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  ニュース 2007.11.13

 源氏物語や紫式部日記…所蔵530冊   京都外大図書館がデータベース 

 来年の源氏物語の千年紀に合わせ、京都外国語大付属図書館(京都市右京区)が世界各国で出版されている源氏物語と紫式部日記や研究書のうち、所蔵する約530冊のデータベースを作成した。日本語以外では、8カ国語で翻訳されており、図書館は「多くの人が、世界に通じる日本の文化遺産に触れるきっかけになれば」と期待を寄せている。 

 日本の文化遺産 世界へ発信 9カ国語で紹介 

 図書館は1967年ごろから、源氏物語と紫式部日記に関する書物の収集を始め、現在は日本語のほか、英、仏、独、露、中、伊、スペイン、スウェーデンの各言語の翻訳書を所蔵する。宮中の様子を美しく描いた挿絵が入った本もあり、世界各国の人が、日本の千年前の文化や風俗に触れることができるようになっている。 

 データベースの運用は今月1日から始まっており、言語ごとや翻訳者ごとに、インターネットを通じて誰でも検索できる。図書館で登録すれば、学生以外の人も本を閲覧したり、借りることができる。図書館は「さらに数カ国語の書物を収集する予定で、より多くの人に利用してもらえるようにしたい」としている。 

 データベースのアドレスはhttp://www.kufs.ac.jp/toshokan/genji/genjiworld.html 

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インターネットラジオ・京ことばで綴る源氏物語】 
終了していますが、学校等にCDが無料で贈られています。
 


 
光源氏 年齢
巻 名
主要事項

 
桐壺帝
▲場所 関連人物年齢 は重複してる部分あり
桐壺 桐壺更衣、若宮(光源氏)を出産
_
桐壺更衣死去
春、第一皇子(朱雀院)、東宮となる。
5〜6 _
7〜11 若宮、高麗の相人の観相をうける。帝、若宮の臣籍降下、源姓下賜を決意。藤壺入内。
12 源氏元服、葵の上と結婚
13〜16 _ _
▲場所 宮中・桐壺更衣里邸 関連人物年齢 藤壺 6〜17 葵上 5〜16
17 帚木 夏、源氏、頭中将らと女性論(雨夜の品定め)。
源氏、空蝉にあう。
▲場所 宮中・中川の紀伊守邸 関連人物年齢 藤壺 22 葵上 21
17 空蝉 源氏、空蝉に拒まれる。
▲場所 中川の紀伊守邸 関連人物年齢 空蝉 ?
17 夕顔 夏、源氏、夕顔の家に通う。
秋、夕顔、某の院で物の怪の怪に襲われ死去。
▲場所 大弐乳母の家・夕顔の家・某院 関連人物年齢 夕顔 19(死去) 六条御息所 24
18 若紫   末摘花 春、源氏、紫の上を見出す。
夏、源氏、藤壺と逢瀬を遂げる。藤壺懐妊。
秋、源氏、末摘花にあう。
冬、紫の上を二条院に迎える。
18 末摘花  紅葉賀 春、藤壺、皇子(冷泉院)を出産。
▲場所 北山・左大臣邸・三条宮・紫上邸・二条院・末摘花 関連人物年齢 藤壺 23〜24 葵上 22 紫上 10 明石上 9〜11 注)上二行含む
19 紅葉賀 源氏青海波を舞う
▲場所 宮中・朱雀院 関連人物年齢 藤壺 23〜24 紫上 10〜11
20 花宴 秋、源氏、朧月夜の君にあう。
▲場所 宮中・二条院・左大臣邸・右大臣邸 関連人物年齢 藤壺 25 葵上 24 紫上 12

 
朱雀帝
21 _ この間に桐壺帝譲位。朱雀帝即位。藤壺中宮腹皇子(冷泉院)東宮となる。
22 夏、葵の上と六条御息所方との車争い。
秋、葵の上、男子(夕霧)を出産。
葵の上、六条御息所の物の怪に悩まされ死去。
源氏、紫の上と新枕を交わす。
▲場所 一条大路・左大臣邸・二条院 関連人物年齢 藤壺 27〜28 葵上 26(死去) 葵上 14〜15 六条御息所 29〜30 夕霧 1〜2
23 賢木 秋、六条御息所、伊勢に下る。
冬、桐壺院死去。
24 賢木 右大臣方、外戚として勢威をふるう。
冬、藤壺出家。
25 賢木  花散里 夏、朧月夜の君との密事露顕する。源氏、花散里を訪ねる。
▲場所 野宮・宮中・三条宮・雲林院・右大臣邸 関連人物年齢 藤壺 28〜30 紫上 15〜17 六条御息所 30〜32 夕霧 2〜4 花散里 ?
26 須磨 春、源氏、須磨に下る。須磨のわび住い。
27 須磨  明石 春、大暴風雨に襲われる。源氏、夢告により明石に移る。
秋、明石の君と契る。
▲場所 左大臣邸・二条院・桐壺邸御陵・須磨 関連人物年齢 藤壺 31〜32 紫上 18〜19 六条御息所 33〜34 明石上 17〜18
28 明石 夏、明石の君懐妊。
秋、源氏、召還の宣旨が下り帰洛する。
▲場所 須磨・明石・宮中 関連人物年齢 藤壺 32〜33 紫上 19〜20 六条御息所 34〜35 明石上 18〜19 

 
冷泉帝
29 漂標  蓬生 春、朱雀帝譲位、冷泉帝即位、源氏内大臣に昇進。明石の姫君誕生。
秋、藤壺、女院となる。源氏末摘花と再会。源氏住吉詣で。
29 漂標  関屋 源氏、石山に詣で、帰京する空蝉一行と_の関であう。
冬、六条御息所死去。
▲場所 宮中・二条院・明石・住吉・末摘花邸・
逢坂の関・京
関連人物年齢 冷泉帝 10〜11 明石上 19〜20 紫上 20〜21 六条御息所 35〜36
秋好中宮 19〜20 藤壺 33〜34 末摘花 ? 空蝉 ?
30 _ _
31 絵合 春、梅壺女御入内、弘微殿女御と対立。絵合行われる。
▲場所 宮中(主として冷泉帝の後宮) 関連人物年齢 冷泉帝 13 梅壺(秋好中宮)22 藤壺 36 紫上 23 弘微殿女御(権中納言の娘) 14
31 松風 秋、二条東院落成。明石の君・明石の姫君ら、大堰山荘に入る。
▲場所 二条院・明石・大堰別邸 関連人物年齢 葵上 31 紫上 23 明石上 22 明石姫君 3 夕霧 10 
32 薄雲 冬、明石の姫君、紫の上の養女となる。
▲場所 二条院・大堰別邸・宮中・三条宮 関連人物年齢 藤壺 36〜37(死去) 紫上 23〜24 冷泉帝 13〜14 明石上 22〜23 明石姫君 3〜4
         梅壺女御(秋好中宮) 22〜23
32 薄雲  朝顔 春、藤壺死去。
夏、冷泉帝、出生の秘密を知る。源氏の栄達の基礎かたまる。
秋、源氏、朝顔の姫君に求婚、紫の上苦悩。
冬、源氏、紫の上と和す。
▲場所 桃園宮(朝顔邸)・二条院 関連人物年齢 朝顔斎院 ? 紫上 24 明石上 23
33 少女(乙女) 夏、夕霧大学入学。
34 少女(乙女) 春、夕霧進士に及第。
秋、夕霧、五位侍従となる。
▲場所 二条院・六条院・内大臣邸・三条宮・
宮中・朱雀院
関連人物年齢 夕霧 12〜14 雲井雁 14〜16 冷泉帝 15〜17 秋好中宮(梅壺) 24〜26 紫上 25〜27
35 少女(乙女)  玉鬘 秋、六条院落成。玉鬘、右近と出あう。玉鬘、六条院に入る。
▲場所 筑紫・椿市・六条院 関連人物年齢 玉鬘 21 紫上 27
36 初音 六条院の晴れやかな正月。
▲場所 六条院・二条院 関連人物年齢 紫上 28 明石上 27 明石姫君 8 玉鬘 22 夕霧 15
36 胡蝶 三月、春の御殿の船楽。玉鬘への求婚多し。源氏、玉鬘に懸想。
▲場所 六条院 関連人物年齢 紫上 28 玉鬘 22 秋好中宮 27
36 五月、兵部卿宮、蛍の光りに玉鬘を見る。競射。源氏の物語論。
▲場所 六条院 関連人物年齢 玉鬘 22 紫上 28 夕霧 15 柏木20(21)
36 常夏 六月、内大臣(前頭中将)、玉鬘の素性を知らず、近江_君を引き取り処置に窮す。
▲場所 六条院・内大臣邸・弘微殿 関連人物年齢 玉鬘 22 近江君 ? 夕霧 15
36 篝火 七月、源氏、玉鬘に執心し悩む。
▲場所 六条院 関連人物年齢 玉鬘 22 夕霧 15 柏木20(21)
36 野分  行幸 八月、野分、夕霧、六条院を見舞い紫の上をかいま見る。
37 行幸 十二月、大原野行幸。
▲場所 六条院・三条宮・都大路・内大臣邸 関連人物年齢 夕霧 15〜16 紫上 28〜29 明石上 27 玉鬘 22〜23 明石姫君 8 
         秋好中宮 27 髭黒 31(32)
37 藤袴 春、源氏、大宮・内大臣に玉葛のことを明かす。玉鬘裳着。
秋、玉鬘、尚侍として参内する事が決まる。玉鬘への求婚者の動き。
▲場所 六条院 関連人物年齢 玉鬘 23 夕霧 16 柏木 21(22) 髭黒 32(33) 
37 真木柱 冬、鬚黒大将、玉鬘と結婚する。鬚黒の毒物の怪に悩み、父式部卿宮実家に引き取る。
38 真木桂 春、玉鬘、尚侍として参内。鬚黒、玉鬘を迎え取る。
冬、玉鬘男子出産。
▲場所 六条院・髭黒邸・宮中・内大臣邸 関連人物年齢 玉鬘 23〜24 髭黒32(33)〜33(34) 式部卿宮 52〜53 真木柱 12(13)〜13(14)
         紫上 29〜30 冷泉帝 20〜21
39 梅枝 春、薫物の調整。明石の姫君裳着。東宮への入内準備。
▲場所 六条院 関連人物年齢 明石姫君 11 春宮 13 紫上 31 夕霧 18 雲井雁 20
39 藤裏葉 夏、夕霧、雲居雁結婚。明石の姫君入内。。紫の上・明石の君対面。
秋、源氏、准太上天皇となる。
冬、冷泉帝・朱雀院六条院に行幸。
冬、朱雀院病む。女三の宮裳着。朱雀院出家。源氏、女三の宮を託される。
▲場所 六条院・極楽寺・内大臣邸・宮中・三条宮 関連人物年齢 夕霧 18 雲井雁 20 紫上 31 明石上 30 明石姫君 11 朱雀院 42 
39 若菜上 春、玉鬘、源氏の四十賀を奉仕。女三の宮を六条院に迎える。紫の上苦悩。
40 若菜上 夏、明石の女御懐妊、六条院に退出。紫の上、女三の宮と対面。
紫の上・梅壺女御・冷泉帝・相次いで源氏の四十賀を催す。
夕霧、右大将に昇進。
41 若菜上 春、明石の女御、男子を出産。
▲場所 朱雀院・六条院 関連人物年齢 紫上 31〜32 秋好中宮 30〜32 明石上 30〜32 明石女御 11〜13
女三宮 13(14)〜15(16) 玉鬘 25〜27 夕霧 18〜20 柏木 23(24)〜25(26)
41 若菜下 柏木、六条院で女三の宮を見て慕情つのる。
42〜45 _ この四年間空白

 
今上帝
46 若菜下 冷泉帝譲位。今上帝(朱雀院皇子)即位。明石の女御腹第一皇子、東宮となる。紫の上、出家を願う。
冬、源氏住吉詣でで、明石の女御・紫の上・明石の君・明石の尼君ら同行。
47 若菜下 春、六条院の女楽。紫の上発病、二条院に移る。
夏、柏木、六条院に忍び入り女三の宮と契る。紫の上危篤。女三の宮懐妊。紫の上小康。
源氏、柏木と女三の宮の密事を知る。
女三の宮病む。柏木、源氏との対面後病む。朱雀院五十賀。
▲場所 六条院・宮中・住吉神社・
一条落葉宮邸・至仕大臣邸
関連人物年齢 紫上 33〜39 明石上 32〜38 秋好中宮 32〜38 玉鬘 27〜33 
         柏木 25(26)〜31(32) 夕霧 20〜26 雲井雁 22〜28 女三宮 15(16)〜21(22)
         明石女御 13〜19
48 柏木 春、女三の宮、男子(薫)を出産。女三の宮出家。柏木死去。
夏、夕霧、一条宮を訪問し、柏木未亡人の落葉の宮(女二の宮)とあう。
▲場所 至仕大臣邸・六条院・一条落葉宮邸 関連人物年齢 紫上 40 柏木 32(33)(死去) 玉鬘 34 夕霧 27 女三宮 22(33) 明石女御 20 薫 1
49 横笛 秋、夕霧、落葉の宮を訪ね柏木遺愛の笛を贈られる。夕霧の夢に柏木現れる。
▲場所 六条院・一条落葉宮邸・三条夕霧邸 関連人物年齢 夕霧 28 雲井雁 30 女三宮 22(23) 明石女御 21 薫 2
50 鈴虫 夏、女三の宮の膾開帳。十五夜の宴。冷泉院の月見の宴。
▲場所 六条院・冷泉院 関連人物年齢 夕霧 29 秋好中宮 41 女三宮 23(24) 秋好女御 22 薫 3
50 夕霧 秋、夕霧、小野で落葉の宮に恋を訴える。夕霧、落ち葉の宮を一条宮に移す。
▲場所 小野山荘・一条落葉宮邸 関連人物年齢 紫上 42 夕霧 29 雲井雁 31 女三宮 23(24) 薫 3
51 御法 春、紫の上法華経千部供養。
夏、明石の中宮、紫の上を見舞う。
秋、紫の上死去。
▲場所 二条院 関連人物年齢 紫上 43(死去) 夕霧 30 明石上 42 明石中宮 23 秋好中宮 42 薫 4 匂宮 5
52 源氏、紫の上を追想しつつ一年を過ごす。
▲場所 六条院・二条院 関連人物年齢 明石上 43 夕霧 31 女三宮 26(27) 明石中宮 24 薫 5 匂宮 6
薫年齢 この間、八年空白 _
_ (雲隠) この巻は巻名だけあて本文がない。源氏はこの巻で死去している。
14 匂宮  竹河 春、薫元服、侍従となる。
秋、薫、右近中将となる。
15 匂宮  竹河 _
16 匂宮  竹河 匂宮、薫と競い「匂う兵部卿、薫る中将」と並び称される。
17〜18 匂宮  竹河 _
19 匂宮  竹河 薫、三位宰相中将に昇進。
▲場所 二条院・六条院・三条宮・玉鬘邸 関連人物年齢 薫 14〜20〜23 匂宮 15〜21〜24 夕霧 40〜46〜49 秋好中宮 52〜58〜61 
         女三宮 35(36)〜41(42)明石上 52〜58 明石中宮 32〜39〜42 雲井雁 42〜48
         玉鬘 47〜56 冷泉院 43〜52 今上 35〜44 大君 16〜25 中君 14〜23
20 橋姫  竹河 薫、宇治の八の宮家に通い始める。
21 橋姫  竹河 _
22 橋姫  竹河 秋、薫、宇治の大君・中の君を隙見する。薫、弁尼から出生の秘密を聞く。
▲場所 宇治八宮邸・薫邸 関連人物年齢 薫 20〜22 匂宮 21〜22 大君 22〜24 中君 20〜22 夕霧 46〜48
23 椎本  竹河 春、匂宮、初瀬参拝し、帰途宇治を逍遥。薫、中納言に昇進。
秋、八の宮、山寺に籠り八月下旬死去。
冬、薫、大君に意中を明かす。
▲場所 宇治八宮邸・夕霧山荘 関連人物年齢 薫 23〜24 匂宮 24〜25 大君 25〜26 中君 23〜24 夕霧 49〜50
24 宿木  総角  紅梅 秋、八の宮の一周忌。薫、大君に思いを訴えるが大君許さず。
薫、匂宮を宇治に伴い、中の君との仲を取り持つ。
冬、大君病臥し、やがて死去。
▲場所 紅梅大納言邸 関連人物年齢 薫 24 匂宮 25 大君 26(死去) 中君 24 夕霧 50
25 宿木  早蕨  東屋 春、中の君、二条院に移る。
秋、匂宮、夕霧の六の君と結婚。
中の君の苦悩。
匂宮、薫と中の君との仲を疑う。
薫、中の君から異母妹浮舟のことを聞く。
▲場所 宇治八宮邸・二条院 関連人物年齢 薫 24〜26 匂宮 25〜27 中君 24〜26 浮舟 19〜21 夕霧 50〜52
26 東屋 春、薫、権大納言兼右大将に昇進。薫、女ニの宮と結婚。
夏、薫、宇治で浮舟を見る。
浮舟、二条院にあずけられる。匂宮、浮舟に言い寄る。
秋、薫、浮舟とあう。
▲場所 常陸介邸・二条院・三条小家・宇治山荘 関連人物年齢 薫 26 匂宮 27 中君 26 浮舟 21 夕霧 52
27 浮舟  蜻蛉  手習 春、匂宮、浮舟とあう。薫、匂宮と浮舟の仲を知る。浮舟失踪。
横川の僧都、浮舟を発見し小野に連れて帰る。
浮舟、中将(妹尼の亡娘の夫)懸想されるがとりあわず。浮舟出家。
▲場所 宇治山荘・六条院・宇治院・小野 関連人物年齢 薫 27〜28 匂宮 28〜29 浮舟 22〜23 中君 27〜28 明石中宮 46〜47 
         夕霧 53〜54 
28 夢浮橋 春、薫、浮舟の存命を知り驚く。
夏、薫、横川の僧都を訪問。
薫、小君(浮舟の弟)を小野に遣わすが、対面を拒否され、薫の消息も受け取られず。
▲場所 横川・小野 関連人物年齢 薫 28 浮舟 23 小君 ?

 
 今からちょうど千年前、紫式部は越前国(今の福井県)で、好きな書物を読み耽り、つれづれに物語を書きながら静かな日々を送っていた。
その紫式部の元へ、宮中で内覧として権勢を振るっていた藤原道長から、娘の彰子の教育係として京の都へ来てほしいという文が届く。
この世で最も美しく華やかな場所・京都。もう二度と訪れることはないと思っていたあの場所へ、再び赴くことになるとは…
ゆるやかに時が流れてゆく今の暮らしに何一つ不満はなかったが、迷い悩んだ末に式部は心を決めた。
――私にはどうしても完成させなければならない物語がある。その結末は京の都でなくては、きっと書けない―― 

 紫式部の描く「源氏物語」の主人公は、桐壺帝の子・光源氏。
武芸学問に優れ、この世のものとは思えないほど美しい容姿を持ち、誰からも愛され羨まれている。 
わずか十二歳にして四歳上の葵の上を娶り、何不自由のない人生を送っているかに見えた光源氏だったが、心の底には誰にもうちあけられない深い苦悩を抱えていた。
どうしても抑えられない恋心。
しかも相手は光源氏の継母で、帝の寵愛する藤壺中宮だった。

宮中の権力争いの道具として、帝に嫁ぐ宿命を背負う彰子の瞳の清らかさに、式部は心を打たれる。
いつしか彼女は彰子に、自らが人生をかけて紡いだ物語を説いてゆく。
当時、日本はもちろん世界でも類を見ない、長く壮大な”女と男の物語“を。
まだ男を知らない彰子は、次々と姫君たちを愛し、夜ごと肌を合わせてゆく光源氏に驚き、戸惑いながらも、
次第にその人生の根底にある深い闇と悦楽の世界へと惹き寄せられてゆく。
その頃、道長もまた、他の女房たちとは明らかに異なる紫式部の不思議な魅力に、心を奪われはじめていた…

 姫君たちといくら逢瀬を重ねても、熱い躯を合わせても、藤壺への想いが光源氏の心から離れることはなく、ついに開かれる禁忌の扉。
病で里に下っていた藤壺の寝室に忍び込み、なかば強引に一夜を共にする光源氏。それは夢のようなめくるめく出来事だった。
その夜、藤壺は光源氏の子を宿す。それがすべてのきっかけであるかのように光源氏の永く深い、愛と憂いの物語が静かに幕を開ける…
言い知れぬ罪の意識に苛まれ、次第に光源氏を遠ざける藤壺。
たった一度の愛の記憶に思いをはせては胸を焦がす光源氏は、ある日北山深くの庵で、藤壺の面影を持つ少女・紫の上に出逢い、
彼女を自らの手で理想の女性に育てようと決意する…

 真実の愛を探し続ける光源氏の物語を読む度に、紫式部から教えを受ける度に、彰子は心が拓かれてゆくのを知る。
まるで光源氏に導かれ、素晴らしい女性へと成長した紫の上のように。
しかし紫の上の一途な想いさえも届かないのか、光源氏は新たな姫・明石の君と結ばれる。
奈落に突き落とされるような紫の上の苦悩を彰子もまた感じていた。男と女とは何なのか。なぜ求めあい、傷つけあうのか。
悩みが次第に怖れに変わり始めた彰子に、紫式部が告げたあるメッセージが、彰子の全てを強く揺さぶるのだった…

■■ 平安時代の婚姻について -【関連頁】-
婚姻についての日本の習慣は、奈良時代から少しずつ変化して、現代に至るまでの間にかなり大きい変化を経ている。
だから、奈良・平安時代の婚姻については一夫一婦制だけを正しいとする眼で見ると間違った判断に陥ることが少なくない。
大づかみに言えば、奈良時代には「妻問い婚」、平安時代には「婿取り婚」、鎌倉時代を経て室町時代に至って「嫁取り婚」が行われた。

『万葉集』を見ると、しきりに「妻問ふ」という言葉が出てくる。
「妻問ふ」とは夜になってから女の家を訪問し、そこに泊まり、翌朝暗いうちに起きて女と別れ、自分の家に帰るという結婚の仕方である。
奈良時代には男が道で女に会ったり、人の集まる市で女を見かけたりして気に入ると、女に「家は何処」「あなたの名は何」と尋ねる。
名を聞くのは女に姉妹がある場合があるから間違えないようにとの配慮である。
家の在処と名を聞くのが求婚のしるしである。
女はその男が気に入れば自分の家の在処と自分の名とを男に教える。
男はそれを頼りに夜になってからその女の家を訪れ、外から女の名を呼ぶ。
家の外で歌を歌ったりする。
予告なしに家の外から中の女に呼びかける男もいる。
そういう場合に、気が進めば女は男を自分の家に招じ入れる。

男は昼間は自分の生まれた家の労働に従事しており、女もまた自分の家の田畑の労働や洗濯・水汲みなどの仕事に従事する。
そして夜になって男は女を訪問する。
奈良時代やそれ以前の例では、結婚すると「主屋」の傍に「端屋」を建てて、そこで男を迎えたようだ。
が、男はそこに同居するのではなく、夜来て朝帰る。
つまり通い婚である。
子供が生まれれば、それは「主屋」を中心とするその一族の子供として一族が力を貸して育てる。
父親は通ってくるだけである。
当時は女は女で土地を分け与えられ、それを自分の財産として持っていた。
また、娘は住む家を女親から継承する。
このように女は自分なりの財産があり、それによって生活していたので、通ってくる夫に経済的に依存して生きていたわけではなかった。

通って来ていた男がいくら待っても通って来なくなる場合もあった。
離婚である。
また、女が男を嫌いになって門を閉じて男を家に入れなくすることもあった。
これも離婚である。
離婚によって財産の分与をすることもなかった。
離婚にあたる当時の言葉は「はなれ」とか「たえ」である。
「絶え」とは通いが「とぎれてしまう」ことである。
「はなれ」ても「たえ」ても、女は女で自分の財産を持っていたから直ちに困窮してしまうことはなかった。

このように女は自分の家に居り、男が女の家を訪ねるのが、奈良時代の習慣で、これが妻問い婚である。
こうした、「訪婚」の慣習は世界各地に見られた習俗であるという。

平安時代になっても男が女を探して訪ねていく結婚の仕方は続いていた。
『源氏物語』や『堤中納言物語』その他に、貴公子が街を歩いて行くと家の中から琴の音が聞える。
そこで破れた築地の脇からその家の中に入って歌を歌うとか、笛を吹いては、女の心をひくという話がいくつもある。
これは奈良時代からの伝統的な求婚の形式を踏まえていると見てよいと思われる。

こうした形式のほかに、直接女に働きかけず親を通して話を持ちかける仕方もあった。
まず娘についての噂を耳にした男がそおの親を通して歌を送る。
手紙を送る。
それを度重ねて娘の気持ちを和らげ、その上で通って行く。
『かげろふの日記』の著者に通った藤原兼家(当時二十五歳)は、まず娘の許に通いたいと娘の親の藤原倫寧にほのめかした。
はっきりと返事をもらわないうちに歌を届けさせ、初夏の頃から秋まで歌と手紙を繰り返し送った。
娘の方では、周囲の人々が返事の仕方を娘に教えたり、また兼家なる人物を品評して娘に助言している。
そうした末に娘も承知したのであろう。
秋になると兼家は通い始めている。

こうした通い婚ではあるが、その通い婚を正式に認めて婿として取るのが平安時代の婚姻の方式であった。
つまり「婿取り婚」である。
正式な婿とされても男は女の家に住みつくのではなく通うだけで、気が向かなくなると男はその娘の家へ行かなくなる。

  家ゆすりて取りたる婿の来ずなりぬる、いとすさまし。(能因本枕草子ニ十二段)
とある。
家中大騒ぎして迎えた婿が通って来なくなる。
全く「すさまし」というのである。
「すさまし」とは当時「ぞっとする」という意味であった。
光源氏も左大臣家の葵の上の正式の婿になったのだが、気に入らなかったのであまりその邸に行かなかった。

通い婚という習俗の中では、男はただ一人の女の許に通うのではなく、何人もの女のところに通うこともあった。
つまり一夫多妻の状態である。
藤原道長の祖父藤原師輔には少なくとも次ぎのような五人の女性がそれぞれ師輔の子供を生んでいる。

武蔵守藤原経邦女盛子(七人生む)
右大臣顕忠女(二人生む)
常陸介公葛女(一人生む)
醍醐皇女雅子内親王(四人生む)
醍醐皇女康子内親王(二人生む)

師輔はこの他に四人の女性のところに通ったことが分っている。
それでもそれを不道徳だとする扱いは無かったことが注意されなくてはなれない。
男は女の家に通うので、生まれた子供はそれぞれの女性の家で養育される。
師輔がこの五人の女性のところに通った時期にはずれもあるが、同じ時期に通っていた人もあり、今の言葉でいえばそれは重婚であろう。
当時の法律でも重婚に関する禁止規定はあったが、それは貴族が正妻を二人持つ事はできないということで、複数の女に通ってはならぬということではなかった。
実際的には無意味な規定で古来の慣習の方が強かった。

一人の男が通ってこなくなったとき、その女のところへ別の男が働きかけて来たりすると、女がその新しい男の通い婚を受け入れる事もある。
女のところへ新しい男が訪ねてきている時に、久しく来なかった以前の男が来合せたというような例も記録されている。
ここでは、一夫多妻ともいうべき状態が生じたのである。

中国風に妻と妾とを峻別すること、つまり子供の扱いで嫡子と庶子とを明確に区別することなどは一般の庶民の間ではあまり確かでないようだが、その頃「本つ妻」とか「北の方」という言い方がある。
「北の方」は普通一人に限られている。
身分の高い家の娘がこれになることが多い。
「北の方」は男と同居している事が多いようで、今でいう「正妻」に近い。
子供の出世も「北の方」の子の方が位が高い。
他の女たちは「北の方」にいちもく置いている。
大体、女たちは別々の家に住み、そこへ男が通うのだから、女たちが面と向かって傷つけ合うようなことは起こらなかったのだが・・・。
『源氏物語』でいえば鬚黒大将が玉鬘を迎えたとき、それが単に複数の婦人のうちの一人に玉鬘を加えるのであればあの騒動は起きなかったであろう。
特に高く遇される女として玉鬘を迎えようとしたから、それまでその位置にいた式部卿宮の娘の狂乱がつのったといえる。

婿取り婚はこうした状態のものであったが、平安時代に入ってから、男が女を自分の家などに連れてくる「すゑ」という結婚の方式が広がってきた。

平安京の都市生活が発達するにつれて、生産労働に直接従事することなく、国からの給与あるいは親の遺産にたよってもっぱら消費生活を営む人々が生じ、それが次第に増加してきた。
その人々の生活は、家邸は昔のままの広さを保ち家格は高くても、実際の生活は当主に収入が乏しくて次第に困窮する方向にある。
その中には、母親の急死によって取り残されて同居の祖母に育てられる娘、祖母などもすべて亡くして孤独に暮らさざるを得なくなった娘、または助けてくれる子供を亡くしてしまった老女などがいた。
かれらは由緒ある家筋のものである場合にも、都市の中でわびしく暮らさなくてはならなかった。
家柄や血筋が高くても、生産活動との縁が切れていたこれらの都市生活者たちは、農村で見られるような大家族集団の中での扶助も庇護も受けられず、不如意と窮乏に陥った。
これは当時の社会での新しい現象であった。

かばってくれる人も無く暮らしているこういう女たちを、男たちはいつも求めてまわった。
貴公子が街を行くとあばら家の中から琴の音が聞えるという場合など、その一つの典型である。
その家の内に気に入った娘でもいるとそれを自分の家にさらってくる。
あるいは適当な家邸を用意して、そこに安住させる。
それは自分の意志で女を「一ヵ所に動かないように置く」ことなので、女を「すゑ」ると言われていた。
このように「すゑ」られること、つまり男に引き取られて生きるのは一般の風習に反することで、「すゑ」られた女は低く見られることがあったと覚しい。
というのは、女は家を持ち財産を受け継ぎ、自分では働かずにそこへ男を通わせるのが普通だったからである。
しかし考えてみれば、「すゑ」られることは、特定の男の持続的な庇護を受ける安心な暮らしである。
女としては男の通いが何時途切れるかという不安の中で生活するよりも、「すゑ」られることはむしろ望ましくもある生活だという考えが生じてきた。
これが平安時代になってから都市において発生した新しい男女の結合の形である。
こういう形からやがて男の家に女をはじめから迎える嫁取り婚が発達したわけである。

そうした事情であったから、光源氏が紫の上を連れ出して来て自分の邸に住まわせて養い、教育したという仕方は、当時としては注目される行動だったに相違ない。
しかし、格づけという点から見れば、紫の上は多少の引け目を感じざるを得なかっただろう。
光源氏が多くの女性たちを六条院の区画の中に住まわせたのは、みな「すゑ」の行き方であり、女の側からすれば安心のできる新しい生活の形であったことが理解される。

この頃は男が女のもとに通わなくなれば結婚は終わりであり、一度とだえても、また通い始めれば再開されるということで、庶民の生活ではそこに重婚とか離婚とか姦通とかいう厳格な社会的な規制は成り立っていなかったようである。

● 天皇、または皇子の結婚 ●

天皇には何人かの配偶者がいた。
皇后が正式の配偶である。
皇后は二人は立てない制だったが、一条天皇のとき、藤原道隆の娘、定子が入内して皇后になっていたところへ、藤原道長の娘の彰子も入内して中宮と称し、皇后と同じ扱いとした。
以後、皇后が二人になるときは、後で皇后になったものを中宮と呼んで皇后と区別した。
しかし資格に相違は無かった。
女御は多くは内親王、女王の中からなるものだったが、親王や大臣の娘もそれに選ばれた。
女御の中から皇后に進む者も出たから、誰が女御に選ばれるかについて、摂関家や大臣家などでは神経を尖らせていた。
更衣は女御の下の級に属した。
それは親が納言及びそれ以下である者の娘だからである。
これらの他に、天皇への奏上や、天皇からの宣下を扱う内侍司の長官である尚侍がいた。
これは二位・三位の高い位を保ち、天皇や東宮の寝所に侍する関係にあることが多かった。

裁縫をする御匣殿(みくしげどの)の別当は、尚侍の下にあったが、これも天皇と特別の関係にあった。

当時は娘を皇后の位置につけ、その生む男子が次代の皇位に就くことを待ってその外戚として政治権力を振るう事を大臣家の人々は期待していたから、女御・更衣に誰を推すか、その娘が男子を生むか否か、そのためには、誰が帝寵を最も多く得るかに鋭い関心が集まっていた。

■■■『源氏物語』縁の地
    桐 壺
愛宕珍皇寺 − 東山区松原通東大路西入る。(火葬場所は、今の建仁寺内の大昌院付近)

巻名は文中の「御つぼねは桐壺なり」からとられた。
桐壺は内裏の淑景舎で、庭に桐が植えられていたので、こう呼んだ。
同巻はまた「壺前裁」「輝く日の宮」との別名あり

一帯は京都の古い火葬場鳥辺野で珍皇寺はその寺である。

帚 木

淑景舎 − 上京区浄福寺通出水付近

源氏の歌「帚木の心知らで園原の道にあやなくまどひぬるかな」と空蝉の「藪ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木」からとられた。

源氏の当時の御宿泊所は玄輝門わきともいわれる − 玄輝門は桐壺の敷地の東北隅から西約八百三十メートル、北約五百七十メートルの地点。
上京区土屋町通下長者下がる東側にあたる。

空 蝉

二条院址 − 中京区油小路二条(条坊制にあてはめれば、槌屋町、薬屋町。つまり陽成院跡になる)

源氏の「空蝉の身をかへてける木の下に猶人がらのなつかしきかな」と、空蝉の、伊勢集に入った「空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびに濡るゝ袖かな」の歌による。

夕 顔

夕顔の宿 − 高辻西洞院西入る(永養寺町が想定地)
「夕顔」の名をそのまま町名に残したところがある。堺町通高辻下る、夕顔町がそれである。
しかも、その町内の富江さん宅の中庭に、小さな宝篋印塔の夕顔の墓がある。
冨江さんは、京都でも古い伸銅屋さんで、墓は江戸期からあるらしい。
冨江さん宅では毎年九月十六日に「夕顔忌」が営まれている。

源氏に手渡された扇に「心あてにそれかとぞ見る白露のひかりそへたる夕顔の花」としたためた夕顔の歌からとられた。

”なにがしの院”は、下京区五条通西洞院東入(若宮通を東西にまたがる)

若 紫

岩倉大雲寺 − 左京区岩倉(実相院北奥)

源氏の歌「手に摘みていつしかも見むむらさきの根にかよひける野邊の若草」からとられた。

いまは実相院に属するが、当時、山内には四十九院の塔院を持ち、比叡山西の最大の天台宗寺であった。
創建の中納言・文範は紫式部の曽祖父にあたる。

少女が水を汲んで遊んだ閼伽井堂、修験者の岩穴。

末摘花

朱雀院跡 − 中京区壬生天ケ池町(福田寺内の尼ケ池)

源氏の歌「なつかしき色ともなしになにゝこの末摘花を袖にふれけん」による。

紅葉賀

三条宮址 − 御池高倉北東

源氏と頭中将が舞った紅葉の宴にちなむ

花 宴

弘徽殿跡 − 上京区出水通土屋町西北あたり。

巻首の「南殿の櫻の宴せさせ給ふ」によった。南殿は紫宸殿。

一条戻橋 − 上京区・堀川一条

源内侍の「はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしの今日を待ちける」と源氏の「かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあふひを」による。

賢 木

紫野雲林院 − 大徳寺通北大路下る

六条御息所の「榊垣はしるしの杉もなき物をいかにまがへて折れる榊ぞ」と、源氏の「をとめ子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」などによる。

この寺が大徳寺の前身なのだ。
当時の豪奢な規模を語るのは、わずかに、東の堀川通北大路下るの白毫院に残る土塀。
なかに小野篁と紫式部の墓がある。土塀は寺領の東のはてを区切る境だった。

花散里

中川の宿 − 上京区寺町通広小路上がる、蘆山寺付近か。

源氏の歌「橘の香をなつかしみ郭公花散る里をたづねてぞとふ」などから

紫式部の邸宅跡。
もと船岡山の南蘆山寺通にあって、興願金剛院といった寛元のころ再興、賑わったが、応仁の乱で焼失し、この地に移された。
この地はまた、それ以前に、権中納言藤原兼輔卿が建てた堤中納言邸跡でもある。
角田文衞財団法人・古代学協会教授の考証によれば、作者・紫式部は藤原香子で、兼輔卿はその曽祖父にあたると。

庭には故新村出京大名誉教授絶筆の「紫式部邸跡」の青目石の碑がある。

須 磨

須磨海浜公園 − 神戸市須磨区

朧月夜との一件で、自ら須磨に移ったので、また和歌にも須磨は多く取り上げられているなど、によった。

明 石

明石 − 浜の住いは、いまの明石市大観町あたりか、そこの善楽寺内に明石入道の碑がある。

源氏は父の夢の中でのことばにしたがって須磨から明石に移ったので。
明石君の岡辺の住いは、明石志にこうある。
「(岡辺は)在松本村。明石より一里十五丁亥方、明石入道別業の跡なり。・・・・・今はあれてわずかの森有り。この岡の屋形を奥殿と号す・・・・・」
松本村は現在神戸市垂水区

澪 標

住吉大社 − 大阪・住吉区

源氏が明石君に送った「みをつくし戀ふるしるしにこゝまでもめぐり逢ひけるえには深しな」と、返歌「數ならで難波の事もかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」による。

蓬 生

紙屋川 − 紙屋院の当時の在所は、右京区花園妙心寺の東南、木辻のあたり。

巻中に「蓬生」の名は見えない。ただ「蓬」の名は八ヶ所に見える。

關 屋

逢坂山關跡 − 京津電車「大谷」駅を降りて、東に坂をのぼる。関跡はそののぼりつめたところにある。

源氏の車を中にして、逢坂の関の番所の建物から、美しい供の人たちがあらわれた情景の描写から。

繪 合

嵯峨清涼寺 − 右京区嵯峨釈迦堂

絵合のことばは文中に見えない。しかしこの巻の重要な部分を占めてくりひろげられる絵合せの催しによったのだろう。

”山里ののどかなるを占めて”建てた御堂は源融の山荘で探せば、嵯峨清涼寺内、栖霞寺。いまは阿弥陀堂である。
融公の墓所は仁王門をくぐって左側にそびえた多宝塔の裏にあるコケむした宝篋院塔。

松 風

桂離宮付近 − 西京区桂

明石の君が大井川の屋敷で源氏の贈った琴をひく。文中”松風はしたなく響きあり”とあり、その折尼の上の歌「身をかへてひとり歸れる山里にきゝしに似たる松風ぞ吹く」

平安時代以降には都の貴族たちの山荘があった。
古今著聞集に貞保親王の桂川山荘、歌人源経信の山荘の記録がある。伊勢集にも清原元輔が山荘をかまえたとある。
この地が都にあまり遠くなく、川遊びに、行楽に適していたのだろう。
川はまた、鮎がとれ、天皇に供したので禁河になったこともある。

薄 雲

亀山公園 − 渡月橋西北

藤壺の死に源氏が「入日さす峯にたなびく薄雲は物おもふ袖に色やまがえる」と詠んだ歌などによる。

このあたりはもと、亀の尾山と呼んだらしい。(現在も亀ノ尾町あり)
この小さな丘が亀の尾に似ていたからだそうである。

朝 顔

桃園宮跡 − 一条通大宮を中心にした二百メートル四方の地

見しをりの露わすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん、とよんだ源氏の歌、文中は”枯れたる花どもの中に、朝顔の、これかれにはひまつはれ・・・”による。槿とも作る。

乙 女

大学寮跡 − 二条城西南隅櫓。ここを中心に西は千本通、東は堀川までがその跡。

源氏がふと五節を思い「昔、目にとまり給ひしをとめの姿を思しいづ」とあり、「をとめ子も神さびぬらん天つ袖ふるき世の友よはひ經ぬれば」の歌および惟光の歌などによる。

桓武天皇が平安遷都にあたって設置した官吏養成学校で、学生は十三歳から十六歳までの五位以上の貴族の子弟から選ばれた。
学問は紀伝、明経、明法、音書、算の諸学からなり、卒業すれば式部省の試験のあとエリート官吏に採用された。
この大学寮を核に当時、和気氏の私塾「弘文院」藤原氏の私塾「勧学院」在原氏の私塾「奨学院」がズラリ並び、さながら平安期の学園街だった。

玉 鬘

長谷寺 − 奈良県桜井市

源氏が手習いのように書いた歌「戀ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなるすぢをたづねきつらん」による。

初 音 

醍醐寺 − 山科区醍醐

明石君が二条院にひきとられた姫に「とし月をまつに引かれてふる人に今日うぐひすの初音きかせよ」と贈った歌と、源氏の姫にすすめたことばによった。

胡 蝶

河原院跡 − 下京区河原町五条

紫上が秋好中宮に贈った歌「花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ蟲はうとく見るらん」秋好中宮の返歌「こてふにも誘はれなまし心有りて八重款冬をへだてざりせば」による。

舞台の六条院は春夏秋冬の四季を象徴した庭を持ち、自然を理念的に形象化した御殿にほかならない。そして、そこはまた、南西に秋好中宮、北東に花散里、玉鬘、西北に明石君・・・と住む位置を定めた源氏の、愛の理想郷でもあったのだ。
源氏はここを舞台に心理劇を演出し、自らも主役を演じるのである。
六条院は、当時の河原院がモデルになったといわれる。
源融左大臣の別荘で、陸奥の塩釜浦を模した池庭で名高かった。
四町四面(百二十一メートル四方) − 本覚寺前町、本塩釜町、南京極町、新善光寺町に及ぶ広大な屋敷跡。

玉鬘邸 − 下京区河原町五条の北周辺

本文の”ほたるをうすきかたびらに・・・”と「聲はせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思ひなるらめ」とよんだ玉鬘の歌による。

本覚寺には融公をまつる塩竈神社、上徳寺は塩竈山と号し、白毫寺は別称を塩竈太子・・・。

常 夏

妙法寺跡 − 名神・八日市インターチェンジ付近

玉鬘を実父内大臣にあわせようと思う源氏が「撫子のとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人やたづねん」と詠んだ歌による。とこなつは撫子の別名。

篝 火

椿市(古代歌垣の場、平安期に長谷参りの宿場) − 奈良県桜井市金屋

源氏が「かゞり火にたちそふ戀の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけり」と詠み、また文中に「かゞり火のすこし消えがたなるを、御供なる右近の大夫を召して」とある。

京都の九条の仮住いから、五日の道を徒歩でたどりついた霊験あらたかな「椿市観音堂」は、この郷の初瀬より。

野 分

東三条殿跡 − 中京区釜座通押小路あたり

「野分、れいの年よりもおどろおどろしく・・・・・」

もと醍醐天皇の皇子重明親王が住んだ。
のち、藤原良房が邸宅を伝領、やがて藤原氏の女子で皇妃母后となった人が定住し、東三条殿兼家に移ったという。
邸宅は、また道長にわたり、一条天皇、後朱雀・近衛両皇も行幸した。

行 幸

小塩山 − 勝持寺(花の寺)を西へ

「うちきらし朝曇りせしみ雪にはさやかに空の光やは見し」

藤 袴 

大原野神社 − 西京区大原野

夕霧が玉鬘に贈った花が藤袴(蘭)であったことと、夕霧の「同じ野の露にやつるゝ藤袴あはれはかけよかごとばかりも」による。

藤原氏の祖神をまつった氏神である。
もともと奈良時代は春日大社が氏神であったが、平安遷都後、いちいち奈良への社参が不便とあって勧請されたという。
小塩山も土地の人々は新春日山と呼ぶ。

眞木柱

石山寺 − 滋賀県大津市、瀬田唐橋を南へ

鬚黒の大将の姫君が柱の割れ目に押し込んだ歌「今はとて宿離れぬとも馴れきつる眞木の柱は我を忘るな」による。

紫式部が源氏物語を書き始めたという源氏の間は本堂の右。十二単を着せた紫式部の人形が置かれている。

梅 枝

羅城門跡 − 九条新千本通東へ北側公園内

薫物合わせのあと、源氏らと琴を合奏した辨少将が催馬楽「梅枝」をうたったのによる。
また秋好中宮が梅の枝に文を結んでよこしたり、六条院の庭の梅の情景描写による。

鴻臚館は平安朝、羅生門をはいった朱雀大路に左右に向かい合って二ヶ所あった。
渤海交易がさかんであった当時、来朝した彼ら使臣を接待する迎賓館としてつくられた。
だが、のち、延暦十五年(796)、東寺・西寺が造営するに及んで七条の北に移転したとか。
現在の位置でいえば、東の鴻臚館は島原の南、七条の北、下京区朱雀正念町、八条馬場町あたり。
西は、島原口から大門にいたる花屋町。
近くに薬園町の名があるのは、鴻臚館の、使臣が薬草園を開いた名ごり。

藤裏葉

宝塔寺 − 伏見区、伏見稲荷大社の南

雲井雁のことで、夕霧と穏やかでなかった間柄をとりもどそうと、内大臣が「藤のうら葉」と古歌の句を口ずさんだのによる。

三条大宮の一回忌がしめやかに営まれた深草・極楽寺。(現在は深草山宝塔寺)
京都最古の多宝塔といわれる。

若菜(上)

仁和寺 − 右京区

鬚黒大将の北方玉鬘が、源氏の四十歳を祝って若菜を贈った。
源氏は「小松原すゑの齢にひかれてや野べの若菜も年をつむべき」と詠んだのによる。

御室桜の開花は遅い。
この花を一名”泣き櫻”とも呼ぶ。
明治のころである。
門前の住民の困窮をあわれんだ小松宮彰仁親王が、花どきにかぎって境内に茶店を出す事を許した。
だけど、人々は花が散ると、またもとの生活にもどるのをなげき、泣いて花の散らないように願った、ということだ。

若菜(下)

石清水 − 京都府八幡市

本文に「このたび足り給はん年、若菜など調じてや」がある。

そのむかし、極楽寺など豪華な堂宇が並んだ下院の跡だ。
徒然草五十二段にある仁和寺の僧の話で名高いところでもある。

柏 木

宇治陵 − 府道京都 − 宇治線の宇治市木幡南山畑町を中心とした一帯

夕霧の歌に、落葉宮がこたえた歌「かしは木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿のしづえか」による。

十七陵三基。
大小とりまぜて三百二十基の古墳があたりに散在しているという。
けれども、いまその古墳たちを一つ一つめぐることは困難だ。
そして、その塚がだれのものだか知るよすがさえない。
ただ、かつてこの御蔵山につらなる山々のふもとが、栄華をきわめた藤原氏の墓所で、宇多天皇中宮らが葬られたとつたえる。

横 笛

岩戸落葉神社 − 北区小野下ノ町

夕霧が御息所から柏木の横笛を贈られ、よんだ歌「横笛のしらべはことにかはらぬを空しくなりし音こそつきせね」による。

拝殿前に菅の円座が二つ。
いずれも落葉を乗せてきちんと並び、空虚な不在を固守しているのが、なぜか戦慄的でさえある。
近世は仙洞御領地として、皇室に縁が深く栄えたとあり、それ以前にも、歌や日記文学にもしばしば、その名が見える。

鈴 蟲

冷泉院跡 − 二条城の東北部。中京区竹屋町通の南、堀川の西の一帯にあたる。

八月十五日の夕方を描写した文に「鈴蟲のふり出でたるほど・・・」とあり、また、源氏が「鈴虫はかわいらしい」と、女三宮に語ったことなどによる。

弘仁年間(810−823)に嵯峨天皇が創建した後院で、冷”然”院弘仁亭といった。
”然”の字が”泉”に変ったのにはこんな逸話がある。

冷泉院は天暦三年(949)火災にあった。
やがて天徳四年(960)修復される事になったが、どうも”然”の字が”燃”に通じるというので、”泉”にあらためたというのである。
当時、都では豪華を誇り、清少納言も「家は冷泉院、朱雀院、東三条」と三本の指に数えた。
本朝文粋にもこうある。
「冷泉院は代々の仙院にして、また百花なり。その風景は幽邃にして殊にすぐれたり。聖上はしばらく禁中をでてこの院に幸し給ひぬ。・・・秋の露、春の風をめでさせ給ひてなほ吟詠の情を捨てさせ給はず・・・」と。

夕 霧

大原三千院 − 左京区大原

夕霧は小野の山荘に落葉宮の母御息所を見舞い、落葉宮に歌を贈った。その歌に「山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でん空もなき心ちして」とあるのによる。

小野山荘の想定地について、古くから諸説ある。
「河海抄」には「小野は比叡坂本なり、いまの大原也」とあり「花鳥余情」は「小野は愛宕の名所なり。ひえの山よかはのふもと、たかのといふ所也」とある。
つまり大原か高野かというのである。
そして高野が有力とされる。

御 法

鳥辺野 − 清水新道南側一帯

紫上が花散里に詠んだ「絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にとむすぶ中の契りを」と、花散里の返歌「結びおく契りは絶えじ大方の残りすくなきみのりなりとも」による。

鳥辺野は、平安期のむかしから火葬場。葬儀はそのふもとの珍皇寺で営まれた。
かつてあたりは鳥取部・鳥飼部一族が住んだ。
鳥部郷とも呼ばれたところ。

賀茂御祖神社 (下鴨神社) − 左京区下鴨

時雨がちの十月、源氏はいまはなき紫上を思い出し「大空を通ふまぼろし夢にだに見えこぬ魂のゆくへ尋ねよ」と詠んだのによる。

嵯峨天皇の時代に有智子親王を斎王と定め、伊勢神宮に準じて斎王制がしかれ、その行列が行われたりした。
この行列は戦乱で中断された事もあったが、社殿前で行われる勅使たちの”社頭の儀”は連綿と続けられてきたという。
かつて、貴族の若い公達には勅使に選ばれることが晴れがましい名誉だった。

匂 宮

大覚寺(名古曽滝跡) − 右京区嵯峨

みかどの三宮と女三宮の若君とが源氏のなきあと美しいとされた。
二人は仲のよい友人だったが競争心があって、世人は「匂ふ兵部卿、薫中将」と評判した。

前巻の「幻」から、すでに八年の歳月が流れている。
もっとも、この二つの巻の間に「雲隠」という巻名だけで、本文の見えない巻があって、この虚空に源氏はこの世を去っているのだ。
ゆかりの人々の消息が語られることからすれば、この巻が源氏のエピローグといえなくもないが、「雲隠」という暗点をへて、そこにまた、新たな主人公を得て、新たな物語が炙り出されてくる。
大沢池は旧苑地で、我が国最古の庭園の一つ。
中国の洞庭湖にならって”庭湖”と称した。

紅 梅

春日大社 − 奈良公園東

按察大納言が「軒近き紅梅の、いと、おもしろく匂ひたる」を見て、匂宮に奉るよう真木柱の若君に命じたことなどによる。

竹 河

大極殿跡 − 千本丸太町上がる

藤侍従が「竹河」をうたい、薫が藤侍従へ「竹河のはしうち出でし一ふしに深き心の底は知りきや」と書き、藤侍従が「竹河に夜を更かさじといそしぎも・・・」と返す。

大内裏は延暦十三年(794)桓武天皇が平安遷都で造営した、いわば宮城。
すべて唐制にならい、瓦葺の築垣をめぐらし、東西に四門、南北に三門、正面に朱雀門を構えた。
広さは南北四百六十丈(約1.4キロ)、東西三百九十四丈(約1.2キロ)に及んだという。
けれど、貞観十八年(876)に焼失、元慶三年(879)に再建されたが、百年後にまた焼失、またまた治承元年(1177)焼けるに及んで以後、再建されていない。
碑が残る大極殿は、確かな位置かどうか、定かではない。

橋 姫

橋姫神社 − 平等院北

薫が「橋姫の心をくみて高瀬さ棹のしずくに袖ぞぬれぬる」と大君に送った歌による。
別名「優姿塞」とも呼ばれるが、本文の「優姿塞ながら行なふ山の深き心」による。

椎 本

平等院 − 宇治橋南

八宮他界後、薫が追憶に「たちよらむ蔭と頼みし椎が本むなしき床になりにけるかな」と詠んだのによる。

平等院はもと藤原道長の”宇治の別業”であったという。
「李部王記」によれば、またこの地はそれ以前、源融の別荘で、のち陽成院が行宮を建てて宇治院と号したともいう。
そして、紫式部の若い頃は融公が住んでいた時代でもあり、二人が従妹であった関係から、彼女も何度かこの別荘を訪れたのであろう。

平等院の創建は天喜元年(1053)。
源氏物語の大部分が成ったのは寛弘七年(1010)ごろといわれるから、四十年ばかりあとである。

總 角

許波多神社 − JR木幡駅北

八宮一周忌の願文をを書いたついでに、薫が「あげまきに長き契りを結びこめおなじ所によりもあはなん」と詠んだ。
大君は「總角をたはぶり取りなししも・・・」と思った。

木幡は許波田、強田、巨田、巨幡とも書いて、帰化人が開いたとか。
別名を金辻。
京都、近江、宇治への合流点である。
延喜式にもあらわれる古い神社。

早 蕨

宇治上神社 − 平等院対岸

山の阿闍梨から中君へ蕨などにそえ「君にとてあまたの春をつみしかば常を忘れぬ初わらびなり」。
返歌「この春は、たれにか見せむ亡き人のかたみにつめる峯のさわらび」

八宮の山荘は夕霧の別荘(平等院)の対岸で、山麓にあったとみえるから、文中の描写からしていまの宇治神社、同上神社のあたりに想定できる。
角田文衞財団法人・古代学協会教授の説によれば、神社ふもとの朝日窯元の付近とも推測する。

宇治神社から上神社にのぼるわきに「早蕨之古墳」の石碑がある。

おそらく我が国最古といわれる神社様式を伝える。

宿 木

音無の滝 − 三千院の南前を流れる呂川をのぼり、来迎院の東一キロ。

薫「宿りきと思ひ出でずば木の下の旅寢もいかに寂しからまし」また辨御許の「荒れ果つる朽木のもとを宿木と思ひ置きける程の悲しさ」などによる

東 屋

法性寺 − 東福寺近く

薫が三条の隠れ家に浮舟をたずね「さとむる葎やしげき東屋のあまり程ふる雨そゝぎかな」と詠んだ歌による。

浮 舟

塔ノ島 − 宇治川南の中州

匂宮が橋の小嶋に舟をとめたとき、浮舟が「たち花の小嶋は色も變はらじを、この浮舟ぞゆくへ知られぬ」とよんだのによる。

蜻 蛉

宇治川 − 宇治市

巻末に薫が大君をしのんで詠んだ「ありと見て手には取られず見れば又ゆくへも知らず消えし蜻蛉」の歌による。

浮舟の入水したのはどっこだろう。
八宮の山荘前。
つまり、山荘を宇治上神社とも、朝日窯元付近としても、窯元の前あたり。

手 習

小野 − 大原上野あたり

本中の中にしばしばみえる。”手習”の語による。

浮舟の住いは、いずれにせよ「河海抄」に指摘されるように「大原」にちがいはあるまい。

夢浮橋

横川 − 大津市横川

本文中「夢浮橋」の文字はなく「夢」は五回。

横川といえば、元三大師の名があげられる。
十八代の天台座主で、叡山中興の祖である。
浄土思想はまた、当時の平安貴族たちにうけ入れられた思想だった。

■■ その他

紫式部の産湯の井戸 − 大徳寺真珠庵
井戸は方丈北、茶の村田珠光が遺愛といわれる手水鉢の横、正親町天皇皇后化粧所の前に、わずか一メートル四方の井戸が暗い口をあけている。

井戸には和泉式部の産湯の井戸の伝説もある。
かつてこの地が彼女の夫藤原保昌の邸宅地だったことからであろうか。
もとより真偽のほどはわからない。

竜源院にも、紫式部の碑が建っている。
寛政七年(1795)地元の有志によって建立されたという。

「河海抄」に「紫式部の墓所は雲林院白毫院の南に在り、小野篁墓の西なり」と記されて以来、墓と伝えられている。

墓の前にあった供養塔の十三重塔だけが千本閻魔堂(引接寺・千本鞍馬口下る西側)に移された。

●紫式部と小野篁の墓
2002.08.02京都新聞夕刊より

平安時代の末、紫式部は地獄に落ちたと信じられていた。
ある人の夢に現れた彼女は、嘘偽りを集めて源氏物語を作り人々を惑わした罪のために、地獄で責め苦を受けているから助けて欲しい、と訴えたという。
それ以降、源氏供養と称し、人々の手で紫式部救済の試みが続けられてゆく。
罪業を蒙った物語を好み読む読者側にも、地獄への恐怖が育っていたにちがいない。
そのような事情を背景に、紫式部を地獄から救出してくれる切り札として、篁が招請されたと考えられるのである。
しかし、誰がいつ二人の墓を並べたかは、杳としてわからない。

小林 一彦
京都産業大文化学部助教授
 
 

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