二、新町時代

《9世》智門 嘉永7甲寅年(1854)8月22日 詢道父 68歳
智門の墓石には「松尾寺前住職」の銘文があるので、この墓石は第10世詢道の代に建碑されたものである。この智門の時、中野の山から、新町に松尾寺は下りてきたとされる。
智門の最初の坊守はおりよである。おりよ死去の後、おそでと結婚する。おむな生まれるが死去。後の坊守おそでも結婚後10年ほどで死去する。
 智門の父は順成、母は。智門にはおりよとの間に、おやえ、詢道と勝袈裟と嘉平、4人の子どもが生まれるが、おやえ、勝袈裟と嘉平は死去する。詢道が住職を継職する。
●妙幻 安政6己未年(1859)8月4日 詢道娘 おし (おすま?)
●旭英 元治元甲子年(1864)11月20日 詢道次男(豊丸)
《10世》詢道 明治2己巳年(1869)12月10日 56歳 
10世詢道の父は9世智門、母はおりよであろう。詢道は壽教(ハル、春子)と結婚している。詢道にはおしという娘と豊丸という次男がいたが死去する。長男は11世諦道と考えられる。また詢道には末娘に崎田トエがいた。トエの墓は松尾寺の墓にあった。
《11世》諦道 明治9年(1876)旧3月13日 38歳  諦壽養父 
11世諦道はナヤと結婚する。しかし二人には子どもがいなかったと考えられる。そこで諦壽を養子に迎える。
●壽教 明治36年4月6日 詢道坊守ハル(春子) 82歳
・1911年(明治44年)親鸞聖人750回忌法要
●諦念  大正6年6月19日  登尾 一  1歳
登尾一は諦壽とメイとの間に生まれた男子である。しかし、幼くして亡くなっている。一が成長していたなら、禅月・カナ夫妻の出会いもなかったことである。
・1920年(大正9年)11月 禅月、都城歩兵64連隊第4中隊入営。23歳。まだ松尾寺には縁はないが、写真が残されている。

●芳眞 大正12年1月10日 諦壽娘 チエ子 29歳
チエ子は諦壽とメイの娘である。一が死去し、チエ子は国富町の宗久寺へ嫁いだために、松尾寺は後、後継者を必要とする。実父である松尾寺第十二世住職諦壽も同じ年の四月に死去する。
 1923年(大正12年)4月 松尾寺を新町から、現在の場所に移転する。2月着工し、4月に移転工事が成就している。4月19日に落慶法要を執行するも、松尾寺第12世住職諦壽はその法要3日後急逝している。当時の写真には稚児さんたちが写っている。正面に諦壽、その他近隣の住職達が写っている。場所は元の新町時代の本堂の前と考えられる。写真を見ると本堂屋根に草が生えている。新町時代に何かの法要が行われて、お稚児さんが出たのである。この本堂が正手に移築された。

《12世》諦壽 大正12年4月22日 53歳
12世諦壽は諦道に子どもがいなかったようであり、諦壽が松尾寺に入寺した。メイと結婚し、チエ子が生まれるが、チエ子は国富町宗久寺住職の黒木信行と結婚し、護(まもる)が生まれる。その後、チエ子は死去する。松尾寺は一人娘を嫁に出したので、伊藤禅月と岩切カナを養子に迎えた。
 なお、諦壽は「満壽」という名前であったようである。松尾寺に伝わる両袖付きの座卓の引き出しの裏側に「満壽」の落書きがあった。満壽は博多の万行寺で仏教の教えを学んだとされる。諦壽は法名である。諦壽は本願寺で右筆・浄書の係をしていたという。
 諦壽が死去して3年後に禅月が加久藤(現在のえびの市)より入寺する。その間、宗久寺の智恵子坊守の配偶者、信行住職方の加勢をいただいたようである。また総代さん方も入寺してくださる住職を探して東奔西走されたことと推察する。

 続く
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