■■■ 生涯の儀式と生活慣習 -平安貴族とその社会を中心に-

■ 出産の準備

 平安時代では出産は不浄とされていたから、宮中でお産をすることは許されなかった。
 どんなに天皇の寵愛の深い后(中宮・女御・更衣など)でも、里邸に退出する。
 臣下の場合は自家で行わず、別に産室を設けるなどした。
 産室の中は全部白、産婦や侍女は白衣で、室内も白几帳・白画屏風などすべて白をもって装う。
 当時はお産は産婦の肉体にとって大変なことで、その生命を奪うこともあり、その間、吉日を選んで祈祷が始められる。

■ 誕生の祝い

 出産すると、産子に湯浴みをさせる湯殿の儀、湯殿の外では、邪気を払うために、弓の弦を鳴らし、文の博士が漢籍の中のめでたい文章を選んで読む読書鳴弦、また、乳母が最初の乳を産子にふくませる乳つけなどが行われる。
 出産後の三夜、五夜、七夜、九夜には、親族などが食物や子供の衣服などを贈り祝う産養がある。
 また誕生後、五十日、百日には嬰児に餅を供する祝いの儀がある。

■ 幼児から成人へ

 三歳から七歳の間に幼児が初めて袴を着ける袴儀(着袴とも)の儀式を行う。
 女児は八歳から後、髪をのばすが、十歳ぐらいまでは、肩をすぎ腰ぐらいまでの長さ、成人すれば丈に余るようになる。
 男児は、幼児期、元服前はといって、髪も服も大人と違い、姉妹のところにも自由に入れる。
 公卿の子は元服前、十歳頃から、清涼殿の殿上の間に伺候を許され、作法の見習いをする。
 これを童殿上という。
 皇子らには、文章博士によって、漢籍の読み方の教授を受ける読書始めがなされる。
 貴族の子弟も初めて書を読み、学問を修めはじめる儀式が行われる。
 元服は、男子の成人式。
 年齢は一定しないが、十一歳から十五歳くらい。
 角髪という子供の髪型を解き、大人の髪型、冠をかぶるための髪型に改め、冠をつけ、大人の服をつける儀式である。
 初冠ともいう。
 元服する男子を冠者といい、冠者に冠をかぶらせる役を引入の大臣という。
 東宮・親王などの元服の夜、選ばれて公卿などの娘が添寝するのを添臥といい、当時の慣習的儀礼で、多くの年長の少女であり、
 後その妃になる例が多い。
 裳着は、女子の成人式。
 年齢は十二歳から十四歳くらい。
 一人前の女になったことの披露であり、結婚させるべき親の意思表明である。
 裳を着せる役の人を腰結といってと徳望のある人を選び、裳の腰紐を結わせ、髪上げをする。

■ 結婚

 当時の結婚にいたる一般的な過程は次のようである。
 まず男が女に手紙(歌)をおくる。
 女の側からはまず女房(侍女)の代筆の返事を出す。
 やがて本人同士の文の贈答へ進み、男が女の家を訪ねる。
 取次ぎの女房を通じて、本人同士の対話に進むが、女は御簾のかなた、几帳あるいは屏風の影にいる。
 さらに進んだ間柄になって、側近にいる時も女は扇で顔を隠す。
 それも燈火のもとなので、衣ずれの音、香の匂いの方が主役である。
 二人の間に契りがなった翌朝、男は女のもとに文をおくる。
 これを後朝の文という。
 二人が結ばれると、新婚三日間は、どんなことがあっても男は女のもとに通い、夜明け前に帰るが、三日がすむと、男は朝までいる。
 そこで女の親から御披露の宴が催される。
 明るい所での披露なので、これを所顕という。
 これで初めて正式の結婚ということになり、女は夫人として世間から認められる。
 当時の結婚では、夫が妻の家に住み、数ヶ月または数年後に、改めて妻を夫の家に迎えるが、一人の男性が同時に数人の妻をもつことは普通でそのために、女の方は嫉妬や憎悪の苦しみを味わわねばならなかった。
 狭い貴族社会では、結婚の条件として、相互の身分のつりあいを重視した結果、叔父と姪、叔母と甥などの近親結婚が必然的に生じた。
 なお、上流貴族社会では権力保持のための政略結婚が普通のことであった。

■ 算賀

 長寿を祝う儀式を算賀、あるいは賀の祝いという。
 当時は四十歳にもなれば老人で、まず四十歳になると四十の賀といって長寿を祝い、十年ごとに、五十、六十、七十、八十、九十、百のそれぞれの賀が行われた。
 この算賀には、巻数を送り、若菜の羹を奉ったりする。

■ 死・中有・服喪

 死が確認されると、北枕とし、極楽は西方にあるといわれて、西向きに寝させ、屏風を逆さまに立てる。
 ついで死体を沐浴(後世の湯灌)して入棺する。
 近親者は、黒づくめとなり、適当な部屋の板敷きを取り除いて土間とし(土殿という)、そこに居た。
 また棺は、霊屋を鳥辺野の辺につくって、そこにいたりもした。
 野辺送りは、棺は牛車に載せたが、近親者だけは徒歩で従った。
 この時代はだいたい火葬だったが、土葬もあった。
 死後、四十九日間は、中有(中陰とも)といって、まだ次の生をうけず、霊魂が迷っているというので、死者の霊を弔い、七日め七日めに  は、特別の供養をし、四十九日めには盛大な法会をいとなむ。
 また服喪といって、死者との関係によって異なるが、一定の期間こもって、その死を悼み、喪服を着て慎むのが例である。
 喪が明けると、河原に出て禊をし、喪服を脱ぐ。
 なお、喪の終わる時(四十九日または一周忌)の法要をはて御はてという。

■ 教養

 男子の教養

 男子にとっては、漢詩文の教養が必須のものである。
 当時我が国固有の学問は無く、唐文化模倣の律令体制にあっては学問の第一は中国に発達したものを学ぶことであった。
 ついで、習字、音楽、和歌が一般的教養として求められた。
 習字には漢字も平仮名も、音楽では得意とする楽器以外に、弦楽器や横笛、笙などのうち、幾つかに心得が必要であった。
 また、平安時代の中頃から絵画の教養も身につけるようになり、大和絵の専門の絵師だけでなく、素人も絵をたしなむようになった。
 素人の絵は墨による線画であったので、絵師に彩色を施させることがあった。
 これを作絵という。

 女子の教養

 女子が身につけねばならない教養は、学問ではなく、その情操を養う宮廷文化的な技能としての、習字、和歌、音楽であった。
 習字は、女手といわれる平仮名である。
 筆蹟は人の手に渡り、歌と共に教養の程が直接表れる。
 歌は人との応答の言葉でもあったので、作歌の勉強には、古今集をはじめとする秀歌を覚え、それを手本として、言葉使い、歌の調べ、歌 らしい題材の扱い方を会得することが第一であった。
 音楽では、筝、琴などの弦楽器に習熟することが求められた。
 また、習字、和歌、音楽のほか、歌に相応しい紙の色や質、墨の色の工夫、季節ごとの衣服の色目を選ぶ洗練された感覚、すぐれた香  の合わせ方の工夫、日常の起居動作についての心得も重要であった。

■ 信仰

 宿世思想

 宿世の思想は、貴族の思想的な骨格の一つである。
 仏教の三世思想、つまり、人は前世、現世、来世とめぐって生き続けるという輪廻の思想を根底とするもので、前世での事が因になり、何かの縁で現世に果として現れるという因縁、因果の理である。

 阿弥陀信仰

 阿弥陀如来のいます西方浄土は彼岸すなわち極楽であり、西の空を向いて、無量寿如来根本陀羅尼を誦し、命の終わる時、阿弥陀仏の来迎をうけ、極楽に往生させていただきたいと、人々は願った。

 仏教

 平安時代の仏教は、最澄のひろめた天台宗、空海のひろめた真言宗の二教が勢いを張っていた。
 天台宗は法華経を根本とし、精細に経典を修め教理を究めて、仏教の根底に至ろうとする、いわゆる顕教である。
 真言宗は大日経を根本とし、修法、加持、祈祷によるところの、いわゆる密教であり、壇を立て、護摩を焚いて、現世利益のための祈祷をする。
 天台宗は学問的な仏教であり、自力門であって、自らの修行によって往生を求め、口に阿弥陀仏を唱え、心に阿弥陀仏を念ずる念仏、心に仏の加護を念じて経文や仏名を口に唱える念誦、あるいは、文字とはなれてけ経を暗誦する誦経、文字について経を読む読経などをして勤行に励むのである。

 神道
 
 我が国固有の信仰である神道は、伊勢大神宮をはじめ、賀茂、岩清水、春日、住吉など、尊崇をうけているが、仏教の方が重んぜられ、 仏教が当時の信仰の主流をなしていた。
 しかし、本地垂迹といって、本地(インド)では、大日如来、我が国に姿を現したのが天照大神と説き、我が国古来の神々に仏に結びあわ せ、みな同じものが姿を変えて現れたにすぎないと説く神仏融合の思想がある。
 神への信仰はすべて現世利益、現世安穏を祈るもので、仏教のような現世離脱を志向する信仰ではない。
 神道はけがれを忌み、そのけがれを浄める禊がある。
 大嘗会の天皇の禊や、斎宮、斎院の禊は、特に御禊という。
 なお、賀茂神宮に奉仕する未婚の内親王または女王を斎院、伊勢大神宮に仕える未婚の皇女、女王を斎宮という。

■ 陰陽道・暦法上の慣習

 平安時代の人々の日常生活は、古い慣習上のしきたりや陰陽道の禁忌の思想や暦法上の取り決めなどによって、かなりの制約を受けていた。
 ことに日時の吉凶は重視されており、当時の暦に書き加えられている暦註にも、雑忌や日の吉凶が明記されていて、公私の儀式や冠婚葬祭をはじめ、神事・仏事・外出・沐浴・服薬・疾病など、いっさいの日常行事や行動が凶日を避けて吉日に行われることになっていた。
 また、悪い兆しがあったり、夢見が悪かったり、穢れに触れたりした時には、それらの忌みを避けるために一定の期間身を慎む物忌という風習も盛んで、重い物忌の時には、人にも会わず、手紙も受け取らないで、籠居することもあった。
 方位の吉凶も重要なことで、病気の治療に良い方向を選んだり、外出に際して行先の方角が悪い場合、それを避けるためにわざわざ別の方角に出かけ、そこから改めて目的地へ向かう方違という風習も行われた。


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