「ジリリリリン…ジリリリリン…」
夜の街に電話の音が鳴り響く。
「ジリリリリン…ジリリリリン…」
誰もいない街角の公衆電話のベルが無機質な音を奏でている。
「ジリリリリン…ジリリリリン…」
受話器を取る者が居るはずもなく、電話のベルは雨が降る音と共に夜の街の中に響き続ける。
「ジリリリリン…ジリリリリン…リン」
やがて事切れたかのようにその音が途切れると、街角にはただ雨の音だけが残った。
■第8話「鰥寡孤独」
『プルルルルル……』
「ふぅ」
諦めの溜息を小さくついてから、七瀬は外線ボタンを押す。
”ピッ”と音がして、外部への通信が遮断された。
「駄目。やっぱりあたしの家も出ないみたい……あ、お電話お借りしましたーっ」
水瀬家のリビングルームで電話を借りていた七瀬は、すぐ脇の椅子に腰掛けていた長森に結果を伝えると、眉を寄せて受話器を戻す。
尚、お礼の方はキッチンに居る秋子へと向けられたものだ。
長森の隣の席へ腰を下ろすと、風呂上がりでストレートになっている濡れた髪の毛を、タオルで拭きながらもう一度溜息を付いてから話し始めた。
「はぁ……前に学校から電話した時はちゃんと繋がったのに」
「ホント、どうしちゃったんだろうね? あ、七瀬さん、私が髪とかしてあげるよ」
家族との連絡が取れない事で心配そうな表情を浮かべた七瀬を気遣う様に、長森が普段にも増して柔らかな笑顔で話しかけた。
「うん、有り難う」
素直に頷いた七瀬は、椅子を長森に背を向けるように移動させる。
「じゃお願いね」
「うん。任せて。よっ……と」
長森にブラシをかけてもらっている間、七瀬は頬をほんのり朱に染めつつ気持ちよさげに目を閉じている。
「秋子さん、お風呂頂きました」
「どうもです」
風呂を上がったらしい美坂姉妹が、借り物のパジャマ姿で廊下からリビングへ姿を現す。
髪の長い香里の方は、タオルを髪に巻いた姿だ。
「はい。如何でした?」
丁度キッチンから出てきた秋子は、二人にそう尋ねながら紅茶の入ったカップを手渡した。
「良い湯加減でした。あ、有り難うございます」
「気持ちよかったですー。秋子さんどうも」
秋子への礼を述べた二人は、長森と七瀬の対面にそれぞれ腰を下ろした。
「ねぇ、留美どうだった?」
手渡されたカップを口に運びながら、香里が七瀬に尋ねる。
無論、その意味は自宅へ電話が繋がったか? という事だ。
「駄目だったわ。全くどうなってるのかしらね……あ、瑞佳有り難う」
七瀬は苦々しい表情で香里に結果を伝え、長森に対しては精一杯の笑顔で礼を述べた。
「どういたしまして。あ、香里のもやってあげようか?」
長森はにっこりと七瀬に微笑むと、今度は香里に向かってブラシを見せる。
「有り難う、よろしく頼むわ」
「あーっ、瑞佳さん、私のもお願いしますー」
香里が頷きながら巻いていたタオルを外していると、栞は疎外感を感じたのか、少し怒った様に頬を膨らませる。
「はいはい。待っててね栞ちゃん」
そう笑顔で言いながら香里の椅子の背後へ立つと、手にしたブラシで、香里の少しウェーブのかかった髪の毛を丁寧に梳き始めた。
鼻歌交じりで楽しそうに級友の髪の毛を整えている長森の姿を見て、秋子は笑顔で「瑞佳ちゃんは、本当に世話好きなのね」――と言い残して立ち上がり、そのままリビングから廊下へと出て行った。
そんな言葉を受け照れくさそうに――それでいて嬉しそうに香里の髪の毛を梳かす長森。
そしてそんな長森の顔をぼんやりと眺めていた七瀬もまたどこか楽しげだった。
「それにしても変ですね〜」
行儀悪く頬杖をつきながら紅茶を飲んでいた栞がそう呟くと、その疑問に姉の香里が「本当ね」――と応じた。
「私や留美さんの家はともかく、数十回線もある佐祐理さんの家まで誰も出ないなんて……」
自分の家に辿り着けなかった者達がそれぞれの家へと電話をしてみたのだが、その試みは栞の言葉が示すように全てが失敗に終わっていた。
「……まるで世界に私達しか居ないみたいですね」
栞の言葉が終わると同時に、七瀬と香里は目を伏せて溜め息を付く。
皆が黙ったリビングでは、ドラマと思わしいテレビ番組の音声だけが静かに流れていた。
「世界に居るのが私達だけ……か」
郁未は香里達の会話をただ黙って聞きながら、リビングの奥のソファーでテレビをぼんやり眺めていた。
ブラウン管の中では、毎度出向くたびに殺人事件に巻き込まれる中年の家政婦が、わざとらしい演技で驚きの声を上げている。
「うーん……やっぱり変よね」
郁未がリモコンを操作してチャンネルを順次切り替えて行くと、チャンネル数が少ない地方が故に、直ぐに一順してしまった。
ドラマ、バラエティ、ニュース……確かに色々な番組が放送されており、一見なんの問題も無い様に見えるが、世界の異変に気が付きつつある郁未の目には違和感が付きまとう。
そしてそれは、国営放送のニュース番組にあるべき時刻表示が無いところや、天気予報やニュースの中からは日にちや曜日などが何故か綺麗サッパリ抜け落ちている部分に現れている。
そして恐らくは殆ど全ての視聴者が、その事を気に掛けていないという事を、郁未は確信していた。
ブラウン管には、先程流れていたドラマの続き――家政婦がドアの隙間から殺人現場を目撃するシーンが映っていた。
その内容に郁未はデジャヴを感じたが、番組自体が元から毎回似たような話だった事を思いだして一人で苦笑いすると、結局テレビからは何の手がかりも得られない事を知ってリモコンで電源を切った。
「ふぅ」
「どうしたんですか先生、溜息なんて? はいどうぞ」
リモコンをテーブルの上に戻して溜息をついていると、向かいに腰を下ろした秋子がお茶を郁未の前に差し出した。
「あ、本当に申し訳有りません。こんな時分に大勢で押し掛けた上にお茶まで出していただき……」
「良いんですよ天沢先生。大勢の方が楽しいですから」
改めて丁寧に礼を述べる郁未を、秋子は手を挙げて制し笑顔で答える。
そんな笑顔に、郁未も精一杯の笑顔で返すと、受け取ったお茶を口に運ぶ。
「美味しいですね」
「有り難うございます」
二人の間にのんびりとした空気が流れる。
(……何か良いわね。こういうのんびりした時間って、何だかとっても懐かしいわ……何だろう……とっても)
郁未は身体全体で周りの穏やかな空気を感じようと目を閉じた。
つい先程までの緊張感や疲労感が癒されて行く感覚に、郁未は黙って身を漂わせる。
「お母さ〜ん、真琴が居ないよ〜?」
目を瞑っていた郁未の耳に、名雪の眠気を誘う、のんびりとした声が聞こえてきた。
「あらあら、きっと祐一さんの部屋じゃないかしら?」
「もぉ、お風呂真琴の番なのに……」
「それじゃ、名雪は先に入っちゃいなさい」
「うん。そうするね」
そう言うと、名雪はスリッパを鳴らしながら廊下へと出て行った。
「真琴ちゃん……でしたっけ? 何でも記憶障害者だと伺ってますが」
「ええ。祐一さんが越してきて直ぐに保護したんですけど……不憫ですよね。でも今では正直な話、あの子の記憶がこのまま戻らない事を望んでいるんです」
「それは?」
「すっかり家族の一員ですから……ふふっ、自分勝手ですね」
郁未はそんな秋子の笑顔を見て、家庭的な暖かみを思い出し、少しだけ羨ましい気持ちになった。
「家族……お母さん……か」
その呟きは本当に小さいものであったが、秋子の耳にはしっかりと届いていた。
|
§ |
リビングで暫くくつろいだ後、七瀬と長森が二階のあてがわれた部屋へ向かう為に階段を登っていると、階上から何やら騒がしげな音や笑い声が聞こえてくる。
二階の廊下には三つの扉がある。
奥からそれぞれ、”祐一の部屋””名雪の部屋””真琴の部屋”で、騒々しい音は一番奥の祐一の部屋から聞こえてくる。
「あははははーっ。コツは掴みましたーっ!」
「倉田先輩! 手加減して下さいっ!」
「浩平……勝負の世界は非情」
「もー何やってるのよーっ! 護、浩平、しっかりしなさいよーっ! 祐一に逃げられたじゃないの!」
「そんな事言ったって……あっ! 真琴ちゃん、突出し過ぎだって」
「馬鹿め所詮はまこぴー。喰らぇグラビトンサンダァァァッッ!」
「あうーーーーーーっ! 祐一の馬鹿ーっ!」
「128HIT……相沢、えげつない攻撃をするな」
「あ、真琴ちゃん死亡確認」
南や北川の声も聞こえるが、その内容から察するに何かしらゲームでもやっているような雰囲気だ。
「はぁ……高校生にもなって、みんな何やってるのかしらね」
「そう? 面白そうだよ」
七瀬と長森はそれぞれそう言いながら、ドアの表面を少し強めにノックした。
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§ |
”コンコン”
ノックの音に続いてドアの向こう側から「相沢〜? 開けるわよ」と言う七瀬の声が聞こえてきた。
「お〜開いてるぞ」
俺が答えると、ドアが開きパジャマ姿の七瀬と長森が入ってきた。
とは言え、はっきりいって定員オーバーに近い。
幾ら荷物が少ないとは言え、六畳間の俺の部屋には、既に先客――舞、佐祐理さん、真琴、折原、住井、北川、南、そして俺の計八人が居る。
そして部屋の壁際に置いてあるテレビには、一世代前のゲーム機が繋がっており、六人まで同時に遊べる格闘ゲームで三対三のバトルを行っていた。
ちなみに、たった今勝負がついた試合は、「俺、舞、佐祐理さんチーム」vs「真琴、折原、住井チーム」での対戦だった。
真琴はともかくとして折原や住井はそれなりのレベルではあるが、結果は俺達の圧勝だった。
何しろこっちには佐祐理さんが居るのだ。当然と言えば当然だろう。
「あんた達一体何してるの?」
ま、とにかくすし詰に近い状態でゲームをしていた俺達を見て七瀬が呆れている。
「よう七瀬、お前もやるか?」
折原が自分の握っていたコントロールパッドを差し出している横で、真琴が勢い良く立ち上がるといきなり俺目がけて突進してきた。
「もーっ! ムカつくーっ! 何で真琴の攻撃に当たらないのよーっ!」
ゲームで勝てなかった腹いせか、真琴が得意のパンチを俺に叩き込んでくる。
連続して放たれる拳が、俺の胸板に当たってポカポカポカポカ……と間抜けな音を立てる。
相変わらず全く痛くないが、鬱陶しいので腕を伸ばして真琴の頭を抑えてやると、リーチの差で真琴のパンチは全く俺に届かなくなり虚しく空を切り続ける。
「何すんのよーっ! 大人しく喰らいなさいよ祐一っ!」
逆ギレを始めたこの喧しい少女の名は沢渡真琴と言い、俺がこの街に越して来た頃に突如現れた謎の存在だ。
と言うのも、彼女自身が言うに記憶喪失者ということらしく、”沢渡真琴”という自身の名前以外の記憶が、すっかり抜け落ちているらしいのだ。
それだけならば、俺も「悲劇の少女」として扱ってやらんでも無いのだが、どうも俺に漠然とした恨みを感じているらしく、何かにつけて俺に悪戯をしたり、事あるごとに対抗意識をもって挑んでくるので、それなりの対応をとらせてもらっている。
第一恨みと言われても、お門違いも甚だしい。
何しろ真琴が姿を見せたのが俺が越して来て僅か二日後であり、その間恨みを買うような真似は何もしていない。
更に付け加えて、俺は六年もの間この街には来ていなかったのだから、当然俺と真琴の接点は無い。
恐らく真琴の人違いだとは思うが、その悪戯が大して実害を伴わないものばかりなので、最近では俺もあまり気に掛けていない。
当初こそ記憶喪失自体、本当かどうか疑わしく思った頃もあったが、現在ではもうそんな事どうでも良くなっている程に、この家に馴染んでいる。
人見知りが激しいのだが、俺や名雪が連れてくる友人達とは何度か会っている内に打ち解け、特に佐祐理さんや瑞佳にはよく懐いている。
それだけなら良かったのだが、困ったことに折原や住井とウマが合ったらしく、時々連んで悪戯や怪しい事をしでかす事があり、この時ばかりは真琴の悪戯も洒落では済まない事がある。
俺としては是非、真琴の背中にでも「混ぜるな危険!」とラベルを貼っておきたい。
「あっ……」
そんな真琴が、部屋に入ってきた七瀬を見て身を竦めると、ささっと佐祐理の影に隠れてしまう。
「そう言えば、ななぴーが家に来るのは初めてだったな。よっし、おい、まこぴー!」
「誰がななぴーよっ!」
「誰がまこぴーよっ!」
二人の声が綺麗に重なった。
七瀬はともかく、佐祐理さんのの影から顔だけだして吠える真琴の姿は実に滑稽だ。
「いいから来い! 挨拶は大切だって何度も言ってるだろ!」
「あうーっ」
俺が真琴の首根っこをひっ掴み、佐祐理さんの影から引っぱり出すと、七瀬に向かって無理矢理お辞儀をさせる。
「ええと、コイツは自称、沢渡真琴で、本名は殺村凶子だ」
「誰が殺村凶子よっ! 真琴には真琴って言う可愛い名前があるんだからっ!」
頭の悪そうな自己紹介(?)に少し呆れる七瀬。
「あ……え〜と、あたしは七瀬留美よ。よろしくね真琴」
にっこりと微笑む七瀬だが、真琴は「あうーっ」と言いながら、再び佐祐理の影に隠れてしまう。
「見ろ、真琴ちゃんが七瀬さんを見て怯えているぞ!」
「おおっ! やはり七瀬の乙女の皮を被った獣の血が真琴ちゃんを怯えさせているのかっ!?」
そんな事を言う住井と折原は実に楽しそうだ。
「あんたらねぇ……」
七瀬が額に青筋を立てながら、全身を振るわせている。
そんな様子に、真琴は更に怯え、佐祐理の身体に抱きついている。
「あははーっ、大丈夫ですよー真琴さん。七瀬さんはとっても義理堅い人ですから」
佐祐理さんが真琴の頭を撫でつつ優しい声を掛けて落ち着かせているが、七瀬への評価は何となく微妙な表現だった。
「あうーっ……佐祐理」
それでもがしっと佐祐理さんに抱きついたまま離れようとしない真琴。
人見知りが激しいわりに、一度気を許した相手は(秋子さんを除いて)皆一様にして呼び捨てだ。
更に気に入れば鬱陶しい程にまとわりつき、気に入らない事があれば遠慮なしに、そして手段を選ばずに攻撃して来る。
ストレートな性格というか、自由奔放、天真爛漫を絵に描いたような少女だ。
「真琴ちゃん、あのな……」
折原が真琴の耳元で何かを囁いている。
「うん……うん……へー……」
真琴は時々七瀬を見ながら、折原の言葉に頷いている。
その間も佐祐理は笑顔で、真琴の頭を撫でている。
「浩平? 真琴に何か変な事吹き込んでない?」
長森が心配げに折原に尋ねる。
「な、何を言う! オレはただ真実をありのままに伝えただけだぞ」
口ではそう言っているが、その態度はどうも狼狽え気味だし、コイツがまともな事を教えるはずがない。
折原が言い訳がましくそう言っている間に、真琴は佐祐理の後ろで立ち上がり、部屋の入り口で立ったままの七瀬の前に歩いて行くと――「へへへっ」と笑い掛けた。
「な、何? あ、あはは」
つられてぎこちない笑顔を返す七瀬。
「えーいっ!」
突然、そんなかけ声と共に、真琴のパンチが七瀬の鳩尾へ入る。
「ぐわっ!」
痛くない事で有名な真琴パンチだが、流石に無防備の、しかも女の子の胸元へ入った事でかなり痛そうだ。
七瀬はその場で蹲ってしまった。
「あーっ! 真琴ちゃん駄目だよ、女の子にそんな事しちゃ。七瀬さん大丈夫?」
慌てて横にいた長森が、七瀬の身体を労るようにさする。
「あうーっ、ご、ごめんなさい。女の子だったの? 本当に?」
真琴は蹲って苦しむ七瀬に驚いている。
「だってさっき浩平が、留美は『ああ見えてもアイツは男で有名な拳法家だ。七瀬地獄流拳法の師範代だから、きっと真琴ちゃんに新しい必殺技を伝授してくれるぜ? 取り敢えず胸を借りる気持ちでどーんと攻撃してみろ』……って。あうーっ、ごめんなさい」
折原……お前って相変わらずとんでもない奴だな。
「……ねぇ相沢」
苦しそうな顔で、指をチョイチョイと動かして、七瀬が俺を呼ぶ。
「なんだ七瀬?」
俺は立ち上がり揃って廊下に出ると、七瀬が両手を勢い良く俺の頭を挟むようにして、壁へ叩き付ける。
「お、おい七瀬。気持ちは嬉しいが、俺には舞が……」
「あほっ! 何の話よ!!」
「何だ、てっきり愛の告白かと……」
「……お願い、これ以上あたしの血圧上げないで」
「わ、判った」
「あの子何者?」
「うーん、実は俺だってよく判らんのだ。ああそうだ一つ忠告しておいてやるよ。アイツを折原住井コンビに近づけると、相乗効果でとんでもない状態になるぞ。真琴の躊躇のない行動力に、悪魔の入れ知恵が加わる訳だからな。気を付けた方が良い」
「もう遅いわよっ!」
七瀬が全身を振るわせて叫ぶ間に、部屋の中からは――
「浩平〜っ! よくも真琴に嘘教えたわね!」
――といった真琴の声と、ドタバタ騒ぐ音や声が聞こえてくる。やれやれだ。
「一体何事?」
「何だか皆さん楽しそうですね」
丁度階段を上がってきた香里と栞が、俺と七瀬に気が付いて話しかけてきた。
香里は騒ぎを聞いて少し呆れた表情を、栞は楽しげな表情をそれぞれ浮かべている。
「いや実は……」
俺が事のあらましを説明しようとした矢先、背後の扉が勢い良く開いて北川が飛び出してきた。
「美坂〜、もう寝ちまうのかよ? 夜はまだまだこれからだ、一緒に遊ぼうぜ!」
どうやら香里の声を聞きつけたのだろう。
部屋の中からは真琴や折原が騒ぎ声が聞こえていると言うのに……香里限定とは言え実に大した耳だ。
「あたしは疲れているから、もう寝かせてもらうわ。それじゃお休み」
しかし、当の香里は実にあっさりそう言い放つと、北川には目もくれずに名雪の部屋へと入って行ってしまった。
「お、お休み……」
北川の力無い声が廊下に空しく響く。
暫くすると北川は生ける屍の様な足取りで、俺の部屋へ戻っていった。
北川を見送ると、残った俺達三人は身を寄せて円陣を組む様にしゃがみこみ、声を潜めて話し合った。
「……ねぇ、北川君って香里の事?」
「ああ」
「実際、香里の方はどうなんだろう? 何か好きな男の話とか聞いたことないのか?」
「あたしは知らないわよ。ねぇ栞ちゃん何か知ってる?」
「えぇとですね。お姉ちゃんはああ見えてロマンチストですから、凄い理想が高いんです」
「なるほどねぇ」
「うんうん。乙女たるもの理想は高く持つべきよねっ」
「知ってます? お姉ちゃんの部屋って、縫いぐるみとか人形とか多いんですよ。はっきり言って私の部屋よりも少女趣味入ってます。それに日記もつけてるんですよ。何が書かれてるのか興味ありませんか?」
調子に乗った栞は姉の居ぬ間にと、知られざる香里のプライベート情報をどんどん暴露する。
「そうだったのか……何だか七瀬みたいだな」
栞の話を聞きながら、俺は思ったことを口にしていた。
「あんたね、あたしの部屋見たことあるの?」
「いや、無いが、大体想像はつくぞ。無理矢理乙女らしさを強調しようとして、何となく女の子っぽいグッズを集めたは良いが、共通性が無くごった煮状態になっている。……ま、そんな部屋だろう」
「うぐぐぐっ……」
それは的確な表現だったのだろう。
図星を突かれて七瀬は唸ることしか出来ない。
「まぁ七瀬、気にするな。乙女らしさなんて外見で決まるものじゃ無いぜ。舞を見て見ろよ? アイツも外見とか部屋とか、格好とかみる限り、全然女らし……」
そこまで一気に捲し立てて、俺の言葉は突然脳天を襲った痛みと共に止まった。
「祐一、失礼な事を言ってる」
「痛ぇ〜。舞、お前のそう言う所が女らしく無いんだぞ」
床に座ったままの俺が、頭を撫でながらそう言うと、舞は無言のまま暫く考えていたが――
「……今のはやっぱり祐一が悪い」
そう言い軽く俺の頭にチョップを見舞うと、すたすたと俺の部屋へ戻って行ってしまった。
「祐一さん大丈夫ですか?」
栞が俺の脳天を優しくさする。
「ど、どうだ七瀬見たろ? チョップをかます舞と、介抱する栞を比べてどちらが乙女らしい?」
「うっ……」
「判っただろう、暴力でリアクションを返すのは、乙女のやる事じゃぁない!」
俺がビシィッという効果音と共に、そう言うと七瀬もその場に倒れ込んだ。
「相沢ぁ……あたしって駄目かな? やっぱりどうあがいても乙女にはなれないのかしら?」
「大丈夫だ! これから立派な乙女になって、折原達を見返してやれ!」
はっきり言って絶対に不可能だ、と思ったが、その場の雰囲気が俺にそう言わせた。
「うん、あたし頑張る! こうなったら絶対に瑞佳や、倉田先輩みたいな乙女になって見せるわっ!」
ガッツポーズも凛々しく高らかに宣言する七瀬。
「いやぁそれは無理だろう」――心に留めておくべき言葉を、俺は自然と口に出してしまった。
「あんた一体どっちなのよっ!」
「でも祐一さんは、あんな舞さんが大好きなんですよね〜?」
栞の何気ない一言に俺は「ぐっ!」と喉を詰まらせ、頭を掻きむしりながらその場で蹲ると、コメツキバッタの様に頭を廊下に打ち付ける。
「ちょっと相沢。照れ隠しにしてはやり過ぎよ!」
七瀬のそんな言葉も無視して、俺は”ドッカン・ドッカン”と額を廊下にぶつけていた時、突然名雪の部屋のドアが勢い良く開けられた。
「うるさくて眠れないんだおーっ!」
部屋から出てきた名雪が、寝ぼけながら大声で怒鳴る。
姿が見えないと思ったら既に寝ていた様だ。
|
§ |
そんなこんなで、学校に居た時と大差ないお祭り騒ぎのまま夜は更けて行き、名雪と香里以外の者も寝る時間となったのだが、ここでまた一つ問題があった。
いくら秋子さんが賑やかな雰囲気が好きといえども、寝泊まりするにはあまりに人数が多すぎたのだ。
最初は、男共を全て俺の部屋、女性陣を名雪、真琴、秋子さんの部屋、そしてリビングに分散配置する予定だったが、流石に俺の部屋に男五人は狭すぎる――二人一組で同じ布団に入れば可能ではあるが、その様な事は御免被る――し、客人の女性にリビングで寝て貰うのも気が引ける。
そこで、野郎共全員をリビング送りにして、俺の部屋も女性陣に開放する事になった。
そうなると俺だけが部屋に残るのも、倫理的に問題があるので、当然俺もリビング行きだ。
無論、女性陣からはリビングでも構わないという申し出があったが、男としてそういう訳にもいかない。
名雪と香里が既に名雪の部屋で寝ている事も加味して部屋割りは作られた。
結果、俺の部屋には、舞と佐祐理さん。
(俺のベッドと床に敷いた布団に一人ずつ)
名雪の部屋に、美坂姉妹。
(自分のベッドに名雪、布団に姉妹が一緒に寝る)
真琴の部屋に、長森と七瀬。
(ここはベッドではなく元々布団部屋なので、二つ並べて川の字を書いて寝て貰う)
秋子さんの部屋に、郁未先生。
(やはり床に敷いた布団に郁未先生)
そしてリビングに野郎共……という事になったが、そこに敷く布団が無いのは言うまでもない。
(十五人分もの寝具が備わっている一般家庭はまず無いだろう)
毛布だけが宛われた五人が、無造作に床に寝転がる様は、災害で住民が避難した体育館や、不法労働者が住まうタコ部屋の状況に近い。
「……何だか教室で寝るのと変わらない気がするぞ?」
そんな住井の気持ちも分からないでもない。
「贅沢言うな。俺なんか、自分の家なのにこの有様だぞ?」
そうなのだ、俺なんかすぐ二階に自分のベットが有るにも関わらず、こうして床に寝転がっているのだ。
「こういう時、折原が羨ましいぜ。如何なる環境でも眠れるもんな」
北川の呟きには、他のみんなが頷いているが、何故か折原は照れながら「はっはっはっ誉めるな誉めるな」とか言っている。
『誉めてねぇよっ!』
とりあえず全員揃って反論した。
「頼むから今日は普通に眠れよ?」
「ああ、任せろ。いくらオレでも流石に人様の家で無茶はやらん」
俺の願いに素直に頷く折原。
どうもこいつの返事は素直に受け止められないが、今は信じるしかないだろう。
「それじゃさっさと寝ようぜ」
「そうだな、明日はここで朝飯食うんだろ? なら早いところ起きないとな」
そう北川と南が言って、各々適当な所でごろりと横になる。
それを確認して俺は照明のスイッチを切ろうと、リビングの入り口まで行くと突然声が掛けられた。
「祐一さん、迎えに来ましたよーっ!」
その声は考えるまでもなく佐由理さんの声だ。
見れば佐祐理の背後には舞の姿も見える。
(オゥ・シーット!)
「せっかくご自分の家なんですから、祐一さんは自分の部屋で寝て下さい」
「……」
楽しげな佐祐理さんの言葉に頷く舞、そして一斉に反応する野郎共。
全員が素早く起きあがると、北川と南の南北コンビが俺を背後から押さえつけ、身動きの取れなくなった俺を押しのけて、住井が佐祐理さんの前に立つ。
折原は何故か俺達の居るリビングの入り口では無く、奥のキッチンへと姿を消した。何となく嫌な予感がする。
それにしても、こういう時のコンビネーションと言うか、チームワークは完璧だ。
「お前等放せ〜っ! ぐはっ……」
そんな俺の叫びに、北川と南の俺を押さえつける力が強くなる。
「あの一つ質問なんですがっ!」
わざわざ挙手をしてから質問をする住井。
「はい?」
「相沢を自分の部屋に戻したとして、倉田先輩と川澄先輩はどちらで寝るのでありましょうか?」
「当然、祐一さんの部屋で一緒に寝かせてもらいますけど?」
「……」
佐祐理の答えに頷く舞。
あまりにも自然に「それがどうしましたか?」とでも言うように答える二人。
「ン・ノォゥ〜ッ!!」
頭を抱えて叫ぶ住井。
「却下却下却下! 断じてそんな事は許さん!!」
北川が掴んでいた俺の腕に関節技を決めながら叫ぶ。
「痛っ北川ぁっ、よせっての!」
「そうだ、お前ばかり良い思いするなんて……そんな事が許されると思っているのかっ!」
南までヒートアップしてる。耳元で騒ぐから余計に五月蠅い。
ふと事の張本人を見ると、佐祐理さんは「はぇ〜……」と、舞は無言で俺達の様子を見守っている。
どうもこの状況を生みだしている自覚は無い様だ。
「お、俺はまだ、どうするか何も言ってないぞ」
「いいや黙れ! しかし、俺も鬼や悪魔じゃない。ここは一つ公平な裁判と行こう」
『うんうん』
そんな住井の言葉に、北川、そして南が頷いている。
「では判決!」
「早っ!」
俺が弁明をする間もなく判決が決まる。
「被告相沢祐一に緊縛八時間の刑〜っ!」
住井の言葉と同時に俺を押さえていた、二人の力が一層強くなる。
「なっ!?」
(こ、こいつ等こんなに力強かったか?)
ジェラシーとは、こうも人間を凶暴化させる物なのだろうか?
「……で、どうしてこうなるんだっ!」
いつの間にか俺はリビングの柱にロープで繋がれていた。
ロープは折原がどこからか調達してきた物らしい。
何でこんな物がこの家に有ったのかは謎だ。
「……祐一、何か悪い事したのか?」
そんな様子を見て舞が不思議そうな顔をして尋ねてくる。
「してね」
「いいえ川澄先輩、これからするんです!」
俺の言葉を遮るように、住井が血走った眼で舞に力強く言うが、その表情はどこか狂気じみている。
「人を何だと思ってやがる! 過去もしてないし、未来においても何もしないっ!!」
「ほう……ならば、貴様、川澄さんと倉田さんと一緒の部屋で寝て平静を保てるか? 寝顔を見て理性を保てるか? あぁ〜ん?」
俺の顔を持ち上げ、口元に怪しい笑みを浮かべながら尋ねる北川は、殆ど某世紀末救世主伝説的漫画に出てくる悪役だ。
「そうだ! 教室でみんなで寝ているならいざ知れず、狭い部屋の中で三人だけ……そんな状況に貴様の正気は何処まで保てる?」
普段は温厚な南までもが突っかかってくる。
「まぁ待て三人とも、ここは一つ冷静になろうじゃないか。話が込み入った時は事実関係を順に確認するのが良いだろう」
ヒートアップしている三人をなだめながら、折原が佐祐理さんの方を向く。
「さて倉田先輩?」
「はい、何ですか?」
「相沢の部屋にはベッドと布団が一つずつ有ります」
「はい。そうですねー」
「三人で寝るからには、寝床の数が足りないので、誰かしらが二人一緒に寝るわけですが……当然、先輩達二人が一緒に寝る訳ですよね?」
「あははーっ。違いますよーっ」
『何ですとーっ!?』
佐祐理さんの回答にハモリながら大声を上げる三人を制して折原が続ける。
「では、まさか倉田先輩が相沢と一緒に寝るんですか?」
「そんな舞に悪い事、佐祐理には出来ませんよー」
佐祐理さんのそんな言葉に真っ赤になる舞。
嬉しい反応ではあるが、今の状況においては俺の死期を早めるだけだ。
『コ・ロ・ス』
野郎共から発せられるどす黒いオーラの量が一気に増える。
「まぁ待て……では川澄先輩が一緒に寝る。そういう訳ですね?」
折原は三人を制しながら、そして自らも何か我慢している様に、絞り出すような声で佐祐理さんに尋ねる。
「あははーっ。それも違いますよー」
『はい?』
佐祐理さんの言葉に俺も含めた五人の男がハニワ顔になる。
「三人で一緒に寝るに決まってるじゃないですかー」
続く佐祐理さんの言葉に、俺達は唖然とし、同時に舞の方を見る。
「……」
恥ずかしそうに頷く舞。
イイ! 実にイイよ、その表情にその仕草!
この場に居るのが俺だけなら全く申し分無かった。
だが残念な事に、今この場にはフナムシの様に邪魔な連中が居て、俺と舞を呆けた表情で見比べているのだ。
「……え〜と、あのな」
俺が口を開くと、それを遮るようにして、折原が俺を睨む。
「仕方がない……住井」
「ほいよ!」
「おい折原、それは何だ?」
「さっきキッチンから持ってきた。何でも食べると、よ〜く眠れて、それは素晴らしい夢が見られるらしいぞ」
そう言いながら、折原は手にした瓶のが蓋を開けると、スプーンでオレンジ色をした中身をかき混ぜる。
折原が手にした物体は、秋子さんが作ったジャム……という事になってはいるが、その成分、原料は一切が謎だ。
故に”謎ジャム”と呼ばれており、言語表現が出来ないシュールな味がする。
おまけに少量ならばまだ問題は無いのだが、有る一定以上の量を食すると、意識が飛ぶ事が確認されている。
「先輩達がああ言う以上、俺達がどうこう言っても仕方がないだろう。だが、過ちは未然に防がねばならない。よってこの場で縛られたまま寝るのと……コイツの二択だ」
目の前に持ち上げられたスプーンから、ドロ〜リとオレンジ色のジャムが、瓶の中へこぼれ落ちる。
つまり、舞や佐祐理さんと共に寝るならば、ジャムを食えと言っているのだろう。
ちなみに、今ここに居る者は全て一度はこのジャムを秋子さんに食べさせられているので、その味は身にしみている。
その味を具体的に表現する事は出来ないが、”二度は食いたくない味”である事は確かだ。
「何でこうなるんだよっ! 他に選択肢はあるだろ?」
「ほう?」
「ほら? ここでお前等と寝るという選択肢が」
「ふぇ〜、祐一さんは佐祐理達と一緒に寝るのは嫌なんですかー?」
俺がそう折原達に答えるが、それを遮って佐祐理さんがとても残念そうに言う。
「……祐一、佐祐理を悲しませた」
「舞、ちょっと待て、佐祐理さん違う! 別に嫌な訳じゃないですよ。いや、むしろ嬉しいくらいで……」
俺は縛られたまま身じろぎしつつ弁明をする。
進む事も戻ることも出来ずに狼狽する俺を見て、野郎共がにやついている。
(こ、こいつら楽しんでやがる!)
「さぁ、どうするかね?」
「クッ……」
俺は折原の――恐らくは最期の――通告を受けて、周りを見回す。
寂しげな佐祐理さん、少しだけ怒っている舞、ニヤついている住井、北川、南……そして、俺の目の前にジャムを差し出したまま笑っている折原。
(そんな顔するなよ、舞、佐祐理さん。二人には何時でも笑顔で居て欲しいんだからさ……ちっきしょう、お前等覚えてろよっ!)
そんなみんなの顔を見比べて、俺はの心は固まった。
決心した俺は、目の前のジャムが盛られたスプーンを躊躇うことなく口に入れた。
『おおっ!』
野郎共が驚く声が聞こえてきた。
こんな状況――縛られたままなので手が使えない俺が折原に食べさせてもらう形――も嫌だが、口の中に広がる謎の味はもっと嫌だ。
「んぐっ…………ぐおぉっ!!」
出来るだけ味覚を刺激しない様に注意したが、舌を通じて広がる奇妙な――それこそ、”味”という表現を用いて良いのか判断しかねる感覚が脳に伝わる。
やがて喉を通り過ぎると、強烈な不快感と気怠さがスクラム組んで全身に襲いかかってきた。
俺は自分の立場を呪いながら意識を失った。
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§ |
郁未は部屋の床に敷いてもらった布団から、見慣れぬ天井を見上げながら考え事をしていた。
先程までリビングの方から聞こえていた騒動も収まり、ようやく静寂を迎えた秋子の部屋。
そんな静寂の中でも郁未は未だ眠ることが出来ずにいた。
「秋子さん……起きてますか?」
「はい。どうしましたか?」
郁未が控えめに声を掛けてみると、驚いたことに秋子からの声が帰ってきた。
「あ、済みません……ちょっとお伺いしたいことが有ります。宜しいでしょうか?」
「あら何ですか?」
「あの、水瀬さん……あ、名雪さんと相沢君が暫く学校に寝泊まりしてましたが、その間に何か変わった事って有りましたか?」
「はい?」
「……いえ、変な質問で申し訳ありません」
「そうね。何だか、私も真琴も、二人に会ったのが久しぶりな気がしてならないんです」
「そうですか」
それは何となく予想通りの答えだった。
郁未が布団から上半身を起こし、ベッドの秋子を見ると、彼女もまた郁未の方を見ていた。
「ええ、真琴も久しぶりに祐一さんや、お友達の方々に会えて嬉しいみたい。あんなにはしゃいでいる姿は、本当久しぶりね」
郁未の眼を見ながら秋子が答えると、丁度リビングの方から何か音がして『あうーっ!』という真琴の声と、何やら騒ぐ男共の声が聞こえてきた。
「あらあら……真琴の悪戯も久しぶりね」
そんな騒ぎにも、ニコニコと笑顔の秋子。
「賑やかですね?」
「ええ。私の自慢の家族ですから」
一端、天井を見てから秋子が微笑む。
「家族ですか?」
「はい。真琴も祐一さんも私は本当の家族だと思ってます」
「……そうですか」
「天沢先生のご家族は?」
「あ……私は……」
秋子は、自分の質問に郁未の態度が明らかに動揺したのを見逃さなかった。
「あ、ごめんなさい。無神経でしたね」
「いえ良いんです。母は私が丁度名雪さん達と同じ年頃に、”事故”で亡くなってます。父はもっと前に……」
「……そうだったんですか」
「いいえ、あれは事故なんかじゃないんです!」
郁未が突如大声を上げると、ベッドの脇にあった電気スタンドとフォトスタンドが、カタカタと音を立てて揺れ始める。
「あれは……あれは私が、私のこの力が……」
そう言いながら頭を振る郁未の眼に微かな涙が浮かんでいた。
(何? 何で私、こんな事口走っているの?)
そんな考えとは裏腹に、自制が効かなくなった郁未の口からは、懺悔にもにた言葉が自然に出てくる。
それは”家族の温もり”というものに接した事で、忘れていた感情が自分の中で爆発しているのだろうか。
「こんな力私は要らなかった! ただお父さんとお母さんが居てくれればよかったのにっ!」
郁未の脳裏にかつて幸せだった頃の光景が蘇る。
それは両手を両親にそれぞれ繋いで貰って出かけた縁日の光景。
そんな幸せな光景が一瞬で色あせ、全てが赤く染まって行く。
闇夜に浮かぶ赤い月が郁未を照らしている。
郁未の眼前に、壁に寄り掛かるようにして倒れている母親の姿を赤い月が照らしている。
母親は頭から……いや、頭にあるあらゆる穴から、血を吹き出して事切れている。
赤い血を赤い月の光が照らしている。
「いやぁーっ! どうして、どうして私は!」
郁未の懺悔の嘆きと共に、ベッドの脇にあったフォトスタンドが倒れると、部屋にあるあらゆる物が音を立てて激しく揺れる。
「良いのよ、何も言わなくて」
ベッドから伸びた秋子の手が郁未の頬に触れる。
「あっ……」
たったそれだけの事で郁未は我を取り戻し、激しく揺れ動いていた物がピタリと止まる。
「天沢先生に何があったのかは判らないけど、……笑いたい時は笑って、泣きたい時は泣くのが一番よ。それが人間にとって自然な事なんだから」
そう言いながら郁未の顔を見つめる秋子の顔はあくまで優しい。
頬に触れていた手は、そのまま郁未の頭に置かれ、彼女の頭を優しく撫でている、
「あ……あの……」
気を取り戻した郁未が今の状況に照れるが、秋子は気にせず彼女の頭を撫でながら話を続ける。
「母親はね自分の娘の事がとっても大切なのよ。私も主人を早くに亡くして、名雪を独りで育ててきました。だからこそ、天沢先生のお母さんの気持ちが分かるような気がするんです」
「……」
郁未は黙って秋子の言葉に耳を傾ける。
「先生は今幸せですか?」
「……はい」
それは嘘ではない。
保険医として、祐一達の高校で働く事はとても楽しく、そして意義のある事だった。
自分が失った青春時代を、学校の生徒達と過ごす事で取り戻している様な生活はとても楽しげなものだ。
「なら先生のお母さんは、きっと笑っていますよ。……だって、母親はどんな時だって、娘の幸せを願っているのですから」
秋子の言葉に、最期に母親と過ごした僅かな日々を思い出す。
「年齢なんて関係ないわよ。少なくとも、ここは学校じゃ無いですし……ね? 郁未さん」
そう”名”で呼んで言うと、秋子はベッドの上で上半身を起こし、郁未に向かって微笑む。
その笑顔を見て、郁未の目に涙があふれ始めた。
「良いんですよ。ほら?」
秋子が両手を広げると、郁未は迷わずにその中へ飛び込んで行った。
「うぐっ・うぇっ……お母さんっ……ごめんなさい……う、うわぁ〜っ……」
郁未はその夜、久しぶりに泣いた。
腕に抱かれ、胸に顔を埋めて泣きじゃくる郁未の頭を、秋子はただ黙って優しく撫でていた。
暫く嗚咽を洩らした後、郁未は秋子に抱かれたまま寝てしまった。
「あらあら」
秋子はベッドの中央から横へずれると、空いたスペースに郁未の身体を横たえる。
「お休みなさい、郁未さん」
安らかな顔で眠った郁未の頭をもう一度撫で、秋子も郁未の隣で目を閉じた。
その夜、郁未は母親と出会う夢を見て、その中で母の笑顔を久しぶりに思い出すことが出来た。
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