「……」
 扉を開けた瞬間、僕は声を失った。
 目の前に広がる光景が、全く予想だにしていなかったものだったからだ。
「……」
 呆然としつつ僕は目の前の光景に至る可能性を考える。
 もしも時間という物が物質的に存在するものだとしたなら、それを目で見る事ができるかもしれない。
 しかし現実に時間とは、形を持っている物ではなく、あくまで人間の意識の産物にしか過ぎない。
 いや――正確に言うならば人間の作り出した社会の中だけにしか存在しない、実に不確実なものなんだ。
 例えば人間が一人しか居なかったらどうだろうか?
 恐らくその世界には時間という概念は必要ないだろう。
 せいぜい、朝、昼、晩……という事が理解できれば良いだけであって――いや、それすらも不用かもしれないが――今が、何年何月何日なのか? 何時何分何秒なのか? そんな疑問は何の意味も持たなくなる。
 ”過去から未来へ一定の速度で流れるもの”が正しい時間のあり方であるならば、今、僕の目の前に広がる光景に至るには、その時間の流れが狂っているのか、僕の意識が狂っているのか、そのどちらかが原因という事になる。

 ――狂っているのは僕か?

 ――それとも世界なのか?

 僕がここ最近感じていた違和感に、はっきりと気が付いたのは、学校を離れ何日かぶりに下宿先の部屋に戻った時だった。









■第4話「暗雲低迷」









”キーンコーン カーンコーン……”
 聞き慣れたチャイムに目を覚ます。
 床に敷いた段ボールで寝るのに慣れてきた自分が少し嫌になる。
 あくびをしながら身体を伸ばそうとしたところで、腕に違和感を覚えて目を向ける。
 その違和感の正体は直ぐに判った。
 今だ不鮮明な視界の中に、俺の腕を枕にして寝ている舞の姿が有り、そして反対の腕にも同じような姿勢で佐祐理さんが寝息を立てている。
(舞のやつ寝顔は可愛いよなぁ〜。おお、さゆりんも実にラブリーで……)
 と、そこまで考えたところで意識が覚醒し、状況が如何に危険なものかを把握した。
 確かに美少女二人に両側で添い寝して貰っている現状は歓迎すべき事態と言えるが、残念な事に今俺が居る場所は教室なのだ。
 自室でもなければ、同伴旅館の一室でもない。
 そして当然な事に、この教室に居るのは俺達だけではない。
「おい、起きろ舞、佐祐理さんも起きてくれ」
 俺は二人にだけ聞こえるように、そっと声をかけるが――
「う〜ん……」
「スースー……」
 二人ともスルー。
 しかしこれ以上大きな声を出せば皆が起きてしまう可能性が高まり、危険度もぐっと増す。
 俺が今後とも社会的地位を存続して行くには、何としてでもそんな事態は避けなければならない。
 素早く首と目だけを器用に動かして辺りの状況を確認すると、教室のあちらこちらから寝息が聞こえてきた。
 まだ大丈夫だが安心は出来ない。
 皆が目覚める前に状況を改善しなければならないのだ。
 しかし二人が起きてくれない以上、俺自身が何とかする必要があるのだが、両腕が固定されて身動きが取れない俺にはなかなか難しい話だ。
 一気に腕を引き抜くという事も出来ない事はないが、それだと佐祐理さんも舞も頭を打ち付けてしまう。
 そんなことをしたら当然起きるよな。
 そして舞はともかく佐祐理さんは後頭部を打って痛がるわけだ。
『ふぇ〜痛いです〜』
 ――とか涙浮かべながら言うわけだよ。
 すると舞が怒るよな? 殴られるのは当然として、最悪は刀で斬りかかられる――とまぁ、そんな光景があっさりと目に浮かぶんだから当然却下だ。
 仕方ないので俺は両腕に少し力を加えて振動をさせてみる。
「う、う〜ん……」
 暫く続けると舞に僅かな反応が起こる。
 手応えを感じた俺は、更に腕の振動を強くする。
 だがその瞬間――
”ごろん”
 俺の腕の揺れに反応して、舞が腕の上を転がるように寝返りをうった。
 しかし俺の目論見に反して、俺の肩へ向かって転がって来たのだ。
「すーすー……」
(ね、寝息がーっ! 俺の頬にぃ〜っ! 落ち着けぇ俺っ!!)
 端から見れば、舞が俺に抱きついているようにしか見えないだろう。
 こんな状況を他人――特に住井や北川――に見られるわけにはいかない。
 俺だって命は惜しいのだ。
 一刻も早く、皆が起きる前にこの状況を何とかしなければならない。
 俺がそうこう焦っていると、突然近くで人の気配が!
「う〜ん……祐一〜おはよ〜」
「うげっ!」
 何と、気配の主は名雪だった。
 彼女の出現に驚いた俺は、器用に口だけを使って毛布を引っ張り、二人の姿を素早く隠した。
 だが――
(うおっやべぇっ二人の髪の毛がはみ出していやがるぅっ!)
 見れば毛布の隙間から二人の長い髪の毛がしっかり外に出ていた。
「ん〜どうしたんだおー?」
 危機的状況に焦る俺だったが、まだ望みは残されていた事を知る。
 名雪の言葉を聞く限り、彼女がまだ寝ぼけている事は確実であり、まだ誤魔化す事は可能なのだ。
 地獄に仏とばかりに、この状況を打破するべく俺の大脳が高速演算を開始し、とにかく適当な事を言ってこの場より追い出す事にした。
 しかし何だな。
 名雪と奇跡ってのは起きないものじゃなかったのか?
「何だか酷い事言ってるんだおー」
「寝ぼけたまま俺の頭の中を読むんじゃない。いいから、お前は顔洗ってこい」
「祐一声に出してたんだおー。それに何か隠してるんだおー」
「べ、別に何も隠してないぞ」
「何だか怪しいんだおー」
「いいから……あ、洗面所に秋子さんのイチゴジャムが置いて有るぞ!」
「だったら行ってくるおー」
 そう言うと、ふらふらとした足取りで教室を出ていった。
「ふぅ……行ったか」
 名雪の出ていった教室の扉を見つめながら俺は大きく息を吐いた。
 僅か数秒のやり取りに俺の大脳はヒートシングが追いつかない程に熱くなっているようで、額には汗が滲み出でいた。
 額に浮かんだ汗を拭おうにも、両手が塞がっている事実を思い出す。
 さて、当面の時間稼ぎは出来た。
 名雪が帰ってくる前に、何とかして状況を改善しなければならない。
「大変そうですね祐一さん」
「ああ、全く名雪の寝ぼけぶりは、いつもながら世話がかかるが、今回ばかりは幸いだった……って、栞!?」
「お早うございます祐一さん」
 俺の足下には、やけにニコニコ顔をしている栞が立っていた。
「……」
「どうしたんですか?」
「なぜ栞がここに?」
「酷いですー、昨夜お姉ちゃんに会いに来てそのまま泊まって行ったじゃないですか」
「そ、そうだったっけ?」
 記憶の曖昧さにも驚くが、今はそれどころではない。何とかしてこの娘を懐柔しなければならない。
「なぁ栞」
「はい?」
「黙っててくれるよな?」
「そうですね……事と次第によります」
「あはは……」
「あはは♪」
 苦笑いの俺と違い、栞はとっても楽しそうだ。
「アイス五つでどうだ?」
「十個です」
「七つで」
「うーっ。まぁ、良いでしょう」
「それじゃ契約成立だ。
 栞、悪いが佐祐理さんの頭を持ち上げてくれ」
「はーい♪」
 嬉しそうに返事をして栞が、俺の枕元に来てしゃがみ佐祐理さんの頭をそうっと持ち上げる。
 その隙に俺は腕を引き抜く。
(ふぅ、ようやく片腕が自由になった……ん?!)
 俺が佐祐理さんの方を見ると、しゃがみ込んだ栞が見える。
 この学校の女子制服のスカートは短く、そして俺は床に寝ているわけだから、その、何だ――
(なるほど……栞はストライプか……ま、妥当といえば妥当だな。うん)
「……祐一さん!」
「ん? うおっ!」
 栞の顔を見ると、真っ赤になりながら肩をわなわなと振るわせている。
 どうやら、また声に出していたようだ。
 俺は自分の癖を呪いつつ、急いで舞の頭を空いた腕で支えると、残った腕を引き抜き、素早くだがそうっと起きあがる。
 そしてそのまま、今にも騒ぎ出しそうな栞の口を塞ぐと脇に抱えるようにして抱き上げて廊下へ出て行く。
「あ、おはよー祐一……って何してるの?」
 タイミング悪く、丁度洗面所で顔を洗ってきた名雪と鉢合わせになった。
 再び俺の大脳がこの場を丸く収めるのに適した言葉を導くために高速演算を開始する。
「ああ、栞が早朝マラソンをしたいって言うんで、こうして今からグラウンドに行くところだ」
「祐一が担いで?」
「ああ、栞は身体が弱いからな。俺がこうして担がないとマラソン出来ないんだ」
「それって、何だか矛盾してない?」
『むーむー! むー!』
 栞が何か言おうとしているが、俺が口を塞いでいるので、その言わんとしているところは不明だ。
「いいんだよ、栞はマラソンを体験するだけだから」
 自らのCPUが導き出した言葉に無理を感じつつも、俺は努めて自然に答えた。
 ハッタリは態度と対応速度で全てが決まるのだ。
「へ〜そうなんだ、大変だね」
「ああ、それじゃそう言うわけだから」
 俺がそう言って取りあえず名雪の前から消えようとするが――
「それじゃ、わたしタイム計って上げるよ〜」
 と、笑顔で言って名雪が付いて来た。
(何で、だぁーっ!!)
 俺は心の中で叫び声を上げた。


「それじゃ祐一さん、私にマラソンを体験させて下さいね♪」
 栞は笑顔だが、よく見ればその額には青筋がうっすらと浮き上がっている。
 こういうところを見ると香里の妹だと実感できる。
「なんだ、その……アレはとっさの言い訳であってだな?」
「川澄先輩と倉田先輩と一緒に寝て、私のスカートの中覗いたってみんなに言っちゃいますよ?」
「うっ」
「さ、ひとっ走りしてアイスを一緒に食べましょ♪」
 笑顔の栞が悪魔に見えた。
(何でこうなるんだ!)
 結局、俺はやけくそになって栞を担いだままグラウンドのトラックを走った。
「ふぁいとだよっ! 祐一〜!」
 そんな名雪の声援が、やけに腹立たしく思えて仕方がない。
 ちなみにタイムは千メートルで七分四二秒だった。
 このタイムを早いと感じるか、遅いと感じるかは、人によって異なるだろうが、人間を一人担いで千メートル走る競技が過去に無い以上、俺のこのタイムは現在の世界最高タイムという事になるだろう。





§







「で、何であんな馬鹿な事してたんだ?」
 北川が俺にジュースを差し出しながら苦笑交じりに尋ねる。
「はぁ、はぁ……ま、色々有って、気が付いたら……はぁ…こうなってた。あ、サンキュー……ふぅ〜」
 ジュースを受け取りながら、誤魔化しながらそう答える。
「なんだそれ?」
「まぁ……あまり深く突っ込まないでくれ……はぁ〜疲れた」
 地べたに座ったまま栞の姿を探すと、名雪と香里と三人で何やら楽しげに話をしている。
「はぁ〜」
 これであの事を喋られたら俺は本当の馬鹿だよな。
「なぁ相沢、”あの事”って何だ?」
「住井……俺の頭の中を読むな」
「いや、悪いが声に出ていたぞ」
「マジ?」
「ああ、マジだ!」
 周りを見ると北川と南が住井の言葉に”うんうん”と頷いている。
「んで、”あの事”って何だ?」
 南が興味津々といった顔で聞いてくるので、俺は話題を無理矢理変える事にした。
「幻聴だから気にするな。それよりも折原の姿が見えないが?」
「ま、いつもの事だ」
「目が覚めたら教室にいなかった」
「そんなわけで今、長森さんと七瀬さんが探しに行ってる」
 北川、南、住井が、ご丁寧に三人で言葉を繋げながら答えてくれた。
『んで、”あの事”って何だ?』
「うっ……」
 俺が三人に追求され、しどろもどろな状態になっている処で声がかかる。
「祐一さんお疲れ様ですー」
 見れば佐祐理さんと舞が手を振って校庭へ降りてきたところだった。
「祐一……今度は私の番」
 舞は近付いて来るとそう言った。
「何でだ!」
 俺は立ち上がると、舞の頭に軽くチョップをお見舞いする。
「……痛い」
 舞は不満そうな視線で俺を見る。
「半病人の栞でさえ辛いのに、お前を担いで走ったら死んじまうよ」
 そう言った途端に”ベシィッ!”という音と共に視界が一瞬ブラックアウトする。
 舞のデンジャラスチョップが俺の脳天に直撃した様だ。
「私はそんなに重くない」
「ぐおぉぉっ……」
 視界が回復してきたが、あまりの衝撃に今だ目眩がする。
「祐一さん酷いですよー、舞の体重はよんじゅうきゅ……」
「佐祐理、変な事言わない」
「あはっ。ごめんね〜舞」
 未だに痛む頭を撫でながら、じゃれ合う(?)二人の姿を見ていたが、そんな俺の視線に気が付いたのか、舞が僅かに頬を膨らませ、これまた僅かに不機嫌な口調で呟くように口を開く。
「……祐一が悪い」
「はい?」
 そもそもあなた方が俺の隣で寝ていた事が原因なんですが……自覚は無いんですね。
 と言うよりも、悪気がないんだろうな。
「ねぇねぇ祐一」
 舞の無邪気さに内心溜め息を付いていると、名雪と香里、そして栞がやって来た。
「まだ折原君見つからないみたいなんだけど、朝ご飯どうする?」
「どうするも、こうするも、待つしかないだろ?」
 俺は、頭をさすりながら名雪に答える。
「そうだな、折原だけなら放っておいても構わないが、長森さんと七瀬さんが可哀想だよな。うん」
 住井の意見に香里と北川、そして南が頷いている。
「ところで、祐一さん昨夜はよく眠れましたか?」
「ぐはっ!」
 俺は佐祐理さんの唐突な質問に、その場でひっくり返る。
「あ! そう言えば皆さん聞いて下さい。今朝私が目が覚めたらですね」
 突然そんな事を言い出す栞に、俺は目にも止まらぬスピードで立ち上がり、栞を今朝同様脇に抱えて少し離れた場所まで連れて行く。
「栞!」
「はい?」
 俺は栞をの耳元に口を寄せると、彼女にだけ聞こえるように小声で喋る。
「俺は、お前の約束を守るし、朝っぱらからウエイト背負ってマラソンだってやった。だから」
 俺はそこまで言って、舞と佐祐理さんの方をちらりと見る。
「あ、そうでした。判ってます。任せて下さい」
 栞が”ぐっ”とガッツポーズをしながらそう宣言する。
「今、『そうでした』って言わなかったか? まさか忘れていたわけじゃ……」
「祐一さん、男の人が細かいことを気にしてはいけません!」
 俺の言葉を遮るように栞が言う。
「いや、その細かい事が俺の命に関わる事なんだが?」
「この美坂栞、約束した事は死んでも守り通します!」
「う、うむ……死なれても困るが、その言葉は信じているぞ」
「はいっ!」
 ビシッと敬礼をしながら言う栞を、とりあえず信用して俺達は皆の元に戻る。
「祐一どうしたの?」
「いや、気にするな名雪」
「相沢君、まさかあたしの妹に何かしたんじゃないでしょうね? ”朝起きたら”とか言ってたけど、夜の間に栞に悪戯したとか」
 香里が俺の方を睨みながら言う。
「そんな事しねぇよ!」
「お姉ちゃん、そんな事ないですよ」
「そう? なら言いんだけど……相沢君の態度が今朝は妙におかしいから、何か隠し事が有るんじゃないかな? って思えちゃうのよね」
 さすがは学年主席殿。相変わらず鋭くていらっしゃる。
「そう言えば、さっき相沢が『あの事喋られたら』云々……言ってたよな?」
「ぐはっ!」
 住井っ! 何で此処でせっかくうやむやになっていた話題を蒸し返す?
 俺が思わず頭を抱えて蹲ると、香里の背後に怒りのオーラが漂い始めた。
「そうなの? やっぱり何かしたのね!」
「ちょ、ちょっと待て!」
「祐一〜極悪人だよ〜」
 名雪、ちっとは従兄弟を信じろ。
 栞が必死に「お姉ちゃん、違います〜」と声をかけているが、バーサクモードに入った香里の耳には届いていない様子だ。
 俺は逃げ出したくても蛇に睨まれたカエルよろしく既に動けなくなっており、その緊張から口の中が一気にカラカラになる。
 そんな絶体絶命の窮地に立たされた時、舞が俺と香里の間に割って入る。
「香里違う……祐一はそんな事してない」
「え?」
 その言葉に我に返る香里。
 プレッシャーが消えて、俺の身体が一気に軽くなった。
 内心で舞に礼を述べて俺はホッと胸を撫で下ろすと、乾いた喉を潤すために北川に手渡されたジュースの残りを一気に口へ入れた。
「……だって、昨夜祐一は私と一緒に寝た」
「ぶふうっっっっっっっっっっ!!」
 舞のカミングアウト的発言に口内のジュースが一気に噴出される。
『何ですとぉーーーーーーーーっ!』
 男共は声を揃えて叫んだ。
「あははーっ、佐祐理も一緒でしたよー。だから祐一さんが栞さんに悪戯なんか出来ませ〜ん」
「……」
 名雪と香里が何だか形容のしがたい視線で俺を見ている。
 あの済みません。俺帰って良いですか?
「……」
 舞は自分で公言しておきながら、顔を赤らめて俯いている。
「あはははーっ!」
 佐祐理さんはそんな様子を心底楽しそうに笑ってる。
 そんな佐祐理さんに思わず涙がキラリ☆

 結局、俺の今までの苦労は全く報われ無かった。
(今日も良い天気になりそうだなぁ〜)
 適当な事を考えて俺は現実逃避する事にしたが、住井達に強制的に現実へ引き戻され、小一時間ほど査問を受けさせられた。

 ちなみに、今朝の折原は校舎の屋上、それも貯水タンクの上で発見・保護された。





§






 朝日は穏やかで疲れた身体に心地よい。
 見上げれば青い空。
 そして白い雲。
 何だかんだで校庭に全員集合した俺達は、佐祐理さんの提案でそのまま校庭で朝食を食べることになった。
 レジャーマットを敷き、購買部で買ってきたパンや飲み物を列べる。
「やっぱ瑞佳はおにぎりにも牛乳なんだな?」
「そうだよ。朝はやっぱり牛乳が一番だよ」
「朝だけじゃないだろ? 昼飯も晩飯も牛乳じゃねーか!」
「栞も朝からアイスは止めなさい」
「好きな物は何時でもオッケー何です! そうですよね? 瑞佳さん」
「そうだよ」
 頷き合う二人。
「……私も牛丼食べたい」
「あははー、舞は牛丼大好きだもんねー」
「朝くらい朝定にしろっ!」
 先程までの騒がしさが嘘のように、平和な光景だ。
(平和だね〜)
 俺はお茶を飲みながらぼんやりと空を見上げていた。
「ん? おい見ろ!」
 突然、住井がそう言ったので、彼が指さした方向を皆が一斉に視線を向ける。
「久瀬……だな」
 折原の言葉通り、校庭を横切るように歩いているのは久瀬だった。
「まだ生きてたんか〜あいつも意外にタフだな」
 住井が変な処で感心しているが、久瀬の足取りフラフラとはおぼつかない。
「しっかし見ろよ、あの顔……」
「流石にやつれたわね」
 そんな様子を見ながら南と七瀬が、多少同情の交じった口調で呟く。
 見れば、目の下の隈もくっきりと浮き上がり、彼の表情には有りとあらゆる”疲労”という物がにじみ出ている。
「えぅー。何だか怖いですー」
 栞がそんな表情を見て少し怯える。
「ま、無理もないさ、度重なる事故の連続に、連日のドタバタ騒ぎ……心身共にズタボロだろう」
 俺は折原の言葉に(そのドタバタ騒ぎの四割はお前が原因だろ?)と、心中でツッコミを入れておく。
「”生徒の自主的管理による運営”を唱っている学園祭だけに、何か不祥事が有れば生徒会の責任が追求されるものね」
 香里の言う通り、学園祭は学生、とりわけその学生達の代表である生徒会と実行委員会が主体となって管理運営されている。
 そして学園祭実行委員会は、あくまで生徒会の統制下に置かれている組織であるから、生徒会の長たる生徒会長が実質的に全てを取り仕切る立場にあるわけだ。
「責任者としての重圧か……奴も少しくらい気を抜けば良いのにな」
 俺がそう呟く。
「何だかんだ言って真面目だもんね……久瀬さん」
 そう言う長森の顔は、少しだけ悲しそうだ。
「そうですねー」
 佐祐理さんも頷く。
 互いの正義が異なった為に敵対したとはいえ、佐祐理さん自身は久瀬を嫌っている訳ではない……と言うか、佐祐理さんが人を嫌う事があるかどうかが疑問だ。
 そう言えば、その辺り舞はどうなんだろうか?
 やたら無口な上に、自分の感情を表に出さないので、何考えてるのか判らないところもあり、彼女自身が久瀬をどう思ってるのかは判らない。
 ただ、以前の騒動の際、佐祐理さんを政治利用しようとした久瀬に対する態度を見れば、少なくとも『好きじゃない』ではないだろうか?
 ふと舞を見れば、手にしたおにぎりを黙々と食べている。
「ま、自分の正義こそが他人の正義だと考えている人間だからな……ま、国家で言えばアメリカみたいなもんだ」
 折原がかなり主観の偏った見解を言う。
「おまけに校長の頭の上には、何時落っこちてもおかしくない四〇トンの戦車がミシミシ言ってるし……」
 南の懸念ももっともだろう。アレが落ちた日にゃ、大事件になることは間違いない。
「ああ、今や自走可能なストレスって感じだな」
 俺の言葉に皆が頷く。
「折原君と住井君と相沢君が居なくなれば、随分楽になるんじゃないの?」
 香里が少し笑いながら、冗談半分でそう言う。
『何でそうなる?』
「それじゃ、せめて挑発するのは、もう少し控えたら?」
「それは無理だ。奴をからかうのは、この学校におけるオレ達の生き甲斐みたいな物……ま、いうなれば学校生活の一部だ」
「うむ」
 折原の言葉に頷く住井。香里の妥協案はあっさり否決された。
「困らせてる自覚はあるのね」
「しかし……奴が居なくなることは、それだけ俺達の生き甲斐が無くなる事を意味するわけで……なぁ折原?」
 住井がそう言うと、折原が”やれやれ”という仕草で少し考え始める。
 暫くして――
「仕方がない……奴には生き残ってもらい、今後ともオレ達の学校生活の良きアクセントで居てもらおう」
 折原は膝を叩いて立ち上がり、「ちょっと行ってくる」と言い残し校舎の中へ消えると、やがて久瀬を呼び出す郁未先生の校内放送が流れた。
 俺は折原のこういうところが、問題を起こしながらも皆から好かれている理由なんだと思う。
 ふと見た長森の嬉しそうな笑顔がとても印象的だった。





§






 放送を聞いた久瀬が赴いた時、保健室には郁未だけでなく校長の姿もあった。
 生徒達の健康を気遣うのも教職者にとって重要な勤めであるが、校長の地位にある彼が生徒一人が保健室に運び込まれる事にこうして訪れるはずはない。
 であるなら、校長がこうして保健室で久瀬の到着を迎えた理由は、彼が生徒会長という立場にある事だ。
 生徒の自主的運営を尊重しているとは言え、現実に問題が起これば校長である自分もただでは済まないのは明白であり、自己保身から考えても実質的な責任者である久瀬の体調が悪化するのは彼にとっても好ましくなかった。
 だからこそ校長は久瀬を見舞いに訪れたわけだが、動機としては若干不純な部分もあるが、生徒の身を案じている事には変わりない。
「……」
 丸椅子の上に腰をかけた久瀬が郁未の診断を受けている様を、校長はただじっと見つめていた。
 やがて郁未は聴診器を外し、久瀬に衣類を整える様言い伝えると、小さく溜め息を付いてから口を開いた。
「過労、栄養不良、睡眠不足、自律神経も失調しているわね……顔色も悪いし、要するに心身共にボロボロ。今の君は移動するストレスみたいなものね」
 そう判断した郁未は、薬品棚から薬の入った瓶を取り出し――
「ともかく、一度自宅へ戻って静養するのが良いわね。もし神経が高ぶって眠れなかったら……これを飲みなさい。精神安定剤よ」
 錠剤を幾つか包んで久瀬に手渡した。
「……はい」
 俯きながら絞り出すような声で答える久瀬の顔には疲労の色がにじみ出ており、それは郁未でなくとも判る程だった。
(僕は確かに疲れている。それは確かだ)
 久瀬は制服のボタンをとめながら自問していた。
 自分の疲労がかつて無い程に溜まっている事は、自分でも自覚はしている。
 だが肉体的な疲労よりも、精神的な部分で漠然とした不安――違和感を感じ、その事が自分の疲労を増大させているのでは? 久瀬はそう考えていた。
 だが、その違和感の正体が判らない。
 ――学園祭の準備に明け暮れる毎日。
 ――何をしでかすか判らない生徒達の手綱を引き、規律を守らせる為に奔走する日々。
 文字通り目が回る程多忙な久瀬の日常の中では、目の前に迫った学園祭の事を考えるだけで背一杯であり、他の事を考える余力など残ってはいない。
 何か大事な事を忘れている――それだけが、彼の僅かな余力による思考が導き出す答だった。
「いやぁ〜天沢先生有り難うございます。しっかり頼んだよ久世君。あと一日、明日は学園祭の初日ですからなぁ」
 そう言いながら、校長が労うように久瀬の肩を軽く叩くと、その言葉が久瀬の頭の中で響き渡った。
(え?)
 校長の何気ない言葉には、久瀬の混濁しかけた意識を揺さぶる何かが含まれていた。
 久瀬は出来る限り意識を集中し、今し方校長が口にした言葉を分析する。
(今、校長先生は何と言った? 明日? 明日は何だって?)
 だが、彼が考えられるのも其処までだった。
 その先は霞がかかった様に朦朧としており、考えを纏める事が叶わない。
 だが漠然とした不安はその強みを増して行き、久瀬の意識を浸食してゆく。
「久瀬君、どうしたの?」
 郁未の声に久瀬は意識をはっと取り戻すと、頭を振って椅子から立ち上がる。
「いえ、何でもありません。それでは申し訳ございませんが、僕は一度自宅へ戻る事にします。天沢先生有り難うございました、それでは失礼します」
 そう一礼すると、久瀬は保健室を出て行った。
「ふぅ……彼は色々な意味で真面目すぎるわね」
「天沢先生も大変でしょうが、生徒達の事よろしく御願いしますよ」
 そう言い残して校長も出て行くと、保健室には郁未だけが残った。
「久瀬君大丈夫かしら? ちょっと変ね……」
 郁未は久瀬の態度から彼のメンタルな部分に不安を覚え心配したが、直ぐに怪我をした生徒が現れるとその対応に追われ、やがて久瀬の事は頭の片隅へと追いやった。

 久瀬と校長が姿を消した後、何人かの怪我の対応も終えて、ようやく郁未は一息付けた。
「ふぅ……確かに久瀬君でなくとも、ここ連日の馬鹿騒ぎには疲れるわね……ん」
 呟き郁未は目を閉じて、意識を集中する。
 するとサイドテーブルに置いてあったコーヒーカップが、誰が触っているでも無しに動き始める。
 それはやがて宙に浮き上がると、一直線に郁未の元へと移動を始めた。
「あの〜郁未先生、絆創膏貰えますか?」
「?!」
 突然の生徒に声に、郁未は精神集中を解く。
 当然空中を移動中のカップは、途中で地球の重力に引かれるように落下した。
 音を立ててカップが割れる。
「きゃぁっ! だ、大丈夫ですか? あれ?」
 絆創膏を取りに来た女生徒は、突然の音に驚き声を上げるが、椅子に腰掛けたままばつの悪そうな表情の郁未と、保健室の中央に散乱したコーヒーカップの破片を見比べ、不思議そうな表情を浮かべる。
「大丈夫よ。えーと絆創膏ね?」
「あ、はい……」
 郁未は立ち上がると戸棚から絆創膏のケースを取りだし、その中の何枚かを女生徒へ手渡した。
 受け取った女生徒は怪訝そうな表情を浮かべるも、郁未が微笑むと顔を赤らめ慌てて一礼をすると保健室を出て行った。
「ふぅ……やっぱ人間、横着は駄目ね」
 再び一人になった室内で、郁未は苦笑いをしながら床に落ちて割れたコーヒーカップを拾い集めた。





§






 その後も保健室は大盛況だった。
 日も傾き始めた昼下がり。
 午後に入ってから既に九人目の生徒の診察を片づけた郁未は、十人目となる男子生徒の腹部に聴診器を当て聴診を行っていた。
「……ただの食べ過ぎね」
 そう言って目の前に座っている男子生徒の頭を軽く叩く。
「痛っ」
「ほら下剤よ。強力な奴だから二分の一状分だけ囓って行きなさい、はい次の人」
 机の上の薬瓶をその男子生徒に手渡しながら、素早く次の診察準備を済ませる。
「先生、これ、え〜と……トランキ‥ライ‥ザ? って読むのかな? これ飲めば良いんスか?」
 下剤の瓶を手にした男子生徒の言葉に、郁未は息を呑んで視線を移した。
「そんな馬鹿な!」
 ひたくる様にして生徒から薬瓶を取り上げると、そのラベルに書かれている文字を読む。
「え〜と、トランキライザ……精神安定剤……するとさっき渡したのは? ……やっば〜」
 郁未は先に久瀬に渡した薬を間違えた事に気が付き、診察を待っていた生徒に急患が居ない事を確認してから彼等に断りを入れると、脱兎の勢いで保健室を飛び出していった。


「私だけど入るわよっ!」
 郁未が勢いよく生徒会室に入った時、其処には一人の生徒しか居なかった。
「あ……郁未先生。どうしたんです? 何か用ですか?」
 恐らく生徒会の生徒だろう、眼鏡をかけた女生徒が、何かの作業の手を休めて郁未に向き直る。
「会長の久瀬君に連絡を取りたいんだけど、電話番号とか判らない?」
「え、会長の……ですか? ちょ、ちょっと待って下さい、確か……」
 そう言うと、彼女は自分の携帯電話を取り出し、登録してある電話番号から検索している。
「あ、判りました。でも携帯電話じゃなくて下宿先のアパートの番号です」
「下宿? 彼は親元ではないの?」
 久瀬と言えば名士の息子として有名であり、多少自己陶酔気味のエリート肌な部分がある事を知っている郁未にとっては、その事実は少し意外に思えた。
「あ、この事は本来内緒なんです。何でも会長の実家は少し遠いらしく、通学が面倒だから……と言うことでアパート借りてるらしいです」
 郁美にはそれも意外に思えた。
 久瀬の性格から想像できる父親像だと、一人息子の一人暮らの為にマンションくらい用意しそうだ。
 アパート住まいを内緒にしているところをみると、久瀬自身は不本意なのだろう。
 意外と彼の父親は良識のある人物なのかもしれない――と思いながら郁未は目の前の女生徒から教えて貰った電話番号を自分の携帯電話でかける。
 しかししばらくベルを鳴らしても反応は無く、郁未は諦めて電話を切った。
「うーん、まだ家に戻ってないのかしら。ちょっと心配ね。……あ、そうだ。彼は携帯電話は持っていないの?」
「え〜と」
「今日びの学生なんだから、携帯電話のひとつも持っていると思うけど?」
 言い淀む女生徒の態度に郁未は首を傾げた。
「以前は持っていたらしいですけど、その……何でもイタ電がかかってきたり、嫌がらせメールが送られてくるらしいので、解約したそうです」
「……困ったものね」
 郁未の脳裏に『あ〜っはっはっはっは!』と、邪悪な表情で高笑いしている折原と住井の顔が浮かんでいた。
「仕方ないわね。それじゃ住所は判るかしら?」
 郁未は女生徒から生徒会の名簿を借りると、久瀬のアパートの所在地を調べ、礼を言うと生徒会誌室を後にした。





§






 郁未は白衣を羽織ったままの姿で愛車のAZ−1に乗り込むと、勢い良く学校を飛び出していった。
 六六〇ccの軽自動車とはいえ重量が七二〇kgしか無い車体は、F6A型エンジンの軽快な音と供に街を縫うように走って行く。

 ちなみに余談だが、短いタイトスカート姿の郁未が、ガルウイングであるこの車から乗降する時は、よく男子生徒が集まってくるのが、学校における日常的な光景だ。
 尚、それら男子生徒が原因不明の流れ玉や植木鉢が当たったり、突風で吹き飛ばされる事もよく知られている。

 閑話休題。
 目的地のアパートと思わしき建物に着くと、郁美はミッドシップレイアウトと、日本一クイックなハンドリングのAZ−1の特性を活かし見事なアクセルターンで停車する。
「あら〜、これはまた意外ね……」
 郁未が目的地の久瀬のアパートに着いて驚いたのは、その外見が思いのほか汚い状態だったからだ。
 ガルウイングを押し上げて、車を降りると急いで階段を駆け上がり、名簿に記されていた部屋へと向かう。


”ピンポーン”
 郁未が呼び鈴を押しても室内からの反応が無い。
 もう一度押してしばらく様子を見てみたが、やはり反応が無い。
 扉を数回ノックし声をかけてみるが、やはり無反応だった。
「……仕方ないわね。あら?」
 思い切ってドアノブを回してみると、それはいとも簡単に回った。
 立て付けが悪いのか、軋む音を立てながら扉が少し開く。
「私、天沢だけど久瀬君入るわよ? さっき渡した薬の事なんだけど…………え?」
 一言断ってから扉を開け、部屋へ入ったところで郁未の動作が止まった。
「な、何? これ……」
 部屋に入った瞬間目に飛び込んだ光景に、郁未はただ言葉を失うしかなかった。
 カビや苔が生えた畳に埃が積もった床。
 蜘蛛の巣が張った天井。
 部屋の中に干してあった洗濯物だったと思われる物には、怪しげな茸まで生えている。

 それは明らかに、主を失った部屋がそのまま長い間放置された様な有様だった。
 廃屋同然の部屋の中央、埃や綿ゴミに埋もれた机の前で、久瀬は焦点の定まらぬ目線を宙に向けたまま、ぼんやりと何か呟きながら座っていた。





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