「ま、年に一度の学園祭ですし、生徒による自主的運営の尊重という意味合いからもですな、今更校長の私が言うのも何々でありまして……」
 延々と続く校長の声が念仏の様に思えてきた。
 ふと目だけを動かして周囲を見ると、説教中だというのに笑顔の佐祐理さんといつも通りの舞、申し訳なさそうな表情でうついている長森と南、多少怒気を含んだ表情を浮かべながらも大人しくしている香里と七瀬、そんな香里を楽しげに見つめる北川、まるで眠っているかのような名雪、そして全く悪びれた様子のない住井や折原の姿が見えた。
 俺達は揃って校長室に呼び出されて説教を喰らっている真っ最中だ。
 ちなみに久瀬も俺達と一緒になって説教を喰らっており、釈然としない表情を浮かべていた。
「……そもそも、本校の学園祭と言えば、県下でも有名な一大イベントであり、それだけ世間の注目を集めるわけです……」
 校長の説教が始まってどの程度の時間が過ぎたのか判らないが、俺の意識は校長の説教ではなく、校長室の天井に注がれていたりする。
 なぜならば、この校長室の真上が俺達の二年四組の教室であり、天井には僅かだが亀裂が走っているからだ。
 しかも時折嫌な音を立てて細かい破片が落ちてきたりする現状では、到底校長の説教に神経を傾ける事など出来ない。
「……とまぁ、兎にも角にも全員が無事でなにより。明日は学園祭の初日ですから、今後はくれぐれも安全第一で……そこんとこよろしく」
”カツン”
 丁度、説教を言い終わった校長の頭に、天井から降ってきた小さな破片が当たった。
「ん? ネズミかな?」
 校長は状況に気が付いていない様だが、見ているこっちは――いつ四〇tの戦車が落ちてくるか――気が気でなく、生きてる心地がしなかった。









■第2話「唇歯輔車」








「……」
「うわぁ」
「はぇ……」
「はぁ……」
「ふぅ……」
「うむぅ……」
「う〜ん……」
「うみゅ……」
 色んな意味で胃が痛くなる説教から解放された俺達は、教室へ戻ったもののその見事な壊れっぷりに、思わず言葉を失っていた。
 明日の学園祭初日に間に合わせる為には、これから夜を徹して作業を行なう必要があるだろうし、そんな事を思えば、自然と口数も少なくなるというものだ。
「さて、どうしたものか……」
 折原が珍しく真面目な顔をして悩んでいる。
「う〜ん」
 住井も同じだ。
 仮にも責任者と企画者だ。
 やはり目の前の惨状に、頭を悩ませているのだろう。
「う〜ん……やはり、夜食は牛丼だよな?」
「ああ」
 折原の言葉に力強く頷く住井。
 悩みってそれか? ――思わず俺その場で脱力したが、”牛丼”という単語を聞いた舞が身体を僅かに動かしたのは見逃さなかった。
「あんたら、真剣な顔で悩んでたのってそれ?」
「その通りだぞ七瀬」
「メシ食わなきゃ、効率よく仕事も出来ないだろ?」
「まぁ、そう言われればそう……だけど」
 七瀬も腹が減ってるのだろう、珍しく二人の意見に素直に頷く。
 確かにそれは一理あるし、そう言われてみれば確かに腹が減った――ん?
 そう考えてみて判ったのだが、前に食事を摂ったのはいつだっただろうか?
 まるでアルツハイマー症の老人の様な自分に一瞬驚くが、ここ最近の殺人的な忙しさで疲れて混乱しているのだろう。
「んじゃ夜食買い出し部隊と飲み物準備部隊を選出! 残りは後片づけだ」
 折原が指示を出す。
「それはいいが、水瀬さんはどうする? 既に旅立っている様だが」
 北川が挙手して折原に尋ねる。
「くー……」
 なるほど、見れば名雪の目は既に横線であり、立ったまま器用に寝息を立てている。
 流石は眠りのプロフェッショナルだ。
 半ば関心しながら名雪に近づき、口を従姉妹の耳元へ寄せる。
「名雪、良いから教室の隅に行って寝てろ」
 耳元で呟くと名雪は「わかったおー」と言いながらポテポテと歩き、仮眠用に置いてある段ボールベッドに横になった。
「もう……名雪、風邪引くわよ?」
 直ぐに寝息を立てはじめた名雪に、七瀬が気を利かせて毛布を掛けている。
 やれやれ。
 名雪も眠いなら家に帰って寝ればいいのにな。
 秋子さんだって心配しているだろうに――そんな事を考えながら名雪の表情を伺ってみる。
 混沌とした学園祭の準備。
 時間の感覚すらおぼろげになるような極限の状況。
 だが、そんな状況を楽しんでいるかの様に、名雪の寝顔は安らかな物だった。






§






 生徒達の数が減って幾らか静まった廊下を、飲み物準備部隊に志願した長森と七瀬の二人が、並んで給湯室へと向かっている。
「本当にもう、あのアホ共のおかげでえらい迷惑よね」
「ごめんね七瀬さん」
「ちょっと、何で瑞佳が謝るわけ? 悪いのは折原でしょっ! ったくもう……おまけに校長の話も長いしさ」
「あははっ。しょうがないよ」
 そんな会話をしている内に、二人は給湯室に辿り着いた。
「失礼します」
「失礼しま〜っす」
 それぞれ挨拶をして扉をくぐると、給湯室の中に先客の姿を見つけた。
「あ、郁美先生」
 七瀬が白衣を着た女性、本校の校医である天沢郁未に声をかけると、彼女は部屋へ入ってきた二人に視線を移して口を開いた。
「あら、あなた達まだ学校に居たの? 確か女生徒は下校時刻が決められているはずだと思うけど?」
 給湯室の奥で壁に寄り掛かりながらお湯が沸くのを待っていた郁美は、入ってきた二人の姿を見て僅かに驚いてみせた。
「それがちょっとした騒ぎがあってですね……ははっ、はははは……」
 七瀬がばつの悪そうに答えると、郁未には先程の騒ぎの元凶が自分の想像通りである事を確信した。
「ふぅ……またあの二人ね?」
 彼女の言う”二人”が折原と住井を指している事は、本校の人間であれば誰でも判る。
「あははは。えぇ……まぁ」
 郁未の言葉に長森は苦笑いを浮かべながら、戸棚を開けて茶筒を取りだす。
「はぁ……何でいつもこんな目に遭うんだろう」
 文句を呟きながら七瀬は大きなヤカンに水を入れ、コンロに置き火をかける。そして行儀悪さも気にせずに、横のテーブルの上に飛び乗って腰をかけた。
「郁未先生こそ帰らないんですか?」
 茶筒の中身のお茶葉を確認しながら長森が尋ねた。
「ん? 金槌で自分の手を叩く者や、足を床に釘付けにする馬鹿が絶えないのよ。とてもじゃないけど、こんな状況じゃ帰ることなんか出来ないわ。だから今夜も泊まりね」
 意図的に疲れた表情を浮かべて呆れたように郁未が答える。
 やがてヤカンから沸騰した水が水蒸気となり吹き出し音を立てると、郁美はコンロに近づき火を止めた。
 給湯室に静寂が訪れると、今度はテーブルの上に座った七瀬が脚を揺らしながら話し始めた。
「はぁ〜、毎日毎日馬鹿騒ぎで挙げ句の果てに夜遅くまで後始末。年頃の若き乙女が連日学校に泊まり込みだなんて、お母さん電話でカンカンよ。も〜ぅ、嫌っ!」
 自分の長い髪の毛を弄びながら七瀬が愚痴ると――
「そうかな?」
 長森が静かに話し始めた。
「わたしは……毎日お祭りみたいで楽しい……かな?」
「はぁ〜、あなたのお人好しぶりには毎度驚かされるわ。大体、何で瑞佳が手伝わなきゃならないわけ? 委員でもないんでしょ?」
「うーん、そうだよね。何でだろう?」
 長森は人差し指を頬に宛て首を傾げる。
「はぁ……これだもんなぁ〜。自覚が無いって恐ろしいわよね」
 その仕草を見て七瀬は溜息を付く。
「そ、そうかな?」
「そう言えば、長森さんは、確かあの折原君の幼なじみだったかしら?」
 沸騰したお湯をポットへ移し終え、ヤカンを元の場所に戻し終えた郁未が、ふと思い出したかのように長森に尋ねる。
「はい」
 その事に誇りでも持っているのか、長森は嬉しそうに答える。
「全く瑞佳も大変よね」
「え? そうかな。浩平ってああ見えても凄く優しいんだよ」
「初対面の女の子に肘鉄喰らわす奴の何処がよ」
 転入初日に起きたハプニングを思い出したのか、目を閉じた七瀬のこめかみが震えている。
「あ、はは……」
「ふふっ……」
 そんな七瀬を見て長森は苦笑いを、郁未は少し楽しげに微笑む。
「はぁ……今思えば、転校して最初に出会ったのが折原だった事が、あたしにとっての運の尽きなのね。あいつと彼処で会わなければ、瑞佳みたいな乙女で居られたのかも。うう……」
 突然肩を震わせて涙ぐむ七瀬に、長森は慌ててフォローを入れる。
「えっ? えっ? わたしなんか全然大した事ないよ。それに七瀬さんは十分女の子っぽいよ」
「有り難う瑞佳。あなたって、ほんと〜に良い子よね」
 長森の慰めの言葉に感動を覚えた七瀬がテーブルから飛び降り、そのまま勢いで彼女に抱きついた。
「あっ……な、七瀬さん? ちょ……く、苦しいよ〜」
「ご、ごめん瑞佳。つい。あははは」
 頬を赤らめた長森の声で七瀬は我に返ると、慌てて彼女を解放して離れる。
「ふふっ。しかしあなた達を見てると飽きないわね〜」
 二人の様子を見ていた郁未が笑いを押し殺しながら言うと、七瀬は心外とばかりに少しだけムッとした表情を見せる。
「あはっ、ごめんなさい。でも色々個性豊かな生徒が揃ってるみたいだし……本当に楽しそうなクラスで、石橋先生もさぞ大変でしょうね」
 事実、彼女達の二年四組には、まるで学校側が意図的に集めたのでは? と疑いたくなるほど個性溢れる生徒が多い。
 そんなクラスであるから、並大抵の神経の持ち主に担任教師は務まらないだろうが、幸いにして石橋という男は、実におおらかな性格――悪く言えば無責任、無関心――をしており、今回の学園祭に関しても最初からサボタージュを決め込んだのか、生徒達に全てを任せると言って、口出しはおろか準備に姿を出す事すらない。
「はい。とっても楽しくて良いクラスです」
「まぁ……退屈はしないのは事実だけど、あたしとしては、も〜少し静かに新しい学園生活を送りたかったわ」
「あら? 七瀬さんだってとっても面白い子よ。折原君達といい勝負かもしれないわね」
「が〜ん……そ、そんな」
 七瀬にとって郁未の一言は”あなただって、その個性の強い生徒の一人よ”という意味にしかとれず、彼女が憎むべき折原と同列に列べられて事に大きなショックを受け、その場で頭を抱えてうずくまってしまった。
「でも七瀬さん、どうしてそんなに女の子らしさに拘るの? さっきも言ったけど、十分女の子らしいと思うよ」
 長森のその声に、今度はうずくまった姿勢から一転、”ガバッ!”と勢い良く立ち上がる。
「わっ!」
 そのあまりの勢いにたじろぐ長森。
「あたしはね瑞佳っ!」
 正面から両手で長森の肩を掴み、しっかりと目を見つめながら七瀬は言葉を続ける。
 心なしか頬が赤い。
「……ある人がある人を気にして残ってるから……あたしとしてはそのある人が気になるから、わざわざ残って手伝ってるわけ。でも、そのある人は全然気が付いてくれてないし、ある人が気にしているある人も、この事に全然気が付いてないのよ」
 七瀬は少し恥ずかしげに一気に捲し立てる。
「今ので判る?」
「う〜んと、ごめんね。全然判らないよ」
 長森は照れ笑いを浮かべながら首を傾げる。
 そんな何気ない仕草が、七瀬には真似の出来ない程に完璧な乙女の愛草に映る。
「はぁ……瑞佳ってば本当に女の子らしいわね。はぁ〜羨ましいな〜」
 まじまじと目を見つめながら、自分との差を考えていると、長森の頬が照れくさそうに朱に染まる。
「あの七瀬さん?」
「あ、ごめん」
 長森の言葉に我に戻ると、七瀬は慌てて両手を離す。
「ううっ瑞佳や名雪が羨ましいよ……」
「でも七瀬さんが今よりももっと”女の子らしさ”を目指すのって、気になる人が居るからなんだよね?」
「え?」
 長森の言葉に慌ててキョトンとする七瀬。
「ほら、さっき七瀬さん、気になる人がどうこうって言ってたから」
 見れば郁未も「うんうん」と頷いている。
「さっきの言葉からすると、今手伝いに残っている人って事になるから……」
「わわわわわっ!」
 長森の言葉を打ち消すように、七瀬は大声を上げると、両腕をぶんぶん振り動かし、全身を使って否定する。
「浩平じゃないとすると、北川君か住井君か南君?」
「ち、違うわよ!」
「え? じゃあ相沢君の事なんだー」
「な、何でそうなるのよっ!」
「えー、だって名雪ちゃんが羨ましいって……でも、相沢君じゃ浩平とあんまり変わらない気がするよ?」
「ちーがーうー! あたしが羨ましいのは名雪の仕草や性格であって、別に相沢云々の事じゃないわよ! あたしにとっては瑞佳や名雪みたいな乙女になる事が夢だから」
 そう慌てて取り繕うが、心の中では(それでも折原よりは相沢の方が常識わきまえてるし、マシだと思うけど)と思っていた。
「ふふっ……全く、若い娘は良いわね」
 長森と七瀬の会話に郁未の笑い声が割り込む。
 その笑顔は娘達を見守る母の様な穏やかな物だった。
「あ〜あ、全くあんな奴の何処が良いんだか……」
「……だってわたし、浩平が好きなんだもん」
「あ、瑞佳……ごめん」
 長森の言葉に、七瀬は自分の失言に気が付き表情を曇らせる。
「ううんいいの。確かに浩平は七瀬さんによく悪戯してるもん。ごめんね七瀬さん」
 少し困った表情で長森が七瀬へ詫びる。
 まるで自分の事の様に。
「瑞佳が謝らないでよ。はぁ〜全く、折原にも瑞佳にある優しさの百分の一でも有ればいいのに」
 七瀬が苦笑交じりにそう言い、長森の肩を軽く叩く。
「ふふっ。それにしても長森さんって結構大胆なのね」
 郁未の台詞に、長森は自分が口にした言葉を思い出して顔を赤らめ俯いてしまうが、「えへ」と笑って顔を上げると言葉を続けた。
「私の傍に浩平が居て……ううん、浩平だけじゃなくて相沢君や住井君達、そして名雪や香里や七瀬さん達も居て、ずーっとみんなで一緒に楽しく過ごす事……それが私の夢なんです」
「……それって今の状況と変わらないわよ?」
 呆れた口調でそう言いつつも、七瀬は心の中では長森が語る夢と比較して、自分の語った夢が随分安っぽく思え少々自己嫌悪していた。
「うん! だから今、わたしはとっても幸せなんだよ」
 そうきっぱりと言い着る長森の顔は輝かんばかりの笑顔だ。
 そしてその笑顔に七瀬は声を失う。
「……」
(うっ……こんな恥ずかしい台詞を躊躇いなく言えるなんて……やっぱ瑞佳って凄いわ。それにこの笑顔……ちょっとドキッとしちゃったわよ! ああ、やっぱり可愛いなぁ……って!)
「うわぁっ!」
 自分の思考が何かとんでも無い方向へ向かっている事に気が付き、七瀬は驚きの声を上げつつ自分の頭を両手で殴る。
「わっどうしたの?」
 心配げに七瀬を見つめる瑞佳。
「あ、な、何でも無いわよ。うん!」
 顔を赤らめた七瀬は慌てて瑞佳から目を反らす。
 七瀬は自分が目の前の級友に、好意を持っている事に気付いている。
 それは転校初日に出会った時からうっすらと感じている事であり、先程の長森の告白にもにた言葉に心が痛んだのも、紛れもない事実だった。
「はぁ……」
 七瀬は長森の幸せそうな顔を見て溜息を付く。
「あたしって全然変わってないな……」
「ん? どうしたの七瀬さん」
 そんな七瀬の呟きを耳にして、首を傾げてみせる長森。
「はぁ〜何でもないわ。あ、郁未先生の夢って何ですか?」
 七瀬はまるで誤魔化すように、郁未へと話題を振った。
「そうね……”世界人類が平和でありますように”……かな?」
『えーっ?』
 郁未の返答に不服があったのか、七瀬と長森がそろって声を上げる。
 やはり年頃の女の子としては、先輩――年上の女性の持つ、赤裸々な夢が知りたかったのだろう。
「んふふっ。私の本当の夢はね、もう叶える事が出来ないから……だから、今はさっきの言葉通り。あ、さしあたって今なら、”無事学園祭が終わるように”かしらね。ま何にせよ、こんな馬鹿騒ぎも後僅か。明日は学園祭の初日なんだから、今更怪我なんかしないようにね」
 そう答える郁未の表情は、優しさの中にも僅かな哀愁を含んでいた。
「……それじゃ、火の後始末くれぐれも気を付けてね」
 郁未は立ち上がりそう言い残すと、ポットを持って給湯室から出て行った。
 残された二人は、郁未が立ち去った扉をそのまま無言で見つめていたが、やかんから立ち上る蒸気の音に顔を見合わせ――
「明日か……」
「そだね。がんばろう」
『うん』
 共に頷き合った。





§






 深夜という事もあって、終日営業の牛丼屋には客の姿は無く、俺と舞が注文した品物は程なく出来上がった。
 明るい店内から、人気の途絶えた外へ出ると、余計に辺りの風景が寂しく思えた。
 並んで進む俺達の手には、それぞれ夜食――持ち帰りの牛丼弁当を入れたビニール袋がぶら下がっており、歩道を横切って折原と佐祐理さんが待つ車へと戻る。
「お待たせ〜」
「……買ってきた」
 二人で声をかけて車に乗り込むと、助手席の折原が軽く手を挙げて反応を示し、そのまま運転席の佐祐理さんへ声を掛ける。
「ご苦労さん、では倉田先輩御願いします」
「はい。任せて下さーい」
 折原の声に佐祐理さんがにっこり微笑んで答えると、流れるような手つきでギアをニュートラルからファーストへ移し、アクセルを踏み込んで車を発進させた。

 俺と折原が夜食買い出し部隊として学校を出ようとした時、舞と佐祐理さんの二人が「付いて行く」「佐祐理の車を出しますよ〜」と申し出てくれたので、そのまま四人で行くことになったのだ。
 学園祭の準備の為、家から荷物を色々持ち込んでくれている佐祐理さんは、その輸送用に車も持ってきていた。
 無論、学校側――生徒会と実行委員会――の許可をもらったもので、フロントガラスの内側に生徒会が発行した許可書が貼ってある。

 自分の家に有った車を借りてきているとの事で、佐祐理さんの家の車――と言えば何だかもの凄い物のを想像してしまうが、国産車のインプレッサだった。
 しかし、そこは流石に倉田家であって、WRXのガブリオレモデルという、モーターショーでしかお目にかかれない代物だったりする。
 
 夜半とはいえ、暑い日に満喫するオープンエアーならではの開放感は実に気持ちがよい。
 ソニックブルーマイカでカラーリングされたボディに、ゴールドメタリックのホイールというWRCカラーのインプレッサは、街灯の明かりをボディに反射させながら夜の街を程良い速度で進んでいる。
 風に目を細めて視線を移すと、リボンと髪の毛を風に靡かせてステアリングを握る佐祐理さんの姿が映る。
「運転までしてもらって、佐祐理さん済みませんホント」
 そんな彼女の後ろ姿へ御礼の言葉をかけると、バックミラーの中で佐祐理さんの瞳が微笑むのが見えた。
「佐祐理が好きでやってるんですから良いんですよー。もっとも免許は取り立てで、祐一さん達は不安かも知れませんが」
 確かに佐祐理さんは免許取り立てであり、インプレッサにも若葉マークがしっかり付けられている。
 しかし抜群の反射神経と記憶力、そして何でもかんでもすぐにコツを掴む天性のセンスによって、安心できるドライビング技術を会得しており、彼女が危惧する様な心配は全く無い。
 むしろ佐祐理さんの事だから、その気になれば走り屋も真っ青なドラテクを身につけるのも造作もないだろう。
「いやー倉田先輩の運転は素晴らしいですよ。由起子さんの運転なんか下手なジェットコースターより恐ろしいくらいですから……。それに倉田先輩には本当に感謝してますっ。模擬店の装飾品を貸してもらってるだけでも申し訳ないのに、こうして夜食の買い出しまで付き合ってもらっちゃって」
 なお、由起子さんというのは、折原の母代わりを務めている伯母だ。
 この折原という男、普段の言動からは想像出来ないが、実は相当辛い幼少時代を過ごしていたらしい。
 勿論、はっきりとした事は判らないが、少なくとも両親が居ないという事一つとっても、それは何となく伺えるというものだ。
 もっとも助手席で、隣の佐祐理さんに向けて、手を合わせ仰々しくお辞儀をしながら「有り難や、有り難や」と連呼している馬鹿な姿には、そんな面影は微塵も感じられない。
「全くだ……佐祐理さん様々だな」
 折原と一緒になって俺が改めて頭を下げると、佐祐理さんが嬉しそうで、そして少し困った様な表情で口を開く。
「気にしないで下さい祐一さん、それに折原さんも。佐祐理達が好きでやっている事ですからー」
「いやいや、佐祐理さん最高っす!」
「ビバ倉田先輩っ!」
 俺と折原が調子に乗ってはやし立てると、横合いから腕が素早く伸びて俺の側頭部、そしてそのまま折原の後頭部へと振り下ろされた。
「いてっ! 何だ舞?」
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
「……二人とも佐祐理が困ってる」
 俺達に手刀を見舞った諜報人が、いつもの無愛想の中にも少しむくれた表情を浮かべて呟く。
「あははーっ、舞もお礼を言って貰いたいんですよねー」
 照れ隠しのなのだろう、手加減気味チョップが今度は運転席の佐祐理の後頭部に入った。
 以前より明らかに感情が豊かになった舞を思えば、じんじんと響く側頭部の痛みも何処か心地よい。
 手加減されていなかった折原は未だに助手席で頭を抱えて蹲っている。
「ははっ……有り難うな、舞」
「……」
 俺がそう言うと舞は反対側へ”プイ”と顔を向けてしまったが、赤くなった顔が恥ずかしくて隠したのだろう。
 うむぅ、実に可愛い反応じゃないか。萌え。
「本当に有り難うな」
 そんな舞が愛おしく思えて、耳元に口を寄せてそっと呟く。
「……祐一気にしない」
 肩越しに少しだけ振り向きながら答えた舞の顔には、ごく僅かだが笑みが浮かんでいた。
 その笑顔こそが俺が育みたいもの。
 舞の表情に真の笑顔を取り戻す事――それは俺の使命と言ってもいいだろう。

 ところで、こうして舞と佐祐理さんが、自分達のクラスそっちのけで、俺達の出し物を手伝ってくれているのは、単に俺との繋がりがあるからだ。
 先にも少し述べたが、俺が越して来た時、校内で頻発していた奇妙な器物破損事件があり、舞がその容疑者とされていた。
 詳しい話は別に機会に話すとして、生徒会によって半ば犯人扱いされていた舞の容疑を晴らしたのが俺って事だ。
 俺としてはここまでされる程の事をしたとは思っていないのだが、以来舞とその親友だった佐祐理さんからは、懇意にさせてもらっており、こうして学園祭の準備にも、彼女達は当たり前の様に力を貸してくれる。
 今回の模擬店にしても、流れ物の中古品とは言え本物の戦車を展示する事が出来たのは、佐祐理さんの――正確には倉田家の――協力の賜物である。 

「そうですよー佐祐理達は自分の意志で祐一さんを手伝っているんですから、気にしないで下さいね」
 佐祐理さんの言葉に舞が外を向いたまま無言で頷く。
 二人の気持ちは嬉しいのだが、そう明言されるとくすぐったい気分になる。
「こんな美人の先輩二人に……全く羨ましい奴だ。大体、男の照れた面なんか見ても……」
 いつの間にか復活した折原が振り向き、俺の顔を見てニヤニヤと笑っている。
 何だかムカつく――そう思った矢先、再び舞が無言で手を振り下ろした。
「あー折原さん、そんな事言うと舞にチョップを喰らいますよー」
「……もう喰らってます」
「それはそうと……折原」
「何だ?」
「お前、佐祐理さんに謝ったのかよ? 完成しかけた模擬店を滅茶苦茶にした上に、佐祐理さんから預かってる戦車まで傷つけて」
「七瀬に殴られた上散々怒鳴られたが、あれって俺の所為なのか?」
「いや、お前の所為かどうかは問題じゃない、仮にも責任者なんだし詫びは入れるべきだろ?」
「ふむ……そりゃそうだな。倉田先輩済みませんでした」
「いーですよー」
「いや、佐祐理さんそんな簡単に許しちゃ駄目だって。それに今回の一件で俺はまた久瀬に恨みを買うことになったぞ」
「だーかーら、謝っただろ? それにあの生徒会長の事なら大丈夫だ、鳥みたいなヤツだし、明日になれば綺麗さっぱり忘れてるよ」
「そうか? 俺はどちらかというとマムシの様に執念深いと思うが……それに」
「祐一気にしすぎ。さっきも言った。佐祐理も私も気にしてない」
 俺が続けて何か言おうと思ったが、舞の一言で気がそがれた。
 ま、そうだな。
 そう納得すると、俺は別の話題を振ることにした。
「ところで折原、お前戦車ん中でどんな夢見ていたんだよ? 寝言がすごかったぞ」
「ああ……んとだなぁ、柚木に背後から羽交い締めにされ、茜に練乳や砂糖がふんだんに入ったワッフルを無理矢理食べさせられ、みさき先輩に食事を奢らされ、澪に回らない寿司を強請され、断ったらスケッチブックの角で殴られた……ま、そんな夢だ」
「……」
「それにしても嫌な夢だったなぁ……」
「折原、頼むぜホント。これ以上お前の下らない夢に人を巻き込まないでくれよ」
「はいはい、善処するよ」
「返事は三回だ!」
「はいはいはい」
 俺達のそんな馬鹿な会話を聞き佐祐理さんは楽しげに笑っている。

 その後はしばらく皆、黙ったまま流れる景色を眺めていた。
 とは言え、深夜の街角は街灯程度の明かりが有るだけで、人の姿も全く見ない。
 まるで街中の人間が存在していないかのように、生命の息吹が感じられない冷たい建物だけが、ひたすら暗闇の中に浮いては消えて行く。
「しかし何だな……」
 そんな光景を見て、俺は自然に思ったことを口にしていた。
「何だ?」
「ここ最近ずーっと学校に泊まり込んでいて、学校の外に出るのはこうして夜食を買いに行く時くらいだろ?」
「だから何だ?」
「その所為か知らんが、夜の街ってのは……こんなにも静かな物だったかな?」
「……」
「……」
 俺の呟きともいえる言葉に、折原と佐祐理さんが考え込む。
「……静かすぎる」
 窓の外を眺めていた舞は、そう呟くとこちらを振り向き、俺の顔に自分の顔を近づける。
「ま、舞?」
「……祐一、何か判らないけど何か起きる。ううん、もう起きてるかも」
 どぎまぎする俺の耳に、舞はそっと口を寄せると、俺にだけ聞こえる様に耳打ちした。
「それって、どういう……」
 俺の質問には何も答えず、舞は再び窓の外へと視線を移し「お腹空いた」と呟いた。
「舞?」
 間の横顔を見ながら俺は少し考える。

 舞には不思議な力がある。
 保険医の郁未先生も同様――舞以上とも思える――だが、普通では考えられない特殊な力を持っている。
 先に述べた校内器物破損事件とは、その舞の持つ力が暴走していた事が引き起こしていたものであるのだが、それはともかくとして、彼女は常人に比べて凄まじく勘が鋭い。
 そんな舞の予言じみた言葉に、俺の背筋に何か冷たいものが走った。
 再び、車内に静寂が戻る。
 すれ違う車も殆ど無く、時折深夜輸送らしいトラックの姿――積み荷は大量のマネキンであり、夜見るには少々不気味なものだった――を見かけた程度で、相変わらず闇と静寂が支配する街の中を、俺達を乗せたインプレッサが進む。
 ふいに前にある信号が青から赤へと変わり、佐由理さんがブレーキを踏んで停止線で車が止まった。
 その交差点に他の車や人の姿は無く、ボクサーエンジンのアイドリング音だけが響き渡っている。
 四人とも声を発する事は無く、ただ黙って信号が変わるのを待ち続けていた。
 舞はともかく、折原や佐祐理さんまでもが口を噤んでいる状況は珍しいだろう。
 何処か妙な雰囲気に、俺はふと腰をずらしてシートの背もたれに思い切り寄り掛かり天を仰いでみる。
 まるい月と星々の瞬き。
 そして月明かりに流れて行く雲が見える。
 そのまま月夜の空を眺めていた俺の耳が、ボクサーエンジンのアイドリング以外の別に奇妙な音を捕らえた。
 音と言っても騒音の類ではなく、奇妙な音楽と言うべきだろうか?
「何だ?」
 あまりに場違いな音色に、聞こえてきた音楽は幻聴なのでは? そんな考えが浮かぶ。
 しかし折原や佐祐理さんも不思議そうな表情で互いの表情を伺っているので、どうやら俺の聞き間違い……という事は無さそうだ。
 状況が理解出来ずにいる俺達の元へ次第に近づいてくる音楽は、鐘や太鼓、そしてラッパによるもので、どこか奇妙なリズムを奏でている。
 やがて陽気なメロディがはっきりと聞こえるようになり、路地の暗がりから街灯が照らす交差点へ、その発生源が姿を現した。
「なっ……」
「何?」
「はぇ〜珍しいですね」
「……チンドン屋さん」
 唖然とする俺達の前に現れたのは、チンドン屋の一行だった。
 その存在自体が希少なものとなっているチンドン屋が、深夜の誰もいない街角で宣伝活動を行っている光景は、滑稽を通り越し何処か異質だ。
 彼らの表情ははっきり見えないが、如何にもチンドン屋らしい白塗りの顔で奇抜な衣装を身にまとい、各々ラッパや太鼓を鳴らしながら、夜の街を闊歩している。
 ふと見ると、数人のチンドン屋の後に続くように、一人の少女……いや、幼女が歩いている。
 その幼女は白いワンピースを着て、やはり白く大きな帽子をかぶっていた。
 つばの大きな帽子の為その表情までは伺えないが、その幼女を見て舞が一瞬怪訝そうな表情をする。
 チンドン屋は俺達の車以外には誰もいない交差点にビラをばらまきながら横断して行く。
 宙を舞っているチラシを俺は手に取ってみた。
 手にしたそのチラシには「大特売!」という見出しが有るだけで、内容は何も書かれていなかった。
「何だコレ?」
 俺は不思議に思いつつも、手にしたチラシを牛丼弁当の入ったビニール袋に仕舞うと、チンドン屋の一行の奇妙な行進を眺めていた。
 突如、俺の視界が揺れ動き、身体がシートへと押しつけられる。
 信号が青に変わり、佐祐理さんが車を走らせたのだ。
「ふぅ……」
「……」
 俺と折原は振り向いたまま小さくなって行く光景を見届け、やがてそれが暗闇に溶け込み見えなくなると揃って溜息を付いた。
「なぁ相沢、最近のチンドン屋は”オールナイト有り”か?」
「俺が知るかっ!」

 そして俺達は佐祐理さんの運転する車で、一路学校へと戻る。
 空を見上げれば、月は厚い雲によってすっかり隠れ、闇は一段と深みを増していた。






<戻る 続く>

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