きつつき工房だより(top) 戦争はダメ。‐憲法9条が好き。


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憲法9条が好き


 日本国憲法

 第二章 戦争の放棄

 〔戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認〕
 第九条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 (2005.1.1)
 新年にあわせて表紙のリニューアルを行いました。イメージは、アール・ヌーヴォーの影響が残る1920年代(大正〜昭和初期)の洋館の装飾といったところです。
 「大正デモクラシー」といわれるように、この時代は自由で、ただしちょっと物憂げな雰囲気がありますが、それも昭和大恐慌までで、以降は急速に自由が失われて、時代は軍国主義に傾斜していきます。
 経済の低迷久しい昨今、昨年のイラク人質事件の際の「自己責任論」「家族叩き」について、集団で「非国民」を指弾するようなすさんだ雰囲気と感じましたが、それは大正デモクラシーが滅びていく時代、「自由」から「御国のため」へと変化していく時代と共通のような思いもします。
 今後、決定的な区切りとなるのは、憲法9条の改悪でしょう。これを越えれば、もはや戦前と同じで引き返せなくなります。
 人類の理想が真正面から書いてある憲法の絶対平和主義が、私は大好きです。今年は特にこのことを言いたいと思っています。

(2005.4.29)
 5月3日は憲法記念日。日本国憲法が制定された日です。
 なぜ、戦後、現在の日本国憲法が生まれたのか? なぜ、それ以前の大日本帝国憲法は引き継がれなかったのか?
 何度でも思い出して忘れないように、若い人には伝えなければなりません。
 日本は、1945年の敗戦にいたるまでの数十年間、中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)をはじめアジアの国々を侵略したり、かいらい国家を作ったり、植民地として支配したりして、数千万人の命を奪うという大変な国際犯罪行為を重ねてきました。
 もちろん当時の世界では、米英ソなど列強とよばれる国家は、いずれも侵略や植民地支配の罪を犯していますが、第1次世界大戦後、国際連盟という国際組織ができて、不十分とはいえ世界の国が平和的に共存しようという努力がはじまるなかで、依然として帝国主義的な侵略を正当化し、国際連盟を脱退してまで侵略地を拡大しつづけたのは、日本とドイツとイタリアでした。当時の世界では、この3国が「悪の枢軸」「ならず者国家」と見られていたのです。
 その結果はご存知のとおり、他国の人々はもとより、自国民にも多大な被害者を出して、日本は敗戦を迎えました。

 こういうことを言うと自虐史観だとか、自国の歴史に誇りもてなくなるなどと言う人がいますが、まったく逆でしょう。
 過ちを犯しても、それを認めようとせず、まったく反省しない国や国民の方がよほど恥ずかしい。
 過ちも大きかったが、それを率直に認めて反省し、未来への決意をこめて日本国憲法を制定したこの国と国民を私は大いに誇りに思います。
 その反省の深さが憲法9条になりました。

 二度と戦争はしない、何があってもしない、戦争が絶対できないように軍隊だって持たない――こんなに単純でわかりやすい、そして世界で一番勇気ある宣言をこめた憲法は、そうあるものではありません。
 反省を忘れた為政者や戦争好きな政治屋が跋扈する世の中だからこそ、その理想を受け継ぎたいと思います。

(2006.1.1)
 今年は、いよいよ憲法「改正」のための国民投票法案が出てきそうです。そのうえで、いよいよ「改正」発議まで行くのかどうか。
 昨年発表された自民党の改憲案は、第9条2項(軍備と交戦権の放棄)をまったく変えてしまって、自衛軍の保持と「国際的に協調して行われる活動」という表現で集団的自衛権の行使を明記しています。「国際的に協調して行われる活動」といえば、米英軍のイラク攻撃だって当てはまってしまいます。
 軍備と交戦権を放棄したことこそ日本国憲法の要で、この条項があればこそ、60年にわたって一度たりとも軍隊が外国で人を殺さず、殺されもしなかったという主要国としては世界で例をみない歴史を重ねてこれたのです。この点に関しては日本は明らかに普通でない国なのです。普通でないことが、わたしの日本国民としての最大の誇りです。
 それを普通の国にしていいのか? それが問われています。


 以下は、自民党が発表した「新憲法草案」の第九条関連部分です。全文はこちらからどうぞ→自由民主党新憲法制定推進本部

 自由民主党 新憲法草案(2005.11.22)

 第二章 安全保障

 (平和主義)
 第九条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2項 削除)

 (自衛軍)
 第九条の二
 わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持する。
  自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
  自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
  前二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。


(2006.4.30)
 5月3日の憲法記念日を前に、自民・公明の与党は、教育基本法の改悪案を閣議決定して国会に提出しました。
 教育基本法は、その前文に「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とされているのように、憲法と一体になって戦後の日本の社会・政治のあり方の基本を規定してきた法律です。
 それは、憲法と同じく、戦前の日本に対する深い反省の上に立って、政府が勝手なことをしないようにするために制定されました。
 60年たつと体験者も少なくなるから、ごまかすことができると為政者は思っているのかもしれませんが、そのたかをくくった意図に反するだけの知恵を国民は持っていると信じたい。どうか忘れないように戦前の社会を知ってください。

 戦前の日本の学校教育がどんなものだったのかは、ちょうど今の北朝鮮の姿を思い浮かべればいいのです。金日成の代わりに明治天皇、金正日の代わりに昭和天皇。すべての学校には、「御真影」と呼ばれる「天皇皇后両陛下」の写真が麗々しく飾られていて、生徒は毎朝、その写真に最敬礼させられました。地震や火事の際、学校長の最大の任務は、(生徒の安全にも優先して!!)、御真影を傷つけずに持ち出すことだったのです。不覚にも火事で御真影を焼失してしまった校長が自殺してお詫びした事件もありました。
 現在、北朝鮮の映像を見ると、学校には金親子の御真影が飾られ、インタビューに答える子どもは、判で押したように「首領様のおかげで幸せです」とか「首領様のために勉強しています」とか答えるので、はなはだしく気持ち悪いのですが、戦前の日本の学校は、これと全く同じで「天皇陛下のために勉強して国を守ります」と誰もが思わされていたのです。

 そんな教育の果てに、数千万人の命を奪う戦争が起きた、その反省をこめてつくられたのが教育基本法です。
 だから、教育基本法には、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」と書いてある。天皇陛下や首領様のために行われるのではない、国民のために行われるという意味です。それを自民・公明党は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と変えようというのです。その意味するところは、 最近の学校でのヒステリックな君が代・日の丸の押しつけを見れば明らかでしょう。君が代は、一人の例外もなく立って口を開けて規定以上の声量で歌え、それを後ろから教員委員会が秘密警察みたいに監視するなんて、北朝鮮での金親子礼賛の押しつけと同じではないですか。
 そんな国にはしたくないと、「我が国と郷土を愛する」と自負する私は思います。


(2006.11.12記)
 教育基本法改正(実態は改悪)が、いよいよ衆議院を通過しかねない状況です。

 この改悪は、現在の教育基本法の理念である、教育は時の為政者の恣意に左右されてはならないという基本原理を、全く正反対の上意下達の教育に変えてしまおうというものです。条文でいえば、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」という条文を「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と変えてしまおうとしているのです。

 すでに実態は上意下達がずいぶん進行しています。文部科学省は、文部科学省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→校長・教頭→教員→保護者・生徒・児童という序列を徹底して、生徒や保護者や教員は上の意向に従っていればよいと思っているようです。
 その証拠が、いま問題になっているタウンミーティングにおける「やらせ」でしょう。国民の自由な意見を聞くという名目で行われるタウンミーティングで、文部科学省が教育基本法「改正」賛成など自分達に都合のよい「意見」を作成し、教育委員会を通じて校長やPTA会長に指示して、自主的な会場発言であるかのように発言させていたというものです。発言内容はもとより、「依頼されてとは言わないように」とか司会者がちゃんと指名できるように着席場所は担当者が確認するなどの偽装工作をしていたことが明らかになりました。
 あまりにバカバカしくて思わず失笑してしまうような話ですが、じつはバカバカしいではすまない。優秀な官僚が本気でこういうバカなことを考え、教育委員会も校長もそれに唯々諾々と従ってしまう、そういう流れがすでに教育の現場を覆っているということなのです。教育基本法改悪はそういうやり方を法的に裏づける効果があります。校長や教員は「法律の定めるところにより」どんな指示でも拒否できなくなります。

 北朝鮮で、なぜ子どもたちは「勉強して、首領様(金正日)のお役に立ちます」と判で押したように答えるのか。あれが自主的な意見だと思う人はいないでしょう。背後に恐怖に裏付けられた強制があるのは明白です。でも、タウンミーティングで文部科学省のやらせ工作を唯々諾々と受け入れて片棒をかつぐ教育委員会や校長という構図には、北朝鮮の恐怖政治による教育支配とどれだけの違いがあるというのでしょうか。教育基本法が定められる前の戦前の日本も同じでした。
 そんな国にしないために教育基本法は変えてはならないと思います。


(2006.12.17記)
 教育基本法の「改正」が国会で成立しました。この法律は、日本の教育を国家の統制の下におくことで、戦前の皇国教育やいまの北朝鮮の金王朝教育のようにしてしまう危険な法律です。わたしは絶対反対です。

 国会の議席は、衆参とも自民党と公明党が過半数を大きく超えていますから、両党が賛成すれば基本的にはどんな法律でも成立します。  選挙制度の不合理(小選挙区制と定数の不平等)という重大な問題はありますが、選挙で相対的に多数の有権者が自民・公明党に投票したことは事実(民主・共産・社民党の合計より多数)ですから、くやしいけれど、これが国民の判断なのだと言うこともできます。  しかし、65年前の12月8日、日本軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃に圧倒的多数の国民が手を叩いて喜び、戦争を支持したように、多数の動向が結果的にも正しいとはいえません。

 自民党と公明党が強行したことは間違っていたということは、いまは少数派でも、言い続けていきたいと思います。言い続けないと、あの人たちのやることは、本当に強圧的な統制教育へ向けて際限なくエスカレートする危険があるでしょう。
 とりあえず来年の選挙では、与党への白紙委任はしないようにしないといけませんね。


(2007.3.18記)
 暴力団の構成員・準構成員は全国で8万5000人いるそうです。各地で悪質な犯罪を組織的に行っていても、幹部が捕まることはめったにありません。末端の構成員に幹部が直接、「殺せ」とか「覚せい剤を売れ」とかの犯罪を指示をするわけではなく、ましてそのような指示が文書で存在することもありえないでしょうから、末端の犯罪が発覚しても、幹部が関わった証拠はないということになるからです。

 さて、こんなぶっそうな話を持ち出したのは、戦前、日本軍兵士相手の性行為を強要された従軍慰安婦(その多くは未成年を含む朝鮮女性)について、政府や軍が強制した証拠はないと安倍首相が言っているからです。被害者や元日本兵などの証言から、詐欺的「募集」に加え拉致や強要などを含めた強制があったことは明らかです。にもかかわらず、証拠がないと言うのは、「強制を指示した公文書は見当たらない」ということらしいのです。

 敗戦直後に、戦争関係の公文書は大規模に焼却されて証拠隠滅がされたことは周知の事実ですし、まして、当時でさえ違法が明白な拉致を明文で指示する公文書や「拉致してきた」などという報告書が、そもそも存在するはずがありません。そういう「証拠」がないことをことさら強調して、自国が犯した戦争犯罪行為を少しでも薄めようとすることは、「末端の者が勝手にやったこと」とうそぶく暴力団幹部や、日本人拉致の国家的責任を認めない北朝鮮とどこが違うというのでしょうか。

 このニュースは、日本のマスコミだけ見ていたらよくわかりませんが、アジア、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカと世界中を駆け巡り、それぞれの国の有力な一流紙・メディアが多くのスペースを割いて論評しています。それは、戦争犯罪への無反省に対する批判もさることながら、大国・日本の首相が、暴力団の論理と同じ精神構造を持っていることへの率直な驚きもあるのだと、安倍氏は知っているのでしょうか。

 本当に恥ずかしい。困ったことです。


(2007.5.17記)
 憲法改定の手続きに必要な国民投票法が成立しました。
 純粋に国民投票のやり方を決めるだけなら、憲法の中身と関係ない中立的な法律のはずですが、その実態は、任期中に改憲するという安倍首相の言動から明らかなように、憲法改定、特に9条の改定を行うための準備といえる法律です。したがって、国民投票に不可欠な公正・公平という観点がはなはだしく歪んだ法律になっています。

 その最たるものは、事前のテレビ・新聞等を使った有料コマーシャルが事実上無制限に認められていることです。憲法を変えたいという人たちは、財界・大企業が味方にいます。テレビのコマーシャルを大量に流すことができます。憲法改定という事の重大性から見れば割り切れない思いもしますが、現実にテレビCMは絶大な影響力があります。
 片や、憲法9条を守りたいという人たちには、お金がありません。私も、何度か意見広告の運動に協力したことがありますが、全国紙に1回広告を載せるために、どれだけの努力が必要なことか。ましてテレビのコマーシャルを何度も流すのは至難の業です。百回、千回の改憲CMに、蟷螂の斧のように、ビラやクチコミで対抗せざるを得ません。しかも、それを公務員がやると警察に弾圧されかねない条項が入っています。

 それでも、国民の知恵を信じるほかありません。改憲、改憲と千回いわれたからといって、そう簡単になびかされてたまるか、そういう知恵を頼りに憲法9条を守りたいと思います。


(2007.7.7記)
 7月29日は参議院選挙の投票日です。有権者が、よく考えて一票を投じれば、この国はずいぶん住みやすくなるはずです。政治家は国民の姿を映す鏡ですから、結局のところ責任は国民一人一人にあります。

 選んだ結果は、しごく現実的な影響を伴って自分自身に返ってきます。
 例えば6月分の給料、ほとんどの人は住民税が大幅にアップしているでしょう。定率減税が去年と今年2段階で全廃されたので、2年連続大増税になっているのです。
 一般庶民の所得にも増税が必要だ、自分も負担すると十分納得したうえで今日を迎えたのなら結構でしょう。
 でも、以下のような事実を承知した上でも納得できるでしょうか。

 定率減税の廃止は、景気が回復したから財政再建のために必要だというのが理由です。それなら、国民は等しく負担しなければならないはずですが、庶民向けの定率減税は廃止しておいて、定率減税と同時期に導入された企業向けの法人税減税は依然そのままです。高額所得者が恩恵を受ける株の配当や譲渡益の特別減税もそのままです。
 例えば、わが国で所得(確定申告)が100億円を超える超高額所得者は2005年に7人いました。この7人が得た株の配当や譲渡益は計2000億円です。これにかかる税金が、特別減税のため本来分離課税20%のところ10%になっています。7人に対して200億円の税金をまけてあげているというわけです。この特別減税は廃止しないでいまでも継続しているのです。株で2000億円の収入があった人たちは、200億円の税金が400億円になったら、生活に困るのでしょうか。
 有価証券減税と大企業中心の減価償却見直しによる減税は合わせて1.7兆円。庶民の定率減税全廃による増税が1.7兆円。なんともつじつまが合いすぎではないですか。

 年収200万円位のワーキングプアやお年寄りの年金所得からさえ増税して取りあげたお金を、大企業と大金持ちの減税にまわして恩恵を施す――その恩恵の見返りで企業献金がもらえるし、おこぼれにあずかれるんだな〜、きっと。
 これが選挙の結果なんです。残念ながら、現状は国民がそういう政党・政治家に多数を与えてしまっているのです。やっぱり、よく考えて投票しないとね。


(2008.6.1記)
 総務省が5月30日に公表した最新の雇用統計によると、全労働者のうち派遣やパートなどの非正規雇用が34%で過去最高を記録したそうです。ヨーロッパではパートも正社員も時給にすれば同一賃金(パートでも時給2〜3000円ということで、やればできるということです)ですが、日本では非正規雇用は低賃金と相場が決まっています。時給1000円未満で、そのうえ登録型派遣という日雇い労働が増えています。年収200万円にもならず、まったく余裕がないため、なかなかそこから抜け出れないという人が増えています。
 これを、そういう仕事を選んだ「自己責任」だという人がいますが、自由に選べる中から不安定雇用をわざわざ選んだ人なんかいません。選択の余地なく、それしかないからやっているという人がほとんどです。
 そもそも派遣労働という形態自体が昔は禁止されていたのです。人を派遣するということは、派遣会社がマージンをとるということで、マージンというとスマートですが、要するに派遣先の企業から支払われた賃金からピンハネをするということです。戦前は、「タコ部屋」といって、困窮する失業者の弱みにつけこんで肉体労働の飯場に人を送り込んで賃金からピンハネをするという働かせ方がありましたが、そういう非人間的な労働をなくすために労働者派遣は禁止されていたわけです。
 それが1986年に労働者派遣法という法律ができて解禁されました。制定当時は、通訳とかシステムエンジニアとか専門性の高い職種に限るから「タコ部屋」の再現にはならないということだったのが、その後法改正(改悪)のたびに対象業種が規制緩和されて、今や単純・肉体労働も含めてほとんどの職種で派遣ができるようになってしまいました。そして、当然の帰結として、「タコ部屋」が再現してしまいました。
 登録型の日雇い派遣で単純労働に従事させられる労働者は、前日にメールで集合場所の駅を指定され、交通費自前で集合すると、どこへ行くかもわからず車(トラックの荷台のこともある)に乗せられ現場に連れて行かれ、解体や倉庫作業など有害・危険な作業をなんの装備も訓練もなくやらされるという実態です。名前もなく番号で呼ばれて派遣先の現場監督の監視下で働かされる。派遣先からまた派遣されるという二重派遣(ピンハネ2倍)や少ない賃金からデータ装備費とかの名目でわけのわからない金が天引きされるなど、これは、その日の生活にも困るために条件が悪くても働かざるを得ないという労働者の弱みにつけこんだ現代の「タコ部屋」労働そのものです。そうやって派遣労働者からピンハネした金で、グッドウィルの折口元会長は巨万の資産を築き、自家用ジェットまで買えたというわけですね。
 ちょっと古めかしい「搾取される」という表現がぴったりの労働が復活しているので、プロレタリア文学の名作『蟹工船』(小林多喜二)が急に売れるようになったそうです。多喜二を虐殺した特高警察が復活するより前に、困窮せる労働者団結せよとなりたいもんだな。


(2008.9.23記)
 資本主義の利点は、競争によって生産力の発展が加速されるということで、その効用によって我が国の経済も発展し、国民の暮らしも豊かになったことは間違いありません。一方で欠点は、競争に勝とうとするあまり目先の利益のみに気を奪われ、長期的な、あるいは全地球的な視点を欠落させてしまうことです。
 たとえば、証券会社が投機的な金融商品の売買を行って利益を上げるということは、それぞれの会社の毎年の経常利益が増え、経済が活発になり、その恩恵を受ける人もいるという限りでは「善」ですが、そのことによってバブルが発生して、これは長期的にみれば必ず破裂して甚大な悪影響を及ぼしますし、投機によって食糧や燃料という生活必需品の価格が高騰して人々が困るという面では「悪」です。
 そこで、バブル崩壊から世界大恐慌に突入した1929年以来、資本主義の「悪」の部分をなんとか制御しようとして経済的規制が整備されてきました。たとえばアメリカでは、銀行が証券会社と一体になって、自分で自分に金を貸してインサイダー取引や投機的な売買をした結果、大恐慌に至ったという反省から、銀行業務と証券業務を分離するグラス・スティーガル法が1933年に制定されました。ところが、この教訓がだんだん忘れ去られて、1970年代の金融ビックバンによる自由化を経て、ついに1999年に廃止されてしまいました。規制緩和です。
 自由競争を抑制する規制を緩和をすれば、目先の利益を上げるチャンスは確かに生まれます。アメリカの金融規制緩和による「目先の利益」は、世界最強の軍事力が支えるドルの権威とIT技術に支えられた金融工学の発展もあって、30年もちました。しかし、いまや終焉をむかえつつあることは、サブプライムローン問題やリーマン・ブラザースの破綻で明らかでしょう。バブルの後始末で、想像を絶する損失を、失業や賃金低下、生活悪化という形で世界中の弱い立場の人々が背負わされることになります(儲けのおこぼれの方は全然なかったのに!)。規制緩和は、金融のみならず、食品、農業、建設、交通・運輸などあらゆる分野を席巻し、一握りの強者たる大企業の短期的な大儲けには貢献しましたが、社会の安全・安心を崩壊させ、地球温暖化に象徴される全地球的な被害をもたらしつつあります。
 なぜ、このような規制緩和が実行されてしまったのか?
 ストップをかける力、対抗勢力が弱かったことが最大の問題だと感じます。
 経営者でも投資家でも、利益を上げるためにやっているわけで、そのこと自体は「善」なのですから、大切なのは、利益のために周辺へ弊害が及びそうになったら、外から誰かがストップをかけなければならないということです。それが国の役割であり、その国を監視するのが国民です。
 ところが残念ながら、この十数年、多くの国民は、規制緩和を掲げる中曽根行革やら小泉・竹中改革を支持して、自民党・公明党を勝たせすぎて、暴走を許してしまいました。
 たぶん近々ある選挙では、暴走勢力に自省する機会を与えるような、きちんとした対抗勢力が増えることを願って一票を投じようと思います。 


(2009.5.31記)
 政治家の世襲が問題だという論があります。賛成です。適性や能力以外の、親の「地盤」「看板」「鞄(金)」という資産を安易に受け継いで議員になるのは、極めて問題があるでしょう。こんな議員ばかりが増えれば、この国の将来はないとも思います。
 だから、世襲を法的に禁じようという論があります。反対です。憲法は国民の被選挙権を定めています。親が政治家だったという、当人にはどうしようもない理由で被選挙権を奪うのは、たとえ当該選挙区だけであったとしても、憲法違反だろうと思うからです。
 問題は、適性や能力が疑わしいにもかかわらず、そういう世襲議員が当選してきてしまったということなのです。
 投票したのは有権者です。買収とか不当な選挙違反の結果というなら話は別ですが、おそらくほとんどは、正当な選挙を通じて世襲政治家が当選してきたのです。(ただし、選挙制度と区割りには大いに問題があります)
 民主主義というのは、正当に選挙された議員を通じて政治が運営されるというのが基本です。相対的に多数の国民が、能力なんか吟味するより世襲議員が国政を担ってもいいという判断をした以上、論理的には不当な結論であっても、それを受け入れざるを得ないでしょう。
 「ヒトラーも選挙を通じて選ばれた」という歴史上の教訓がありますが、民主主義というのは、そういう性質のものです。
 ある選挙区の有権者が安易に世襲政治家を選び、その政治家が能力がなくて国を誤る判断を行った場合、その影響は全国民が被ります。
 よくよく考えて投票したいものですね。


(2009.7.3記)
 投票日はともかく8月か9月には総選挙があります。
 この国どころか、世界中をめちゃくちゃにした新自由主義に基づく構造改革=規制緩和の悪夢から逃れられる結果を期待したいものです。
 規制緩和というのは、要するに何でも市場の自由競争に任せるということで、強いものも弱い者も、もともとの金持ちも貧乏人も、健康な人も病人も障害者も、いっしょくたに自由競争のなかに投げ込んで、勝ち残ったものはますます大金持ちになれ、負ければ「自己責任」だといって切り捨てる、本当に殺漠とした社会になってしまいました。
 それで、せめて景気が良くなったというのならまだしも、ご承知のとおり100年に1度の世界大不況です。
 普通の神経なら、規制緩和は失敗だったのではないかと思うのですが、規制緩和論者は、断じて規制緩和のせいだとは認めない。では何のせいなのかというと、厚顔にも「規制緩和がまだ足りないから、うまくいっていない」と言うのですね。神経がないのか?
 まさに市場「原理」主義、もはや宗教的信念としか言いようがありません。
 インチキ宗教の教祖さまが、多額の寄付をしたにもかかわらず功徳が得られないと疑問を抱きかけた信者に、それはまだ信心が足りないからで、もっとお布施を積めば、いずれ功徳が現れるといってだまし続けるのと、そっくりです。
 だまされ続けて深みにはまらないようにしないといけません。骨までしゃぶられてしまいます。
 間違いは正し、必要な規制は復活しなければなりません。
 誰が規制緩和を推進し、いまだに反省もしていないのか――選挙ではそこをよく見て選ぶようにしたいですね。


(2009.9.3記)
 総選挙は民主党の圧勝でした。
 悪政をつづけた自民・公明政権が交代するのはたいへん良いことです。大企業とごく一握りのお金持ちだけが儲かって、大多数の国民の個人所得は年々下がり、貧困層が激増するというこの10年余りの悪政は、歴史的にも国際的にも特異な事態でした。地球上でもっともガマン強い国民も、ついに堪忍袋の緒が切れたということでしょう。
 民主党の政策にはまともなものも多く、障害者自立支援法の廃止、生活保護の母子加算の復活、労働者派遣法の改正、後期高齢者医療制度の改正など、歴史に残る悪法の改廃は、ぜひとも一日も早くやってもらいことです。
 でも、日米自由貿易協定の促進など日本の農業を壊滅させるおかしな政策もあります。308議席というのは取り過ぎで、党内にはちょっとおかしな議員もかなりいるので、傲慢な行動も出てくるのではないかと不安です。もとからの金持ちに比べて成金は傲慢になりやすい傾向があります。悪くても自民党議員は大人の振る舞いができたのに、急に権力を握った民主党議員が肩で風を切ってわがままを言うことのないように願いたいものです。
 そういう横暴を許さないためにも、議会では少数政党の役割が重要なのですが、小選挙区制のもとでは共産党も社民党も一ケタの議席しかとれないのは困ったことです。得票率からいったら2〜30議席はあっていいはずなのですが。比例代表でも、ドント配分という議席配分は多数党にかなり有利で、民主党は得票率以上の議席を獲得しています。
 権力は常にチェックする勢力が必要で、もうちょっと公正な選挙制度に変えなくてはいけません。その点も忘れないようにしたいと思います。


(2009. 9.23記)
 鳩山首相は国連で、我が国の温室効果ガスの削減目標を1990年比25%減とすることを表明しました。
 国際問題で日本が独自のイニシアチブを発揮するのは初めてといってもいいことで、その内容も地球の未来を守る積極的な内容ですから、国民としては大いに誇りを感じていいと思います。普段から「愛国心」やら「誇りを持てる歴史」やらを強調している人たちは、さぞかし喜んでいるかと思うと、どうも逆のようです。財界のえらい人たちと口をあわせて、経済が大変になる、国民負担が大きくなる、出来っこない、という大合唱です。
 25%減のためには国民の家計負担が何十万円という眉唾ものの試算を振りかざして、そんなに減らさなくてもいいというのですが、各国が今のペースで温室効果ガスを出し続け、地球の平均気温が2度以上上昇してしまったときに地球環境に起きる破壊的な影響は、1世帯何十万円どころか、日本のGDPなんか一気に吹っ飛ぶくらいの影響があるということを想像してみてください。
 大企業の役員の知恵と勇気と理性のなさというのも、つくづく思い知りました。彼らは、自分の役員任期、せいぜい数年の間、自社の株価を維持することに汲々として、その間無事に勤めれば退職金をもらって後は知りませんということでしょう。
 温室効果ガス削減のための投資は、金がかかってその分利益が減るので、確かに数年の単位でみれば経営にマイナスの影響を与えます。しかし、それをしなければ数十年後には商品を売る市場自体がなくなってしまうということは想像もできないのでしょうか。そこまで考えられなくても、環境投資で技術革新をすすめれば、数年後には投資を取り戻すだけの利益が得られるという、「損して得取れ」の基本的な商業理念さえ理解できなくなっているのは驚くべき退化です。今この瞬間の株価が大事で、それを追い求めるのが企業の競争力だという小泉・竹中さんの市場原理主義教育は、たいへんな効果を発揮したということでしょう。
 若い人は知らないかもしれませんが、1970年代に公害規制の強化が問題になったときに、財界・大企業は、今とそっくり同じ論理で排出ガスや水質規制に大反対しました。国内生産が空洞化する、国際競争に生き残れないと大合唱しました。しかし、当時は反自民の革新自治体が各地で次々と誕生するという政治変化から、政府も厳しい規制をせざるをえなくなり、大企業には厳しい規制が実現しました。
 それでつぶれた企業はありませんでした。それどころか、当初はやむを得ず取り組んだ省エネや汚染除去技術は世界のトップクラスになり、その後の経済成長を支える役割を果たしたのです。
 大企業役員に、だれか「損して得取れ」ということの意味を教えてあげてもらえないでしょうか。


 (2009.12. 7記)
 巷間の話題をさらった事業仕分けですが、確かに行政には無駄が多く、税金の浪費や高官僚と業界の癒着、天下り以外に存在理由がない独立行政法人や財団法人などがあるのは事実です。本当に無駄を削れたのならば意義のあることです。
 ところが全体をみると、削るべき無駄が残り、削るべきでない予算を削ろうとする不都合がずいぶんと目につきます。
 とくに問題な点をごく一部だけあげると――
 削るべき無駄では、最初から対象になっていないものが多く、たとえば、政党助成金(年間320億円)。報告さえすれば何に使ってもいいつかみ金のようなもので、総選挙後、民主党の受け取り分は大幅アップとなっています。私が仕切り人なら、汗をかいて自分の足で支持者から集めたら、の一声で全額削減ですが、自分たちが受け取るものは触れようとしないんだなぁ。
 在日米軍への思いやり予算(年間1930億円)。米軍基地の日本人従業員の給与だけが対象に入っていますが、沖縄の人件費は安いから給料を下げろといわんばかりの沖縄県民が聞いたら怒るような仕分け方で終わりました。1戸234uもある豪華な米軍住宅(ちなみにこの住宅の居間の54uに我が家の全部屋が収まります)や基地のゴルフ場やゲームセンターを条約上の義務もないのに日本の税金でつくってあげることの是非は、全く仕分け対象になっていません。
 削るべきでない予算は、科学技術の基礎研究に使われる運営費交付金や特別教育研究経費でしょう。無駄とか、意義が見いだせないとか、効果がはっきりしないとかの理由で削減されていますが、基礎研究というのはすぐに効果が出るものではありません。
 例えば、137億年の宇宙の成り立ちを探る研究に、予算に見合う具体的な効果を示せとか1年で成果を出せとか言われても困ります。国立天文台がハワイにつくった「すばる望遠鏡」には、確かに金がかかっていますが、その宇宙最深部をとらえた画像の価値は金銭に換算できません。宇宙の果て(ということはすなわち宇宙の始まり)を探るのは、1年では成果がでないかもしれませんが、100年単位で間違いなく人類の進歩につながる研究です(これにはスパコンが必要なんです)。仕分け人の誰か一人でも、同台の「Mitaka」(4次元デジタル宇宙ビュワー)の画面を見て宇宙の始まりを想起できる人がいるのでしょうか。
 結局のところ、対象を財務省(最高官僚)が選んでいるということと、仕分け人の能力(あえて実名で例をあげますが、税金で俸給をもらいつつ人貸し・高利貸し業界御用達でもある福井秀夫センセイとか。蓮舫さん、この人こそ仕分け対象だよ)に左右されているわけで、民主党の統治能力が問われるところです。


 (2010. 2. 2記)
 沖縄県名護市の市長選で、同市への米軍基地建設反対を掲げた稲嶺候補が当選しました。
 建設想定地は、サンゴ礁の海上で、ジュゴンや魚の揺りかごになる藻場が広がるところ。美しい海を埋め立てて、戦闘機の飛行場を造ろうという計画です。選挙結果を「斟酌しない」という驚くべき傲慢な政府高官もいますが、住民の多数がよくよく考えて選択した結果は重く、これを無視することは鳩山政権の命取りになるでしょう。
 そうなると、移設予定だった普天間基地はいつまでも今のままで残るという脅しを振りまく人たちがいます。
 普天間は、住宅地の真ん中に、無理やり住民をどかして造られた基地で、アメリカ国内ならば、法律上の安全地帯が確保できないため存在できないという危険な基地です。日本であっても、本来なら許されない立地条件の基地なのです。
 ではどうすればいいのか。
 基地の「移設」を考えるから難しくなるのであって、基地の「撤去」を求めればいいのです。
 ソ連が崩壊して20年近くもたつのに、なぜ在日米軍の規模は縮小されず、ソ連があった時代と同じ軍事力を維持しなければならないのか。私は、米国の軍需産業資本の莫大な利権の維持という以外に、説得力のある説明を聞いたことがありません。
 強大な軍事力を持っていたかつての仮想敵国はもうないのですから、普天間基地は撤去して、海兵隊には本国に戻ってもらうのが一番です。


 (2010. 6. 1記)
 鳩山内閣は(引き継いだ菅内閣も)、沖縄の普天間基地を県内辺野古の海に新基地を作って移転するという最悪の選択をすすめようとしています。最悪というのは、平和にとっても、自然にとっても、経済にとっても、何一ついいことがない選択だからです。
 日本の防衛にとっては、攻撃力そのもので防衛力はもたない米海兵隊は何の役にもたちません。そうはいっても北朝鮮などへの抑止力として必要だという人がいますが、軍事力を抑止力して用いるという考え方は、要するに、やられたらそれ以上にやり返すという姿勢をみせることで、相互不信の間に成り立つ恐怖の均衡を維持するという考え方です。かつて米ソの間で際限のない核軍拡競争をエスカレートさせた思考法を、冷戦が終わった21世紀の地球でいまだに疑いもしないマスコミが多いのには驚きです。これが官房機密費の成果でしょうか?
 自然にとっては、貴重な海、サンゴ礁と藻場が失われ、ジュゴンや魚に回復不能な打撃を与えることになります。埋め立てずに杭打ち工法にすれば影響が少ないなどというのはバカバカしいにも程があります。日光も海流も失われた滑走路の下で、海が生き残れるはずがありません。
 基地の経済効果、政府の振興策というは、結局は一時的な、その場限りのものでしかありません。何千年も続きてきた人と海との関係を断ち切り、最大の資源である自然を破壊して、代わりにいくら金をばらまいたところで、持続的で地元の人たちが自立できる経済効果があるはずがありません。美しい海を生かすことこそが本来の経済政策であるべきでしょう。
 アメリカの産軍共同体の強大な力は鳩山さんを怯えさせ勉強させたかもしれませんが、軍事同盟で平和が守れるのかという根源的な勉強を国民がするきっかけにもなるかもしれません。すでに沖縄の人たちは、苦しめられた分だけ、本土の人より一足先に気づき始めているようです。

 (2010.11.23記)
 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加を検討すると菅首相が言い出したため、にわかに自由貿易を積極的に促進すべきだという「世論」が高まっています。マスコミと「識者」はこれを開国と称し、バスに乗り遅れるなと国民の尻を叩き、反対するものは時代遅れの鎖国主義者だと言わんばかりです。
 私は鎖国主義者と言われようと農林水産業に関しては自由貿易ではなく保護主義が当然だと考えています。なぜならば、農産物(林業や水産業も含む。以下同様)は、工業製品と違って、あくまで自然条件に依拠して作られるものだからです。例えば、日本ではコメは年に1回しかできません。しかし、タイやインドネシアなどでは年に2〜3回収穫できます。これは日本の農業が非効率だからではなく、地球上の緯度、すなわち日照量と気温に左右されるからにほかなりません。テレビや自動車を作るように技術革新すれば生産量が何倍にも増え、コストも下がるというわけにはいかないのです。
 この当然のことを、気づかないのか、知っていて知らんぷりをしているのか、工業製品と一緒くたにして、農業もすべて関税を無くして自由化しろというのがTPPをはじめとする自由貿易協定の考え方です。コメも野菜も、日本の農業は壊滅的な打撃を受けます。自然条件の違う地域と自由競争しろというのが無理なのです。農水省の試算でも食料自給率は13%にまで低下します。
 いや、日本の農業も競争力を増して、強い農業にすれば大丈夫だというのが、マスコミや「識者」のご意見です。農業も株式会社化しろという人もいます。彼らの頭にあるのはアメリカのような大規模な面積に単一作物を大量に栽培する農業なのかもしれませんが、こういう「近代的」な農業に果たして未来があるのでしょうか。大量の農薬や遺伝子組換え技術、化学肥料を投入し、地下水を汲み上げて灌漑する農業は、土地(土壌)を酷使する農業です。機械化に対応するために農地の形も画一化してしまいます。こうした農地で果たして何年も持続的に農業を続けることができるのか。アメリカでは塩害などで土地がだめになれば、その土地は放棄して新しい農地をつくります。国内に土地がなければ南米のアマゾン熱帯雨林も焼き捨てて農地にしてしまいます。何しろ農業をやっているのは株式会社ですから、後先のことよりも、その年に利益を出し、株価を維持しなければなりません。
 農業にとって大切なのは、短期的に生産量を増やす効率性より、長い間人の命を支える持続性です。そして、日本の水田というのは、世界中でも最も巧みな持続性を持った農業です。何しろ古い水田なら1000年を超える期間、毎年毎年、同じ土地でコメを作り続けてきた実績があるのですから。それを可能にしたのは、日本の自然条件に合わせて、狭い面積を畦で囲ってこまめに水の管理をするという手間ひまかかる農作業であり、それを支えたのが家族経営だったのです。しかも、この畦と水管理は、ミジンコから昆虫、カエル、獣や鳥という生物多様性を支える役割も果たし、水害の調整機能も果たしてきました。
 無理やり効率化を追求して大規模化や機械化をすれば、短期的に多少は競争力が上がるかもしれません。しかしそれで、1000年続いた水田が果たして何年持つのか。畑の土はダメにならないのか。生物多様性はどうなるのか。農村の景観や水害対策はどうなるのか。そういうことを全部考えた上で、トヨタやパナソニックの輸出競争力を維持するために農業は捨ててもいいというのでしょうか。
 農産物は地産地消が一番であり、鎖国であっても何ら問題はないではないですか。

(2011.4.3記)
 東日本大震災の被害はあまりに甚大で、いまだに感想を述べるのさえ難しいのですが、なんとか被災者が普通の生活を取り戻し、被災地の復興がはかられるように願うばかりです。
 被災地の惨状には呆然とします。写真で見た、戦争末期の空襲で焼かれた都市を思い起こします。家も経済も破壊された戦争末期から、エネルギッシュに立ち上がった復興を思い起こして、きっかけとなる金と人の集中さえできれば、景気回復にもつながる復興ができるのではないかと、淡い期待をいだいています。ぜひ、そうなってほしいものです。
 それでも、残されてしまうのが、福島第一原発の周辺地域でしょう。これは、痛恨とか、反省とかは、もはや遅い。近隣地域については数十年にわたって人が住むのも難しい最悪の状況が、すでに避けられなくなっています。チャイナ・シンドロームこそ起きていませんが、すでに環境中に放出された放射性物質は、チェルノブイリに迫りつつあるようです。状況によっては超えかねません。くりかえされる「直ちに人体に影響がない」という言葉は、そのとおり直ちにではないが、長期的には影響が避けられないと、読み替えたほうがよいでしょう。
 万が一の事故が起こったときに、このように取り返しのつかない結果を招いてしまうのが原子力発電所です。人類の歴史で「想定外」など何度でも起こってきました。「想定外」の事象が起きたときに、機械をコントロールできず、取り返しの付かない汚染を引き起こしてしまうものは、まだ人類の手におえないものとして、手を出してはいけないのではないか――そういう教訓を学ぶとしたら、いますぐ、少なくとも浜岡原発は止めなければなりません。しかし、いまだに、東海地震の震源域、活断層の真上、大津波に直面する海岸で、浜岡原発は炉内で核分裂を続けています。「想定外」は、これからも起こりえます。正気なのでしょうか。

(2011.8.10記)
 福島第一原子力発電所の事故は、いまだに収束の展望が見えません。
 とりあえず、水で冷やして小康を得てはいるものの、それが果たして的確な冷やし方なのかどうかも実はよくわからないのです。それというのも、核燃料が、いま、どこに、どういう状態であるかが分かっていないからです。
 原子炉でメルトダウンとメルトスルーが起きたことは、遅ればせながら東電も認めました。核燃料と核分裂生成物(いわゆる死の灰)が溶けて、圧力容器の外に漏れてしまったということです。では、どの程度が外に漏れて、それがいまはどこにあるのか――最も楽観的な想定は、溶けた核物資が少しだけ漏れて、格納容器の中で固まっているというものです。しかし、最悪の場合は、圧力容器が大規模に破損して、大量の核物質が溶けて漏出し、その場合は格納容器も溶かしてしまうので、その底も破って、建屋の基礎コンクリートをも溶かしてめり込んでいる、あるいは、その下の土壌部分にまで達しているというものです。この場合は、土壌、地下水、それに通じる海洋の汚染は想像を絶する規模になっている可能性があります。
 溶けた核物質がまとまって存在していれば、水によって表面はモナカの皮のように固まっていますが、中はドロドロの溶岩のような状態で、何かの拍子にモナカの皮が割れたら、水蒸気爆発を起こす可能性も消えていません。
 しかし、即死するほどの高放射線量と放射能を帯びたガレキ、超高濃度汚染水に阻まれて、人が近づけないのはもとより、ロボットの観測もままならず、果たしてどうなっているのかは分かりません。
 どうなっているかは分からないが、ともかく大量の注水で全体を冷やし続けなければならないというのが今の状況です。その水も、いまだ循環には道遠く、注水した量と建屋の地下などに溜まっている量が一致しているのかもわかりません。注水量がすでに溜水量を超えていれば、それは土壌に浸みこむか海に流れ込んでしまっているということです。

 これが原発の事故ということです。大規模な事故が起きてしまえば、もはや、状況も把握できず、的確な対処もできないというのが原発というものなのです。
 そういうものを、引き続き各地で運転し続けるのか――心して国民が選択しなければならないことなのではないでしょうか。

(2012.1.1記)
 昨年も終わり近くになって、野田首相はTPPへの参加検討を言明しました。前にも書きましたが、TPPへの参加は、日本の農林水産業に壊滅的打撃を与え、それはすなわち国土と地域が崩壊してしまいかねない愚政です。農業だけでなく、営利企業が本質的に内包している利益第一、安全や環境・人権は第二という欠陥を抑制している様々な規制や慣習をすべて非関税障壁として取り払うことで、むき出しの弱肉強食社会を日本にもたらします。
 たとえばよく例に挙げられるように、保険会社の営利が優先されて、全国民が入れる公的な健康保険がないアメリカでは、救急車を呼んでも、加入している保険の免責事項を確認しない限り(小さな字で、わかりにくい表現で、驚くほど広範囲の保険金が支払われない場合が記載されているわけです)、病院に連れて行ってもらえません。もちろん、高い保険料が払えない人は、最初から救急車を呼べません。自由競争・自己責任の結果です。
 農業についていえば、前にも書いたことがありますが、自然環境に依拠して営まれる農業は、本質的に自由競争になじみません。
 たとえば日本の農家の1戸当たりの農地面積は、アメリカの100分の1、オーストラリアの1500分の1です。これは、日本の農民が集約化を怠った結果ではありません。平地が少なく、人口密度が高いという日本の地理的、歴史的条件によるものです。広大な無人の(じつは先住民からの略奪という結果ですが)平野に農地を開拓した米・豪とは全く異なる条件で農業をしてきたからにほかなりません。競争に負けないために、日本の農業も集約化しろという人がいますが、日本の地形を考えれば、1戸当たりの農地面積を10倍程度にするのが限度です。しかも、それは、10戸中9戸の農家はつぶれて離農しろというのが前提になるのです。
 あるいはまた、日本ではおコメは年に1回しか収穫できませんが、ベトナムやタイ、インドネシアなどでは年2〜3回収穫できます。これは日本の農民がさぼっているからではありません。地球上の緯度による日照量・積算温度の違いによるものです。
 こういう違いがあるものを、同じ土俵で自由競争させようとすること自体が間違いなのです。あえて競争すれば、自然の限度を越えて収量を増やすために、世界中で、森林の破壊、農薬や化学肥料の乱用、遺伝子のかく乱、地下水の枯欠、塩害や土壌崩壊が多発するでしょう。

 そういう社会を、望むのか、拒否するのか――原子力発電所の安全神話の誤りに数十年も気づかずに、推進派のいいように世論操作されてしまった経験を思い起こして、後で取り返しのつかないことにならないように、確かな判断をいましなければならないですね。

(2012.3.18記)
 北朝鮮で金正日氏が死去した時に、彼の国のTVは、街頭で激しく泣き崩れて嘆き悲しむ国民の姿を映し出していました。大げさに声をあげて泣いていないと、後から密告されて「指導」されたり処罰されるのだという話です。そういう社会を、ほとんどの日本人は異常なことだと感じると思うのですが、では、いま大阪で起こっていることはどうでしょうか。
 橋下市長が府知事時代にお友達を採用して校長にすえた府立高校では、教員が君が代を歌っているかどうかを、ひとりずつ口元を監視して、口を開けていない教員は呼び出して始末書を書かせたそうです。いま府・市議会に提案されている職員条例では、このように「職務命令」に従わないと免職されることがあると明文化されています。
 誰でも生活がありますから、免職で脅されれば従わざるを得ないでしょう。つまり、日の丸や君が代が戦争への国民動員と強く結びついてきた歴史的な経緯から、それをみんなで斉唱することに違和感を持つ(私も強くそう感じます)教員は、たとえ自分の意思と異なっていても、大きく口をあけて君が代を歌わなくてはならないということになります。しかも、これまた府・市議会に提案されている教育条例では、教育目標まで府知事・市長が定めるとされています。
 あまりにひど過ぎて凍結された大阪市職員アンケートでは、職員を街頭の選挙演説とかに誘ったのは誰かと、一般市民の氏名を密告することを奨励する項目までありました。しかも、このアンケートは答えないと処分されることもあると明記されているのです。
 強制と監視、密告が横行する社会、服従して他人を密告しなければ自分が生き残れない社会、それは、北朝鮮と変わらない、悪夢のような社会です。
 選挙で勝ったのだから何をやってもいいのだと思っている橋下市長を、やはり最初は選挙で合法的に選ばれたヒトラーと区別することはできません。震災がれきの処理が進まないことまで憲法9条が原因だと言い、批判者を執拗に攻撃する橋下市長は、猜疑心にとりつかれた小心なファシストとしか私には思えません。

(2013.1.1記)
 あけましておめでとうございます。
 昨年末の総選挙では、自民党が「圧勝」しました。議席数では確かに大勝利ですが、得票率では、小選挙区でも4割、比例区では3割に届きません。この程度の得票率で公明党と合わせて議席の3分の2を制圧してしまうことができるのは、300ある小選挙区で8割の議席を独占したおかげです。
 小選挙区では、比較第1位の人が1人しか当選しません。2位より1票でも多ければいいのですから、2割くらいの得票率で当選する場合もあります。その他の8割の有権者の意思は切り捨てられてしまうのです。
 これを「民意の集約」といって、小選挙区制が導入されるときに、マスコミが盛んに宣伝して、すばらしい選挙制度であるかのようにいいふらしました。
 選挙の結果にも強い危機感を持ちますが、我が国では、大企業の広告収入に依拠する大新聞などお金持ちのマスコミと高給取りのマスコミ社員が、本当のことを伝えていないことが、自民党の「圧勝」を下支えしているわけで、そこにも恐怖をおぼえます。消費税を増やせ、増やせと政治家の尻をたたいて、あおっているのもマスコミです。
 あれほどの福島第1原発の事故がおきたにもかかわらず、反原発勢力は国会では少数です。大企業ではなく国民の立場に立った経済運営を考える勢力も少数です。
 悲しいがあきらめるわけにいかない。微力でも、間違ったことには間違っていると言い続けたいと、年の初めに改めて思いなおしたいと思います。夏には参議院選挙もありますから。 

 (2013.5.1記)
 安倍政権は世論調査で支持率が高いようです。それで強気になって、憲法の「改正」を一気に行おうとする気配です。
 自民党の憲法「改正」願望の要点は、9条の「戦争の放棄」と「非武装主義」を変えて、「戦争ができる国」「正式な軍隊をもつ国」にすることですが、いま安倍首相がまず変えたいと言っているのは96条です。
 96条は、憲法の改正手続きを定めた条文で、衆参両院それぞれの議員の3分の2以上の賛成がないと憲法改正の発議はできないと定めています(そのうえで国民投票にかけられる)。これを2分の1、過半数で発議できるようにしようというのです。「国会議員の半数以上が賛成していても変えられないのはおかしい」というのですが、これは憲法とその他の法律は性格が全然違うということを無視した議論です。

 憲法は、他の法律と違って、わざわざ特別に変えにくくなっているのです。
 それは、憲法以外の法律は基本的にすべて「国が国民に指示する」ものであるのに対して、憲法は唯一「国民が国に指示する」ものであるからです。これは決定的な違いです。
 一般に国民は国家の決めたことに従わなければなりません。国家は国民を従わせる権力(国会や政府、裁判所、警察など)を持っています。こうした力がなければ秩序が保てないでしょう。では、その国家の権力は、だれが与えて承認したのか? 昔の君主国ならば、「王は神から権力を授かった」で済みますが、近代国家ではそうはいきません。権力は、国民が与え、公務員はその代理・代表として権力を行使するということになっています。
 その、権力を与える根拠、権力を行使する方法を決めて、国民が国家(公務員)に、この範囲なら権力を使っていいよ、これはだめだよ、と指示して制約を加えているのが憲法なのです。
 ですから、憲法を変えるというのは、そもそも国会議員(公務員)が言い出すべきものではないのです。自分たちが縛られている法律を自分で変えるというのでは我田引水です。そうはいっても、代議員制民主主義では、選挙で議員を選んで政治を行ってもらう以外にありませんから、憲法の改正もその発議は議員の仕事とせざるをえません。しかし、それはあくまで国民の代表として仮に言い出す役割を与えられているだけなのですから、そう簡単に、時々の過半数(政権政党)の都合で言い出されたら困るのです。
 たまたま選挙で過半数の議席を得たという程度では不十分で、国民の確定的、絶対的な多数の支持を得ていることが明らかな3分の2以上の賛成がなければ憲法改正の発議ができないというのは、こういう、極めてまっとうな根拠があるわけです。こうした規定は諸外国でもごく普通で、過半数の賛成で改正ができる国の方が例外的です。

 それを、わざと他の法律と混同させて、過半数で決めるのが民主主義だと声高に言うのは、自らの権力は国民から仮に与えられたものだということを忘れた議員の傲慢です。
 まず変えやすくして、それから9条「改正」というのも姑息なやり方です。
 憲法96条は変えてはいけません。憲法は変えにくくて当然なのですから。

 (2013.9.17記)
 7月の参議院選挙で自民党が多数を獲得し、衆議院とともに参議院でも自民・公明の与党が圧倒的多数を占めるということになったのは困ったことです。与党が圧倒的多数というのは、強引に、力づくで、かなりのことができてしまうという点で危ういことです。
 一方で、政策的に自民党の対極にある日本共産党が獲得議席を倍以上に増やしたのは、自民党に好き勝手なことをさせるばかりではいけないぞ、という国民の一方の意識を反映したものではないでしょうか。共産党が選挙で重点を置いて訴えていたことのひとつが、ブラック企業の横暴を許さないということで、これが、20代、30代の若者の中で共産党の支持を増やす一因ともなったようです。
 働く人たち(もちろん求職・失業中を含む)の雇用環境や労働条件が本当にひどく劣化してしまっています。ブラック企業というのは、労働関係法は守らず、やたらと労働時間が長くて賃金は安い、パワハラ・セクハラが横行してる、無理なノルマや課題を押し付けられて、一生懸命やればうつ病や過労死になり、できなければいびられて退職を余儀なくされる、なんていう徹底的に経営者の自己中に貫かれた企業です。
 こうした企業が増えれば、若者は将来の展望を持てなくなります。病気になるか失業するかしか未来がないわけですから、結婚して子どもをつくってなんていうこともできなくなります。少子化もむべなるかなです。
 そんな企業ばかりが増えるのはおかしい、という空気が少しでも生まれてきたのは期待すべきことではないでしょうか。多数を獲得した権力政党に対して、批判勢力が存在することは健全な社会の条件です。
 普通の人が、普通にまじめに働けば、普通に生活ができ、少しずつでも生活がよくなるという希望がもてるというのが、まっとうな社会だと思うのですが、多少なりともそれに近づきたいものです。

(2013.11.27記)
 国家秘密保護法が11月26日、衆議院で自民・公明・みんなの党の賛成で可決されました。みんなや維新との修正合意後の審議は2時間ですから、審議がつくされたとはとても言えません。数の力で議論を押しつぶして強行採決したものとして、この3党、特に公明とみんなの名は覚えておかなければなりません。
 法案に対する疑問は、すでに多くの人が指摘しています。さすがに取材と報道の自由が関わることから、大マスコミもよく報道しています。
 ▼そもそも秘密の範囲があいまいで、何が秘密かも秘密
 ▼共謀や未遂を罰する規定で、いくらでも「犯罪」の範囲を広げられる
 ▼秘密の期間はなんと60年、生きているうちには検証できない
 ▼取り締まる側(権力者)の恣意で拡大解釈され、乱用される
 ▼国民の言論、報道の自由を奪い、思想統制に活用されてしまう
 など、など、書ききれないくらい問題が多い法律です。国民弾圧法です。
 福島での公聴会で浪江町の町長が指摘したように、原発事故の際、放射性物質の拡散を予測するSPEEDIのシュミレーション結果は公表されず、より危険な方向に避難してしまう人が出ました。また、莫大な国家予算がつぎ込まれている軍事衛星が写した当時の原発の(おそらくは精細に事故を記録している)写真はいまだに公開されないままです。混乱を招くから…、軍事秘密だから…という理由で秘密にされているわけです。権力はそういう運用をすでにしているのです。
 秘密保護法ができれば、たとえばSPEEDIのシュミレーション結果があるということを指摘すること、軍事衛星写真があるのではと調べたり、聞いたりすること自体が処罰の対象になります。
 戦前の日本では地図も天気予報も秘密。港を見下ろす場所でスケッチをしていていた小学生までもスパイだとして逮捕され、反戦・平和の思想に少しでも関われば、逮捕され、拷問され、「転向」させられました。再び、そのような暗黒社会を招いてはいけません。
 まだ参議院があります。ここで採決させなければ止められます。参議院でも自民党は多数を制していますが、衆議院の採決で、みんなの党に造反者が出て、修正には合意した維新の会が棄権したのは、反対世論の高まりにおびえている証拠です。国民の声がもっと高まれば、自民党の中でもビビる議員が出るでしょう。公明党の議員は宗教上の理由で造反者が出るとは思えませんが、党としてのスタンスが問われれば採決まで強引に突き進むのを躊躇する可能性があります。
 カギは世論です。反対を広げるために、ひとりひとりが少しでできることをしたいですね。

(2013.12.15記)
 秘密保護法が成立しました。多くの国民が反対し、どの世論調査でも8割程度の人がもっと議論した方がいいという意見だったのに、自民党と公明党が議員数の力で強引に押し切りました。
 この法律は、出来てしまったからしょうがないというわけにはいきません。改めて廃止する法律をつくって廃止させるべきです。それまで、恣意的な運用を許さないよう監視して、次の選挙では、賛成した党・議員を少数にしなければならないと思います。

 安倍首相・自民党の軍国主義路線(本人は「積極的平和主義」と言っているようですが)もひどいのですが、それと一緒になって、一切の抑制の姿勢さえ見せなかった公明党も責任は大きい。昔は「平和の党」とか言っていたような記憶がありますが、あまりにひどすぎます。
 公明党の姿勢は、平和や民主主義の理念も建前も投げ捨てて、自民党と一体化して強権で国民を支配する側に立つという表明なのだと思わざるを得ません。公明党を支配しているのは、ご承知のように創価学会という宗教団体です。議員は池田大作創価学会名誉会長に忠誠を誓って活動しています。その党が、強権で国民を支配する側に立つということは、特定の宗教が国民を支配する側で権力をふるうということです。考えただけで本当に恐ろしい。
 彼らのいう「邪宗」や、創価学会を脱退した「裏切り者」に対して行われる常軌を逸した壮烈な攻撃が、他宗教や無宗教の国民に対しても権力を伴って展開される社会には暮らしたくありません。

 今回の行動は、そのように国民から見られるのだということを、公明党・創価学会の人はよくよく考えてもらいたいと切に願います。

(2014.5.19記)
 安倍首相の親しいお友達ばかりで構成されている安保法制懇談会(安倍首相が人選した私的諮問機関)が5月15日に憲法の解釈を変えて集団的自衛権の行使を認めるべきだという報告書を出しました。安倍首相は、さっそく集団的自衛権の行使を可能とする解釈を閣議決定する準備を本格化しようとしています。
 集団的自衛権の「自衛権」という言葉の、何か正当な平和的な行為のようなニュアンスに騙されてはいけません。これは軍事力を行使する権利、すなわち戦争行為ということです。国連憲章は当然ながら侵略戦争を禁じていますが、侵略ではない戦争として、個別的と集団的、二つの自衛戦争は認めていて、集団的自衛権は、他国が攻撃されたときに助けに行って軍事力を行使する権利ということなのです。
 しかしこの集団的自衛権は、いくらでも拡大解釈が可能な概念として各国に使われてきました。実例をみれば一目瞭然です。国連に報告された集団的自衛権行使の実例は14例あり、その双璧は米国のベトナム戦争(65年)とソ連のアフガン戦争(79年)です。同盟国を助けるために米ソの軍隊が出て行ったとされたのですが、どちらも攻撃や救援要請がウソだったことが後で明らかになりました。米ソがその覇権を維持するために集団的自衛権を口実に使って侵略戦争を行ったというのが実態です。
 こんな論理に倣えば、かつての日本の満州事変(中国侵略)だって集団的自衛権の行使と言えてしまいます。そんな戦争を憲法が容認しているというのなら、憲法9条は、いったい何を放棄したというのでしょうか。忘れないでください。憲法9条は戦争を放棄し、交戦権を否定しているのです。
 安倍首相は、それが時代に合わないと思っているのかもしれませんが、それならば憲法の定めに従って、正当な法的手続きを経て憲法改正をしなければなりません。憲法は、一首相の解釈で変更できるというような軽いものではありません。

以下、重複がありますが、詳論です。

集団的自衛権の行使容認は二重の憲法違反、許してはいけません


 自衛権とは戦争する権利のこと
 安倍首相が、閣議決定で憲法の解釈を変えて「集団的自衛権」を行使できるようにしようとしています。集団的自衛権とは何でしょうか?  自衛権というのは、合法的に軍事行動を行う権利、あるいは戦争を正当化する根拠という意味を持っています。現代の国際社会では、あからさまな侵略戦争が許されないことは国連憲章にもうたわれ、地球規模のコンセンサスになっています。許される戦争として国連憲章で認められているのが、個別的自衛権と集団的自衛権なのです。

 個別的自衛権というのは、自国が攻撃されたときに反撃する戦いですが、集団的自衛権というのは、自国が直接攻撃されていなくても、同盟国を助けるために自国領土以外で軍事行動をすることの理由づけとして語られる言葉です。
 ちょうどわかりやすい実例がつい最近、ウクライナのクリミア地方で起きました。
 ウクライナでは親ロシア政権が倒されて反ロシアの政権が誕生しました。これまでウクライナ政府の協力で同国内のクリミアに海軍基地を置いていたロシアは、基地を絶対に手放したくないため、もともとロシア系住民の多いクリミア地方をウクライナから分離させてロシアに編入してしまおうと画策しています。ウクライナ政府の合意なしに住民投票を行い、ロシア編入賛成が多数だったとしてクリミアを手中におさめ、すかさず軍隊を送って、ウクライナ側の抵抗に睨みをきかせました。場合よっては、本格的な戦闘行動も辞さずという姿勢です。
 このロシア軍派遣の論理が「集団的自衛権」なのです。ロシア側の論理では、ロシア系住民が多く住むクリミアがウクライナ国内で迫害され、攻撃されるかもしれないので、同胞の要請にこたえて集団的自衛権を行使してクリミアに駐留したということになります。
 同様の事例は、これまでもありました。
 ベトナム戦争は、トンキン湾で北ベトナムが南ベトナム艦船を攻撃したので、南ベトナムの同盟国たるアメリカが集団的自衛権を行使して北ベトナムに反撃するという理由で始まりました(北が攻撃したというトンキン湾事件はでっち上げだったことが後に判明)。
 アフガン戦争は、親ソ政権がイスラム原理主義の反政府勢力に倒されそうなので、政府の要請にもとづきソ連が集団的自衛権を行使して軍隊を送りこみ戦争を始めました(アフガン政府のソ連への救援要請というのはウソだった)。
 この例に象徴されるように、集団的自衛権というのは大国が軍事行動を起こすときの「言い訳」として用いられてきた言葉です。これが、日本国憲法でも認められた権利だと解釈できると安倍首相はいうのですが、そんな理屈が成り立つでしょうか。

 憲法は戦争も交戦権も放棄している
 日本国憲法は第9条で以下の通り戦争の放棄を定めています。

 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これでは「外国が軍隊で攻めてきても反撃もできないのか?」という不安に対して、これまで政府は、「憲法は『個別的自衛権』まで否定したものではないので、日本が攻められた場合は反撃できる。そのための最低限の実力が自衛隊だ」という解釈を示してきました。この解釈も憲法違反だという考え方もありますが、ともかくも60年以上、こう説明してきたのです。「戦争は放棄したが、個別的自衛権はある」ということは、言い方を変えれば、「憲法が放棄した戦争というのは、集団的自衛権のことである」ということになります。もちろん侵略戦争の否定は自明の前提です。
 その集団的自衛権を認めるということになると、いったい憲法は何を放棄したのか? ということです。何も放棄していないということになって、憲法9条は何の意味も持たない空文だったということになってしまいます。
 憲法9条は一項で、戦争、武力による威嚇、武力の行使を放棄しています。たとえ同盟国が攻撃されるという国際紛争が生じても、それを解決する手段として、武力は行使できないのです。
 さらに二項で、戦力不保持、交戦権の否認も定めています。交戦権を認めないということは、どんな理由であろうとも軍事行動はできないということであり、そのただ一つの例外が、これまでの政府見解によれば、実際に他国が武力で侵攻してきたときに自国内で反撃して国民を守る個別的自衛権であり、そのための必要最小限の部隊が自衛隊なのです。
 安倍首相は、そういう考え方が、現在の国際情勢に合わないと説明しました。国民を守るためには集団的自衛権が必要だというのです。しかし、その例として挙げられた、邦人輸送外国船の警護や共同行動している米艦が攻撃されたときの救援というのは、もし本当に必要な事態なら個別的自衛権の行使で対応できる事例ですし、もし本当に必要でない事態で発動されたら、まさに戦争への参加ということになってしまいます。

 政府が憲法の解釈を変えるのは立憲主義の否定
 どうしても個別的自衛権だけでは不十分だと考えるのであれば、憲法を改正して、集団的自衛権も行使できるようにする以外に方法はありません。そのために、憲法で決まっている通りに国会で発議して、国民投票をしなければならないのです。それをしないで、政府の解釈だけで、国の基本を定めた憲法の根幹を変えてしまうのは、法治国家の根本を揺るがす暴挙です。
 政府は、その時々の選挙で多数を占めた党派によって構成されるもので、数年で構成も考え方も変わってしまう可能性があります。一方でその権限は強大で国民の生活、生命に絶大な影響を与えます。だからこそ、その時々の政府が、あまり勝手なことをしないように縛る役割を果たしているのが憲法なのです。政府が権力をふるえるのは、あくまで憲法の定める範囲内に限り、その憲法は国民が負託したものなのだから、改変するには、面倒でもそれなりに慎重な手続きを必要とするというのが「立憲主義」なのです。

 安倍首相の解釈改憲の主張は、憲法の戦争放棄原則の否定であり、立憲主義を否定する暴挙です。許してはなりません。阻止するために多くの国民が立ち上がらなくてはならないと思います。

(参考)今まで集団的自衛権の行使として国連に報告された14事例
(1) ハンガリー動乱におけるソ連による武力行使(1956年)
(2) レバノン内戦における米国による武力行使(1958年)
(3) ヨルダン内戦における英国による武力行使(1958年)
(4) 南アラビア連邦問題における英国による武力行使(1965年)
(5) ベトナム戦争における米国による武力行使(1965年)
(6) チェコ動乱におけるソ連による武力行使(1968年)
(7) ソ連によるアフガニスタン侵攻(1979年)
(8) リビアによるチャドへの武力行使(1980年)
(9) ニカラグア内戦における米国による武力行使(1980年代前半)
(10) フランスによるチャドへ武力行使(1983年、1986年)
(11) 米国によるホンジュラスへの武力行使(1988年)
(12) イラク・クウェート危機における米国、英国、アラブ連盟諸国等による対イラク武力行使(1990年)
(13) ロシアを始めとする独立国家共同体(CIS)諸国によるタジキスタンへの武力行使(1993年)
(14) 米国同時多発テロにおける英国を始めとするNATO諸国によるアフガニスタン武力行使(2001年)

(2014.7.1記)
 安倍内閣は、今日、集団的自衛権の行使を認める閣議決定を行います。
 立憲主義や平和主義に反するとして一時は反対といっていた公明党は、何の抵抗もなく、これに加わりました。

 「自衛権」というのは軍事力を行使する権利、すなわち交戦権のことです。
 自国が直接攻撃されたときならば、緊急避難として自衛権を行使し、武力で反撃することもありうるというのが、昨日までの憲法の解釈でした。
 しかし今日以降は、自国が攻撃もされていなくても、同盟する他国の戦争に加わって交戦することもありうる、と変わります。
 そんな解釈が成立する余地があるのか、改めて憲法を読み直してください。

 日本国憲法 第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 どう読んでも、集団的自衛権の行使によって必然的に発生する事態――「戦争」「武力による威嚇」「武力の行使」「交戦権」は、禁止されているとしか読めないではありませんか。
 それを変えてしまう根本的な変更が、一首相、一内閣の閣議決定で許されるはずがありません。
 内閣が憲法に従わないというのは一種のクーデターです(クーデターを起こして権力を握ったものは、必ず憲法を一時停止すると宣言するものです)。安倍内閣によって憲法9条が停止された状態は、もはや法治国家とは言えません。

 閣議決定は終わりではありません。これに基づいて、今後、自衛隊法をはじめ諸法律が「改正」されることになります。クーデターに反対して、一人ひとりができることをして、抵抗していかなければなりません。

 詳論と政府の言訳への反論は、こちら(別フレーム)にあります。



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