良く晴れた空の下、公園のベンチに赤ん坊を抱いた女性が座っている。
私はこの女性が誰か知っている。
だから躊躇わずに声を掛けた。
「ここ座って良いですか?」
「ええ、どうぞ」
ベンチに座った女性が笑顔で答える。
「可愛い赤ちゃんですね」
隣に腰を下ろした私が尋ねると、女性は抱いた赤ん坊をあやしながら「ええ、女の子なんですよ」と答えてくれた。
その顔はとても優しい笑顔だ。
「あの……その子の名前は何て言うんですか?」
「”いくみ”って言います」
最初から判っていた答え。
だから私もそのまま続けて言う。
「良い名前ですね。多分いくみちゃんも、大きくなったら自分の名前、凄く気に入ると思いますよ」
「ありがとう。でもね……」
そこで女性は初めて表情を少し曇らせた。
「この子は大切に育てたいと思うんです。私が愛情に恵まれなかった分、この子には母親として愛情を与えてやりたいんです」
「……」
私は黙って女性が言葉を続けるのを待った。
「だけどいつまでも甘えていては駄目。大きくなったら自分一人の力で生きて行けるような強さを持って欲しい。……ふふっ、出来るかしらね、この子に?」
そう言いながら、女性は腕の中で眠る子に笑い掛ける。
「きっと出来ますよ」
だって……その子は私だもの。
私は自分と同じくらいの年齢のお母さんにそう言うと、ベンチから立ち上がり「さようなら」と、挨拶をする。
「はい。さようなら」
そんな私を、自分の娘だと気付かずに、お母さんは笑顔で答える。
辺りの光景が少しずつ薄れて行く。
お母さんの姿も、薄れ行く景色に溶け込んで行く。
私は最後まで、私を抱きながら微笑むお母さんの顔を見つめていた。
さようなら……お母さん。
私は大丈夫だから。
強くなれたから。
ありがとう。
『そう……これがお姉さんの夢なの?』
どこか遠くで、そんな声が聞こえた様な気がした。
そして世界は眩い光に包まれた。
■第9話「一念発起」
久しぶりに自分のベッドで迎える朝は、実に気分が良い……はずなのだが、はっきり言って気怠くて仕方がない。
「何だか、頭が痛ぇ……」
どうにも記憶があやふやなのだが、俺は久しぶりに自室のベッドで寝ていたわけだ。
たしか昨夜は、リビングで無理矢理ジャムを食わされ、そして意識を失ったんだ。
うん。此処までは恐らく間違いないだろう。
「ならば」
今現在、俺が自分のベッドに居るという事は、誰かが俺をここまで運んだ事になるわけだ。
そう思ってふと首を動かすと、目の前に舞の寝顔が!
「うおっ!」
(何だか以前にも似たような事が有ったような……)
デジャヴな感覚に戸惑いながら反対を振り向くと、そこには佐祐理さんの安らかな寝顔がある。
「やはり……」
俺が今時分の置かれている状況を整理して、どう行動するかを考え始めた時、突然ドアが勢い良く開いた。
「祐一起きなさいよーっ! 夕べはよくも真琴をだましてくれたわねっ!」
そんな大声と共に部屋に入ってきたのは真琴だ。
「こら真琴、ノックしろっていつも言っているだろっ!」
「ああ〜っ! 祐一、佐祐理と舞に何してるのよっ!」
真琴は俺の文句は全く聞かずに、部屋の中の状況を見て更に大声を上げる。
「こ、これは不可抗力だ!」
「何言ってるのよっ! スケベ、変態! 佐祐理達に変な事したら承知しないんだからねっ!」
「あのな、俺は今の今まで気を失ってたんだぞ! そんな俺に何が出来る?!」
流石に此処まで言われる筋合いはない。
「ふぁ〜。お早うございます」
「……祐一、朝からうるさい」
俺と真琴の怒鳴り合いに、流石に二人が目を覚ます。
「あ、佐祐理〜祐一に変な事されてない?」
佐祐理さんが起きた事を知って、真琴が俺を押しのける様にして彼女に飛びつく。
「はぇ? 真琴さんどうしたんですか?」
寝起きで状況が飲み込めていないのか、佐祐理さんは少し惚けた様子で、自分に抱きついている真琴の頭を撫でている。
「そういえば真琴、さっきお前『私をだました』とか言ってなかったか?」
「そうよ! 真琴がせっかく夜中に忍び込んでやろうと思ったのに、リビング行っても居なかったじゃないの!」
佐祐理さんの腕から離れると、真琴は俺に向き直りキッと睨み叫き立てる。
「……お前さ、自分で何言ってるか判ってるのか?」
「え?」
「つまり、お前は俺に悪戯しようとして来たが、俺が居なくて途方に暮れたという事だろ?」
「あ、あぅー」
俺の追求に、真琴は言葉を詰まらせる。
首を竦めて上目使いでおどおどと俺を見る姿は可愛らしくもあるが、気を許すと何をしでかすか判らないから始末に負えない。
「さて、それじゃ佐祐理は朝ご飯作るの手伝ってきますね」
そう言って出て行く佐祐理さんを、真琴がナイスタイミングとばかりに「真琴も手伝う」と言いながら追っていった。
「やれやれ……」
俺と舞の二人だけになると部屋は急に静かになる。
元々舞は極端に無口だから、俺達、つまり三人で居る時に聞こえる声は、俺と佐祐理さんの物がほとんどだ。
「……あいつも黙っていたら可愛いのにな」
走り出ていった真琴の後ろ姿を見送り、少し溜め息を付いて視線を舞へと戻す。
(舞は……何時も黙っているからな、真琴と足して二で割れば丁度いいかもな)
舞は今の騒動にも動じずに、起きたままの姿勢――ベッドの上で上半身を起こしている――で、部屋の窓から空を見ていた。
大きめのYシャツを着ただけの格好はかなり刺激的だが、俺の視線はその格好よりも長い黒髪に釘付けになった。
舞の長い髪は、窓から差し込む朝日を受けて輝いている。
それは今すぐにそれを手にとってみたくなる程の美しさだ。
(あ……)
自分が柄にもなく照れているのが判る。
「……なぁ舞?」
「……?」
俺の呼びかけに首を傾げる舞……その仕草がとっても愛おしく思い、口ごもりながらその先を続けた。
「か、髪……触ってもいいか?」
「……」
頷きもせず、黙って舞は自分の髪の毛を一房掴むと、俺に差し出した。
「お、良いのか?」
俺が差し出された髪を手に置いて、そのまま砂を零すように手を傾けると、髪の毛はサラッと手の平を滑り落ちて行く。
実に綺麗な髪だ。
もう一度一房を手の平に載せ優しく撫でる。
「祐一が触りたければ、何時でも好きな時に触れば良い」
「え?」
そんな舞の言葉に顔を上げた俺の目に、舞の笑顔が映る。
「……」
それは一瞬の出来事だった。気が付けば、舞はいつもの様な無表情だった。
「なぁ舞?」
今笑ったろ?――俺はその言葉を飲み込んで、別の質問を口にした。
「……夕べ気を失った俺を此処まで誰が運んだんだ?」
「私が運んだ」
「舞が? 重くなかったか?」
「別に……」
「そっか」
「……」
俺は暫く舞の髪の毛を弄びながら、舞と出会ったのは時の事と、記憶の空白部分について思いを巡らせていた。
舞と出会ったのは今から九年前であるから、当時の俺達は小学校の低学年だった。
長期休暇の度にこの地を訪れていた俺は、その時偶々足を運んだ麦畑で一人の少女と出会った。
その少女は不思議な雰囲気を醸し出しており、初めて会った俺のことを”待っていた”と言った。
それは正に運命的な出会いだったんだと、今にしてみれば思う。
当時の俺にとっては、旅先で出会った同い年位の友達という程度の認識だったが、彼女にとっては全く違う意味を持っていた。
自分の持つ奇妙な力に苛まれていた少女は、その力に導かれ、自分を受け入れてくれる者との邂逅の刻を待っていたのだ。
それから数年間、俺がこの街へ来る度に、俺達はその麦畑で出会って、遊び、語らい、共に過ごした。
そしていつも帰郷する前日に、俺達はまたこの麦畑で会う事を約束して別れた。
故に俺達にとって、その麦畑こそが”約束の地”であり、六年前の冬に、一方的に破棄されるまで、その約束は守り続けられていた。
やがて時代が移り、今その地は俺達が通う学校へと姿を変えた。
故に俺達が再会した場所が学校なのは至極当然と言える。
再会するまでの六年間、少女が執拗に守った約束とは、その地を、我等の約束の地を”魔物”から守る事だった。
無論そんなモノは、物理的に存在しない。
魔物とは比喩であり、俺達の間を裂くあらゆる因果――俺が休みの間にしか居られないこと、俺達が子供であること等――の事である。
だが存在しないはずの魔物を居るものと信じ込んだ舞にとって、その魔物は確実に彼女の心の中に存在する様になった。
やがて舞の生まれ持った力によって、その魔物は心の中だけでなく現実に存在する様になる。
生まれた魔物とは舞そのものであり、自分の中にあった忌むべき”力”そのものだった。
自分の持つ力を受け入れられない舞にとって、それは忌むべき存在であり、約束の地を脅かす敵に他ならない。
俺との約束を守ろうと孤独な闘いを始めても、俺はこの地へ戻ることは無かった。
そんな孤独な戦いの日々の中で、何時しか本来の目的であった約束の意味は薄れて行き、魔物との戦いそのものが彼女にとってのライフワークとなってしまった。
最後に俺と別れてからその後六年間に渡って、舞は意味も内容も薄れてしまった俺との約束を守り続けたんだ。
無責任なガキのどうしようもない約束に縛られ、友人を失い、家族の温かみも、多くの者が歩む普通の生活を失い、そして笑顔までも失ってもなお待ち続けていた。
俺が六年ぶりにこの街を訪れ、舞と再会し数々の出来事を経てやっと約束は成就された。
その結果、呪縛は解けて舞は自らの力を受け入れる事が出来た。
だから今度は俺が舞との約束を守る番だ。
俺は全身全霊を掛けて、舞がこの六年間の間に失ったもの取り戻させてみせる。
友達も、家族(に等しい存在)も、そして笑顔も取り戻し、例えどのような事が起きようとも、俺は舞を幸せにしてみせる。
「……なに祐一?」
ぼんやりと顔を見られていた事が気恥ずかしいのか、舞はすこしだけ顔を赤くして俺に尋ねる。
「いや、舞は昔と変わらないな……って」
「……そんな事ない」
俯く舞を、俺は無意識の内に抱き寄せていた。
「祐一?」
舞の声が聞こえる。
いつもなら照れ隠しのチョップが来るはずだが、俺の雰囲気が普段と異なる事を感じ取っているのだろう。
舞は俺の腕の中で黙ったまま身を任せている。
そう、全ては終わったはずなんだ。
(何で……何故俺はこんなに不安なんだ?)
まるで手を離したら、次の瞬間には舞が消えて無くなるような感覚。
多分それは、俺の失われた記憶が原因なんだろう。
そう、俺はまだ何か重要な事を思い出していない。
舞との出会い……それも確かに重要な事だ。
しかし舞との出会いが、俺をこの街から遠ざけた原因では断じて無い。
他に何か原因があるはずだ。
では何があった?
俺が何かをしたのか?
何かをされたのか?
何かを見たのか?
心の中を不安が渦を巻いて行く。
「……あの海 何処までも 青かった 遠くまで♪」
俺の腕に抱かれたまま、舞が歌を口ずさむ。
「舞?」
「……昔、よくお母さんに唄ってもらった。心が落ち着く」
「続けてくれ」
「……。あの道 何処までも 続いてる♪」
頷くと舞は再び静かに歌い始めた。
どこか懐かしい歌に、俺の心に広がっていた不安が、小さくなっていく。
「……俺は、舞を幸せにしてみせるからな」
俺の小さく呟きながら、不安を吹き飛ばすかのように、舞の存在を確かめるように、舞を抱く腕の力を少し強くした。
「祐一……苦しい」
しばらく舞を抱きしめていると、そんな声が聞こえてきた。
直ぐに開放してやると、照れながら舞は俺にチョップを入れるが、その力はとても手加減されたものだった。
「さてと……う〜んっ」
舞の歌で気を落ち着かせた俺はベッドから起きあがり、部屋の中央に立つと背伸びをする。
窓から差し込む日差しに眼を細め、部屋の中を見回す。
(うーん……いつもの朝と比べて、何か足りないな気がするんだよな)
”コンコン”
ノックがされ俺の思考は中断された。
「はい? 開いてるぞ」
「あ、お早うございます。あの祐一さ〜ん……助けて下さい〜」
ドアを開けて入ってきたのは栞だが、その顔は何処か疲れている様に見える。
「どうした?」
「名雪さんが……」
「ん? 名雪がどうかしたのか?」
「起きないんです!」
「ああ、そりゃそうだろうな」
「今お姉ちゃんが頑張ってるんですけど……」
「ああ、判った今着替えたら直ぐに行くよ」
「お願いします〜」
そう言って栞は出て行った。
「さて、それじゃ舞、俺が先に着替えるから」
そう言うと、舞は「判った」と短く答えて廊下へと出て行った。
(う〜ん、やっぱり何か忘れてる……って言うか、何か足りないような気がする)
漠然とした疑問を反芻しながら、俺は制服へと着替えると、廊下へと出て行った。
「舞〜、祐一さ〜ん、もうすぐ朝ご飯出来ますよー。あ、栞さんお早うございます」
廊下に出ると、丁度佐祐理さんが階段を上がってくるところだった。
「どうも、佐祐理さんおはようございます」
栞は佐祐理さんの挨拶に、行儀良くお辞儀をして返事を返す。
「あ、俺は名雪を起こしてから行きますんで、舞と一緒に着替えちゃって下さい」
佐祐理さんに答えると、二人は頷き俺の部屋へと入っていった。
「さて、栞行くぞ」
「はい」
「おーい名雪! 俺だ、入るぞ」
一応ノックをして断りを入れてから、俺はノブを回した。
「相沢君?」
名雪の部屋の中、疲れた表情の香里がベッドの脇にへたり込んでいる。
この部屋の主である名雪は、そんな香里とは逆に安らかな顔で気持ちよさそうに寝息を立てている。
「ふぅ……香里どいてくれ」
俺は小さく溜め息を付くと、香里に場所を譲ってもらいベッドの上の布団を思い切り引き剥がす。
「なーゆーきーおーきーろーっ!」
両肩を両手でもって掴み、前後左右に”ガックンガックン”と文字通り揺らす。
「地震だおーっ」
「それはもう良い。たまには俺の期待を裏切って見せて、一発で起きてみせろっ!」
耳元で叫びながら揺らす力を更に強めるが、「だおーっ」と言うばかりで全く目を覚ます気配がない。
「相変わらず名雪さんすごいですね」
「流石に学校に居る時より手強いわね」
名雪にとって、自分のベッドは地形効果抜群(防御力・攻撃力共に+50%の修正)のホームグラウンドだ。
そう簡単には起きないだろう。
「はぁ、仕方がない。名雪、クイズだ」
「判ったおー」
「第一問。俺の名前と、お前との続柄はなんだ?」
「相沢祐一だおー。わたしの従兄弟なんだおー」
「それじゃ、第二問だ。俺が引っ越してきた時、待ち合わせした場所は?」
「うー、駅前だおー」
「オーケー。次は第三問だ。その時の待ち合わせ時間は何時だった?」
「午後一時だおー」
「おい! 知っててわざと遅刻しやがったのかよ」
引っ越してきた時の事――極寒の中で二時間も名雪を待った事――を思い出して頭にきた俺は、名雪の頭の両脇にげんこつを当てて思い切り力を入れる。
俗に言う「うめぼし」だ。
当然小刻みにひねりを加える事も忘れない。
「わっ! 痛いよー!」
「朝は”お早う”だぞ名雪」
「酷いよ祐一」
「何を言う、普通に起こして起きないお前が悪い。見ろ、香里なんてお前を起こすのに難儀してこの有様だぞ」
「酷いよー、祐一の朝ご飯はお母さんの謎ジャムだからね」
「名雪、あたしの事は無視?」
「朝食ならお前が寝ている間に、秋子さんと佐祐理さんがもう作ってくれた。それに、謎ジャムなら夕べ食ったから遠慮するぞ」
「うーっ、酷いよ〜」
「いいから、さっさと着替えて下に来いよ。香里と栞もな」
「うーっ」
「判ったわ」
「はい」
三人の返事を聞きながら、俺は回れ右して部屋の入り口へと向かう。
その時、俺は先程から感じていた違和感の正体が判った。
(そうか、今日は目覚ましの音が聞こえなかったんだ)
名雪の部屋には、目覚まし時計が十個以上もある。
朝になるとそれらが、けたたましい大合唱を奏でるわけだが、そんな騒音も今朝に限っては形を潜めていた。
部屋の中を進む俺の目に沢山の目覚まし時計が映るが、どういう訳かまるでそれらに興味が湧かない。
そればかりか、先程まで感じていた違和感すら、何のことか思い出せなくなっているのだ。
結局、そんな俺の疑問は声にもならず、部屋を出る頃には綺麗さっぱり意識の外へと追い出されていた。
廊下に出ると、階下より美味しそうな朝食の香りと、既に集まっている友人達の賑やかな声が聞こえてきた。
「さて……今日も張り切って行くか」
一人で呟くと俺は階段を下りていった。
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