染み男のカルテ
作:ぶんろく

まったくこれじゃ仕事にならないじゃないか。なんで毎日のように貴重な時間をおまえに割かなければならないんだ。
 あぁ、わかったわかった。またぞろ俺の旧悪を暴いて脅迫しようってんだろうが、その手はもうくわないよ。
 これから、次の患者がくるんだ。その人は一ヵ月も前から予約を入れている。お金も払ってくれる。
 だから、おまえは後回しだ。わかったな。わかったら出ていってくれないか。
 え? 死んでやる。そういうやつにかぎって死なんもんだ。さぁ、でていったでていった。
 少し言い過ぎたかなとは思ったが、わたしはやっとのことで、友人の啓介を診察室から追いだすことに成功した。やれやれと三分後にはドアをノックする予定の患者のカルテを取り出したとき、看護婦の須々木君がドアをバッとあけ顔をだした。
「先生! 啓介さんが!」
「どうした待合室で手首でも切ったか?」
「いえ、六時にまたくるそうです」

きっかり六時に診察室のドアをノックしたのは啓介だった。このときほど腐れ縁を恨めしく思ったことはない。
「で、今日はどんな話だ?」
 いつになく啓介は元気がない。
「ついにオバケがあらわれたか?」
「オバケならまだしも……。笑うなよ、鉄雄」
 患者から名前で呼ばれるのはなんとも腹立たしいが、わたしは我慢して聞く。
「だからどうしたというのだ」
「あのなぁ、おれ、電信柱に惚れちまった。昨日、おまえの診察を受けた帰りに、であっちまったんだ。電信柱の女王に」。
 啓介の病気(といっても自称だが)は、壁や天井の染みに反応して、声が聞こえたり、別の世界に飛んでしまうものだが、いよいよこれは本物だ。
 電信柱に雨がつくった染みが女性の顔に見えたというのだ。

染み男のカルテ

 4月23日再診


あんた、やめなよ。
 なにがって、死のうとしたんでしょう。げっそりしちゃって、目のしたに隈つくってさ。なんなのさ。
 え、徹夜明け? うそついてもだめだめ。死のうとしてた。
 しつこいやつだぁ? 生きてるときにもそういわれた。あの野郎っ!
 あぁ、こっちの話。でも、やっぱりしつこいのかしら。あんたもそう思う? わたしってしつこい? ねぇ。
 し・つ・こ・い、って、そんなにはっきりといわなくても……。死んでやる! ってもう死んでるんだわたし。へへっへ。
 もう随分前よ、死んだのは。ほらあそこに見える省線に飛び込んだのよ。省線って、知らないの? 国鉄ともいうわね。
 いまはジェイアールっていうの? なにそれ。
 そのときからずっとここにいるのかって。そうよ。
 あいつが乗ってた急行列車に飛びこんだの。あいつは田舎の両親に呼び戻されて、田舎名士の娘さんとのお見合いに行くはずだったのよ。
 前の日にあいつに「わたしのことは気にしないで」って何回もいったの。そしたら「しつこい!」と怒り出しちゃった。
 だって、必ず帰ってくるなんていってはいたけど、あの親孝行ものにそんな芸当ができるわけないじゃない。
 べつにわたしも田舎名士の小娘ごときに後れを取るわけじゃないけどさ。あいつの苦しまぎれの言いわけなんか死んでも聞きたくなかったから。
 でも飛びこんで損しちゃった。だって、電車は確かに停まったけど、列車に異常がないことを確認して、遺体を拾い集めたら、また走り出しちゃった。あいつときたら、そのあいだ気がつきもせずに白河夜船を決め込んでさ。頭きちゃう。え? 白河夜船ってなんだ?
 白河夜船っていうのはね、京都にいったことがあるとうそをついた人が、京都の白河――いまの京大のあたりかしらね――のことを聞かれて川の名と思いこんで「夜、船で通ったから知らぬ」と答えたという話が転じて、ぐっすり眠り込むことをいうの。ほんと最近の若いのは教養がないんだから。
 あの日も雨だった。バラバラになって、首から上が飛んできて、この電信柱にぶつかったのね。それから……。生きてりゃ孫がいるわね、きっと。
 もっとも不思議なもので、わたしがぶつかったのは木の電信柱だったのよ。いまじゃ、学校の校庭でトーテムポールに化けているのがおおいけどさ。
 とにかく、そのときは、こうやって雨のときに顔だしても、だれも気がつかなかった。木の電柱は黒いところにもってきて、雨が降ると全体が染みちゃうからね。でさ、コンクリ柱になってからも、雨になるとちょくちょく顔出してたんだけどね、気がついてくれたのはあんたが初めて。ありがと。
 感謝されても困るって? 冷たいのね。
 ま、いいか。
 どう、わたし美人? そう、うれしい。
 あぁ、その花? わたしに「しつこい」っていった野郎が、最近、毎月命日にもってくるの。頭くるけどさ、あいつばなんていっても白河夜船だから、あんたみたいにわたしに気がつかないわけよ。気がついたら文句の百や二百言ってやるんだけどさ。
 だって、案の定、田舎で祝言の日取りまで決めて帰ってきたんだから、あの唐変木は! あたしがあいつが乗っていた列車に飛び込んで死んだと知って、青くなっていたけど。
 なんだか、会社を定年で辞めて暇になったみたいなのよね。暇つぶしに供養されちゃたまんないけどさ。
 花といっても通りすがりの公園からかっぱらってきてるみたいだし、定年したとたんに、女房に逃げられたんだってさ。いい気味だよ。
 頭なんかはげちゃってさっ、顔もしみだらけ。ざまぁないよね。そんなじじいに「きみといっしょになっていれば」なんて泣きつかれても困るじゃない。
 あ、ほらほらきたわよ。あんたいつまでつったってるの、用がないならさっさとどいてよ。じゃまじゃま。(完)

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