その復命書は奈良縣廳に保管せられてをり、大型美濃罫紙十七枚に認められ(内三頁は繪圖貼付)外 に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる。
「大和山林會報」(昭和7年1月1日発行第49号 p24~32)所載の「大臺原紀行」を底本として電子化し、「山嶽」(昭和11年4月7日発行第9号p92~101)所載の「官廳最初の大台ヶ原調査記」との相違を明示する。 以下、それぞれを「底本」、「山嶽版」とし、両者を合わせて言うときは「両版」と呼ぶ。
「山嶽」版には次に示す短文の「まえがき」がついており、重要な情報が含まれているので、ここに掲げておく。 「山嶽」版まえがき 次に掲ぐるは明治十八年大阪府書記木下文三郎他二名が官命を帯びて大台ヶ原に登山し調査せる復命書であって、 官廳公式の文献として恐らく之がその最初のものであらう。その復命書は奈良縣廳に保管せられてをり、大型美濃罫紙十七枚に認められ(内三頁は繪圖貼付)外に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる。 この復命書は明治三十四年九月發行の大和耕(ママ)農雑誌及昭和七年一月發行大和山林會報に掲載されてをる。(因に明治十八年頃は奈良縣がなく大阪府所管であった) (正しくは「大和講農雑誌」) (なお、慶応四年(1868)に奈良県ができたが、明治9年に堺県、明治14年に大阪府に編入された。奈良県復活は明治20年(1887)から)
「山嶽」版まえがき 次に掲ぐるは明治十八年大阪府書記木下文三郎他二名が官命を帯びて大台ヶ原に登山し調査せる復命書であって、 官廳公式の文献として恐らく之がその最初のものであらう。その復命書は奈良縣廳に保管せられてをり、大型美濃罫紙十七枚に認められ(内三頁は繪圖貼付)外に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる。 この復命書は明治三十四年九月發行の大和耕(ママ)農雑誌及昭和七年一月發行大和山林會報に掲載されてをる。(因に明治十八年頃は奈良縣がなく大阪府所管であった) (正しくは「大和講農雑誌」) (なお、慶応四年(1868)に奈良県ができたが、明治9年に堺県、明治14年に大阪府に編入された。奈良県復活は明治20年(1887)から)