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山寺のあゆみ(このページは禅月師50回忌法要に史料として配布したものです)

 松尾寺は安土桃山時代、1592(文禄1)年の創建と伝えられています。その場所は清武北方の中野の山中でした。ここは伊東(飫肥)藩時代、清武城に通じる要衝の地でした。この山中には安井息軒が学んだ中山寺など数多くのお寺がありましたが、明治の廃仏毀釈(※)によってなくなってしまいました。松尾寺はその後、経済の中心となった、この山の下にできた「新町」という所に移転しました。
 ところが、この場所はわき水が多く、湿気が本堂建物に与える被害も大きく、第12世、諦壽師の時に、景色抜群の現在地の場所に移転しました。しかし、寺院移転直後にすでに病気衰弱していた諦壽師は急逝されました。
 
 その後、えびの加久藤(現在の宮崎県えびの市)から入寺された伊藤禅月師のもとに御法繁盛を極めました。ところが、時代はアジア太平洋戦争中であり、戦局悪化に伴い、禅月師は2度目の応召によって、フィリピンにおいて死去されました。1845(昭和20)年7月15日でした。もう少しで戦争が終わっていた時です。
しかも、松尾寺はこの年に禅月師に続いて、10月に前坊守のメイさん、11月に坊守のカナさんを失っています。当時の門信徒の嘆き、落胆はいかばかりであったことでしょう。
 その後、幾多の留守職・代務者を経て、諦壽の孫、護城師が国富宗久寺より入寺し、継職しました。

 1970(昭和45)年にお寺所有の山林を売って、門信徒の浄財をいただき、鉄筋の本堂と庫裏を新築しました。しかし、その翌年、護城師は死去しました。門徒総代を中心に1972(昭和48)年に納骨堂が完成しました。ところが、1977(昭和52)年本堂を罹災しました。2年後の1979(昭和54)年に本堂を再建して、現住職が松尾寺を継職しました。

 1990年に内陣・御宮殿を復興し、同年9月に落慶法要を厳修しました。更に1993年に、門徒会館増築し、台所を二倍の広さにして、かってのようにお斎作り、法座等の諸活動が拡大、進展しました。これひとえに総代を初めとして、門信徒一丸となって松尾寺を護持運営していこうという意欲と努力のお陰と深く感謝申し上げます。
 
1994年、禅月師の五十回忌法要を営みましたが、その際、見落としていた、戦後の松尾寺を支えてくださった、十二世坊守メイ、十三世坊守カナさんの遺徳を讃嘆することを、終戦60年に当たる2004年に終戦60年全戦争犠牲者追悼法要と併修させていただきました。

さらに詳しい歴史は

※廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
 1868(明治1)年3月28日、、明治政府は神仏判然令(神仏分離)を出して、神仏が一体となった寺院から仏教色を取り除く方針を取り、神道国教化の道を歩み始めた。これ以後、仏教寺院が破却され、仏像や仏教絵画、経典が焼かれ、一部は海外に流出した。

伊藤禅月・カナ夫妻

写真提供岩切哲氏