約束の時間が過ぎても電話がかかってこないので、久瀬は生徒会室を出て近くの廊下や教室を調べて回る事にした。
 とはしたものの、結局何をどうすれば良いのかが判らない彼が、特別何か変わった物を見つける事は無く、手の中のストップウオッチが刻む時間だけがただひたすら流れて行く。
 廊下で歩みを止め小さく溜め息を付き、窓から外を眺めてみた。
 空には月や星の姿は無く、真っ黒な雨雲が広がっているだけだ。
 窓を打つ雨が鬱な気分を増長させ、久瀬は頭を振って目線を校内へと戻した。
 手にしたストップウオッチを目の高さに持ち上げると、分針は既に四〇分を越えようとしていた。
 つまり郁未と別れてそれだけの時間が流れた事を意味するが、今だ約束の電話は鳴らずにいる。
 生徒会室からはさほど離れてはいないし、これだけ静かな校内にあってベルの音を聞き漏らす事は無いはずだった。
「戻るか……」
 一人呟いて踵を返す。
 しかし、久瀬が生徒会室へ向けて歩みだした直後、突如として廊下を明るく照らしていた照明が一斉に落ちた。
「うおわっ!?」
 突如の事に思わず、彼らしからぬ大きな驚きの声を上げた。
 歩みを止め周囲を伺うが、急激に暗くなった事で視界はおぼつかず、聞こえる音にしても雨音しかない。
 唐突に、久瀬には見慣れたはずの校内が、まるで全く知らない建物の内部の様に思えた。
 直ぐに内心で「そんな馬鹿な」と自らの考えを否定したものの、一度感じた恐怖は雪だるま式に大きな物となり、久瀬の耳には雨音以上に自分の心音が大きく響く様になっていた。
 非現実的な異変に気が付いている久瀬にとって、周囲の暗闇は確実な恐怖となって彼の身を襲い始めた。
 何かが狂っている世界で、唯一人でいる現実。
「くっ……」
 気が狂いそうな程の恐怖に、久瀬は自分の身体を抱きしめてその場で蹲った。
 そんな彼の精神を正気へと繋ぎ止めているのは、両手でしっかり握りしめている、古めかしいアナログ式のストップウオッチだ。
 叫びそうになるのを必死に堪え、久瀬はただストップウオッチが刻む秒針を目で追い続けた。
「久瀬さん」
 突然、背後から名を呼ばれ、久瀬は驚きつんのめる。
 だがその驚きは、声が誰から発せられたものかを理解すると瞬時に安らぎへと変わり、彼の精神は一気に通常のレベルへと舞い戻った。
 慌てて姿勢を戻し、ズボンに付いた埃を払うようにしながら立ち上がる。
「倉田さん?」
 努めて平常を装い声のした方へと振り向いた。
「はい佐祐理ですよー」
 廊下の闇の中から、彼が欲して止まない柔らかな声が帰ってくる。
 やがて暗闇の中に佐祐理と思わしき人物の影がぼんやりと浮かび上がる。
 溜まらず走り寄りそうになった久瀬だったが、漠然と感じた違和感が行動を思い留まらせた。
 確かに倉田佐祐理という女生徒は、久瀬にとって恋い焦がれる女神にも等しい存在だ。
 だが悲しいかな、かつて肩を並べて生徒会の仕事に従事していた彼女の心は、彼の怨敵である川澄舞と、仇敵とも等しい相沢祐一へと向けられており、今も彼女は舞と傍らに居るはずだ。
 佐祐理が車で舞と共に学校を去る現場を目撃した久瀬に、雨の中を彼女が一人で戻ってくる理由が浮かばない。
 つまり彼女はこの場に居るはずのない存在だった。
「倉田……さん?」
 疑念を篭めて久瀬は今一度佐祐理の影へ呼び掛けた。
「はい」
 先程よりもずっと近い場所からの返答。
 やがて、久瀬の目が暗闇の中に彼女の姿を捕らえた。
 頭のてっぺんからつま先まで、久瀬がよく知る倉田佐祐理その人の姿だった。
「何故こんなところに……」
 訝しさを感じつつも、自然と久瀬の身体は彼女へと近づいてゆく。
「実はですねー」
 勿体付けるような言い方の佐祐理が笑顔を向ける。
 久瀬が暗闇の中でもその輝かしい笑顔が把握できる程に近づいた時、彼は突然の目眩に襲われその場へ崩れ落ちた。
「くっ……何だ?」
 目を開けていられない程の目眩に、床に倒れた久瀬は手にしていたストップウオッチすら放り出て、頭を抱え呻き声を発する。
「大丈夫ですかーっ?」
 そして佐祐理の声が彼の耳に心地よく響く。
「倉……田さん、こ……れは……一体? ……っ!」
 薄れ行く意識の中、久瀬は悟った。
 これは眠気だ――と。
 久瀬を襲ったものは、目眩を起こすほどの睡魔。
 だが、それが判ったとて、久瀬に可能な対処は何もなかった。
「さぁ、眠りましょうーっ。そして君の望む世界へ……」
 声は途中から明らかに佐祐理の物とは異なる声色へと変わっていたが、その時には既に久瀬が意識を手放した後であり、彼がその事に気が付く事はなかった。
 やがて電話のベルが真っ暗な校内に響き渡るが、二人の姿はもう何処にも無かった。








■第7話「疑心暗鬼」









”プルルルル…”
 ものみの丘の入り口から表通りまで走って戻って来た郁未は、やっと見つけた路上の電話ボックスの公衆電話から、改めて学校へと電話をかけていた。
 しかし呼び出し音が鳴ってから既に数分が経過しているはずだが、久瀬が出る気配はない。
 ふと見たストップウォッチの針は一時間五分を指しており、約束の時間を三〇分以上も経過している事を語っていた。
「お願い出てよ」
 そんな郁未の願いも空しく、受話器から聞こえる呼び出し音がとぎれることは無かった。
 暫くして諦めた郁未は受話器を戻すと、”ピピーッピピーッ”とテレフォンカードの排出を伝える電子音が鳴り響く。
 郁未がカードを取り出すと電子音は鳴り止み、代わって雨音と路上を行き交う車の音が聞こえてきた。
 ボックスの濡れたガラス越しに見える街並みが、郁未の目のはどこか寂しげに映る。
 大勢の生徒達でごった返していた校内と比較して、目の前の景色に存在する人々の気配はがあまりに微弱なのだ。
 学校内の馬鹿騒ぎに何日も付き合っていたお陰で感覚が鈍っているのかしら――そんな事を考えている郁未の横を、一台の青い車が通り抜けて行った。




§






 佐祐理は暗闇の中をヘッドライトの明かりを頼りに車を走らせていた。
 よく知っているはずの街並みが、何処か迷路のように思え、佐祐理は少し狼狽している。
「あはは……今夜に限って変だね」
 努めて笑顔ではいるが、その顔も声色もどこか不安げだ。
「あ、また袋小路だよ。あはは……ごめんね舞。佐祐理は免許も取り立てだし、道も覚えられない駄目な子ですねーっ」
 ヘッドライトに照らし出された塀を見て、佐祐理が力無く自虐的に呟いた。
「……大丈夫。気にしていない」
 いつものように静かに、そして淡々と喋る舞だが、そんな中にも安心させようとする思いやりが含まれている事を、佐祐理は感じる事が出来た。
「それに……何があっても私は佐祐理を信じてるから」
 フロントガラスの先の闇を見据えながら舞が言う。
 それは彼女の嘘偽りの無い本心を現しており、佐祐理もその事は判っている。
「ありがとうー舞。うん、大丈夫だからね」
 だから佐祐理は力強く頷き返した。
 舞の思いやりを心地よく思うと同時に、親友のそんな言葉に元気付けられてゆく自分が、とても幸せな存在だと思えた。
 首を曲げ佐祐理の目をしっかりと見つめて頷く舞に、彼女は気を取り戻して「よーしっ」と元気よく声を上げると、慣れた手つきでギアをバックに入れた。
「それじゃ、諦めずに行くよーっ」
 今の私には舞がいる。怖いものなんて何もない――そう思うだけで、不安が薄らいで行く事を佐祐理は実感していた。


 あの事件の後、当事者達は何も語らなかったが、佐祐理には判っていた。
 自分が死にかけ、そして舞と祐一と郁未に助けられたことを。
 そしてその方法が普通では無かった事で、三人が口を閉ざしている理由も何となく判っている。
 しかし佐祐理にとって、彼女達の奇特な力を畏怖する事など有るはずがない。
 なぜならば佐祐理は、そんな力も含めて舞の事が好きなのだから。
 一瞬、助手席の舞の顔を見る。
「……?」
 同時に佐祐理を見つめた舞と目が合う。
「あははーっ」
 何となく嬉しくなって佐祐理は偽りのない心からの笑顔を向ける。
 言葉では表せないほどの感謝と、信頼を、笑顔に変換してみせた――そんな笑顔だった。
(だから、私はがんばれる。舞に笑顔を取り戻してみせる。祐一さんと二人で、舞を幸せにしてみせる。それが私にとっての幸せ)
 佐祐理の運転する車は、再び暗闇の中を彷徨うように走り始めた。





§






  制動をかけた電車が速度を急速に落とすと、慣性の影響で椅子に座っていた七瀬の上半身が座席に横倒しになる。
「わっ!」
 そんな衝撃にはっと目を覚ました七瀬が、目的の駅に着いたと慌てて電車を飛び降りた。
 雨は依然として降っており、電車とホームの上の屋根との隙間から雨水が落ちて、ホームへ降りる七瀬の頭や制服を濡らした。
「ったくも〜酷い運転ねぇ、乙女を何だと思ってるのよっ!」
 制服の乱れを直し、怒りを炸裂させながら、ずんずんとホームを歩くその姿は、お世辞にも乙女とは形容出来ない。
 頭を振って髪の毛に付いた雨水を振り払ったところで、七瀬は違和感に囚われた。
「あれ?」
 その正体は直ぐに判ったが、それを理解をするのには多少の時間を要したのだろう。
 七瀬はまるで呆けた様に立ち止まったまま、ある物をぼんやりと見上げていた。
 彼女の目線の先にある物――それは駅名の表示板だ。
 それ自体は何処の駅にも必ず常備されている物で珍しい物ではない。
 そう、普段彼女が「登校の際に降りる駅名」である事を除けば、何の変哲もない物に過ぎなかった。
「何で……」
 たった今彼女が電車から降り立った駅は、いつも登校する際に降りるはずの駅、つまり先程折原達と別れて電車に乗ったはずの駅だった。
「どういう事?」
 有り得ない現実に立ち尽くす彼女の背後で、扉を閉めた電車が警笛を鳴らして発車して行った。
 しかし走り去って行く電車の音も、七瀬の耳には届いていなかった。
「環状線だったかしら?」
 駅名表示板を見つめたまま呆けた表情をしていた七瀬がやっとの事でそう口を開いたが、その言葉が非現実的である事は考えるまでもなく、彼女は直ぐに「……って、そんな事ある訳ないわよね」――と自らの言葉を否定した。
 その直後、ホームに備えられていた照明が次々と消えて行き、驚く七瀬を余所にやがて真っ暗になった。
「えっ嘘? 今の終電?」
 七瀬は慌ててホームを降りて駅員に尋ねようとしたが、改札に駅員の姿は無く、まるで無人駅の有様だった。
 駅員だけでなく乗客の姿も見えない事を不思議に感じたが、此処にいても埒が開かないと判断すると、自動改札を抜けて雨の振る街へと飛び出した。




§






 郁未が表通りでタクシーを拾ったのは、電話ボックスを出た直後だった。
 あの後もう一度電話を入れてみたものの反応は無く、兎にも角にも急いで学校へ戻ってみる事にしたのだ。
 運転手と特に会話を交わす事もせず、郁未は車内に響くワイパーの規則的な音を聞きながらこれからの事を考えていた。
 ――連絡が途絶えた久瀬の安否。
 ――頭に響いた謎の声。
 ――ものみの丘で見えた陽炎の様な景色。
 頭の中で考えを巡らせていた郁未だったが、ふとある事に気が付き思考を中断した。
 それは、自分が思慮を重ねていた時間が異常に長いという事だった。
 中年の親父運転手が操るタクシーは郁未の指示通りに一路学校へと向かっているはずだが、明らかに時間がかかりすぎている。
 違和感を感じた郁未はその疑問をタクシーの運転手へと尋ねてみた。
「あの運転手さん? まだ着かないんですか?」
「はいはい、すぐです」
 運転手の返答が直ぐに帰ってくる。
 だが事態が事態である以上、それで「はいそうですか」と素直に応じる訳にはいかない。
「表通りから学校まで車で大体五〜六分のはずですけど。……やけに時間がかかるんですね?」
 郁未はタクシーに乗ってから既に十分近い時間が流れている事を、ストップウォッチの表示で把握していた。
「今日のお客さんはみなさん同じ様な事言いますね。はは、タクシーに乗ると時間が延びるんですかね〜」
 そんな営業的な笑い声で答える運転手の視線が、一瞬バックミラー越しに郁未のそれと合う。
「そう言えばお客さん、亀に乗って竜宮城へ行く話を知ってますか?」
 郁未は運転手の一言に怪訝そうな顔を浮かべる。
 乗せた客へ振る話題にしては余りにも唐突な内容だ。
「今その気分を味わってる所よ」
 疑わしげに郁未は目を細めて、ミラー越しに運転手の顔を見据えながらそう答えた。
 運転手はそんな彼女の視線をものともせずに、そのまま話の続きを喋り始めた。
「それでね〜お客さん。亀を助けたのが太郎一人でなく、村人全員だったらどうだったと思います? 村人全員で竜宮城へ行って、そして揃って戻って来たとして、それでもやはり時間は経った事になるんでしょうかね? その事に村人全員が気が付かなかったとしても……」
 運転手の話す内容に、郁未の運転手に対する疑念は確証へと変わる。
「……何の話かしら?」
 明らかに疑いの眼差しを向けられているにも関わらず、運転手は何ら気にした様子も見せずに言葉を続けた。
「ねぇお客さん。なまじ客観的に時間とか空間とか考えるから、ややこしい事になるんじゃないですかね? 時間なんてものは、人間の意識の産物じゃないですか。もしも世界中に自分一人しか存在しなかったら、時計やカレンダーに何の意味があります? 過去から未来へキチンと流れている時間なんて、初めから無いんじゃないですかね? さっきの浦島太郎の話もそうですけど、人間が意識さえしなければ、時間何てものは存在しないんじゃないでしょうかね?」
「なるほど……」
 話を興味深く聞いている郁未の髪の毛がフワリと不自然に靡きはじめる。
「……ま、人間の意識そのものがいい加減なものなんですから、その産物である時間がいい加減なのも当たり前ですよね。きっちりしていたら、それこそ異常ですよ。確かなものは今こうして流れる”現在”だけ……そう思いませんか? お客さん」
「面白い……これは本当に亀に乗ったのかもしれないわね?」
 運転手の言葉を聞き、郁未が口元だけを微笑ませながら呟く。
「このまま竜宮城まで行きますか? ……今ならお安くしておきますよ?」
 バックミラー越しに映っていた運転手の口元が、妖しげに歪むのを郁未は見逃さなかった。
「ただの亀ではないわよね?」
 そこまで言って、郁未は溜めていたエネルギーを解放し、タクシー前方の空間を”固定”する。
「正体を見せなさいっ!」
 叫び声と共に、郁未の放った不可視の力で、タクシーの進路上に見えない壁が発生し、タクシーは突然の衝撃に急停車を余儀なくされる。
 その手段は自分の愛車の敵討ちの様でもある。
 タイヤの滑る音と共に、タクシーはスピンをしてその場へ停まった。
 衝撃で姿勢を崩していた郁未に、運転手が慌てて振り向く。 
「だ、大丈夫ですかお客さん!?」
 その顔は先程までとまるで異なる、普通の何処にでもいる中年男性の表情であり、何が起きたのかも判らずただ自分が事故を起こしたのでは? と慌てふためいている者の態度だった。
「……」
 郁未は、明らかに狼狽しながら客の身の安全を確かめる運転手の顔と態度を、ただ唖然としながら見つめていた。
「……逃がした様ね」
 郁未はそう小さな声で呟くと「大丈夫です」と運転手に言い、学校へ急ぐよう改めて伝えた。
 タクシーが学校に辿り着いたのは、それから僅か二分後の事だった。

 降りしきる雨の中、郁未は校門を飛び越えると、校舎の中へと急ぎ足で消えていった。





§






「もう疲れました〜」
「頑張りなさい栞、後少しで帰れるわよ」
 姉妹の間で既に幾度か繰り返されたやり取り。
 だが、流石に励ます姉、香里にしても今の状況にはうんざりして来ている。
 ”通い慣れた道を通って家に帰る”ただそれだけの事に、こうも難儀している事実に対して、不安よりもむしろ怒りを覚えている処は有る意味香里らしい。
「もうお姉ちゃん、さっきからそればっかりですー。私もう歩きたくありません」
 頬を膨らませて怒る栞だが、元々幼い顔立ちなのでまるで迫力がない。
「全く……ほら、立ちなさい栞」
 しゃがみ込んだ栞に手を差し伸べる香里。
「仕方ない。栞ちゃんはオレがおんぶしてやろう!」
 そう言うと北川は、栞の前に背を向けてしゃがみ込む。
「え? い、いいですよ北川さん」
「遠慮する事はないぞ、ほら、ほら、ほうらぁっ!」
 北川としては、香里に良いところを見せようとしているだけなのだが、天性の馬鹿さがその心意気を台無しにしている。
「栞に変な事したら殺すわよ」
「なっ?! 美坂〜俺はそういうつもりじゃ」
 睨んだだけで猛獣をも怯ませそうな視線の香里に、北川はただ黙ることしか出来なかった。
 結局、栞は自力で歩き始め、三人は言葉少なげに先を進む事になった。
「……あら?」
 交差点の角を曲がると、そこには見慣れた光景が広がっていた。
「何よこれ?」
「えーっ!?」
「マジかよ……」
 三人が驚いたのは、目の前の光景が非常に見覚えのあるもの――彼らの通う学校だったからだ。





§






 雨が降る街中を、寄り添うようにして進む二つの傘がある。
 時折傘の両端が触れる程の距離は、そのまま持ち主達の関係を現していると言って良いだろう。
 事実、二人の間で交わされている会話も、親しい間柄である事を裏付ける様に遠慮がない。
「ねぇどうして?」
 黄色い傘の下から少女――長森が問いかける。
「だーかーら! オレに言っても知らないってーの!」
 傍らの黒い傘の下からは多少乱雑な口調で返答が帰ってきた。
「本当かなぁ? 浩平、私を困らせて楽しもうとしてない?」
「あのなぁ……」
 男――折原はそこで一端言葉を区切り、「この雨ん中、自分も気分が悪くなるような真似するわけ無いだろ?」と続けた。
「うーん。そうれはそう思うんだけど。だって浩平だから……」
「俺ってそんなに信用ないんかねぇ」
「信頼はしてるよっ」
 長森は間髪入れずに笑顔で応じた。
「……ま、確かに迷子にさせて狼狽えるお前を見て楽しむのも一興だとは思うが、幾ら何でも俺まで一緒に迷子になる必要は無いだろ?」
「それもそうだね。じゃぁ何で帰れないのかな? 浩平の家だけじゃなくて、私の僚まで辿り着けない何て変じゃない?」
 長森は首を傾げ、つい先程自分達が陥った不可解な事態を口にする。
 結局、どの様なルートを辿っても目的地に辿り着く事はなく、途方に暮れた二人は学校へと戻る事を決意し、こうして雨の中を並んで歩いているのだった。
「だからさ、やっぱりオレとしては、国土建設省や道路公団の陰謀だと思うんだ。くっそう俺達の血税を無駄遣いしやがって!」
「浩平は税金払ってないよ?」
「いいか瑞佳、そんな些細な事はどうでもいい。今大事なのは、バブル崩壊後の日本経済をどう立て直すかという事だ。その為に税金ってのはもっと有意義に使うべきだろ? オレが官僚なら抜本的な税制改革を断行し、日本のみならず大東亜全体の繁栄に向けてだ……」
「あ、浩平見て」
 折原の戯言を遮って長森が声を上げる。
「ん? 校門のところに誰か居るな……」
 長森が指さした先を見つめて答えた折原は、そっと長森との距離を少し開けた。
 そんな折原の態度に、長森は何も言わなかったが、可愛い子供に向けるような笑顔を浮かべた。
「いよぉーっ折原ぁ!」
 二人が更に近づくと、校門の前で立ち竦んでいた人物の一人――北川が彼等に気付き、腕を振りつつ声を張り上げた。
「何だ北川……美坂姉妹も一緒か?」
「あら? ひょっとしてあなた達も?」
 北川の傍らで突っ立っていた香里が、疲れた表情で折原と長森に声を掛ける。
「ああ。どうも俺達はいつの間にか国土建設省と道路公団を敵に回していたらしい。奴等めそれほどオレの帰宅を阻害して……」
「だから浩平、それはぜったい違うよ」
 この期に及んでもボケ続ける折原に呆れながらも律儀に応じる長森。
 なお、他の三人は恐らく疲れているのだろう。折原のボケをそのまま受け流した。 
「あーっみんなーっ!!」
 暗闇の中から聞こえてきた声に、五人が一斉にその方向へと顔を向けると、まるで救助隊を見つけた遭難者のように嬉々とした表情の七瀬が走って来るのが見えた。
「留美さんも戻ってきちゃいましたね?」
 傘をさしたまましゃがみ込んでいた栞だったが、七瀬の姿を見てが立ち上がる。
 するとその直後、七瀬とは反対方向から、複数の男の声が聞こえてきた。
「何だよ住井、結局学校に逆戻りか?」
「仕方ないだろう他に行く宛があるっていうのかよ? ……おっ?」
 互いに文句を言い合いながら走ってやって来たのは、先程この地で別れたはずの住井と南だった。
 彼等もまた、校門前に集まっている仲間達を見つけると驚きの声を上げた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
 校門前に再び集合した八人――折原、長森、香里、栞、北川、七瀬、住井、南――が、お互いの顔を見ながら立ち竦む。
「あの〜住井さん達は何でここに?」
 やや間を開けてから、栞が恐る恐る住井達に尋ねた。
「ははっ。それが傑作でね……バスを降りたら何故か”正門前”だったんだよな〜これが」
「はははは〜、ホント元に戻ってやんの! 面白ぇなぁ全く」
 南と住井が自暴自棄な笑いと共に答える。
「そじゃぁ留美は?」
 香里が七瀬に尋ねると――
「あはははは……列車を降りるとね、元の駅だった……って信じて貰えるかな? ははっははっ……」
 ひきつった笑いと共に七瀬が答えた。
「ってゆーと、お前等もか?」
 不可解な出来事に遭遇したのが自分達だけないと判った住井が、唖然とした表情の折原や北川達を見て尋ねると、皆が頷いてみせた。
「そうか。何かこう……みんな揃って”間”が良いよなぁ〜。はははははっ」
『あ〜っはっはっはっはっ!』
 折原の笑い声に釣られて、周りのみんなが一斉に笑い出す。
 しかし一人冷静な――というより、不可解な現実に嫌気がさしている香里が――
「笑ってる場合!? 一体どうなってるのよ?!」
 ――と、少しヒステリック気味に叫ぶと、笑って現実から目を背けていた皆が一斉に静まり返る。
 更に香里が何かを言いかけた時、静寂な空間と化した周囲に、”ガチャ”と扉の開く音が響いた。
「浩平君……だよね?」
 そんな声と共に、校門の真ん前にある家の玄関が開くと、中からぼーっとした女の子が姿を現した。
「あれ、みさき先輩。ひょっとして五月蠅かったか?」
「うん。突然笑い声がしたから何事かと思ったよ。でも浩平君の声が聞こえたから、確かめに出てきたんだ」
 折原に先輩と呼ばれた少女――川名みさきは、そう笑顔で答えながら、玄関先の雨が濡れない場所まで出て来た。
 その際、足下を確かめるようにして歩き出てきた彼女は、目の前の高校に通う三年生であり、中学生時代の事故で両目の視力を完全に失っている。
 だが、普段はそんなハンデを微塵も感じさせない程明るく元気に振る舞っており、彼女が盲目者である事を忘れてしまう事もしばしばだ。
 そんな彼女は折原の良き友人であり、また掃除さぼりの仲間として広く認知されており、二人して屋上で掃除や日直の仕事をサボっている姿が時折目撃されている。

「ちょっと、みさき〜早く戻って来なさい」
 みさきの背後から聞こえた声に、皆が一斉に注目する。
「あ、部長。こんばんは」
 みさきに続いて姿を現した少女を見て真っ先に反応したのは、先程ヒステリックな叫びを上げた香里だった。
「あら、美坂さん? どうしたのこんな時間に。今日は確か強制帰宅じゃなかったの?」
 みさきの家から新たに出てき少女――深山雪見は、みさきの幼なじみ兼同級生で、香里が所属する演劇部の部長を務めている。
「はい。そうだったんですけど……部長こそどうされたんですか?」
「みさきのご両親に頼まれてるのよ。旅行中の間みさきの面倒を見るように……って。だからここ最近はずーっと、みさきの家に泊まり込んでるわね」
 そう言って微笑むと、目の前に居る友人の頭を軽く小突いた。
 みさきは「ひどいよ雪ちゃん」と言いながら抗議しているが、雪見はそんな親友を無視して話を続ける。
「ま、学園祭準備もあるし、家まで帰るのは面倒だから丁度良いかしらね」 
「そうか、深山先輩がここに居るという事は、ひょっとして澪も?」
 折原の言葉に反応するかのように、澪と呼ばれた少女がみさきと雪見の間から、ひょいと顔を出すと、『お泊まりなの』と書いたスケッチブックを見せた。
「そうかそうか」
 折原がそう言いながら頭を撫でてやると澪は嬉しそうに目を細める。
 彼女――上月澪も、同じく演劇部に属する一年生だだ。
 彼女は生まれついて声が出せない傷害を持っており、いつも持ち歩いているスケッチブックで自分の意思表示を行っている。
 みさき同様に己のハンデを補って有り余る程の元気に満ちた娘で、その前向きな精神でもって演劇部の活動も積極的に行っている。

「それでどうしたの? 何だかみんな揃ってるみたいだけど」
 校門前に集っている面々を見回し、雪見が不思議そうに尋ねた。
「あの……何て言いますか……実はあたし達もよく判ってないんです」
 香里がひきつった笑顔で答えるが、彼女自身が現状を把握出来ていない事を、雪見が理解できるはずもなかった。
「なにそれ? あ、ひょっとしてまた何かやらかす気?」
 雪見の視線が、折原と住井を見据える。
『違います!』
 香里すら恐れる鬼部長の視線に、折原と住井が姿勢を正して同時に答える。
「本当かしら……あら?」
 普段の行動から彼等の言葉を鵜呑みに出来ない雪見が、なおも追求しようとした矢先、一筋の灯りが校門周辺を照らした。
 見れば懐中電灯を持った者が、校庭の中を校門目がけて歩いて来ている。
「ん? そこに居るのは誰?」
 声は郁未のものだった。
「あれ、郁未先生も?」
 長森が近付いてくる郁未の姿を確認して呟いた。
「長森さん? あら貴方達揃ってどうしたの?」
 片手で傘を差していた郁未が、もう片方の手にしていた懐中電灯のライトを消しながら応じる。
「郁未先生こそ、どうしたんですか?」
 七瀬の問い掛けには――
「う〜ん、忘れ物かな」
 ――と苦笑交じりに答えると、郁未は校門越しに集まっている面々を見て傘をたたむ。
「よっ……と」
 小さく声を上げると、郁未は助走もせずその場でジャンプをして一気に校門を飛び越えてみせた。
 膝を曲げて綺麗に着地すると、濡れた長い髪から水分を飛ばすかのように一度頭を振って、再び傘を開いて皆の元へと近づいた。
「おおっ」
「わっ! 凄い〜」
「わっ、格好良いですーっ」
 一連の動作に皆が思わず感嘆の声を上げる。
「うっそ〜」
 きょとんとしている雪見。
『すごいの』
 澪もスケッチブックに見開きで、特大文字でそう書いている。
「え? え? なに??」
 みさきだけは目が見えないので、判っていない。
「それで、貴方達はここで何をしているの? 今日は自宅へ戻るよう言われているはずよ」
「いや、そうしたいのは山々なんですけど……って、郁未先生こそ帰ったんじゃ?」
 そんな住井の声を遮るかのように、今度は横合いから車のエンジン音が聞こえてきた。
 やがて独特のエンジン音を轟かせて校門の前に停車した車は、佐祐理のインプレッサだった。
「あははーっ! 舞、元に戻っちゃいましたねー」
「……みんなも居る」
 ドアから降りるなり、いつもの様に笑い声を上げる佐祐理と、やはりいつもの調子でぶっきらぼうに言う舞。
「手詰まりだなこりゃ」
 新たに戻ってきた者と、周りのメンバーを見渡し住井が呟く。
「どうすんだよ折原」
 困り果てた様に北川が折原に意見を求める。
「う〜ん、流石にこの人数でみさき先輩の家に押し掛けるのは躊躇われるし……」
「うん。流石に雪ちゃんと澪ちゃんの世話で手一杯だね」
 折原の半ば独り言の様な呟きに、みさきが律儀に答える。
「逆でしょ、みさきに世話された覚えはないわよ!」
 そんなの呟きを聞き逃さずに、雪見がみさきの頬を掴んでのばす。
 二人の漫才の様なやり取りを傍目に、住井が腕を組んで考えている。
「家にも戻れず、学校にも入れないとなると……」
「ふぅ……行くところは一つしかあるまい?」
 住井の問題提起に、折原が仕方なさげに答えた。
「何処よ?」
 香里が尋ねる。
「この場に居ない者のところさ」
 折原の言葉に皆が頷く。
「えーっ! 良いのかな? だって凄い人数だよ」
「ならば瑞佳だけ、この場に残り雨に濡れながら一夜を過ごすか?」
 その一言で黙ってしまう長森。
「よっし、話は決まった。ではしゅっぱーつ!」
 話を強引にまとめると、折原が腕を振り上げてそう叫ぶ。
『それじゃ、お騒がせしました〜』
 住井と北川、そして南がみさき達へ向かって頭を下げて歩き始める。
「それじゃ部長、失礼します。澪、お休み」
 香里が会釈をして校門前から離れると、栞も慌てて”ぺこり”とお辞儀をして付いて行く。
「みさきさん、雪見さん、澪さんもお休み〜」
 佐祐理と舞も挨拶――舞は少し頭を下げただけだが――をして、皆を追いかけていった。
 インプレッサを校門前に停めたままにしてあるのは、自分たちだけ車で行くには忍びないと思ったのだろう。
「みさき先輩、深山先輩、澪、お休みな。あ、郁未先生はどうします?」
 折原が三人に挨拶をしながら郁未に尋ねた。
「そうね……私もお邪魔させてもらうわ。少し気になることもあるしね」
 郁未はそう答えると、目を演劇部の三人に向けて「あなた達、今夜はもう絶対に外へ出ないで寝なさい」と注意をした。
「はい」
「はーい」
『判ったの』
 三者三様の返事に微笑みながら、郁未は「お休み」と答えると、折原達と共に再び夜の街へ出て行った。
 歩き出した郁未は、手に持っていた懐中電灯を白衣のポケットへとしまい込むと、その手が中に有ったストップウオッチに触れる。
 ポケットの中でストップウオッチを握りしめ、黙祷するかの様に瞼を閉じた。
「久瀬君……ごめんなさい」
 郁未の呟きは、雨音に遮られ誰の耳にも届くことは無かった。





§






「……なるほど。それで、この家に来たと?」
 俺が玄関に並んだ面子を見回しながら少し呆れたように言う。
 舞と佐祐理さんは論外にして、少し遠慮がちにしている、長森、栞、南、郁未先生や、状況に呆れているのか、少し恥ずかしげな香里、七瀬は良いだろう。
 しかし何故か堂々としている折原と住井、そして北川の態度はどういう事だ?
「と言うわけだから……」
 簡単に事情を伝えた折原が、代表してそう言うと――
『一晩よろしくっ!』
 全員の声が水瀬家の玄関に響き渡る。
「どうします?」
 俺は後ろに立っていた秋子さんに振り向き尋ねる。
「了承」
 こんな突然の大人数な来訪者にも嫌な顔一つせず、秋子さんはいつもと同じ落ち着いた態度で微笑んでいた。
 久しぶりに静かに眠れると思ったいたが、結局今夜もお祭り騒ぎからは逃れられない様だ。






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