「あぁ、そうだ鉄雄、おまえがだいすきだった女優のヘアヌード写真集買ってきてやった。医者のプライドが邪魔して買えないだろうからな」
「これが診察代ってわけか。
しかし、ロールシャッハ博士が存命なら喜んでお前の話を聞いただろうに」
「ん? いらないのか」
「あ、いや、いる。ちょうだいするっ」
幼稚園時代からの友人の啓介は、染みに反応して別の世界に飛んだりするという特異体質の持ち主だ。足繁くわたしの診察室をたずねてきては、長椅子を占領する。
迷惑な顔をすると、わたしが忘れている古傷を口にして脅すのだ。きょうはめずらしく土産をもってきたから、わたしもすこし愛想良くしようと考えたのがまちがえだった。
「今度の染みはなんだって? 本についてたお茶の染みが木の形にみえた?
あぁ、わかっぞ、その木はその本のもとになったパルプで、切られたくなかったとか何とかおまえにいったのか? 違う?」
「おまえは昔から早とちりのお調子者だったよ、鉄雄。中学一年の二月一四日水曜日の昼休みだ。同じクラスの女子、えーと名前は公枝とかいったな、彼女が、おまえに近寄ってきた。おもえはなにを勘違いしたか、てっきりチョコレートをもらえるのかと、真っ赤になってもじもじしやがって。壁にのの字なんて書いちまって。そしたら彼女、鉄雄君来週の社会科の時間の班の発表のテーマなににする? ひゃひゃっひゃー」
木にも寿命があるってしってますか、だんな。そうじて、木はだんながたより長生きなんで、何百年も何千年も生きてるように思われますけどね。
そうそう長生きするもんじゃないんです。縄文杉だ巨木だって、ちやほやされているのは、運の悪いやつらなんですよ。だって、そうでしょ、そういう巨木のまわりにそいつの同年代の木が植わっていることはまれなんですよ。
ひとりなんですよ。さびしいもんだ。
木にもジェネレーション・ギャップがあるのかって、ばかいっちゃいけませんよだんな。あたりまえでしょう。吸ってる空気の成分も、がきの頃の気候もみなちがうんですぜ。
まぁ、とにかく大木になっちまうと、まわりの木からは、根が張りすぎて、養分を一人占めしているとか、枝を広げすぎて、ほかの木の種が芽吹かないとか、さんざんにいわれているんですぜ。これで植物の世界もけっこう弱肉強食なんですよ。
たまたまなんですよ。生き残ったのは。台風もたまたま避けてくれたし、雷も、地滑がさけたのも、みんなたまたまなんです。
こんなしめ縄張られて、御神木なんていわれる筋合いはないんですよ。あっしは、ただの木なんですから。
人間てのは本当にわがままです。手に負えません。なにもだんなの悪口いってるわけじゃないけどさ。
必要な木をドンドコ切っておいてさ、たまたま残ったあっしらは、今度は死ぬこともできない。まわりの木が迷惑してるなんてことこれぽっちも考えない。あろうことに、死にぞこないのあっしのために、まわりの木を切ったりする。
あっしにくらべりゃそいつらはひよっこだけど、それでも四、五〇〇年はいきてるんです。四、五〇〇年ですよ。
あっしみてえに、材木にも挽けねえ、せいぜいが焚きつけがいいところの老いぼれを残して。もっとも、あっしが人間にはじめあったころは、あっしは充分に年寄りで、役にたたねぇんで、捨てられたんでさ。それが次に人間にであったころには、御神木。笑っちまうよね。
あっしは、。何千年いきていようが、ただの木ですよ。おまけにこんな山奥です。人にだってめったに会わない。あんたみたいに会いにくるのは酔狂ですよ。
人間てえのは不思議だ。勝手に解釈して勝手に感心してんですから。最初から答えは自分の中にある。あっしのことなどおかまいなしなんですよ。
いえいえ、迷惑なわけじゃないけど、このぶんじゃ当分死なせてくれんでしょうな。死んだりしたら泣くやつまでてきそうだ。
そりゃ木だって考えたりはしますよ。でもね、人間とは関係ねえことです。最近、水が遠くなったとか、土が薄くなったとか、そんなこってす。人間のことは、首つってくれれば養分になる、程度にしか考えません。
なんかの役に立つためにここに立ってるわけじゃないんです。ここにいたいから、ここが気持ちいいからいるだけなんですよ。
年をとったら枯れるだけ。ほらご覧なさいよ、あそこに見える桜の木。あいつは五〇〇年です。なんども嵐で死にかけたやつですが、生き残った。もう疲れて花など咲かせたくないのに。無理矢理咲かせられる。むごいもんですよ。あっしら老木に安楽死なんてないんです。
それからあそこをごらんなさい。森がぽっかり穴あけているところがあるでしょう。あそこは去年の秋まで樅の大木があったんですよ。やっぱりしめ縄なんかさせられちゃってね。おまけに古いだけじゃなくて、昔、歌に詠まれたとかで、ちやほやされてね。
でもそれが、台風がきたときにばったり。倒れるほどの嵐じゃなかったんだが、やつも疲れてんでしょうね。自殺ですよ自殺。
人間はなんとか起こそうとしたみたいだけどね。本人はわかってますから「俺が倒れたから、まわりの木が喜んでる」って。
それにあっしらみたいに大木になるとね、自分で倒れるについちゃ、自分を棲み家にしている虫やら鳥やらにいちいち了解を取らなくちゃいけないんです。あの樅の木は反対が多くてね。苦労して一年がかりでみんなを説得したんだ。いまさら起き上がれませんよ。それでそのまま。
裸山に木を植えるって美談がありますけど、考えてみればおかしな話でしょう。自分で枯らしたんだから。それに木だって馬鹿じゃないですから、そこが気に入ればまた生えてきますよ。いつまでたっても生えないのは、木が気乗りしないんですよ。
へへ、つまんねぇ駄洒落いっちまったね。 木を植えたって、木を棲み家にしていた虫も、もっとちっこい細菌も、鳥や獣もみんないなくなってしまったんですよ。そいつらまでいっしょに元の姿に戻してくれなきゃね。
人間てのは、わがままですよ。だんな。
え、そんなにいやなら切り倒してやろうか? ちょっちょっとまってくださいよぉだんな。冗談はよしましょうよ。
あっしはこうして、だんなみたいな人に愚痴いうのが楽しみで生きてるんですから。まだ枯れるつもりはないんです。(完)