陽が暮れて闇が訪れると共に、突然雨が降り出した。
久しぶりの雨だった。
以前に降ったのは何時だっただろう?
そんな事を皆で話している時、全校生徒に下校を促す放送が流れた。
その後何度も流れるアナウンスは、何時しか強制力のある下校命令へと変わっていた。
それでも尚、従う気の無かった俺達の元へ郁未先生が現れたのは、最初の下校指示のアナウンスが流れてから随分経ってからだ。
仕方無しに連れだって校庭へと出た俺達。
既に他の生徒達は下校した後らしく、校内は先程までの騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
久しぶりの雨が妙に冷たく感じられ、ふと空を見上げれば闇が覆い尽くしていた。
まるで闇と雨がこの学校を外界から隔離している――この世界に居るのは、すでに我々だけなのではないだろうか?
そんな孤独感を、俺は感じずにはいられなかった。
■第6話「呉越同舟」
日暮れと共に天気が突然崩れ、今では強い雨になっている。
そんな中、俺達が校門からおっぽり出されると同時に、背後で校門が音を立てて閉ざされる。
校門の向こう側で、久瀬が窶れた顔をしながら施錠をしているが、その行動はどこか病的な雰囲気だ。
俺達と同様、校門の外には郁未先生も居るが、そんな久瀬を制すること無く、何か考え事をしている様に、黙ったまま傘を差して立っている。
「おい説明しろよ!」
「明日の初日に間に合わなかったらどうするんだよ!」
門のこちら側では、降りしきる雨も気にせず北川と住井が久瀬に詰め寄っている。
「何が何でも、今夜の泊まり込みは認めない。とにかく帰ってもらおう」
普段の久瀬からすれば、自らこのようななりふり構わぬ行動を取る事は珍しいと言える。
「久瀬さん、本当に駄目なんですかー? このままだと準備が終わらないかも知れないんですー」
住井達に代わって佐祐理さんが久瀬に願い出る。
「倉田さん……今日は、今夜は帰って下さい」
佐祐理さんから視線を逸らしつつ彼女願いをも突っぱねる処を見ると、久瀬の本気は相当の物だろう。
「……判りました。舞、帰ろうー」
何時になく真剣そうな久瀬に、それ以上は何も言わずに佐祐理は車へと向かいながら舞を呼ぶ。
舞も黙ったまま頷くと、佐祐理さんに付いて行く。
退いた佐祐理さんに代わって折原が前へ出る。
「”生徒の自主的管理による運営”という大定番を、会長自ら踏みにじるからには、それなりの説明はしてもらえるんでしょうね?」
「説明など無意味だね」
会話はそれだけで終わり、久瀬と折原が閉ざされた校門を挟んで対峙する。
暫くの間誰も口を開かず、静寂の中に雨音だけが響いていた。
「ふぅ……判ったよ会長殿」
軽く溜め息をつきつつ先に目を離して引き下がったのは、意外にも折原の方だった。
校門に背を向けると、呆気にとられた住井と北川の横を通り、様子を見守っていた瑞佳の方へと向かう。
「それじゃみんな、明日の朝までオサラバだ。さて、帰ろうぜ瑞佳。七瀬はどうする?」
いつものすこし意地悪そうな笑顔で皆に別れの挨拶をすると、帰る方向が同じ七瀬にも声を掛ける。
「あ、うん。途中まで一緒に行くわ」
そう答えると、七瀬も慌てて折原と瑞佳を追いかけて行った。
「ま、久しぶりに家に帰れるのは悪くないわね」
「うん。久しぶりの布団だね」
「俺も久しぶりにゆっくり眠れるよ」
「あんたはいつも自分から妙な睡眠方法を使ってるんでしょ!」
去って行く折原達からは、そんな会話が聞こえてきた。
そんな三人の姿が闇の中へ消えると、今度は住井が久瀬の前に立つ。
「久瀬会長、夜が明けたら実行委員会に提訴して、貴方の責任を追及しますんで覚悟して下さいね」
住井が珍しく真面目な表情で食い下がっている。
「ああ何でもやってくれ。ま、もっとも明日まで覚えていれば……だがな」
久瀬はそんな挑発にも余裕たっぷりな反応だ。
いや、むしろその表情は住井を哀れんでいるかの様にも見える。
「忘れるてたまるかっ! 南、帰るぜ!」
「え?、ああ、そうだな」
住井が珍しく南を本名(?)で呼んでいる。
それだけ気が立っているという事だろう。
南もそんな反応に慣れていないのか、少し戸惑っていながら住井の後を追って行った。
「こんな格好で帰れるかっての!」
暗闇に消えて行く二人の方から住井の文句が聞こえてくる。
そういえば、住井は学園祭用の衣装着たままだったな。
闇へ消える二人の背中を見送った後で、俺は久瀬を見据えた。
「久瀬」
「ああ相沢か? 申し訳ないが、君と話すことは何もないぞ」
「随分と嫌われたものだな」
「お互い様だろ?」
「まぁそうだな。ところで久瀬、住井も言っていたが明日は何の日か判ってるんだよな?」
「さてね。ただ君よりは理解していると思うよ」
「何?」
「いや失敬。明日は学園祭の初日だろ? せいぜい朝早く来て間に合わせるよう準備するんだな。もっともそんな必要はないだろうがね」
「最高責任者とは思えない発言だな?」
「気にするな、他意はない。さて僕の話は終わりだ早く帰りたまえ。それともまだ何かあるのか?」
「いや何もないな。それじゃ名雪、帰ろうぜ」
言いたいことは色々あったが、佐祐理さんも折原も引き下がった以上、俺だけが食い下がっても仕方がない。
それに、今の久瀬の雰囲気からいって、俺が何を言ったところ状況が変わらないのは明らかだった。
「それじゃ美坂、日も暮れたし途中まで送って行くぜ」
「有り難う、栞行くわよ」
「はい。それじゃ皆さんまた明日です」
成り行きを見守っていた北川と美坂姉妹はそう言い残し、雨の中を列んで傘をさして去って行った。
「バイバイ〜」
名雪は手を振って香里達に答えた。
「祐一さーん、名雪さーん、送っていきますよー」
歩き始めようとした俺達に佐祐理さんから声がかかる。
「……祐一も名雪も乗って行く」
俺と名雪は互いの顔を見て頷き合った。
「うーん、こんな天気だし……せっかくだからそのお言葉に甘えさせてもうかな」
「倉田先輩済みません」
俺と名雪が礼を言いながら、佐祐理さんの車の後部座席の乗り込む。
ちなみに、雨が降っているのでガブリオレのWRXにはトップが付けられ、見た目はノーマルのクーペモデルと変わらない状態だ。
「しかし、すごい雨だな……」
俺達が雨を避けるように車に乗り込むと、佐祐理さんがアクセルを踏み車を走らせる。
遠のいて行く校舎のシルエットが、完全に闇に溶け込み見えなくなるまで俺は見送った。
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§ |
皆が去って校門には、久瀬と郁美の姿だけが残った。
「校長を含め先生方、そして他の生徒会関係者も全て帰宅させました。これで校内に残っているのは僕と先生だけです」
「うんご苦労様。私は少し気になる事があるから、先に外で調べ事をしてくるわ」
「へ?」
てっきり一緒に行動するものと思っていたのだろう、久瀬が間の抜けた声を上げる。
「そんな変な声を出さないの。すぐ戻るわ。君には私が帰ってくるまで、出来るだけ校内を調べて欲しいの」
「ど、どうやってですか?」
さすがに狂った(と思われる)世界で、しかもその中心地と思われる学校に、夜一人で居るのは心細いのか、久瀬には昼間の勢いが感じられない。
「何でも良いわ。とにかく何かおかしなところが無いか……もし何かあったら、直ぐ私の携帯に連絡を入れて」
そんな久瀬を安心させるかの様に、穏やかな笑顔で郁未は伝える。
「判りました。郁未先生、何だか嫌な予感がします。気を付けて下さい」
久瀬もまた、そんな彼女の気持ちを察して気持ちを引き締めると同時に、純粋に自分が感じる事を伝えた。
「ふふっ、有り難う。それじゃ後で電話を……って、君は携帯電話持って無かったわね。じゃ、三〇分置きに生徒会室の電話にかけるわ」
「先生、時計は……」
時計は無意味だと伝える久瀬を遮り、郁未が微笑む。
「大丈夫よ、はい」
そう言って彼女が差し出したのは、体育教師の机から持ってきたアナログ式の古くさいストップウォッチだった。
「私も同じ物を持って行くわ。今、同時にスタートさせれば、時間は判らなくとも、お互いにおおよそタイミングは合わせられるはずよ」
関心しながら久瀬は差し出されたストップウォッチを受け取る。
「判りました」
「それじゃ合わせるわよ……三・二・一」
”カチッ”
かけ声に合わせて二人は同時にストップウォッチのスタートボタンを押す。
「うん。それじゃ三〇分後には電話を入れるわ。此処にいると濡れるから早く校舎へ入るのよ。いいわね」
そう言うと郁未は校門横に停めてあったAZ−1に乗り込むと、素早く発進させた。
残った久瀬は雨に打たれながら、闇に浮かぶAZ−1のテールランプを見送る。
やがて角を曲がったらしく、テールランプの光りが彼の視界から消えると、一人残された校門で佇む久瀬の耳に、雨の音が一層大きな物となり、彼を不安にさせる。
しかし手の中で”チッチッチッチッ……”と刻む秒針の小さな音が、今の久瀬にとってとても心強く感じられた。
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§ |
容赦なく降る雨の中、通い慣れた道を折原達は言葉少なげに歩いている。
「はぁ……すごい雨だね」
「それにしても随分と急な雨だったな」
「ホント、まるでスコールみたいね」
七瀬の言葉通り今降っている雨は唐突な物だった。
実際、日暮れまで天候は良く、折原の友人であるみさきが見ることができれば、満点に近い得点を付けるほどの夕焼け空が広がっていた。
そんな急な雨にも関わらず、彼らが傘を持っているのは、教室の誰の物とも知れぬ置き傘を使用しているからだ。
流石に長森は、当初使用を躊躇っていたが「明日返せば良い」と折原に言われた事で納得している。
「そーいえばさ、折原さっき随分素直だったわね?」
七瀬は気になっていた事を尋ねてみた。
「さっき?」
「ほら……その、会長とのやり取り」
折原の顔を伺いながら、少し遠慮がちに七瀬が言う。
「ああ、あれね?」
しかし折原は特に気にした様子も無く、普段通りの口調で答えた。
「私も少し驚いたよ。浩平の事だからまた凄いこと言って困らすんじゃないかって、思ってたから」
そんな折原にホッとしたのか、普段の調子のまま長森が自分の想像を口にする。
「そうそう。見えないところから塀をよじ登るとかね」
七瀬も長森に同調して、おどけた態度で言う。
「うん。私も本当に素直に帰るとは思わなかったよ。絶対、途中で引き返して何かやるんじゃないか……って」
「オレってそんなに普段から変な事してるか?」
そんな二人に、折原は真顔で尋ねた。 『うん!』
「即答かよ。ま、オレだって邪魔ばかりする訳じゃない。これでも分別はわきまえているつもりだ」
「分別ねぇ〜」
呆れ顔で呟く七瀬。
「ま、奴の目がそれだけ真剣だったって事さ。それに、オレは相沢程に奴の事を嫌っているわけではないぞ。無論好きなわけでもないがな」
相沢の久瀬嫌いは、舞の事件絡みの影響で根が深いのは、友人達の間では周知の事実だ。
「ふ〜ん。あ、それじゃ私こっちだから」
「七瀬さんバイバイ、気を付けてね」
「じゃあな七瀬、駅前でストリートファイトやらないで真っ直ぐ帰れよ」
「あほっ! やるわけないでしょ。ったく……あ、瑞佳バイバイ〜」
そんな憎まれ口にも、七瀬は笑顔で二人に別れを告げると駅へ向かう道へと進んだ。
「ね……浩平?」
七瀬と別れて二人きりになった後、しばらくしてから長森が遠慮がちに折原の名を呼ぶ。
「なんだ?」
「今日……浩平の家に行っても良いかな?」
突然のお願いに、あわや派手に転びそうになる折原。
「な、何だやぶから棒に!」
体勢を整えて理由を求めるが、その声はうわずっている。
「だって、ここ最近ずっと一緒だったから、離れるのが少し寂しいんだもん」
傘越しに上目使いで見つめる視線に、折原が顔を紅潮させながらたじろぐ。
「ば、馬鹿者! 却下だ! それに今まで飽きるほどに学校で一緒に寝泊まりしていたろ? 久しぶりに家族と」
「浩平、二年生になってから私寮住まいだよ?」
長森が折原の言葉を遮る。
確かに、母親が単身赴任の夫の元へ数年間行くことが決まってから、長森は学校の寮へ入っている。
「ぐっ……ならば稲城の部屋にでも行けばいいだろ?」
苦し紛れに折原が長森の親友――稲城佐織の名前を出す。
「も〜う……佐織は一年の春休みに引っ越したもん。浩平が私を珍しく慰めてくれたんだよ。忘れたの? 私ね、あの時凄く嬉しかったんだよ」
「うがぁっ!」
少し顔を赤らめて話す長森を見て折原が言葉を詰まらせる。
長森にとって家族との別離と親友の引っ越しは、浩平との関係を”単なる幼なじみ”という状態から一歩先へ進ませたきっかけだった。
「うりゃぁっ!」
折原が突然長森にチョップをかます。
当然照れ隠しのチョップだが、力の加減をあまりしないのが折原と舞の共通点だ。
「いたっ! もう、酷いよ浩平」
「うるさい! お前が変な事言うからだ」
そう言うと、折原は長森のペースをを無視しスタスタと早足で進んでしまう。
普段は無茶苦茶な事をする折原だが、実は極度の照れ屋な一面を持っていたりする。
「ねぇー浩平ってばーっ!」
そんな折原を長森は嬉しそうに追いかけて行く。
しかし、こういう時の折原は容赦がない。
追いすがる長森を振りきろうと、全速力で走り始めた。
「付いてくるなーっ!」
「帰る方向は一緒だよ」
雨の中を、夜だというのに二人は大声で叫びながら、まるで追いかけっこをしているかのように走っている。
「おわっ?!」
そんな声を上げて全速で走っていた折原が急に立ち止まる。
「はぁはぁ……待ってよ〜浩平〜……ってあれ、どうしたの?」
立ち止まって長森を待つという、折原らしからぬ行動に長森が首を捻りながら尋ねる。
「なぁ瑞佳。何だか道に迷ったみたいだ」
「え〜っ?!」
そう言われて、改めて周囲を見回す長森。
「本当だ。ここ何処?」
「うーん、夜道を走って間違えたか?」
「はぁ……駄目だよ浩平〜もっとしっかりしなきゃ」
盛大な溜息を付く長森は、まるで保護者の様な口振りだ。
「あのな〜もう一年以上通った道だぞ? いくら夜だからって間違えねぇよ」
「でも間違ってるもん」
「それじゃアレだ」
「なに?」
「オレ達が学校に泊まり込んでいる間に、道路工事があった……ってのはどうだ?」
「無理があるよ……」
「瑞佳が道を間違えた!」
「浩平が先を走ってたんだよ?」
「それじゃ、オレ達が走っている間に道が動いていたってのは?」
「はぁ……道が動くわけないよ」
「じゃあ、じゃあ……」
折原と長森のそんなやり取りが、その後しばらく夜の街に響き渡っていた。
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§ |
丁度良いタイミングでホームに滑り込んで来た電車へ、七瀬は雨を避けるように走って乗り込んだ。
(ふぅ……電車乗るの久しぶりね)
椅子に腰をかけてハンカチを取り出し、濡れた顔を拭いながら辺りの様子を眺める。
電車は殆ど無人だった。
(それにしても随分と空いているわね。こんなものだったかしら……あら?)
七瀬がふと横を向くと、同じ車両の離れた座席に白い帽子をかぶり、同じく白いワンピースを着た幼女が窓の外を覗くように、椅子の上に膝立ちしている。
帽子の鍔に隠れてその表情は伺えない。
(こんな時間に、あの子一人なのかしら? ……ふぁあ〜)
急激な睡魔に襲われた七瀬の意識は、そこまで考えたところで途切れてしまった。
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§ |
暗闇の中を一台のバスが行く。
住井と南が乗ったバスには二人の他に乗客はおらず、整然とした空間にエンジンの音だけが響き渡っている。
二人は貸し切り状態のバスの、最後部座席にゆとりを持って腰をかけている。
「ふわぁ〜っ」
流石に住井も疲れているのか、バスに乗り椅子に座った途端に目を閉じてウトウトしている。
時折大きな欠伸をしているから、熟睡という訳では無いようだ。
「ん?」
そんな住井の隣で座っていた南が、ふと窓から眺めた町並みは何時になく暗く感じられた。
雨が降り濡れた道路は、光を反射せずに吸い込み辺りを余計に暗く見せるものだが、南の目にした光景は、もっと根本的な理由で暗い町並みだった。
そう、街灯以外の灯りが殆ど見えないのだ。
「……」
ぼんやりとした不安が南の心に沸き上がる。
「なぁ……住井?」
そんな南の心配を余所に、住井は寝息を立てながら船を漕いでいた。
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§ |
通い慣れた通学路が普段と比べて暗く、そして静かに感じたのは、三人にとって共通の見解だった。
いつもは人が通る度に吠える犬も、雨の所為か形を潜めている様だ。
「何だか静かですー」
栞の言う通り、雨音以外には三人の歩く音しか聞こえない。
「そう言えば、静けさってものを久しく忘れてたわね」
懐かしむように、そして少しだけ寂しそうに香里が呟く。
「毎日毎日大騒ぎだったからなぁ〜」
北川は少し苦笑交じりに、ここ最近の学校での騒動を思い返していた。
連日の馬鹿騒ぎで体力的な疲労は無論有ったものの、彼にとっては香里と寝食を共にできた、実に歓迎されるべき日々であった。
そんな至福とも思えていた時間も、あと僅かで終わりの告げることになる。
次の交差点の先にある橋を渡った所が、彼と美坂姉妹の家へ向かう分岐点である。
橋を渡ってしまえば本来の生活へ戻ってしまう事を考えると、北川は残念で仕方がなかった。
そんな思いを密かに秘めて交差点を曲がった時、彼は思わず息を飲んで立ち止まった。
「何だ?」
「あら?」
「え?」
北川に続いて歩いていた姉妹も、驚きの呟きを上げると同時に立ち止まった。
彼らの眼前には黒々とした川の奔流が横たわって行く手を阻んでおり、各々が暮らす家へと進むには、目の前のこの川を渡る必要がある。
無論、泳いで渡るわけではない。
彼らが驚き立ち竦んでいる理由は、いつも利用していた陸橋がそっくりそのまま姿を消しているからだった。
「あれー、確かここには陸橋が有ったはずですよね?」
そんな光景に、栞は思わず驚きの声を上げた。
川に架けられていた橋を含めて四つ辻を構成していた交差点が、眼前で三叉路に姿を変えている。
三人は自分達の記憶と目の前の光景の差異に、暫しの間頭を悩ませた。
「夜道だから道を間違えた……とかかな?」
「昨日今日使い始めた道じゃないわよ。間違えるかしら?」
「うっ……でもこのまま此処に居たって埒が開かないし、とにかく隣の橋まで行こうぜ」
「……そうね。この場合仕方ないわね。栞、行くわよ?」
「えぅーっ。早く帰りたいですー」
「大丈夫よ。さっ、行きましょう北川君」
「お、おう!」
(やべぇ! 俺の祈りが天に通じちまったのか?!)
北川は自分にそう言い聞かせながら、慌てて先を歩いている美坂姉妹を追って川に沿って歩き始めた。
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§ |
「……佐祐理疲れた?」
「ううん。大丈夫だよ」
祐一と名雪を水瀬家まで送り届けた二人は、秋子さん達(特に真琴)からのお茶の誘いを丁重に断り、舞の暮らすアパートへ向かっている。
「もうすぐ舞の家だねーっ」
祐一と佐祐理以外では決してその違いに気が付かないであろうが、頷く舞に寂しげな表情が浮かんでいた。
「そうだ。ねぇ舞、今日佐祐理の家に泊まる?」
「……いいの?」
「うん。ここ最近ずーっと一緒だったからねー、いきなり一人じゃ舞、寂しいでしょ?」
「……うん」
佐祐理のそんな心尽くしに素直に頷く舞。
物心付いた時には既に父は居らず、唯一の肉親である母親にも早く先立たれ、更に元来から持っている不思議な力故に孤独な存在だった舞にとって、祐一を通して最近出来た友人達はとても大切な存在だ。
そして佐祐理と祐一に対する想いは他の何よりも大きく、舞にとっては何事よりも優先される掛け替えのないものだ。
故に二人に危害を加える者が居れば、舞は己の全てをなげうってでも阻止するだろう。
「あは、舞は早く祐一さんと一緒に住みたい?」
「!!」
「あははーっ! 舞照れてるんですねーっ」
助手席から佐祐理の頭へ、運転に支障の出ない程度に軽くチョップを入れる舞だが、その頬は朱に染まっている。
卒業したら一緒に住もう――それは再会した祐一との新しい約束。
だが、舞にとって祐一と佐祐理は比較の出来ない対象だ。
愛情と友情としての差は有るものの、全く同格として認識している。
だからこそ、祐一との約束を叶える際、佐祐理を除け者にするなど考えの及ばぬ事だ。
「……その時は佐祐理も一緒だから」
そんな言葉が自然と口からでる。
「ふぇ?」
「祐一と私と佐祐理は一緒。だから三人で暮らす」
それは舞の偽らざる本心だ。
世間の風潮から見ればタブーかもしれないが、自分に何処までも素直な舞は気にすることなく言い切った。
もっともそれは佐祐理にしても同じである。
「有り難う、舞。でも良いの? 邪魔じゃないかな?」
「佐祐理が邪魔なわけない。ううん……一緒じゃなければ嫌。それは祐一も同じ」
「本当に有り難うね、舞。佐祐理はとても嬉しいよ」
舞の言葉に微笑む佐祐理もまた過去に深い傷を負っており、その傷が足枷となって社交的な外見とは裏腹になかなか本心で他人に接する事が出来なかった。
それでもこの辺りでは知らぬ者が居ないほどの名家である倉田家”唯一”の跡継ぎである佐祐理には、幼い頃より世渡りや人との接し方を叩き込まれている。
舞は、そんな仮面を被った態度ではなく、佐祐理が本心から付き合えた最初の友達だった。
そして舞を通じて知り合った祐一もまた同様であり、佐祐理にとっては、本心で接する事ができる生涯で二人目の異性だ。
更にその祐一を通すことで、より多くの友人を得た佐祐理は、最近になって初めて自分が人間らしい人間になれたと思っている。
佐祐理にとっても、そんな親友二人と共に過ごせる日が来るのならば、世間の風潮など意に介さずに大手を振って迎え入れるだろう。
「ねぇ? ……舞は祐一さんの事好き?」
「……相当嫌いじゃない」
佐祐理の突然の質問に、舞は慌ててチョップをしようと手を挙げたが、親友の真剣な表情に気が付き手を納めると、顔を真っ赤にして消え入りそうな声で答えた。
「そうだよね。でもね……佐祐理も祐一さんの事が好き。それでも一緒に住んで良いの?」
舞はそんな佐祐理の言葉に黙って頷いた。
佐祐理は舞が大切で、彼女の幸せこそ何よりも大切なものと思っている。
舞もまた佐祐理が幸せになる事を強く望んでいる。
そんな関係の結末がどうなるのか、今の二人には判らない。
「それでも……私は佐祐理と祐一と三人で生きて行きたい」
「そうだね。今はそれで良いよね。よーしっ。佐祐理も頑張るぞ」
二人はお互いに頷き合う。
互いの幸せを祈って。
暫く車内にはワイパーが窓に落ちる雫を掻き分ける音だけが響いていたが、ヘッドライトが照らし出す外の様子に佐祐理が声を上げた。
「あれ?」
「……どうしたの?」
「変ですねー。佐祐理、道間違えたのかな?」
途中から自分の家に向かっていた佐祐理だが、目に映る普段とは見慣れぬ景色に戸惑っている。
やがて佐祐理のインプレッサは袋小路に入り込み、ヘッドライトが雨に濡れたブロック塀を虚しく照らしていた。
「おかしーなー……ごめんね舞。もう少し待っててね」
頷く舞を確認してから佐祐理はギアをバックに入れると、その場で器用にUターンさせる。
(普段歩く道を単に車で走らせるだけなのに……佐祐理はまだまだ駄目ですね)
そんなネガティブな考えを吹き飛ばすかの様に、佐祐理はアクセルを踏みこんだ。
街灯をボディに煌めかせた青いインプレッサは、水平対向エンジンの音を轟かせつつ夜の街中を通り過ぎて行った。
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§ |
郁未がものみの丘へ向かう山道へと車を向け走らせていると、雨は一層激しいものとなった。
ものみの丘は街はずれにある丘で、この街を一帯を一望できる場所だ。
未だ開発の手が入っていない為、原生林と草原がある自然の豊かな場所で、野生の動物も多いと聞く。
彼女がその地を目指している理由は、ある疑問からだった。
久瀬の仮説通り、世界全体が同じ一日を繰り返していたとして、果たしてそんな事が本当に何の制限もなく可能だろうか?
確かにそれは現実に起こっていると思われるが、もしそうならば今日この瞬間寿命で亡くなった人が居たとして、その人間は次の日はどうなるのか? 生き返る? そのまま皆の記憶から消える?
少なくとも学校で、”学園祭の前日に”怪我をした生徒は、”次の学園祭前日”にも怪我をしたままであった。
つまり、人間の肉体的な部分にはリセットはかからない。
時間に関する意識のみが改竄されている事になる。
では学校の外の街ではどうなっているのか?
まさか本当に文字通り、世界中が、地球全体が同じ一日を繰り返しているのか?
そんな馬鹿な。
幾ら何でも無理がある。
もしそうならば社会というシステムが崩壊する。
ならば、同じ一日を繰り返している範囲というものが有るはずだ。
それこそ郁未が思いついた疑問だった。
そして高台から眺めることで、何かが判るかもしれない。
――そう思って郁未はものみの丘を目指しているのだった。
やがて郁未の運転するAZ−1は、丘へ向かう山道の入り口へと辿り着く。
この周囲に民家は無い為、余計に闇が深く感じる。
日中でも人通りのほとんど無い道路に、当然人の姿はなく、彼女の行く道は街灯も無い完全な闇の中を続く無限回廊の様だ。
そんな闇の中を、AZ−1はヘッドライトの明かりを頼りに猛スピードで走り抜けている。
「しかし凄い雨ね……」
雨音が、郁未の独り言を消し去るように車内に響く。
滝のような雨が降りしきる中、丘へ通ずる道へと進入するコーナーを曲がったところで、AZ−1のヘッドライトが突如として白い何かを照らし出す。
「きゃぁっ!」
雨に気を取られていた郁美は、突如視界に入ったものを見て驚きの声をあげる。
慌ててブレーキを掛けステアリングを切るが、あまりに突然だった出来事に、高スピードであった事と雨の影響で、AZ−1はそのまま横滑りに道路を横切ってガードレールへと向かって行く。
素早くサイドブレーキを引くが、ハイドロプレーニング現象の影響で、路面とタイヤの摩擦を失っているAZ−1に制動はかからない。
「間に合わない! ごめんねっ!」
郁未は愛車に向けて謝ると咄嗟に意識を集中し、不可視の力を用いて車の右側面ごとドアを吹き飛ばし、咄嗟に外へ飛び出した。
間一髪。
彼女が飛び降りた直後、AZ−1はガードレールに直撃し、原型を留めぬ程にひしゃげ潰れた。
飛び降りた郁未は地面に叩き付けられる直前に、力を使って制動をかけた為怪我はない。
「あちゃ〜私のAZ−1……」
雨の中、郁未は濡れた路面も気にせず座り込んで、スクラップとなったかつての愛車を眺めている。
「それにしても……さっきのあれって」
事故直前、目に浮かんだ光景を思い出しながら郁美は立ち上がると、髪を辿って滴る雨水も気にせず、山道の入り口を眺めていた。
あの瞬間、ライトに映し出された白いものとは、白い帽子をかぶった一人の少女の姿――いや、ひょっとするともっと幼い娘だったかもしれない――だった。
しかし、今その場所には何の姿も、痕跡すら無い。
無論、咄嗟に避けたので少女を撥ねた……という実感も感触も無い。
もしも仮に撥ねたり轢いたりしていたなら、その身体が道路に有るはずだが何もそれらしい姿はおろか、服や帽子等も見あたらない。
「どういう事かしら?」
郁未がゆっくりと歩き、山道の先へと数歩進むと突然視界がぼやけた。
「え?」
驚いた郁未は立ち止まる。
「何かしら……これ?」
彼女の立つ場所の直ぐ前方の風景がどこかぼやけて目に映る。
例えるなら薄い曇りガラスが目の前に有って、それ越しに見える風景は、度の強い眼鏡越しに見た様に少し歪んでいる感覚だ。
訝しげにゆっくりと手を延ばして見る。
”パシッ!”
瞬間、軽い音と共に、郁未の指先に紫電が走る。
素早く指を引くと、咄嗟に不可視の力でもって指先の空間の気圧を変化させ、大気中にほんの僅かな断層を作りエネルギーの流れを遮断する。
「驚いたわ……いよいよ形振り構わず行動を起こしたのかしら?」
少し痺れる指先をさすりながら、郁未は真剣な眼差しでその前方を見据える。
どうも目には見えない壁の様な物が有るようだ。
「ふぅ……元A−CLASSは伊達じゃ無いわよ」
郁未は一端、深呼吸をして気を落ち着かせると、意識を集中し周囲の空気を集めて急速に圧縮する。
突然起きた気圧の急激な変化に、周囲の空気が彼女を中心とした僅かな空間に吸い込まれて行く。
その様は、小さな竜巻に近い。
そしてその中心に、極限まで圧縮された空気の塊が球状となっている。
それはもはや結晶と言っても良いだろう。
高速回転する空気の流れる音が辺りにこだまする。
ややあって、結晶が有る程度の勢いになったところで、郁未は空気の結晶を、前方の目に見えない壁へぶつける。
彼女の作り上げた結晶が、目に見えぬ壁に当たると、先程とは比較にならない程の紫電が走り、周囲をまるで昼間の様に照らす。
その輝きは断続して続くストロボの様に点滅を繰り返し、その間隔が段々と縮まってゆき、やがてその間隔が無くなると轟音を上げて大爆発を起こした。
「ゴホッ……ゴホッ……あぁ、びっくりした」
突然の爆発で煙を吸い込んだ郁未がむせながら、目を開けるとその目前には、未だ壁のようなものは存在していた。
「ふぅ…余程ここから先へは行かせたくないみたいね。なら……」
そう呟いて、片腕をまっすぐ前方にかざし再び意識を集中すると、手のひらの前に何らかのエネルギーが収束して行く。
今、郁未が作ろうとしているモノは、先程様子見で作った様な、半ばお遊び的な空気弾ではなく、より攻撃的な破壊をイメージした爆弾の様なモノだ。
郁未の持つ”不可視の力”は、文字通り、見ることも触ることも出来ない異能の力だ。
かつて日本中、いや世界中を騒がした宗教団体”FARGO”が、その最終目的としていた力……それがこの不可視の力だ。
彼女はその力を完全にコントロール出来る、この世でたった二人の存在の内の片割れだ。
不可視の力を用いた彼女がイメージするモノは具現化する。
その力を破壊的なイメージ……例えば「爆発」といったイメージを思い浮かべ、実行させれば念じた対象を爆発させられるのだ。
無論その逆も可能だ。
先天的なものや、時間が経ちすぎているものを直す事は出来ない(みさきの視覚や、澪の発声器官を修復する事は叶わなかった)が、以前、瀕死の重傷を負った佐祐理を救ったのは、祐一の頑張りと郁未の持つこの力に他ならない。
しかし今、郁未がイメージしているものは負の力。
かつて彼女が忌み嫌った破壊の力であり、彼女の最愛の母親を”破壊”したモノと同質の力。
先程の気弾とは比べようがない程のエネルギーの塊が音を立てて収束してゆき、郁未のかざした手の前で塊となってゆく。
この時、彼女のイメージした爆発力はMk82爆弾並のもの――それでも十分すぎる威力ではある――だが、その気にさえなれば”反応弾”並の破壊をも再現できる。
「こんなものかしら?」
郁未がその爆破エネルギーをぶつけようとした瞬間――
『やめてーっ!』
頭の中に少女の声(?)が響き渡る。
「え?!」
郁未は慌てて作り上げたエネルギーを消滅させる。
彼女の手前で形成されていたエネルギーの塊が音を立てて四散する。
怪訝そうに周囲を見回すが、有るのはかつての愛車の成れの果てだけで、声の主と思われる少女の姿は見あたらない。
「誰なの?」
そんな問いかけに答える者は居ない。暗闇の中、雨音だけが周囲に響き渡っている。
暫く待ち続けたが「ふぅ」と溜め息を付くと、AZ−1の残骸へと足を向け、中から傘を取り出す。
手にした傘を開くこともなく、車道の中央に進んだ郁未が目を閉じると、彼女を中心に突如旋風が発生しその身体を包み込む。
郁未が作り上げた暖かな風が、彼女の長い髪の毛と白衣を勢いよく靡かせている。
暫くすると風が止み、郁未は車内から持ってきた傘を開く。
雨水でずぶ濡れだった彼女の服や髪の毛は、すっかり綺麗に乾いていた。
「はぁ〜、あんな物騒なモノ作っちゃって柄じゃないわね全く。もっと冷静に冷静に……っと」
溜め息混じりにそう言いながら、持ってきていた時計代わりのストップウォッチは、既に三五分を経過していた。
「いけない! 電話しなきゃ」
懐から携帯電話を取り出すと、メモリにある学校の生徒会室へダイヤルしようとしたが、スピーカーからはトーンが聞こえてこない。
「圏外ですって? しまった!」
慌てて携帯電話の表示を見て愕然とする郁未。
これでは連絡が取れない。
いや、ひょっとすると、久瀬の方から連絡を入れていた可能性もある。
先程郁未の前で起きた不可思議な反応が、久瀬に起きていないとは言い切れない。
いや、むしろ何か起こると考えた方が無難だ。
何せ今回の異変に真っ先に気が付いたのは彼なのだ。
世界が何らかの意志を持ち、今の異変を起こしたのならば、それに反する行動を取った者に対して何らかのリアクションがあると考えるのが自然だ。
「急がないと!」
はやる気持ちで愛車の残骸を見て小さく溜息をつくと、郁未は踵を返し走って街へと向かう。
郁未には、夜の闇が今夜は一段と深く、そして重く感じられた。
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