良く晴れた空の下、公園のベンチに赤ん坊を抱いた女性が座っている。
 私はこの女性が誰か知っている。
 だから躊躇わずに声を掛けた。
「ここ座って良いですか?」
「ええ、どうぞ」
 ベンチに座った女性が笑顔で答える。
「可愛い赤ちゃんですね」
 隣に腰を下ろした私が尋ねると、女性は抱いた赤ん坊をあやしながら「ええ、女の子なんですよ」と答えてくれた。
 その顔はとても優しい笑顔だ。
「あの……その子の名前は何て言うんですか?」
「”いくみ”って言います」
 最初から判っていた答え。
 だから私もそのまま続けて言う。
「良い名前ですね。多分いくみちゃんも、大きくなったら自分の名前、凄く気に入ると思いますよ」
「ありがとう。でもね……」
 そこで女性は初めて表情を少し曇らせた。
「この子は大切に育てたいと思うんです。私が愛情に恵まれなかった分、この子には母親として愛情を与えてやりたいんです」
「……」
 私は黙って女性が言葉を続けるのを待った。
「だけどいつまでも甘えていては駄目。大きくなったら自分一人の力で生きて行けるような強さを持って欲しい。……ふふっ、出来るかしらね、この子に?」
 そう言いながら、女性は腕の中で眠る子に笑い掛ける。
「きっと出来ますよ」
 だって……その子は私だもの。
 私は自分と同じくらいの年齢のお母さんにそう言うと、ベンチから立ち上がり「さようなら」と、挨拶をする。
「はい。さようなら」
 そんな私を、自分の娘だと気付かずに、お母さんは笑顔で答える。

 辺りの光景が少しずつ薄れて行く。
 お母さんの姿も、薄れ行く景色に溶け込んで行く。
 私は最後まで、私を抱きながら微笑むお母さんの顔を見つめていた。
 さようなら……お母さん。
 私は大丈夫だから。
 強くなれたから。
 ありがとう。

『そう……これがお姉さんの夢なの?』

 どこか遠くで、そんな声が聞こえた様な気がした。
 そして世界は眩い光に包まれた。








■第9話「一念発起」








 久しぶりに自分のベッドで迎える朝は、実に気分が良い……はずなのだが、はっきり言って気怠くて仕方がない。
「何だか、頭が痛ぇ……」
 どうにも記憶があやふやなのだが、俺は久しぶりに自室のベッドで寝ていたわけだ。
 たしか昨夜は、リビングで無理矢理ジャムを食わされ、そして意識を失ったんだ。
 うん。此処までは恐らく間違いないだろう。
「ならば」
 今現在、俺が自分のベッドに居るという事は、誰かが俺をここまで運んだ事になるわけだ。
 そう思ってふと首を動かすと、目の前に舞の寝顔が!
「うおっ!」
(何だか以前にも似たような事が有ったような……)
 デジャヴな感覚に戸惑いながら反対を振り向くと、そこには佐祐理さんの安らかな寝顔がある。
「やはり……」
 俺が今時分の置かれている状況を整理して、どう行動するかを考え始めた時、突然ドアが勢い良く開いた。
「祐一起きなさいよーっ! 夕べはよくも真琴をだましてくれたわねっ!」
 そんな大声と共に部屋に入ってきたのは真琴だ。
「こら真琴、ノックしろっていつも言っているだろっ!」
「ああ〜っ! 祐一、佐祐理と舞に何してるのよっ!」
 真琴は俺の文句は全く聞かずに、部屋の中の状況を見て更に大声を上げる。
「こ、これは不可抗力だ!」
「何言ってるのよっ! スケベ、変態! 佐祐理達に変な事したら承知しないんだからねっ!」
「あのな、俺は今の今まで気を失ってたんだぞ! そんな俺に何が出来る?!」
 流石に此処まで言われる筋合いはない。
「ふぁ〜。お早うございます」
「……祐一、朝からうるさい」
 俺と真琴の怒鳴り合いに、流石に二人が目を覚ます。
「あ、佐祐理〜祐一に変な事されてない?」
 佐祐理さんが起きた事を知って、真琴が俺を押しのける様にして彼女に飛びつく。
「はぇ? 真琴さんどうしたんですか?」
 寝起きで状況が飲み込めていないのか、佐祐理さんは少し惚けた様子で、自分に抱きついている真琴の頭を撫でている。
「そういえば真琴、さっきお前『私をだました』とか言ってなかったか?」
「そうよ! 真琴がせっかく夜中に忍び込んでやろうと思ったのに、リビング行っても居なかったじゃないの!」
 佐祐理さんの腕から離れると、真琴は俺に向き直りキッと睨み叫き立てる。
「……お前さ、自分で何言ってるか判ってるのか?」
「え?」
「つまり、お前は俺に悪戯しようとして来たが、俺が居なくて途方に暮れたという事だろ?」
「あ、あぅー」
 俺の追求に、真琴は言葉を詰まらせる。
 首を竦めて上目使いでおどおどと俺を見る姿は可愛らしくもあるが、気を許すと何をしでかすか判らないから始末に負えない。
「さて、それじゃ佐祐理は朝ご飯作るの手伝ってきますね」
 そう言って出て行く佐祐理さんを、真琴がナイスタイミングとばかりに「真琴も手伝う」と言いながら追っていった。
「やれやれ……」

 俺と舞の二人だけになると部屋は急に静かになる。
 元々舞は極端に無口だから、俺達、つまり三人で居る時に聞こえる声は、俺と佐祐理さんの物がほとんどだ。
「……あいつも黙っていたら可愛いのにな」
 走り出ていった真琴の後ろ姿を見送り、少し溜め息を付いて視線を舞へと戻す。
(舞は……何時も黙っているからな、真琴と足して二で割れば丁度いいかもな)
 舞は今の騒動にも動じずに、起きたままの姿勢――ベッドの上で上半身を起こしている――で、部屋の窓から空を見ていた。
 大きめのYシャツを着ただけの格好はかなり刺激的だが、俺の視線はその格好よりも長い黒髪に釘付けになった。
 舞の長い髪は、窓から差し込む朝日を受けて輝いている。
 それは今すぐにそれを手にとってみたくなる程の美しさだ。
(あ……)
 自分が柄にもなく照れているのが判る。
「……なぁ舞?」
「……?」
 俺の呼びかけに首を傾げる舞……その仕草がとっても愛おしく思い、口ごもりながらその先を続けた。
「か、髪……触ってもいいか?」
「……」
 頷きもせず、黙って舞は自分の髪の毛を一房掴むと、俺に差し出した。
「お、良いのか?」
 俺が差し出された髪を手に置いて、そのまま砂を零すように手を傾けると、髪の毛はサラッと手の平を滑り落ちて行く。
 実に綺麗な髪だ。
 もう一度一房を手の平に載せ優しく撫でる。
「祐一が触りたければ、何時でも好きな時に触れば良い」
「え?」
 そんな舞の言葉に顔を上げた俺の目に、舞の笑顔が映る。
「……」
 それは一瞬の出来事だった。気が付けば、舞はいつもの様な無表情だった。
「なぁ舞?」
 今笑ったろ?――俺はその言葉を飲み込んで、別の質問を口にした。
「……夕べ気を失った俺を此処まで誰が運んだんだ?」
「私が運んだ」
「舞が? 重くなかったか?」
「別に……」
「そっか」
「……」
 俺は暫く舞の髪の毛を弄びながら、舞と出会ったのは時の事と、記憶の空白部分について思いを巡らせていた。


 舞と出会ったのは今から九年前であるから、当時の俺達は小学校の低学年だった。
 長期休暇の度にこの地を訪れていた俺は、その時偶々足を運んだ麦畑で一人の少女と出会った。
 その少女は不思議な雰囲気を醸し出しており、初めて会った俺のことを”待っていた”と言った。
 それは正に運命的な出会いだったんだと、今にしてみれば思う。
 当時の俺にとっては、旅先で出会った同い年位の友達という程度の認識だったが、彼女にとっては全く違う意味を持っていた。
 自分の持つ奇妙な力に苛まれていた少女は、その力に導かれ、自分を受け入れてくれる者との邂逅の刻を待っていたのだ。
 それから数年間、俺がこの街へ来る度に、俺達はその麦畑で出会って、遊び、語らい、共に過ごした。
 そしていつも帰郷する前日に、俺達はまたこの麦畑で会う事を約束して別れた。
 故に俺達にとって、その麦畑こそが”約束の地”であり、六年前の冬に、一方的に破棄されるまで、その約束は守り続けられていた。
 やがて時代が移り、今その地は俺達が通う学校へと姿を変えた。
 故に俺達が再会した場所が学校なのは至極当然と言える。
 再会するまでの六年間、少女が執拗に守った約束とは、その地を、我等の約束の地を”魔物”から守る事だった。
 無論そんなモノは、物理的に存在しない。
 魔物とは比喩であり、俺達の間を裂くあらゆる因果――俺が休みの間にしか居られないこと、俺達が子供であること等――の事である。
 だが存在しないはずの魔物を居るものと信じ込んだ舞にとって、その魔物は確実に彼女の心の中に存在する様になった。
 やがて舞の生まれ持った力によって、その魔物は心の中だけでなく現実に存在する様になる。
 生まれた魔物とは舞そのものであり、自分の中にあった忌むべき”力”そのものだった。
 自分の持つ力を受け入れられない舞にとって、それは忌むべき存在であり、約束の地を脅かす敵に他ならない。
 俺との約束を守ろうと孤独な闘いを始めても、俺はこの地へ戻ることは無かった。
 そんな孤独な戦いの日々の中で、何時しか本来の目的であった約束の意味は薄れて行き、魔物との戦いそのものが彼女にとってのライフワークとなってしまった。
 最後に俺と別れてからその後六年間に渡って、舞は意味も内容も薄れてしまった俺との約束を守り続けたんだ。
 無責任なガキのどうしようもない約束に縛られ、友人を失い、家族の温かみも、多くの者が歩む普通の生活を失い、そして笑顔までも失ってもなお待ち続けていた。
 俺が六年ぶりにこの街を訪れ、舞と再会し数々の出来事を経てやっと約束は成就された。
 その結果、呪縛は解けて舞は自らの力を受け入れる事が出来た。
 だから今度は俺が舞との約束を守る番だ。
 俺は全身全霊を掛けて、舞がこの六年間の間に失ったもの取り戻させてみせる。
 友達も、家族(に等しい存在)も、そして笑顔も取り戻し、例えどのような事が起きようとも、俺は舞を幸せにしてみせる。


「……なに祐一?」
 ぼんやりと顔を見られていた事が気恥ずかしいのか、舞はすこしだけ顔を赤くして俺に尋ねる。
「いや、舞は昔と変わらないな……って」
「……そんな事ない」
 俯く舞を、俺は無意識の内に抱き寄せていた。
「祐一?」
 舞の声が聞こえる。
 いつもなら照れ隠しのチョップが来るはずだが、俺の雰囲気が普段と異なる事を感じ取っているのだろう。
 舞は俺の腕の中で黙ったまま身を任せている。
 そう、全ては終わったはずなんだ。
(何で……何故俺はこんなに不安なんだ?)
 まるで手を離したら、次の瞬間には舞が消えて無くなるような感覚。
 多分それは、俺の失われた記憶が原因なんだろう。
 そう、俺はまだ何か重要な事を思い出していない。
 舞との出会い……それも確かに重要な事だ。
 しかし舞との出会いが、俺をこの街から遠ざけた原因では断じて無い。
 他に何か原因があるはずだ。
 では何があった?
 俺が何かをしたのか?
 何かをされたのか?
 何かを見たのか?
 心の中を不安が渦を巻いて行く。
「……あの海 何処までも 青かった 遠くまで♪」
 俺の腕に抱かれたまま、舞が歌を口ずさむ。
「舞?」
「……昔、よくお母さんに唄ってもらった。心が落ち着く」
「続けてくれ」
「……。あの道 何処までも 続いてる♪」
 頷くと舞は再び静かに歌い始めた。
 どこか懐かしい歌に、俺の心に広がっていた不安が、小さくなっていく。
「……俺は、舞を幸せにしてみせるからな」
 俺の小さく呟きながら、不安を吹き飛ばすかのように、舞の存在を確かめるように、舞を抱く腕の力を少し強くした。
「祐一……苦しい」
 しばらく舞を抱きしめていると、そんな声が聞こえてきた。
 直ぐに開放してやると、照れながら舞は俺にチョップを入れるが、その力はとても手加減されたものだった。
「さてと……う〜んっ」
 舞の歌で気を落ち着かせた俺はベッドから起きあがり、部屋の中央に立つと背伸びをする。
 窓から差し込む日差しに眼を細め、部屋の中を見回す。
(うーん……いつもの朝と比べて、何か足りないな気がするんだよな)
”コンコン”
 ノックがされ俺の思考は中断された。
「はい? 開いてるぞ」
「あ、お早うございます。あの祐一さ〜ん……助けて下さい〜」
 ドアを開けて入ってきたのは栞だが、その顔は何処か疲れている様に見える。
「どうした?」
「名雪さんが……」
「ん? 名雪がどうかしたのか?」
「起きないんです!」
「ああ、そりゃそうだろうな」
「今お姉ちゃんが頑張ってるんですけど……」
「ああ、判った今着替えたら直ぐに行くよ」
「お願いします〜」
そう言って栞は出て行った。
「さて、それじゃ舞、俺が先に着替えるから」
 そう言うと、舞は「判った」と短く答えて廊下へと出て行った。
(う〜ん、やっぱり何か忘れてる……って言うか、何か足りないような気がする)
 漠然とした疑問を反芻しながら、俺は制服へと着替えると、廊下へと出て行った。

「舞〜、祐一さ〜ん、もうすぐ朝ご飯出来ますよー。あ、栞さんお早うございます」
 廊下に出ると、丁度佐祐理さんが階段を上がってくるところだった。
「どうも、佐祐理さんおはようございます」
 栞は佐祐理さんの挨拶に、行儀良くお辞儀をして返事を返す。
「あ、俺は名雪を起こしてから行きますんで、舞と一緒に着替えちゃって下さい」
 佐祐理さんに答えると、二人は頷き俺の部屋へと入っていった。
「さて、栞行くぞ」
「はい」
「おーい名雪! 俺だ、入るぞ」
 一応ノックをして断りを入れてから、俺はノブを回した。
「相沢君?」
 名雪の部屋の中、疲れた表情の香里がベッドの脇にへたり込んでいる。
 この部屋の主である名雪は、そんな香里とは逆に安らかな顔で気持ちよさそうに寝息を立てている。
「ふぅ……香里どいてくれ」
 俺は小さく溜め息を付くと、香里に場所を譲ってもらいベッドの上の布団を思い切り引き剥がす。
「なーゆーきーおーきーろーっ!」
 両肩を両手でもって掴み、前後左右に”ガックンガックン”と文字通り揺らす。
「地震だおーっ」
「それはもう良い。たまには俺の期待を裏切って見せて、一発で起きてみせろっ!」
 耳元で叫びながら揺らす力を更に強めるが、「だおーっ」と言うばかりで全く目を覚ます気配がない。
「相変わらず名雪さんすごいですね」
「流石に学校に居る時より手強いわね」
 名雪にとって、自分のベッドは地形効果抜群(防御力・攻撃力共に+50%の修正)のホームグラウンドだ。
 そう簡単には起きないだろう。
「はぁ、仕方がない。名雪、クイズだ」
「判ったおー」
「第一問。俺の名前と、お前との続柄はなんだ?」
「相沢祐一だおー。わたしの従兄弟なんだおー」
「それじゃ、第二問だ。俺が引っ越してきた時、待ち合わせした場所は?」
「うー、駅前だおー」
「オーケー。次は第三問だ。その時の待ち合わせ時間は何時だった?」
「午後一時だおー」
「おい! 知っててわざと遅刻しやがったのかよ」
 引っ越してきた時の事――極寒の中で二時間も名雪を待った事――を思い出して頭にきた俺は、名雪の頭の両脇にげんこつを当てて思い切り力を入れる。
 俗に言う「うめぼし」だ。
 当然小刻みにひねりを加える事も忘れない。
「わっ! 痛いよー!」
「朝は”お早う”だぞ名雪」
「酷いよ祐一」
「何を言う、普通に起こして起きないお前が悪い。見ろ、香里なんてお前を起こすのに難儀してこの有様だぞ」
「酷いよー、祐一の朝ご飯はお母さんの謎ジャムだからね」
「名雪、あたしの事は無視?」
「朝食ならお前が寝ている間に、秋子さんと佐祐理さんがもう作ってくれた。それに、謎ジャムなら夕べ食ったから遠慮するぞ」
「うーっ、酷いよ〜」
「いいから、さっさと着替えて下に来いよ。香里と栞もな」
「うーっ」
「判ったわ」
「はい」
 三人の返事を聞きながら、俺は回れ右して部屋の入り口へと向かう。
 その時、俺は先程から感じていた違和感の正体が判った。
(そうか、今日は目覚ましの音が聞こえなかったんだ)
 名雪の部屋には、目覚まし時計が十個以上もある。
 朝になるとそれらが、けたたましい大合唱を奏でるわけだが、そんな騒音も今朝に限っては形を潜めていた。
 部屋の中を進む俺の目に沢山の目覚まし時計が映るが、どういう訳かまるでそれらに興味が湧かない。
 そればかりか、先程まで感じていた違和感すら、何のことか思い出せなくなっているのだ。
 結局、そんな俺の疑問は声にもならず、部屋を出る頃には綺麗さっぱり意識の外へと追い出されていた。

 廊下に出ると、階下より美味しそうな朝食の香りと、既に集まっている友人達の賑やかな声が聞こえてきた。
「さて……今日も張り切って行くか」
 一人で呟くと俺は階段を下りていった。





§






 いつもは四人で食べる水瀬家の朝食も、十五人もの大所帯となると流石にそれだけで大騒ぎだ。
 ダイニングにあるテーブルは六人掛けなので、椅子が全く足りなかった。
 仕方ないのでリビングのテーブルに加え、秋子さんの部屋からも机を持ってきて何とか、皆が食事をとれる分のスペースを確保したのだ。
 制服に着替えを済ませて(ああ、住井だけはユニフォームの軍服を着ているぞ)席に着くと、目の前に列ぶ沢山の料理に、皆が表情を綻ばせ、眼を輝かせている。
 ちなみに目の前に並ぶ朝食は秋子さんと佐祐理さんの手による物であるから、当然味は保証されている。
 ややあって折原と長森が最後に席に付き朝食となった。
『いただきまーす!』
 十五人の声が重なる。
 自宅に居るというに殆ど修学旅行の様な気分だ。
「隙有りっ!」
 俺が今朝の恨みを晴らすべく、向かいに座っている真琴の目の前の皿から肉まんを奪う。
 なお朝食としては不釣り合いな肉まんが食卓に存在するのは、当然秋子さんの真琴に対する配慮によるものだ。
「あーっ、真琴の肉まーん!」
 案の定、大声で抗議の声を上げるが無視して俺は奪った肉まんを頬張る。
「あーっ美味い。さすがは秋子さんの肉まんだっ!」
「酷いー、祐一の馬鹿ーっ!」
「……祐一、悪戯はよくない」
 俺の右隣に座っていた舞が、自分の皿から肉まんを真琴に差し出す。
「佐祐理のも上げますねー」
 左隣に座っていた佐祐理さんもまた、真琴に肉まんを差し出す。
「舞、佐祐理、有り難う〜♪」
 真琴が二人から貰った肉まんを大事そうに掴むと、笑顔でそれを食べる。
 俺と目が合うと「べーっ!」と舌を出してあかんべをする。
(ふっ……何だか、久しぶりだな)
 普段ならばこういった態度には、相応の態度で返す俺だが、今朝はどこか懐かしさの様なものが込み上げて、真琴の悪戯っぽい仕草も、どこか可愛げなものに思える。
「真琴、祐一に今度二人で仕返ししちゃおうね」
 未だ膨れ面の名雪が俺の方を見ながら、隣に座っている真琴に耳打ちする。
「うん、やるーっ! 祐一を懲らしめてやるんだからーっ!」
「よ〜し、頑張ろうねっ」
「はっ、来るなら来い! 所詮はまこぴーと名雪。お前等の悪戯程度、恐るに足りん」
 頷き合う二人に、苦笑しながら俺は言葉を返す。
「じゃあ折原君と住井君に、どんな手が良いか聞くからね」
「俺が悪かった。それだけは勘弁してくれ」
 俺は即答した。
 そんな事されたら、それこそ冗談では済まない。
「あっ、そうだね。浩平と護に仲間になってもらおーっと」
「真琴っ! 今度肉まん十個買ってやる!」
「私には?」
 イチゴジャムをパンに塗りたくりながら、少しむくれ顔で言う名雪。
「イチゴサンデー三杯で手を打ってくれ」
 俺が懇願すると、二人は互いに顔を見合って「どうしよっか?」と相談している。
 結局、俺の提案がそのまま受け入られ、手打ちとなった。
「それじゃ祐一楽しみにしてるよ」
 名雪はそう笑顔で言うと、たっぷりとイチゴジャムを塗ったトーストを頬張った。
「やっぱお母さんのイチゴジャムは最高だよ〜」
 そう言う名雪は今朝の事も忘れて、感激のあまり涙を流してる。
(確かに、ここ最近は大した物食ってなかったからな……手作り料理って言うだけでも感激ものだな)
 そう考えながら手前の皿にあった卵焼きを口に運ぶ。
「おっ、これは佐祐理さんの料理だな?」
「あ、判りますかー?」
「そりゃ勿論ですよ」
「……佐祐理の料理も久しぶり」
 無表情ながらもどこか嬉しそうな舞が呟く。
 ふと目線を移すと、リビングに増設したテーブルでは郁未先生他のメンバーが騒々しく食事をしている姿が見える。
「一人二切れずつだって言ってるだろっ! 数えてあるんだからなっ!」
「住井、セコイぞ」
「浩平〜、もっとお行儀良く食べなきゃだめだよ?」
「食後にアイス食べたいですー」
「栞、朝っぱらからそんな物食べないで」
「あ、折原! 人のみそ汁に箸突っ込まないでよっ!!」
「おっ、納豆とみそ汁を同時にぶっかけるとは、実に七瀬らしい豪快な朝飯だな」
「してないでしょ! 折原こそ何よそれ、気持ち悪い食べ方ね」
「ふっふっふ、馬鹿だなこれがうまいんだぞ。洗う食器も少なくて済むしな」
「これでビールが有れば最高なんだがな〜」
「……北川君?」
「じょ、冗談だよ美坂。いやホント」
「郁未先生、今朝は何だか機嫌がいいですね?」
「そ、そうかしら? 長森さんこそよく眠れたかしら?」
「あーっ! お姉ちゃん私のおみそ汁に七味入れないで下さい!」
「入れた方が美味しいわよ?」
「うぉ〜美味い! こんな朝飯食ったの初めてだよぉ〜っ!」
「オレもだーっ北川〜っ!」
 北川や南は少し大げさっぽいが、全員が久しぶりの手料理に感激している。
「ふふっ、こういう騒々しい朝食も悪くないわね」
 秋子さんが頬に手を当てながら微笑でいると、郁未先生がやって来た。
「秋子さん、お代わり下さい」
 郁未先生が秋子さんにお茶碗を差し出すその姿が、妙に楽しげな雰囲気に映る。
 それに言葉遣いも他人行儀さが薄れている様だ。
「はい、郁未さんどうぞ」
「どうも」
 秋子さんと郁未先生の会話が、昨夜に比べて幾分か柔らかく感じるのは気のせいではない。
「あれ? 秋子さん郁未先生の事名前で呼んでたっけ?」
 俺が疑問を口にすると、秋子さんは「良いのよ。ね? 郁未さん」と言って、悪戯っぽく微笑む。
「あ、あははは〜」
 照れ笑いの郁未先生。
「お母さん、何かあったの?」
「うふふ、別に何でもないわよ。ただ、名雪ももっとしっかりしないと、ね?」
「あ、秋子さん!」
 郁未先生が慌てているが、名雪は何の事だかさっぱり判っていないらしく、「え? え?」と秋子さんと、郁未先生を交互に見比べている。
「ねぇ祐一さん、何か有ったんでしょうか?」
「はて?」
 佐祐理さんと俺も少し悩むが、少しばつが悪そうにリビングへ戻って行く郁未先生を見て、それ以上の詮索はせずに食事に戻った。
「……納豆嫌いじゃない」
 舞は相変わらずマイペースだった。
「それはそうと早く学校に行って、仕事しなきゃ明日の学園祭初日に間に合わないぞ」
 住井の言葉に皆が嫌そうに頷く。
「ま、今日一日しか無いもんなぁ」
 南がお茶を啜りながら答える。
「そりゃそうと、教室は無事だろうな〜?」
 折原が思いだしたかのように呟く。
「まさか戦車ごと落っこちてたりしてないわよね」
 香里は教室の状況を思い出しながら、少しだけ頭の痛そうな顔をした。
「はぁ……浩平ってすぐあれの中に隠れるんだもん。何処かに隠しちゃおうかな」
 長森の戦車に対する懸念は、重さよりも折原の隠れ場所になっている事の様だ。
「ははっ、出来るもんならやって見ろ」
「何とかしないと、ありゃ重さで床が抜けてるかもしれないぜ?」
「北川さん済みません……佐祐理のした事は余計な事でしたか?」
「え?い、いや……」
「佐祐理を泣かせた…」
「やめろ舞、朝っぱらからポン刀振り回すなって。佐祐理さん済みません、今のは冗談ですから。北川も余計なこと言うなよ」
 場を取り繕っていると、俺の方を見て真琴が眼を輝かせている。
「ねぇ真琴も学校に行って、祐一や佐祐理達を手伝う!」
「来るな!」
 俺は即答した。
「何でよ! せっかく真琴が一肌剥こうと思っているのに!」
「脱ぐだろ? 何だよ剥くって……いいから、お前が来ると問題が増えるのが目に見える」
 俺がきっぱり答えると、真琴は佐祐理さんの方を向いて「あうーっ、佐祐理ーっ!」と助けを求める。
「あははーっ、またみんなで遊びにきますからー、ね? それに明日の学園祭には是非遊びに来て下さいね」
 少し困った顔で佐祐理さんが真琴をあやす。
「判ったーっ、佐祐理、舞も一緒に学園祭見て回ろうね」
「……ごめん。無理だと思う。模擬店の手伝いがあるから」
 舞がお茶をすすりながら静かに答える。
「え〜? それじゃ、真琴もお店手伝うーっ!」
「そりゃぁ良い! 真琴ちゃん是非お願いするよ」
「ちょっと、いくなら何でも生徒でもない人を使うのは問題あるんじゃないの?」
 やり取りを聞いていた七瀬が呆れ顔で住井に言う。
「大丈夫だって。それに真琴ちゃんも加われば、更に売り上げアップ間違いなしだぜ?」
 そうだろうか?
 この場にいる誰よりもコイツを知っている俺から言わせて貰えば、真琴に接客が勤まるとは思えない。
 容姿は……まぁ、ともかくとしても、中身は完全にお子さまだ。
「ちょっと住井君……今から衣装追加して作るの? 間に合わないわよ」
 香里も七瀬に続く。
 コスチュームの作成は香里と名雪が担当しているのだ。
「まぁまぁ、美坂さん頼むよ」
 住井がそう言いながら、香里の目の前で手を合わせて懇願している。
「止めておけって。真琴は前にウェイトレスのバイト一日でクビになった事があるんだぞ」
「あうーあの時は……」
 俺の暴露に真琴がしょんぼりしている。
「いや、衣装着て居てくれるだけで良いって。なぁ折原」
「ああ。真琴ちゃんさえ良ければな。ま、部外者云々はどうにでもなるだろ。いざとなったら柚木の変装って事にして、アイツに罪を擦り付ける」
 そんな住井と折原の言葉に、真琴はすっかりやる気になっている様だが、俺から見れば不安で仕方がない。
 そもそも折原や住井に事を任せて、ろくな結果で終わった事などないのだ。
 そこに、この爆弾娘も加えようと言うのだから、正気を疑いたくなる。
 更に柚木に罪を擦り付けるとか、どさくさに紛れて無茶言ってる。 
 言い忘れていたが、柚木詩子というのは俺達のクラスメート里村茜の親友であり、他校の生徒にも関わらず、暇を見つけては俺達のクラスに入り浸るとんでもない奴だ。
 究極のマイペース人間であり、俺達の間では『女折原』――もっとも本人達は、そう呼ばれるのを嫌がっているが――と呼ばれている。
 俺が知る限り、折原を言動でねじ伏せる事が出来る唯一の存在だ。

 大きな不安を感じながらも、俺は真琴の元気な姿を見ていると、何処か嬉しい気持ちになっていた。
「ははっ……まぁお祭りだし、いいか。やるなら真琴もがんばれよ」
「うん、真琴頑張るんだから! 任せてねっ」
 真琴は俺の言葉に嬉しそうに頷く。
「そう言えば、最近柚木さん俺達の学校に来なくなったな?」
 住井が思い出したように言う。
「そういやそうね。学園祭なんてちょっかいをかけて来るには最高なのにね?」
 七瀬も不思議そうな顔をして言う。
「里村さんが委員じゃないから来ないんじゃないの?」
 香里が食後のコーヒーを啜りながら言う。
「あの人がそんな事くらいで遠慮するかなぁ?」
 そう言う南の表情は少し苦々しい。
 彼は里村の前にある席に座っている為、よく柚木の起こす騒動に巻き込まれているのだ。
「そう毎度毎度来られても困るからな、オレとしては大助かりだ。ま、とにかく明日の学園祭初日に店が完成しなけりゃ何も始まらない……みんな頑張ろうぜ〜っ!」
 折原が食べ終わった茶碗をテーブルに置き、腕を突き上げて声も高らかに言う。
『おーっ!』
 佐祐理さん、住井、長森、真琴の四人が折原に続く。
「……おーっ」
 遅れて言う舞。
 俺はこんなやり取りにも、どこかデジャヴな感覚を覚えた。





§






「明日の初日……か」
 郁未はそう呟くと、残りのご飯を胃に流し込んだ。
(自分の作る料理も決して不味くないけど……やはり一人の食事は味気ないわね)
「ふぅ」
 少し溜息をついてリビングを見渡す。
(そうよね? お母さん、葉子さん、そして名も知れぬあの人……)
 郁未は心の中でそう語りかけ、口に出しては「よっし!」と気合いを入れ直した。






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