私には力がある。
普通の人は持っていない、普通ではない力が。
その力が私に囁きかける。
――狂ってるよ。
狂っているのは私?
それとも世界?
ねぇ? 答えてよ、私の中の名も知れぬ少年よ。
私は昔の事を久しぶりに思い出しながら、助手席に呆然としたままの少年を乗せて車を走らせた。
まるで何かから逃げる様に、急いで車を走らせた。
私の中の力の囁きに駆られるように。
でも出口が判らなくて……ただ闇雲に走っているだけなのかもしれない。
私の力だって、世界が変われば何の意味もない。
常識的な世界で異質な力も、世界が変わればその存在もまた変わる。
私は怖くなって逃げ出したんだ。
夢のような現実を突きつけられて、私は逃げ出した。
私の正気を保つために。
でも逃げ出した先は、出口のない迷路の中の様な気がしてならなかった。
気付いてしまった事実は、あまりにも現実離れしていて……
ああ、私は何て無力なんだろう。
■第5話「白河夜船」
「しかし妙な話ね……」
椅子に腰掛けていた郁未は、そう呟くと後ろを振り向いて窓の外を眺めていた。
窓辺に掛けている埃で汚れた白衣が、緩やかな風に揺られており、その向こうには青空が広がっている。
久瀬を落ち着かせる為、学校へ戻る前に立ち寄った喫茶店の店内は少し暗く、窓の外を少し眺めると暗順応の為、余計に眩しく映る。
空の眩しさに目を細めて、郁未は再び店内へと向き直る。
テーブルの上には水の入ったグラスと、コーヒーの入ったカップが二つずつ。
そして郁未の向かいには、薄汚れた学生服姿の久瀬が座っている。
疲労感のにじみ出た表情も相まって、汚れた姿の久瀬からは普段の高飛車な雰囲気はなりを潜め、神経質そうな表情だけが残りどこか幽鬼の様な雰囲気だ。
「数日部屋を空けて戻ってみれば、部屋の中は青カビやら銭ゴケで廃墟も同然……」
久瀬は黙って視線を落としたまま郁未の話を聞いている。
目の前に置かれたコーヒーも水も手に付けていない。
そんな様子に郁未は一呼吸をおいて、コーヒーを一口飲んでから言葉を続ける。
「まるでちょっとした浦島太郎ね。学校という名の竜宮城でドタバタ明け暮れて月日も経つのも夢の内……か。ふふっ、久瀬君ひょとして亀でも助けたかな?」
「実は……」
郁未が半ば冗談のつもりで言った言葉に、久瀬は俯いたまま口を開いた。
「最近、少し気になる事が有るんです」
久瀬がようやく口を開き語り始めた言葉を、郁未は黙って耳を傾けている。
「ほら、よく有るじゃないですか? 初めての街を歩いていて、以前何処かで見た光景に出会ったり……今、自分が行っている事が、そう……何か昔自分のした事をそのまま繰り返している様な気がしたり」
「デジャヴという奴ね。疲れている時に人間の脳が見せる幻覚……というか、偽りの体験ね」
久瀬の話し方に合わせるよう、郁美もまたゆっくりと答えを返す。
「僕もそう思ってました。疲れているんだと……だから、こんな奇妙な考えにと取り憑かれるんだと……今日あの部屋を見るまでは」
「何の事?」
郁未が問いかけると、やっと久瀬は顔を上げて郁未の顔を見つめた。
窪んだ目が、彼の疲労を物語っている。
「さっき保健室で校長先生が仰ってましたよね? 『今日一日、明日は学園祭の初日だ』と。それと同じ様な台詞を、以前にも聞いた様な気がするんです」
「ふぅ……疲れているのよ。疲れが溜まりすぎて、精神が有りもしない記憶を作り出しているだけよ。連日あの馬鹿騒ぎの面倒見てるんだから無理もないわ。しかしそれも今日一日で終わりよ、明日は学園祭の初……?!」
郁未は自分自身の口から出た言葉に違和感を覚えた。
コーヒーカップを口に運んでいた手の動きがピタリと止まる。
確かにそう意識して口にしてみると、自分自身が以前にも同じ言葉を用いた様な気がしてくる。
彼女にとっても、それは紛れもないデジャヴだった。
だがそれは現実では有り得ない事だ。
前日という事は、明日は学園祭が始まる事を意味し、ともすれば明日という単語を今日よりも前に用いられるはずがない。
「……」
「……」
暫くの間、郁未も久瀬も言葉を発さないまま時が流れる。
窓の外から入ってくる緩やかな風が、郁未の髪を揺らし頬を撫で、店内に流れる落ち着いたピアノのBGMや、遠くを電車が走る音、店の外を車が走り抜けて行く音が彼女の耳に聞こえて来る。
その間に喫茶店のウェイターが、郁未達のテーブルにやって来て水のお代わりを入れて去って行った。
確かに時は流れている。
静寂を破って言葉を再開したのは久瀬だった。
「そう考え初めて気が付いたんですが、自分でも驚くくらい記憶がはっきりしないんです。昨日の事も、その前日の事も……いや、うっかりすると数時間前の事すら忘れている事も有ります。
いつ何処で誰と会い何をしたか……そもそも僕が学校に泊まり込む様になって、一体何日経ったんでしょうか。三日ですか? それとも四日ですか?」
久瀬の口調が少し熱を帯びてきた。
「う〜ん……あれ? どたばたしていたから忘れちゃったのかしら」
自分でも曖昧な記憶に気が付きながら、郁未は自分をも誤魔化すように答える。
「忘れてしまう程前からですか?」
その言葉に郁未は久瀬が何を考えているかをおぼろげに悟った。
「久瀬君、貴方一体何を考えてるの? はっきり言ってみて」
そしてそれは、常識的には考えられない事であるはずだった。
郁未は久瀬の方へ少し身体を乗り出し、その常識外の見解を語るよう促した。
「これは、あくまで仮説です。僕の狂った脳が生み出した夢想なら、無論それにこした事はないのですが、僕はこう考えてます。
僕達は昨日も、一昨日も、いや、ずうっと以前から、ひょっとすると気の遠くなるような以前から、”学園祭前日”という同じ一日のどたばたを繰り返しているんではないかと……そして明日もです」
「何を馬鹿な…そんな事があるはずないわ。疲れているのよ。疲れて意識が混乱しているだけよ! 今日一日ゆっくり休んで明日になれば」
「明日になればどうなると言うんですか?! 本当に今日と違う明日が来ると言い切れるのですか? 今日と違う昨日も思い出せないというのに……」
「仮に、もし仮に君の言う通りだとして、それならば何故周りの誰も何も言ってこないの?! そんな長い間生徒が家に帰らなければ父兄が黙ってはいないわ!」
郁未はあえて強い口調で久瀬の仮説に反論する。
そうでないと、自分の正気が信じられなくなるかの様に。
「では同じ日を繰り返しているのが我々の学校内だけでないとしたら? 学校を含んだこの街全体が…いや、世界全体だとしたら!?」
「世迷い言はやめなさい! 君の精神は完全の常軌を逸しているわ。妄想よ。それは君の妄想よ」
郁未は自らと世界の正気を信じようと、大声を上げて久瀬の言葉を遮った。
そんな半ばヒステリックな状況の郁未を、久瀬はどこか覚めた様子で伺っている。
落ち着きを取り戻した久瀬。
逆に思考が混乱してきた郁未。
いつの間にか、両者の立場が入れ替わっていた。
「それでは郁未先生……僕はさっきから考えていたのですが、どうしても思い出せない事があるんです。教えていただけますか?」
久瀬は自分の仮説を証明する、簡単にして効果絶大な質問を思いついた。
「今日は一体、何月の何日ですか?」
久瀬のその言葉は郁未にとってもハンマーで殴られた様に衝撃的――いや絶望的だった。
「え?」
(ちょっと待って……え? 何で? 何でそんな事が判らないの?)
郁未は震える肩を自分で抱きしめながら、久瀬の質問に答えられない自分の精神を疑った。
「僕の着ている制服は冬服ですから、冬かも知れません。しかし、先程から聞こえる蝉の鳴き声……これは幻聴ですか? 学校の時計が壊れてチャイムがでたらめに鳴っても、どうして誰も修理を呼ばないんですか? そもそも学園祭は何日開催でしたか? 主催責任者であるはずの僕ですら思い出せずにいる。いや、もっと簡単に考えるなら、郁未先生はここ最近時計やレンダーをご覧になりましたか?」
「!?」
追い打ちとも言える一言に郁未は思わず顔を上げて久瀬の表情を伺う。
「何故見ないんですか? どうして我々は生活はそのままに、時の概念だけが欠落しているんです?」
久瀬の表情は別に勝ち誇っているのでも、馬鹿にしているわけでもない。
彼の表情もまた、自らの仮説が正しい事に驚愕しているのだ。
「どうしたんですか、携帯電話を見れば良いだけですよ? もっとも無駄だとは思いますが……」
そんな言葉に、郁未は携帯電話を取りだし、液晶パネルに表示されているはずの日付を見て驚きの声を上げる。
「な、何で! どうして!」
携帯電話のパネルには日付も、そして時計すら表示されていなかったからだ。
「あの部屋をご覧になったでしょう? 部屋があんなになるまでに、一体どの位の月日が必要だと思いますか?」
「……」
震える手で携帯電話のパネルを眺めている郁未に、久瀬はなおも言葉を続ける。
「僕は、あの部屋を見てずっと考えてました。確かに部屋を空けたのは、僕の意識の中では数日のはずです。しかし現実には明らかに無人状態になって数ヶ月……いや、ひょっとすると数年間経っているんではないかと。
そうなると考えられるのは二つです。時の流れが狂ったのか? それとも僕が狂ったのか?」
久瀬の言葉に、郁未は視線を戻して彼の顔を見つめる。
「先生……僕の正気は、一体誰が証明してくれるんですかね?」
久瀬の言葉が、そのまま郁未の頭の中で響き渡る。
遠くから聞こえる街の喧噪が――人々の営みの証であるその音が、何かよそよそしい物に思えた。
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