松尾寺の歩み
※この「歩み」の作成には清武町西新町に在住の金谷正春さん(故人)が作られた松尾寺に関する記録集にかなりの部分を依っています。何の記録でも几帳面に取っていたお方でした。心から感謝申し上げます。
一、中野時代
中世、中野には地頭所が置かれていた。当初、松尾寺もこの地にあった。1615(元和元年)徳川幕府は一国一城制度を取った。飫肥藩は飫肥城だけを残し、清武城、曽井城などを取り壊した。清武地頭所は中野の明教堂跡の東側にあり、現在では清武町大字加納甲3360番地4、日融氏の自宅となっている。
《開基住職》道雄
※松尾寺の開基住職は道雄であるが、創建に文禄元壬辰年(1592)と文禄甲午3年(1594)と2説がある。「甲午」であれば文禄元年である。境内地会館前にある記念碑は文禄元年「甲午」となっているが、文禄元年は「壬辰」なので、これはどちらかが間違いである。今は文禄元年、1592年創建と比定したい。創建から現在(2010年)まで、418年経っているということである。
道雄に関しては、『歴史散歩きよたけ』第1集61〜62pには「平能登守教経の子孫で寛政の頃、法如、文如両宗主に奉仕されたと言われている。」と記載されている。しかし、法如(1741宗主就任〜1788死去)・文如(1741宗主就任〜1799死去)は寛政(江戸時代)の頃であるが、道雄の時代は1590年代、文禄(秀吉の時代)ということであり、これでは時代が合わない。寛政の頃の松尾寺住職は7世榮順である。
《2世》解念 没年月日不詳
《3世》龍玄 没年月日不詳
《4世》了閑 享保5庚子年(1720)7月12日 了順父
4世了閑は5世住職了順よりも後に亡くなっている。了順亡き後、了閑は再度住職に就任した可能性がある。
《5世》了順 正徳元年(1711年)辛卯8月7日
文化7年庚午(1810年)は、了順の百回忌に当たり、法事が執行されている。7世榮順の時代である。了順は6世称山の養父である。
●慧博 8月27日 宝光寺秀丸 宝光寺に縁ある人か。年代の記載無し。
●妙岸 正徳4甲午年8月18日 (1714年)
※●露心 享保8癸卯年11月24日 称山娘 (1723年)
●霜久 享保18年癸丑年10月8日 称山子 (1733年)
●妙休 享保20乙卯年5月13日 称山母 (1735年)
※●淨慶 延享2乙丑年6月5日 称山実父 (1745年)
※●貞順 延享4丁卯年2月8日 称山養母 (1747年)
※淨蓮 延亨5年(1748)6月29日
※●露清 寛延4辛未年閏6月8日 榮順娘 (1751年)
●道順 宝暦2壬申年4月3日 了閑子 (1752年)
●幼春 明和5戌子年正月25日 榮順娘 (1768年)
※《6世》称山 明和6已丑年(1769)9月11日 榮順父
称山師は養子で松尾寺に入寺したと考えられる。養父が5世住職了順。養母は妙岸であろう。称山師の実父は淨慶、実母は妙休である。松尾寺の墓に埋葬されているということは両親とも松尾寺に在住したと考えられる。(あるいは別な住居で亡くなって、称山が引き取ったかである。)
※休心 安永5丙申年8月4日 泰吉 (1776年)
●妙華 宝暦7丁丑年12月28日 榮順娘 (1777年)
※●妙清 安永8已亥年(1779)5月16日 榮順母
※●妙讃 寛政8丙辰年(1796)12月20日 順成母
※《7世》榮順 享和3癸亥年(1801)8月30日 順成父
榮順師の父は6世称山、母は妙清である。
※●馳誠 文政2已卯年(1819)3月11日 智門伯父 59歳
馳誠の墓の右側面には没年と「順成弟了説養子」の記載がある。第8世順成の弟で、了説へ養子に行ったということであろう。墓の左側面には、以下の記載がある。「奉供養 門弟 矢野三右ヱ門 田爪杢蔵 田代十兵衛 杉尾幸右衛門 矢野金次郎 石黒市左衛門 長友清七 木崎原弟子中」。墓というよりも、養子先に行った木崎原の有縁のご門徒による顕彰碑と考えられる。
※●妙槿 文政3庚辰(1820)3月27日 智門娘(俗名おやえ)
※《8世》順成 文政4辛巳年(1821)11月23日 智門父
順成の父は7世榮順、母は妙讃である。
※●妙光 文政5壬午年(1822)6月10日 須磨
妙光(須磨)は松尾寺で働いていた女性と思われる。
※●了幻 文政5壬午年(1822)11月27日 智門子(俗名勝袈裟)
※●妙称 文政8乙酉年(1825)12月晦日 智門坊守(おりよ)
※●夢幻 文政9丙戌年(1826)2月4日 智門子(嘉平)
※●妙華 文政9丙戌年(1826)2月8日 智門母(おみよ)
※●妙蓮 文政12己丑年(1829)5月12日 智門後坊守娘(おむな)*墓石には「ひむ」
●妙果 天保10己亥年(1839)正月27日 智門後坊守(おそで)
※印の19基の墓は中野にあった。場所は中野共同墓地(小丸墓地、宮崎郡清武町大字加納字小丸丙1093番地)である。当初、馳誠外15基の許可願いを松本久一氏名で、昭和47年2月24日、当時の小城祐平町長宛に提出している。
それに先だって2月20日に墓地の調査をする。参加者は喜恵14世坊守、川越勉・河野善市・松本久一総代、川端末義寺務係、金谷正春書記会計の6名であった。
その際、新たに休心外2基の墓石を発見して合計19基の墓を改葬することに決定。昭和47年2月29日に正手と中野に班を分けて作業した。中野墓地では喜恵坊守の読経で改葬作業に着手。午後2時に松尾寺の墓地(現在の納骨堂の場所)に移転、宗久寺の黒木誠師導師によって、奉仕門徒一同参列の上で、法要を勤めた。当日の奉仕者は以下の通り。川越勉、渡邊兼義、松本久一(以上総代)、黒木誠宗久寺住職、登尾喜恵松尾寺坊守、崎田篤(親戚代表)、川端末義寺務係、平原武男・金谷正春(会計)、鍋倉政市、佐野正男、櫛間四男、平原義教、前田重利、加藤勝、松本富美子、渡邊キミヲ、河野イトエの皆様であった。
【旧松尾寺墓地】
旧墓地にあったブロック塀の記述「寄進 昭和三年十月建 清武村 横山みき」、「寄進 昭和三年十月建 清武町新町 黒木卯三郎 平原長作」から、旧墓地は昭和3年(1928年)、つまり新町から移転してきて(大正12年、1923年)、5年後に塀が建てられていることになる。新町の墓からの移転はそれ以前である。
続く