子の事で一杯だった。
(どうして? ねぇどうしてなの瑞佳。何で貴女はあの男と……)
 その先は言ってはいけない。
 言えば元には戻れなくなる。
 ならば仲の良い友達として居た方が良いに決まっている。
(でも……)
 本当にそれで良いのだろうか?
(あたしが学園祭の準備を手伝いに来ているのはね……瑞佳、貴女が居るからなのよ。貴女があの折原と一緒に居るから……)
 おぼろげだが、以前に自分のそんな気持ちを、それとなく長森に語ったことがあった。
 あたしの脳裏に、手を繋いで微笑み会う自分と長森の姿が浮かぶ。

 自分勝手な都合の良いイメージ。
 決してあり得ない光景。

『これがあなたの夢なの?』

 どこからか、そんな声が聞こえた。
 急激に光りが弱まり、風鈴の音も聞こえなくなっていく。
 と同時に脳裏に浮かんだ過去の記憶と、想い描いたあり得ない未来のイメージもまた消えていった。

 そして、ふと気が付いたとき、視界が戻ると見慣れた風景が目に映った。
「え? あ、あれ? ここって……学校?」
 驚き慌てて辺りを見ると、そこは学校の裏門の前だった。
”チリ〜ンチリ〜ン”
 耳に届く涼しげな音。
 ふと自分の手を見てみると、先程まで折原が持っていたはずの風鈴がぶら下がっている。
「え?」
 驚き、腕を上げて風鈴を目の前にぶら下げてみると、緩やかな風が目の前の風鈴を揺らし快い音を奏でる。
 その音色を聞き、あたしは狐につままれた様な表情で周囲を見回すと、やがて足の力が抜けたようにその場にへなへなと座り込んだ。
「何なのよ〜、もうっ! やっぱり折原の所為よねっ! そうに決まってるわ!」
 大声で折原を罵りつつ、道路にへたり込んで天を仰ぎ叫んだ。
 空は相変わらず青く、暖かな日差しがあたしを照らしていた。





§






 学園祭初日を控えた騒々しい学校内にあって、その教室だけは何も音を発するものが無い。
 見れば、教室の黒板に「ボイコット貫徹!」と大きな文字が書かれている。
 何らかの理由で、学園祭への不参加を決め込んだクラスなのだろう。
 無論、教室は無人であり、模擬店や催し物の準備もされておらず、机や椅子が普段と変わらぬ状態のままだ。
 しかしよく見れば、誰もいないはずの教室、その開け放たれた窓枠に、一人の幼女が腰を下ろしている。
 白い帽子を深々とかぶり、足をゆっくりとバタつかせながら、外の様子を眺めていた。
”チリ〜ン……”
 窓から入る風が、外から風鈴の音色を運んでくると共に、彼女のワンピースを靡かせる。

 そして次の瞬間、窓辺に彼女の姿は無くなり、教室は完全な無人となった。

 無人の教室の窓辺に、カーテンだけが風に靡いていた。






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