輝かしい陽の光を受けつつ、俺は木々の間の一本道を進む。
 理由は判らないが、漠然とした使命によって遙か彼方に見える東京タワーの様な塔を目指しているのだ。
 第三者が聞いても判るようちゃんと説明しろ! と文句を言われそうだが、実際そうなんだから仕方がない。
 RPGの主人公に自分の意思が無いのと同様、今の俺に自由意思は存在しない。
 突如、道脇の草むらが音を立てて揺れる。
「きょきょきょきょ〜!」
 おおよそ人間らしからぬ叫び声を上げて、アンテナのように頭の毛の一部を逆立てた獣が現れた。
 突如現れた獣は、素早い動きで俺の進む道に立ちふさがると、特徴的な猫口から涎を滴らせてつつ”じゅるり”と嫌な音を立てつつ舌なめずりをしている。
 そんな動作が妙に腹立たしく思えるが、気を落ち着かせて状況を確認。
 明らかに敵意をむき出しにしている獣を”排除すべき敵”と判断する。
 肩に巻いていたチェーンを解き、そのグリップ状になっている先端を握りしめる。
 反対側の先にはトゲの付いた重そうな鉄球。
 モーニングスター……つまり”トゲ付き鉄球チェーン”とでも呼べばいいのか?
 いや、長ったらしいので以後は”祐一ハンマー”と呼称しよう。
 その方が皆もイメージが湧きやすいだろうからな。
 ん? 皆って何だ?
 まぁ良い。
”ぶんぶんぶんぶん……”
 俺は思いきり振り回し有る程度の勢いがついたところで、獣目がけて祐一ハンマーを投げつける。
 初弾命中!
”メキャッ!”と、嫌な音。
 獣は「ぎゅわぁぁっ!」と悲鳴を上げると脱兎の如く逃げ出した。
 俺は何事もなかったかの様に再び歩き始める。
 見れば一軒家。
 躊躇いもなくノックをすると、勢い良く扉が開き中から少女達が現れた。
「くっくっく……祐一来たわね。くっくっく……」
「あはははははは〜っ! 祐一さんお待ちしておりましたですわ。さぁ佐祐理達と”有刺鉄線電流地雷爆破デスマッチ”で勝負でーす」
 俺を迎える舞と佐祐理さんの笑顔がとても眩しい。
 言動もおかしいが、舞の髪型はモヒカン、佐祐理さんに至ってはアフロだった。
 ああ、何てアナーキー……って、こんな無茶苦茶有ってたまるか!
(夢よ終われ!)
 そう念じたと同時に、遠くからチャイムの音が聞こえてきた。











■第3話「行雲流水」












”キーンコーン カーンコーン”
 朝日に照らされた校舎からチャイムの音が鳴り響き渡る。
 ただ、校舎の時計は以前より故障して居るため、そのチャイムが正確に時刻を伝えているわけではない。
 それでも悪夢から意識を引き戻すには役立ったわけで、俺は今朝見た夢の内容を思い出し頭の中でチャイムに対して礼を述べた。
「ふあぁぁぁぁ〜っ」
 故障により不規則に鳴り響く様になったチャイムを聞きながら、俺は大きく欠伸をする。
「……それにしても眠いなぁ〜」
 俺達は校庭に備え付けられている手洗い場で、そろって顔を洗ったり歯を磨いている。
 校内は既に学園祭へ向けた準備作業が再開されており、校庭にもそれぞれの準備に奔走する生徒達の姿がちらほら見える。
「なぁ、オレ達っていつから学校に泊まり込んでるんだっけ?」
 眠そうな顔をした北川が、歯を磨きながら誰に尋ねたのでもなく眠そうに呟いた。
「あぁ? 忘れちまったよ、そんな大昔の事ぁ」
 背伸びをして身体を少し動かしながら住井が答える。
「どうでも良いけど住井とは離れて寝たいよ。いびきが五月蠅くってさ……頼むから寝ている時くらい静かで居てほしい」
「朝から文句言うなんて健康に良くないぞ沢口」
「南だっ!」
 南が歯磨き粉を口から飛ばしながら叫んでいる。
「はぁ……シャワーじゃなくてちゃんとお風呂入りたいなぁ……」
 七瀬が髪の毛をとかしながら呟く。
 その髪はリボンを解いている為ストレートで、普段と異なる容姿故に何処か新鮮に映る。
「そうね。それにちゃんとしたベッドで眠りたいわね」
 洗った顔をタオルで拭きながら香里が七瀬に同意する。
 その横では糸目の名雪が「うにゅー」と意味不明な言葉を呟きながら歯を磨いている。
「あははーっ、今日も良い天気だねー舞」
 いつもの笑顔で、佐祐理さんは舞の髪の毛を束ねポニーテールを作っている。
「……うん。いい天気」
 そんな二人を見て、一瞬だけ今朝見た夢を思い出し思わず笑ってしまう。
 しかし夢で良かった。
 モヒカンやアフロの二人なんてものは、金を積まれても現実には絶対に見たくない――佐祐理さんの手によって普段の髪型が整った舞を見て、俺は心底思う。
 二人は昨夜も結局俺達の教室に泊まって行った。
 舞はともかく、佐祐理さんは家に帰らないで大丈夫なのだろかと心配になる。
「うー、お母さんのイチゴジャム食べたいよー」
 名雪の目には何故か涙が浮かんでいる。
 ホームシックだろうか? ――と思ったが、咽せながら歯磨き粉を吐き出しているので、苺ジャムと間違えて歯磨き粉を飲み込んだのだろう。
 名雪の歯磨き粉は苺味だし……。
「あら、名雪がちゃんと起きてるなんて珍しいわね」
「うー、香里酷い事言ってない?」
「そうかしら事実だと思うけど」
 香里と名雪の会話を聞きながら、俺は折原の姿が無い事に気が付いた。
「そーいえば、もう一人の寝坊魔人はどうした?」
「あら? そう言えば居ないわね」
「うー酷いよ祐一。わたし、寝坊魔人何かじゃないよー」
 俺の言葉に皆がきょろきょろと辺りを見回す。
 ちなみに名雪の抗議は当然黙殺だ。
「ね〜浩平見なかった?」
 と、丁度そこへ折原のお目付役にして我がクラスの良心、長森が走ってやって来た。
「瑞佳〜、朝の挨拶は”おはよう”だよ」
 相変わらず名雪はマイペースだ。
「あ、おはよう……って、浩平が居ないんだよー! みんな知らない?」
「そう言えば今朝はまだ姿を見てないな?」
 歯磨きを終えた北川が頭のアンテナヘアを整えながら答える。
「あの馬鹿、また瑞佳を驚かそうとしてるんじゃないの?」
 七瀬が髪を束ねてリボンを結びながら呆れ顔で言う。
「あはは、そう言えば折原さん、この間は窓の外にぶら下がって寝てましたねー」
「……蓑虫さんみたいだった」
 俺から見れば、奴の突拍子もない行動は笑えるというより驚かされるのだが、目の前の二人にはウケてる様だ。
「あれは驚く……って言うより、心臓に良くなかったわよね」
「全くね」
 七瀬と香里が呆れながら頷き合っている。
 よかった、俺と同じ感性を持つ者の存在が確認できた。
「ああーもう、何処行ったんだろう?」
 俺がそんな事を考えている間も、長森は慌てながら周囲を探している。
「なぁ、ひょっとしたらあれかな?」
 北川が校庭の一角を指さす。
 そこは花壇だった。色とりどりの花に混ざって、見慣れた顔が咲いている。
「あーっ浩平見つけたー!」
 走って行く長森を一同は惚けて眺めている。
『…………』
 呆れ返る一同の目線の先――花壇の中で、折原は文字通り頭だけを突き出した形で地中に埋もれ、しかもそのまま寝息を立てている。
「本物の馬鹿だな……」
 流石に呆れた俺はそう呟く。
「あれじゃ皮膚呼吸出来なくて死ぬわよ」
 香里が髪の毛にブラシをかけながら、さも呆れた口調で話す。
「人類の為にも埋めちゃえばいいのよ。そうすれば少なくとあたしの平穏な日々は救われるわ」
 七瀬の口調は呆れを通り越して怒りに近い。
「うわー光合成にチャレンジしてるのかな?」
 名雪よ……それに成功したら、奴が人類ではない事を証明する事になるぞ。
「しかし、どうやって潜ったんだ?」
 長森が必死に花壇から折原を引っぱり出そうとしている光景を眺めながら、俺は疑問を口にした。
 何しろ状況が状況だ。
 いくらヤツが変人でも、脚にドリルでも付いていないかぎり、一人で肩まで地面に埋まる事など不可能だろう。
「……昨夜私が手伝った」
「あははー、舞って優しいんですねー」
『…………』
「あ〜成るほど納得……って、そんな事手伝うなっ!」
 佐祐理さんを除く全ての者が呆れる中、俺は舞の頭にチョップをしておいた。


 やがて、土の中から生還した折原と、疲れ顔の長森が戻ってきた。
「やぁ〜みんなおはよう」
「……はぁ〜信じられないよ〜」
 長森を驚かせる作戦が大成功した事で朝から妙に元気が良い折原と、正反対に深い溜息を付く長森。
「折原ちょっといいか?」
「ん? 何だ相沢」
「何となく答えは判っているが、みんなの疑問を代表して聞いておく。花壇で……というか、土ん中で何をしていた?」
「寝てた」
「なるほど。つまりお前は家でもああやって庭で寝ているのか?」
「馬鹿だな〜相沢。普通、庭で土に潜って寝ると思うか? 全く常識を知らない奴だな」
「それじゃ、もう一点。なぜ服が汚れていない?」
「ふっふっふっ。ちゃ〜んとコーティングしておいた。この折原浩平に抜かりはない!」
 爽やかな笑顔で答えながら、土で汚れたビニールの塊――恐らくゴミ袋か何かをつなぎ合わせて作った物だろう――を自慢げに見せる折原。
「そのまま土に還れば良かったのよ」
 七瀬のその一言は、皆の代弁だった。
 折原はそんな七瀬の言葉を聞き流し腕を突き上げて叫ぶ。
「さぁ〜あと一踏ん張り! 明日の学園祭初日に間に合わせる為、みんなで頑張るぞーっ!」
『おーっ!』
 ちなみに折原のかけ声に声を出して答えたのは、住井と長森と佐祐理さんだけだった。
「……おーっ」
 ……いや、舞が一テンポ遅れて応じた。
 こうして俺達の一日は始まった。

「やれやれ、んじゃまぁ今日も頑張るかな……ん?」
 見上げた中央校舎の最上部の時計には大きな「故障中」の看板がぶら下がっている。


 ――そーいえば、今は何時だろう?


 そんな疑問は、不思議と声にはならなかった。





§





『学園祭実行委員会より通達。各クラス・サークルの代表者は至急、生徒会室まで来て下さい。繰り返します……』
 校内のスピーカーから聞こえる放送が耳に届くが、もう随分と前から同じ内容の放送を聞いている気がしてならない。
 俺は、作業の手を休めて窓辺へと向かい、二階の窓から校庭を見下ろす。
 大勢の生徒達が、一生懸命荷物を運んでいたり、何かを作っている姿がそこかしこで見て取れる。
 しばらくその様子を眺めていると、丁度、巨大な信楽焼の狸の置物を乗せた台車が、校門から凄い勢いで走ってくるのが見えた。
 その台車を押している生徒は、道を空けるよう大声を張り上げながら、校庭を突っ切っているが、飛び出した別の生徒を避けようと、バランスを崩しそのまま校舎へ激突して行った。
「あ〜あ、何やってるんだか……あれ?」
 そう呟いて、俺ははっとした。
 以前にも似たような光景を見た気分になったのだ。
「デジャヴってやつか……疲れてるのかな?」
 そう自分を納得させると、頭を振って作業場へ戻り、教室の中を見回してみる。
 皆それぞれに自分の持ち場で作業を行っており、香里と名雪は二人で談笑しながらコスチュームを作っている。
「ねぇ、そう言えば名雪は行かなくて良いの?」
「え?」
「さっきの放送よ。聞いてなかったの? 陸上部の部長でしょ?」
「ううん、陸上部は特に何もしないから良いんだよー。それより香里こそ、演劇部の方は大丈夫なの?」
「大変だけど何とかなると思うわ。深山部長がしっかりしてるし、澪も頑張ってるしね」
「ねぇ香里、そう言えば何て劇をやるの?」
「あら前にも言わなかったかしら? 『戦闘妖精・雪風』ってタイトルで、零っていう主人公が謎の敵・ジャムと闘う話よ」
「……何だか嫌な名前の敵だね」
 その固有名詞に何か思うところが有るのか、名雪が少し引きつった笑いを浮かべている。
 そう言えば、香里は演劇部と掛け持ちだったっけな――記憶が曖昧な事に少し驚くが、そんな思考を遮るかのようにチャイムが鳴る。
”キーンコーン カーンコーン……”
「あれ? もう昼か」
「そう言えば腹が減ったな」
 鳴り響くチャイムに、壁の装飾作業をしていた北川と南が呟いた。
「何を今更言ってるんだ。あの時計はずーっと前から故障してるだろ? 散々聞いておきながら未だに覚えないとは……ったく、寸足らずな奴らだな」
 住井が、戦車にワックスを掛けながら言う。
「何言ってるのよ。あなた達ついさっき下の学食行ってご飯食べてきたじゃない」
 七瀬が北川と南にそう言うが、二人は本当に覚えがないのか、「そうだったかな〜?」と首をひねっている。
「北川君、もう呆けたの?」
 香里の一言に、その場にうずくまる北川。
 誰に何を言われても挫けない北川だが、香里の言葉だけには敏感に反応する。
 香里も知っていて言っているだけに、実に哀れだ。
「どーでも良いけど、折原は何処へ行ったのよ!?」
「長森さんが部活の方に顔出すついでに探すって言ってたし……そううち戻ってくるだろ」
 七瀬と住井のやり取りに、以前にも同じ様な会話を聞いたような気を覚え、俺は思わず教室を見回した。
 談笑しながら衣装作りに勤しむ名雪と香里。
 佐祐理さんから預かった戦車を綺麗にしている住井。
 電飾の取り付けをしている七瀬。
 教室の飾り付けを行っている北川と南。
 そして行方不明の折原と、奴を捜索中の長森の姿は無いが、皆がそれぞれの作業に没頭している。
 別におかしな処など何もない。
「なんだろう? ま、良いか」
 俺は深呼吸をして意識を目の前の作業である、棚作りに戻す事にした。





§





「や、川澄さん、元気そうね」
「……はい」
 廊下に一人で立っていた舞は郁未に声をかけられると、少しだけ頭を下げて答えた。
「ふふっ……まだ刀は手放せない?」
 郁未が視線を舞の手にしている物へ移しながら言う。
 彼女は、包みの中身を知っているのだ。
「これは……私にとっての力の象徴だから」
「もう力は要らないんじゃ無かったの?」
「……まだ少し必要だと思う」
 舞が持つ刀は、人間の力の象徴だ。
 それは自分が持つ、本来人が持たぬ力と戦う為の武器だった。
 しかし、今は自分の弱くなった心を支える力としての象徴。
「ま、焦る必用はないわよ。大事なお友達と素敵なナイトが居るものね」
 そう言いながら郁未が悪戯っぽく笑う。
「………」
 舞は顔を赤くして俯く。
 流石に先生にチョップをする訳にはいかないようだ。
「舞〜お待たせ」
 佐祐理の声が聞こえてきた。
「あ、郁未先生こんにちは。舞とおしゃべりですか?」
「ふふっ、そうね。そう言えば倉田さん、怪我はもう痛まない?」
「はい。もうバッチリです」
 小さくガッツポーズをする佐祐理。
「そう……でも無理はしたら駄目よ」
 そんな佐祐理に、努めて優しく郁未は声をかける。
 確かに今の佐祐理は健康そのものだが、以前生死の境を彷徨う程の大怪我をしたのだ。
「はい。任せて下さい。こう見えても佐祐理は体力には自信があるんです」
「そうだったわね。ふふっ……それじゃ私は保健室に戻るわ。倉田さん、川澄さん、またね」
 郁未は手を軽く挙げると、そのまま自らの持ち場である保健室へと去って行った。
「じゃ行こうか」
 その後ろ姿を見送ってから、佐祐理と舞は揃って歩き始めた。
 二人にとって大事な者が待つ場所へと。





§





 窓から差し込む夕日に一瞬目が眩む。
 その色彩に、俺の記憶の奥底にある何かが呼び起こされる感覚を覚える。
 目の前を覆い尽くす茜色が、別の漠然とした色彩のイメージを脳裏に展開させる。
 茜、白、えんじ――それらの色彩に何の意味があるのか、今の俺には判らない。
 だが、閉ざされた六年前の記憶に関係があるのではないだろうか?
 何か得体の知れないモノに飲み込まれるような――そんな感覚に、意識が遠のいて行く。
「祐一さーん!」
 自分の名を呼ぶ声に意識が急速に戻り、皆への差し入れの為にジュースを買いに廊下に出たという現状を思い出す。
 声のする方向へと目を向ければ、一年生を示す緑色のリボンを付けた女生徒だった。
「よう栞、どうした?」
「あ、お姉ちゃん居ます?」
 俺の目の前まで来ると、俺の顔を見上げながら笑顔で答える。
 栞はクラス委員長である香里の妹だ。
 目の前の元気な調子からはあまり想像出来ないが、幾度か入退院を繰り返してきた病弱な娘である。
 最近は随分と調子が良い様子だが、香里にとっては手の掛かる、そしてそれ故に大事な妹である様だ。
 当然、仲は端から見ていても過保護すぎるのでは? と思う程に良い。
「香里なら、今さっき演劇部の手伝いに行ったぞ。でも直ぐに戻って来るような事言ってたから……中で待ってるか?」
「そうですか。残念ですー、せっかく走ってきたのに」
「おい大丈夫か? 初めて会った時みたいに突然倒られても困るぞ」
「その時は、祐一さんに優しく看病してもらいますから大丈夫です」
 笑顔で言う言葉に裏はない。
 だから俺も思った通りの言葉で返す。
「何を馬鹿な事言ってるんだ? 栞が無茶をしなければ良いんだよ。せっかく入学できたのに、身体壊したら留年するぞ」
「ぶーっ。祐一さん意地悪です!」
 ふくれっ面も可愛いものだ。俺は少し笑ってから栞に用件を尋ねた。
「んで、どうした? 言伝でもしておくか?」
「あ、えーとですね……私、今日は描いた絵を持ってきたんです」
「え?」
「祐一さん、今の洒落って全然面白くないですよ。ほら、前に言ってたじゃないですかー、壁に飾る絵が欲しいって」
 見れば栞は身体に不釣り合いな程大きいアルタートケースを肩にかけている。
(うーん……確かにそんな事を折原と住井が言ってた様な気がするな)
「だから、頑張って描きましたっ! 作業の合間にコツコツと描いた物ではありますけど、決して手は抜いてませんよ」
 栞が慎ましい胸を誇らしげに張りながら答える。
「ゆ、祐一さん酷いですっ!」
「あ……悪い。声にでてたか? ほら……あれだ。舞と比べてという意味であってだ、決して栞の胸が世間一般の平均よりもこ小ぶりという意味では……」
「うーっ」
 俺の問いには答えず、栞はジト目で俺を睨んでいる。
 どうもフォローすればするほど深みにはまっていくようだ。
「悪かった。アイス奢るからそれで機嫌直せ」
 俺は言い訳を諦めて素直に頭を下げた。
「はい」
 栞も俺の妥協案をあっさり受け入れ、にっこりと笑う。この切り返しの早さは、彼女の長所だと俺は思う。
「では、早速行きましょう!」
「今からか?」
「はい」
 どうせ今から学食行くところであったし、断る要素も無いので俺は頷いた。
「よっし、んじゃ行くか」
「はーい」
 そう返事をして、俺の横に並んで歩く栞の表情は実に楽しげだ。
 よほどアイスが楽しみで仕方がないのだろう。


 学食に行くと、俺はジュースを適当に人数分買い、そのお釣りを栞に渡した。
 栞は嬉しそうにフリーザーを開けて中身を漁っている。
「これにしますー」
 と、決めたのは最もスタンダードなバニラアイスだった。
「基本はやはり大切ですよ」
 なるほどその通りだ。
「絵もデッサン等の基本からやり直した方が良いかもしれないぞ?」
「……アイスもう一つ買います」
「ごめんなさい」
 どうやら、また思った事を素直に口に出してしまった様だ。
 いい加減この妙な癖を直さないと、近い内に我が相沢財閥は経済破綻を起こすだろう。
 そんな事情はお構いなしに、栞は楽しげにアイスをもう一つ選ぶと、一緒にレジへと持っていった。



「と、いうわけで、描いた絵を持ってきましたーっ」
『お〜〜〜っ!』
 栞が皆の拍手に少し顔を赤らめる。
 教室には、俺と栞以外に、住井、名雪、七瀬、南が居る。
 折原と長森、そして香里はまだ戻っておらず、北川は足りなくなった材料の買いだしに行っているらしく姿は見えない。
「俺が頼んだ絵を本当に描いて貰えるとは思わなかったよ。有り難うな、栞ちゃん」
 そう言いながら住井が一歩前に出て、手を差し出す。
「ちょっと……恥ずかしいですね」
 栞が妙に立派なアルタートケースから数枚の紙を取り出す。
「おお〜やけに立派な入れ物に入ってるな。相当気合い入ってるんじゃないか?」
 南も栞の絵に期待を寄せながら栞に尋ねる。
 俺は心の中で十字を切り、これから起こるであろう混乱を見守る事にした。
 何故俺がそんな事を考えているかと言えば、栞の描く絵が常人では計り知れないセンスによるものだと知っているからだ。
 引っ越して来てまだ間もない頃、俺は当時中学生だった栞と出会っているが、その時に栞の描いた絵を見たことがあり、そのあまりのアバンギャルドな内容に、目眩を覚えた事があった。
「はい。頑張って描きました! どうぞ」
 そんな元気な答えと共に、栞は紙を住井に手渡す。
「どれどれ……」
 住井が受け取った紙を見た瞬間、奇妙な表情に変わる。
「え〜と……これがロンメル、こっちがゲーリング、そしてこれがデーニッツと……マインシュタインです」
「……」
 住井の顔が奇妙な表情のまま固まってる。
「おいどうした? フリーズか?」
 俺が住井に近づいて軽く頭を小突くと住井は意識を取り戻した様だが、今度は傍目にも判るほどにわなわなと震えだした。
 更に顔色が青から赤へ、そしてまた青へと見事な程鮮やかに変化している。実に器用な奴だ。
「うぁぁぁぁぁぁっかの偉大なる電撃作戦の考案者がクトゥルー神話の化け物みたいにっ!」
 絵を持った住井の手が震えている。
「酷いですー! せっかく格好良く描いたのに」
 流石の住井も、栞の描いた絵の底知れぬパワーに圧倒されているのだろう、彼女の抗議も耳には届いていない様子だ。
「もう良いです!」
 栞は固まる住井から絵をひったくると、「はい」と微笑みながら俺に渡す。
「それじゃ、ちゃんと飾って下さいね。あ、住井先輩、今度アイス期待してますから」
 そうにっこり笑って言い残すと、栞は出ていった。
「住井?」
「……相沢、このオレにとって、栞ちゃんの芸術的センスは完全にイレギュラーだった」
 そう呟く住井の姿に、俺は心から同情した。


 それから暫くして、香里が折原と長森を伴って戻ってきた。
 折原は、屋上でサボっていた――本人曰く、今後のトレンドを分析していたとの事――ところを、やはり同じように作業をサボって来たみさき先輩に捕まり、そのみさき先輩が演劇部の深山先輩に捕まった事で、演劇部の手伝いを芋蔓式に手伝う羽目になったらしく、今さっき香里によって保護されたのだ。
「で、どうするんだ? こんな不気味な絵飾ったら、客足が遠のいてしまうと思う……って、アイテテテっ!」
 折原の「不気味」という言葉に反応する香里。
 目に見えない程の早さで、折原の足の小指をかかとで踏みつぶしていたのだ。
「栞がせっかく描いた絵なんだから、使わないなんて言わせないわよ?」
 香里の背後からは有無を言わせぬオーラが立ち上っている。
「……」
 住井は栞の描いた絵と、腕を組んでにらむ香里(と、その脇でうずくまっている折原)を見比べている。
「くっ……これ程まで辛い選択を強いられる事になろうとは」
 皆が固唾を飲んで見守る中、住井は受け取った絵を額縁に入れると、それらを教室の後ろの壁に列べて飾ってみた。
「何だか、妙に落ち着かないよ〜」
 名雪が素直に感想を漏らす。
「えーと……何だか音楽室みたいだよね」
 長森が苦笑しながら言うが、音楽室の壁に飾ってある「バッハ」や「ベートーベン」等の肖像画と比べると随分趣が違うと思う。
「こりゃ夜中に見たら、腰抜かすかもな」
「沢口君?」
 恐ろしげな声で香里が南の顔を睨み付ける。
「いや……オレは南なんだけど……ね……」
 名前の違いを指摘するが、その声は尻窄みで小さくなっていた。
 恐らく香里の耳には届いていないだろう。
 香里が発するオーラに教室中の皆が静まり返っていると、買い出しに出ていた北川が戻ってきた。
「よーっお待たせ、ガムテープと釘を買ってきたぞ。ついでにうまい棒も買ってきた。チーズにサラミに明太子……っと、ん?」
 そう言って教室に入ってきた北川が、壁に飾られた栞の絵に視線を向ける。
「うおっ何だよこの不気味な絵は? 折原の趣味か? うっわー、お前これはヤバすぎるぞ。作者は誰だ、ピックマンか?」
 そんな北川の言葉に、教室に居る全ての者の顔から血の気が引いて行く。
「北川君……」
 香里が北川へとゆっくり歩み寄って行く。
(どうして君は自ら地雷を踏むんデスかー!? 香里……拳に何を付けてるんデスかー!?)
「あ、あたし買い出しに行かなきゃー!」
「そ……そうそう! さぁ、七瀬さん行こうぜ」
 七瀬と南が用件をでっち上げていち早く教室から出て行くと――
「……わ、私は……あ、そうだ! オーケストラ部の様子見に行ってくるね」
「オレも軽音部に行って、氷上とシークレットライブの打ち合わせしてくる!」
「お、俺も手伝うよ。やっぱプロデューサーも必要だろ?」
 長森と折原、そして住井もまた、適当な用件を作り出すと素早く教室を出ていった。
「あ〜ねこさんだよー、追いかけなきゃ……ねこ〜ねこ〜ねこ〜」
 実にわざとらしい演技で大根役者っぷりを発揮しつつ、名雪も教室を出て行った。
 無論、俺も「舞と佐祐理さんを迎えに行ってくる!」と言い脱出した。
 俺が教室を出てすぐに、中から「へぶらばぁっ!」と、気味悪い悲鳴が聞こえてきた。
 真に祈りが必用だったのは、どうも北川だった様だ。


 適当に時間を潰して戻ってくると、皆は何事も無かったかのように作業へと戻った。
(尚、途中で合流した舞と佐祐理さんには、前もって栞の絵の事を教えておいた)
 そんなわけで、視界には壁に飾られた「不気味な絵」と、以前と比べて三割程顔の腫れた北川の姿が見えるが、皆はあえて無視することにした。
「さぁ、明日の学園祭初日に間に合わなくなるわよ!」
 香里の台詞に、俺は本日何度目かの違和感を感じたが、すぐに頭の外に追いやると俺達は作業を再開した。


 その後、久瀬がまた文句を言いに現れたが、壁に飾ってある栞の絵を見て――
「なんだ、この奇怪な絵は?!」
「宇宙の深淵に潜む異次元生命体でも描いたのか?!」
「君たちの精神は正気か?!」
 ――等と宣ってくれたおかげで、バーサクモードと化した香里が大暴れして大騒ぎとなった。
 更にその際、レオパルドの内部で作業をサボっていた折原が寝ぼけて砲塔を操作し、香里から逃れようとしていた久瀬を引っかけ、そのまま窓を突き破って久瀬が宙づり状態になる騒ぎにまで発展した。

 その結果俺達は呼び出しを受け、校長室で長〜い説教を喰らう羽目になった。
 校長の長い説教を聞いている間、俺は天井に入った亀裂に恐れながらも、何処かデジャブな気分を覚えていた。




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