(1) はじめに
「大和講農雑誌」(明治34年11月号、35年3月号)所載の「大臺原紀行」(以下「講農版」と略す)を精読し、HTLM版に打ち直した。新たに講農版をアップするためである。その作業中、すでに拙サイトにアップしてある「大和山林會報」(昭和7年1月号)所載の「大臺原紀行」(以下「山林版」と略す)との比較がたえず意識されていた。というのは、山林版の初めには、つぎのように宣言されてあり、わたしはそれを真っ正直に信用していたからである。
本編は曩に(明治卅四年九月發行)大和講農雑誌に登載せられたるものを轉戴するものなり
この山林版の宣言で、まず信じがたいことは「大臺原紀行」を所載する「大和講農雑誌」の発行年月を誤っていることである。「転載する」と言っているときに4ヶ月も跳んで2号分載となっているのを誤記するということはありうるだろうか。編集者が分載の初めの号(明治34年11月)だけを書くことにし、それを誤って「九月」と書いてしまったということだろうが、分載についていっさい言及しないのは杜撰としか言ようがない。わたしは、この宣言を書いた編者は講農版をちゃんと見ていないのではないか、と疑った。
山林版は「大和講農雑誌に登載せられたるものを轉戴する」と言いながら、その編集者には、30年先行している講農版の字句を厳密に再現するという意識は余りなかったようだ。それだけではなく、講農版に欠けている字句を増補している個所さえある。このことは、山林版は講農版だけではなく他の資料を参照していたことを意味する。講農版以前に活字化された「大臺原紀行」は「大阪朝日新聞」(明治18年10~11月)しかないので、山林版の編者は朝日版および奈良県庁に保存されていた原本そのものについて、いずれか又は両方を、参照していたのであろう。
端的に言うと、わたしは講農版を読むことができて、山林版に対する批判が抑えがたく生じてきた。つまり、山林版はテキストとしてかなり問題がある、しかし、その一方で歴史資料としては有益な面が多々ある。すなわち、講農版から30年後にそれを取り上げて山林版として「轉戴」する際に、旧版を補正したり新たに補ったりすることは何ら責められるべきことではない。しかし、山林版がそういう補正に関してなにひとつ断っていないことが問題なのである。それは後世をミスリードする可能性がある。
小論はそういう観点から、講農版を読むことで明らかになってきた問題点を検討してみようとするものである。まず、関連する資料の出版年月を一覧にしておく(上から古い順)。
資料略称 | 雑誌名など | 成立、出版年月 | 備考 |
原本 | 大阪府へ復命書として提出 | 明治18年(1885)10月 | 昭和11年までは奈良県庁が保管していた |
朝日版 | 大阪朝日新聞が4回分載 | 明治18年(1885)10~11月 | 同18年9月8日に、一行出発を報道 |
講農版 | 大和講農雑誌(月刊)が2回分載 | 明治34年(1901)11月、同35年3月 | 岩手大学図書館が所蔵 |
入清版 | 『入清日記その他』所収 | 昭和4年(1929)11月 | 天野皎の遺稿集、国会図書館が公開 |
山林版 | 大和山林會報 | 昭和7年(1932)1月 | 拙サイトにアップ済み |
山嶽版 | 大和山岳会会誌「山嶽」 | 昭和11年(1936)4月 | 前書に原本に関する情報を記述 |
上では薄木祐蔵筆写「大臺原紀行」(奈良県立図書情報館所蔵)を取り上げていない。活字化などによって公表されていないからである。 |
(2) 山林版による増補個所
問題点が明瞭になりやすい山林版が増補した個所から取り上げていく。「講農版と山林版の比較」では緑字にした所である。
(2.1) 「九日」
出発2日目に、五条に郡長を訪ね、別れるところである。なお「逆旅 げきりょ」は旅館のこと。
講農版:郡長事の多務なるを以て辭す乃ち逆旅に至て午飯す
山林版:郡長事の多務なるを以て辭す乃ち別を告け逆旅に至て午飯す
何でもないような語句「別れを告げ」が講農版にはない。講農版を組む際の単純な見落しであろう。もし、この講農版(だけ)を見て山林版を作っていれば、絶対に「別れを告げ」が出てくるはずはない。何でもない常套句なのでこのことが強く印象される。
念のために「大阪朝日新聞」版(明治18年)(以下朝日版と略称する)を参照すると、
朝日版:郡長事の多務なるを以て辭す乃ち別を告げ逆旅に至て午飯す
となっており、濁点の違いはあるが、山林版と一致している。朝日版は原本を見た上で作成されたことは確かであるから(天野皎がゲラを見ている可能性さえ有る)、山林版は朝日版か原本のいずれか、もしくは両方を参照していると考えられる。
(2.2) 「十四日」
これはなかなか難しい問題を含んでいるところである。
「開墾跡」で雨に振り込められて停滞中に、大阪府官吏らは役夫の岩本弥市郎から明治三年頃に大台ヶ原の開墾が試みられた話を聞いた。話は2件あり、まず、「西ノ原村大谷善三郎黑淵村堀重郎及宇智郡五條村小川治郎の三名」が共同して開拓し、2年かけた。稲はだめだったが、馬鈴薯・蕎麦・大根は「熟せり」。もう1件は「興正寺」であるが、開拓のために人が派遣されたが、「中途にして廢絕せり」。
この話を聞いた天野皎ら大阪府官吏の評言が述べられている。
講農版:若し此の両業をして果して忍耐事に當らば今日或は麥穂冉々たるを見るに至らんと惜むべき哉
数年であきらめてしまわないで、もうすこし忍耐強くやれば、あるいは(15年後の)今日には、麦(蕎麦?)がよく実っていたかもしれない、惜しいことだった、・・・・・ということであろう。突き放した評だが、勧業課・天野皎らしく「惜むべき哉」と述べていると理解できる。
ところが、山林版には、「」が付いている重要な長い挿入がある。そこでは「官金」に言及している。
山林版:「蓋し當時官金を借て此の業を果さんと欲せしも事成らさるを以て其業も共に廢絕に歸せるが如し」若し此の兩業をして果して忍耐事に當らは今日或は麥穂再々たるを見るに至らんと惜むへき哉
「冉々 ぜんぜん 毛髪の垂れる様」が「再々」になっているのでその点は意味が不鮮明である。
この開拓事業は両方とも「官金を借て」企てられたのだが、うまくいかないので事業を「廃絶」してしまったようだ。この2つの開拓事業をもうすこし忍耐強く続けていれば今日豊穣の結果を得ていたかも知れない、惜しいことであった。・・・・・つまり、「官金」が入っていたということは、「官」が半分身を乗り出していた開拓事業であったということだ。とすれば、「忍耐事に當らは」はこの事業を実地に行った百姓や僧侶たちばかりでなく、「勧業」を鼓吹していた官側にも反省を問うていることになる。
講農版は「官金」に言及することを避けるために、その記述部分を省略したのであろう。第6節 に述べるが、奈良県は大和講農雑誌に対して、「」を付けて省略すべき部分を指示したものと推察される。あるいは下で述べるように、この「」は朝日版を出す際にすでに施されていた可能性もある。
それから更に30年経過して(原本成立から47年経過)、山林版の場合には奈良県庁から特段の指示が出なかったのか(Case A)、あるいは山林版はかまわず「」も付けて活字化してしまった(Case B)ということかも知れない。皮肉なことだが、この部分を活字化しているのは山林版だけであり、われわれが現在このことを知ったのは山林版のおかげである(なお、山林版から4年後の山嶽版は講農版と一致している。すなわち「」部分は省略されている。山嶽版は周到に、奈良県庁所蔵の原本の状況を記している位であるから、当然、県庁に出版許可を求めその指示に従っているものと思われる。とすると、山林版では(Case A)は考えにくく-山林版で許し、4年後の山嶽版で禁ずるという豹変ぶりとなるから-、県庁の指示を仰がずかまわず「」を付けて活字化してしまったという(Case B)の方が蓋然性が高い)。
朝日版をみると、山林版の「」部分を欠く点で、講農版と一致しているのであるが、重要な点で相違がある。それは、「忍耐事に當らしめば」と使役になっていることである。
朝日版:若し此両業をして果して忍耐事に當らしめば今日或は麥穂冉々たるを見るに至らんに惜むべき哉
もしこの二つに対してもっとねばり強く事業遂行をさせていたら、15年後の今日には麦の豊穣をみていたかも知れないのに惜しいことであった。・・・・「復命書」の付属文書であることを思い出せば、これは、鮮明に官側からする反省になっている。したがって、上から見下ろした視点となっているが、それは当然であり、しかも「官金」には触れずに済ませることができている。「惜しむべき哉」という反省は、この「両事業」に対する官側の判断を反省する言葉となっている(現在の官が15年前の官を批判している)。
講農版にある一種瞹眛なところが払拭されて、朝日版がもっとも文意が鮮明な文章に仕上がっている。このことは、朝日版を出す段階で、「」部分を略し代わりに使役表現を入れるように、大阪朝日新聞社へ大阪府の側から指示が出された可能性がある。
確認のために繰り返しておくが、朝日版・講農版・山林版を見ることで、明治初めの大台ヶ原開拓事業には「官金」が入り、官による開拓事業でもあったことがはっきりする。しかも、明治18年段階で大阪府には明治3,4年の開拓事業打ち切りに関して、批判的見解があったらしいことが推察される。今後、更に具体的な資料が発掘されることを望む。
(2.3) 《十六日》
大台ヶ原に生育する樹木を列挙している個所で、講農版は1種見落としている。
講農版:山上に生ずる處のもの山毛欅、樅、檜、朴、栂を最とす
山林版:山上に生ずる處のもの山毛欅、樅、檜、楡、朴、栂を最とす
これは、講農版が見落としてしまった「楡」を、山林版が補っているという分かりやすい実例である。唯一問題となる点は、山林版は何を見て補ったのかであるが、前項に続き、ここでも原本を見たのだろう、というほかない。というのは、朝日版には下のように、異種の樹木名が登場しているからである。
朝日版:山上に生ずる處のもの山毛欅、樅、檜、瑤、朴、栂を最とす (正しくは「瑤」の王偏が木偏)
この「にん」なる樹種がどのようなものなのか、分からない(諸橋の大漢和辞典にはあるが、山海経に出ている「大木の名前」とあるのみ)。また、大台ヶ原に代表6樹種に挙げられるほど「楡」が生育しているものなのか、目下不明(手元にある某製紙会社「大台山伐木事業報告」(大正5年1916)によると、伐採対象にしているのは、樅・唐檜・栂・檜である)。
(2.4) 《二十二日》
最後の日であるが、講農版が1行見落としている。
講農版:
勤めたりと云ふべし顧みて昨來經過せし處を圖して之を
上つる
山林版:
勤めたりと云ふべし顧みて昨來經過せし跡を見るに茫乎
として異世の趣あり奇と云ふべし因て其經過せし處を圖
して之を上つる
上は、講農版の1行25字に合わせて、該当する山林版を並べてみたところである。偶然に「經過せし」が近くにあったために、緑字の部分がちょうど1行分跳ばされてしまったのである。この部分は文飾のための語句というべきで、これが脱落しているからと言って文意が著しく不明となるわけではない。このことも再び山林版が原本を参照していることを証拠立てている(朝日版は「十七日」までしか掲載しなかった)。
以上の考察により、山林版は講農版の「轉戴」にとどまらず、原本を参照して講農版を補ったことが明らかである。
(3) 山林版が省いた個所
講農版にあって山林版が省いた個所(「講農版の山林版との比較」では紫字で表した個所)で、重要なのは2つしかない。ひとつは「復命書」であり、もうひとつが「図面の挿入」についての貴重な証言である。それぞれを、順に扱う。
(3.1)「復命書」
「復命書」について、講農版と山林版の相違を確認しておく。色分けは先の「講農版と山林版の比較」で用いたものである。次ぎに示す「復命書」は講農版のものであり
講農版にあるが山林版にない個所(山林版が見落とした)は紫字、 講農版にないが山林版にある個所(山林版が増補してる)は緑字
である。
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(3.1.1)
山林版には「復命書」という表題が欠けている。じつは山嶽版でも表題の「復命書」が欠けているのであるが、本文の前に8行の説明文があって、そこに本文は「復命書」であり奈良県庁に保管されている云々の詳しい説明がついている。そこを読めば「復命書」であることは明らかで、まず復命書があり、「大臺原紀行」は「別紙」に載せてあることが明らかとなる。もちろん、そうであったにしても山嶽版が題辞「復命書」を欠いていることは大きなミスである。
山林版では、すでに再々述べたことであるが、「本編は曩に(明治卅四年九月發行)大和講農雑誌に登載せられたるものを轉戴するものなり」との断りがあって、直ちに「文三郎戒三皎命を明府相公下執事に復す・・・・」が始まる。それゆえ、読者は「復命書」を意識することなく「大臺原紀行」本文へ入っていくことになる。したがって、「其紀行は別紙に之を載す」という断りの意味がよく分からないのである(本サイトにアップしてある「山林版」を参照して、このことを確かめて欲しい。)
公文書にその書類の標題があることは当然であるから、原本では「復命書」という表題から始まっていたと考えてよいであろう。山林版がそれを欠くことは重大なミスと言わざるをえない。
(3.1.2)
上に示したように講農版「復命書」は、「明府相公」(府知事のこと)を行頭に出すために復命者3名の名前は行の下の方から開始している(“平出 へいしゅつ”による敬語法)。この「復命書」がこのような高度な敬語法を使用していることについて、山林版は完全に無視している。過去の文献を紹介するのに、上の(3.1.1)と共に、これは山林版のミスと言うべきだろう。
(3.1.3)
講農版は(印)を忘れている。押印されていたことは確実だろうから、これは講農版のミスである。逆に、山林版が(印)を明記したことは、山林版が講農版の字句通りの忠実な「轉戴」を行っておらず、むしろ「原本」を参照した可能性を濃くしている。
なお、朝日版は「復命書」を掲載しておらず、「明治十八年九月五日」条から始めている。これは当然のことで、出来たてホヤホヤの公文書である「復命書」を新聞の“読み物”に掲載するのは適当でないと判断されたのであろう。なお、大阪朝日新聞4回の分載の内、1~3回は土・日で、最後のみ木曜日である。「大臺原紀行」は“土日の読み物”の扱いであったと思われる。
(3.2)「図面の挿入」
「十二日」の末尾に次のような、講農版の編集者による書き込みがある(丸カッコ( )も含む)。
(茲には開墾跡地小家の圖面を挿 入しあるも省畧す)
これは講農版の編集者が「大臺原紀行」の原本を見て、つけることが出来た注である。「開墾跡地小家」は朝日版の3枚の絵図のうち最初にあるもので「開墾跡小屋ノ圖」と「圖」中に記載がある。この絵図は朝日版十二日の記事の中に入れてあるので、まさに講農版の上の書き込みに相当すると考えてよいであろう。この書き込みは「大臺原紀行」原本には絵図が挿入してあることの直接の証言となる。
山林版がこれを省いたのは実に惜しいことであったと現在のわれわれは思うのであるが、山林版の編集者の立場では、次のように考えたのかも知れない。
(1) この部分(講農版の注)は「大臺原紀行」そのものには含まれていない。
(2) 山林版に「図面」は掲載しないので、この注はかえって読者にはわずらわしい。
つまり、ここで山林版の編集者は講農版をテキストとして精確に再現するというより、読者に読みやすいようにという方針を持っていた、と理解される。くり返しになるが、このような方針であるのなら「大和講農雑誌に登載せられたるものを轉戴する」という宣言とはまったく矛盾する。
山嶽版前文には、原本を見て次の貴重な証言がある。
その復命書は奈良縣廳に保管せられてをり、大型美濃罫紙十七枚に認められ(内三頁は繪圖貼付)外に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる。
これによって、はっきりと「大臺原紀行」には「三頁」に「繪圖貼付」してあったことが分かる。小論がここで取り上げている講農版の書き込みは、その内のおそらく最初の貼付位置を示している。そうすると、別の個所2頁に絵図が2枚貼付してあったと考えられるが、それに関しては講農版は書き込んでくれていない。
「外に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる」というのは、「大型美濃罫紙十七枚」に貼付されている「三頁」3枚の絵図の外に、貼付されていない「地図二枚」と「山を畫ける大きな繪圖面」があったということであろう。
地図に関して言及しているのは船津にたどりついた「十六日」と、最終日「二十二日」で
始め戒三の船津に達するや戸長某北牟婁郡の地圖一張を携へ以て示して曰く本村より入の波に入る道六里に過ぎず往くもの必ず一日にして達す(以下略 「十六日」末尾)
北牟婁郡全圖は船津に於て戒三の戸長某より得たる處なり(「二十二日」)
などと出てくる「北牟婁郡全圖」である。この地図を報告文「大臺原紀行」に「附して上つる」(二十二日)ことにしたのである。山嶽版が「地圖二枚」と述べているのであるから、地図はもう一枚あったことになり、おそらく、一行が事前に用意して携行していった地図が別にあったのであろう。
「山を畫ける大きな繪圖面」というのが、朝日版の3枚目の絵図「大臺ヶ原ノ圖」であろう。「二十二日」に次のように述べているのが、まさしくこの「絵圖面」の説明を作者天野皎自身がしているところと考えられる。
其經過せし處を圖して之を上つる圖は獨り大臺の出入に審にして其餘を畧せり
“大台ヶ原横断行”とでもいうべき今回の強引な探検は、もっぱら、横断することだけが目的であったような“弾丸横断”で、「獨り大臺の出入に審にして其餘を畧せり」というのは負け惜しみに近い。というのは、「大臺の出入」は実踏しているにしても、それ以外の地形・水理・動植物などに関してはほとんど何の見聞もしていないからである。彼らがゆっくりと周辺を見聞・探索できたのは、実に、十三日・十四日の二日間雨によって停滞せざるを得なかったからである。
すなわち、この探検行の中で異彩を放っているのは雨で2日間開墾跡に停滞を余儀なくされたことであるといえる。天野皎が、小屋のスケッチなどを描き残すことができたのも、この停滞があったからであろう。岩本弥市郎から明治三年・四年の開拓事業に関する話を聞き出したのもこの停滞があったからである。(もし松浦武四郎が雨に振り込められたというのであれば、「役夫」たちからより多様な興味深い話を聞き出し、記録してくれていたと思う。生涯を掛けた旅・探険の経験豊かな松浦老とは人間の大きさが違うと言えばそれまでだが、大阪府官吏たちは役夫たちと打ち解ける付き合いができず、役夫たちからの尊敬もかちえていない。)
わたしの上の推論が正しければ、「開墾跡小屋ノ圖」と「塩辛小屋之圖」以外に、もう一枚類似の絵図が貼付してあったということになる。それは、現在不明であることになる。
(4) 到達地点、時刻の記載について
(4.1):地名
「大臺原紀行」は、日付ごとに区切られている。その日付のすぐ後に、天候や晴雨計の読み・温度・海抜高度などが置かれているが、その個所に地名がある資料とそうではない資料とがある。言うまでもなくその日の記事を全部読めば、その日にどのような「紀行」がなされたか、また雨で停滞していたかなどが分かる。だが、日付の後の地名の置き方には、資料の特徴が出ているとも言えるので問題にしてみる。(表にしないと、資料ごとの差違が分かりにくい。なお、山嶽版は表に入れなかったが、この部分に関する限り、山林版と完全に一致している)
日付 | 八 | 九 | 十 | 十一 | 十二 | 十三 | 十四 | 十五 | 十六 | 十七 |
出発地 | 大阪 | 五条 | 柏木 | 入の波 | 天ヶ瀬 | 開墾跡 | 開墾跡 | 開墾跡 | 塩辛谷 | 船津新田 |
到着地 | 五条 | 柏木 | 入の波 | 天ヶ瀬 | 開墾跡 | 〃 | 〃 | 塩辛谷 | 船津新田 | 尾鷲 |
朝日版 | - | (柏木) | (入の波) | (天ヶ瀬) | - 午前六時 | (開墾跡) 午前六時 | - 午前六時 | (鹽辛谷) 午后六時 | (船津新田) 午前七時牛石 | - |
講農版 | - | - | - | - | - | - | - | - 正午中の谷 午後六時鹽辛谷 | 船津新田 午前七時牛石 | 尾鷲 |
山林版 | 五条 | 柏木 | 入の波 | 天ヶ瀬 | 開墾跡 午后六時 | 開墾跡 午后六時 | 開墾跡 午後六時 | 鹽辛谷 正午中ノ谷 午後六時 | 船津新田 午後七時牛石 | 尾鷲 |
まず、朝日版の地名に( )カッコを付けた理由を説明する。朝日版には各日付のあと地名が置かれていない。だが「十六日」の記事の後に、次のような訂正・補正記事が出ている(引用はふりかなを略し、句読点、改行を適宜ほどこした)。
序に記す。前号来海面上幾何英尺とありて、其の何の地より測りたるものなるかを掲げざりしは、記者偶然の誤脱に出るなり。今因て之を左に追補す。
九日は、柏木(但し本文は千九百三十尺の千を脱せり)。
十日は、入り波(但し傍仮名に“いりなみ”とあるは“しほのは”の誤りなり)。
十一日は天ヶ瀬。
十三日は開墾跡。
十五日は塩辛谷。
十六日は船津新田より測量せしものに係る
つまり、日付の直後に記している海抜が、どの場所の海抜なのかを書き落としていたというのである。上表は、その場所(海抜測量をした場所)を( )に入れて表している。講農版・山林版はいかなる意味の地名であるかを断ることなしに地名を置いているのであるが、その地名は朝日版と一致している(食い違うところはない)。そして、わざわざ指摘するまでもないことだが、日付直後の地名は、すべて、その日の到着地を示していること、上表で明らか。
(4.2):測定時刻
「大臺原紀行」を読む者にとっては、日付の直後に出ている地名がその日の行動の目標地点を表していると考えるのが自然である(読者にとって出発地点は自明である)。その点で必ず目標地点を示した山林版は読者に配慮していると言える。言い換えれば、底本に忠実という理念より、読者に親切にという編集者の意図が強い。目標地点に達して、そこで晴雨計・温度・海抜などの測定を行ったとすれば、測定時刻が午前ではなく「午後六時」となるのは筋が通る。だが、停滞していた十三、十四日は午前六時か午後六時か決め手がない。
上表に赤・細字で記入したのは晴雨計計測をした時刻と考えられるもので、十五,十六日のように計測場所も併記してあることもある。
十二日:天ヶ瀬を朝出発し、開墾跡へ達している。開墾跡で雨に振り込められ停滞を余儀なくさせられ、そこを出ることができたのは十五日朝である。朝日版は、十二日午前六時に測量したとしているのだから、天ヶ瀬でのことになる。同じ事を山林版は午后六時としているので、これは開墾跡で小屋を作ってからの測量ということになる。海抜「三千七百卅尺」(1130m)を得ている。(国土地理院地図で見ると、天ヶ瀬は海抜560m程度、開墾跡は位置が不明だが大台ヶ原の低いところで1300m程度はあるようなので、この測定値は開墾跡についてからの可能性が大きい。とすれば、山林版「午后六時」が正しいことになる。下で取り上げるが、海抜の測定値は低く出るようなのだが、信頼性に欠け、議論の基準とするのは無理である。)
十五日:上表で取り上げた3つの資料で幸いに測定の場所と時刻が一致している(食い違っていない)。この日一行は中の谷を経て塩辛谷に達している。中の谷で正午に計測し、午後六時に小屋のできた塩辛谷でも計測している。
十六日:塩辛谷の小屋をでて、朝のうちに牛石に達し、下山を強行して半分遭難者のようになりながら、夜11時に船津新田にたどりつく。先行した役夫の情報で、船津から救援隊が出る騒ぎになった。これだけのことから山林版の「午後七時牛石」は明らかに誤っており、朝日版と講農版の「午前七時牛石」が正しい(ただし、朝日版十六日条の訂正で言う「十六日は船津新田より測量せしもの」は誤りである)。
牛石は当時と現在と同一地点であることが確実なので、現在の海抜の測定値(約1580m)を比較に使える。天野皎等は「四千八百八十尺」(1479m)を得ている。約100m低い。(なお、天野皎が明治18年1~2月に行った近畿地方の調査旅行記録「古社寺行」があるが、その中に海抜の測定を行うと低く出ることを述べている個所がある。大台ヶ原踏査の半年前のことである。関連があるかも知れない。)
(5) 日程について
この探検行の日程の問題を取り上げておきたい。
(明治18年9月)「六日」条に「八日出発」を決めた、とある。友人との山行の出発を“じゃあ、あさって、ナ”と言うことがあろうが、この場合にはちょっとお手軽すぎる感じがする。出発当日の大阪朝日新聞の記事は
紀伊、伊勢、大和三国の境をなし、吉野川、新宮川、宮川の水源となり、常に人跡の絶えたる所にて、今日に至るまでその実地につき十分の探究をなすものさへあらず
と報じた程だったのである。しかも3人の官吏が出かけるのであるから、当然、ある程度の日程調整や計画書の提出などが事前にあったものと思われるが、それは書かれていない。
ところが、彼らは柏木村から入の波にまず行った。その地ではじめて、入の波からは大臺原へ入れないことを知らされる。地図の上だけの、最短距離を結んだ行路を考えていたようである。彼らの事前の計画というのはこの程度のものであった。やむを得ず彼らは入の波に泊する。翌日入の波から引き返すが、天ヶ瀬に行く途中で、松浦武四郎の案内をした岩本弥市郎(弥一郎)に相談すべきことを知る。
十二日朝、天ヶ瀬から出発直後、役夫たちが天候を理由に尻込みした。
山雲四密雲行南よりす。豫じめ雨あるを知る。此の日僅に山に入る。前程極めて艱難、加ふるに雨を以てす。役夫等皆躊躇して進まず。
南から雲が押しよせて来ており、雨が予想される。ちょっと山に入ったところで、先の道が極めて険岨なだけでなくひどい雨が来て、役夫たちが進まなくなった。おそらく“引っ返した方がいい”と言い出したのだろう。官吏たちは、この先「安樂國」が待っている、“さあ、進め”と訳の分からない理屈を言って無理に進む。やはりひどい雨になり、昼飯も片手に握り飯、片手に傘という状態。やっとのことで、開墾地跡の小屋に達した。山慣れた役夫たちの提案に逆らって、無理に前進するのはなぜであろう。このパターンは十六日にも繰り返される。
案の定、十三日、十四日は強い雨で開墾跡で停滞を強いられた。その間に役夫2人を天ヶ瀬まで戻らせて食糧を補給している。山に馴れた役夫であるから可能であったことだ。これは、予定外の日程超過であったことを意味している。しかし、この2日間の停滞は“怪我の功名”と言うべきで、思わざる収穫があったことを第3節末に述べておいた。この停滞がなければ、おそらく、スケッチは描かれなかったであろうし、岩本弥市郎から明治初年の開拓事業について聞き出すこともなかったであろう。(役夫らの意見を容れ、天ヶ瀬村で好天を待って2日間ほど停滞するという選択肢もあった。大台ヶ原に限らず吉野・熊野の山村生活について認識を深め、村の人々との親交を計ることができた可能性もある。)
十五日は雨が上がり、滝などを踏査することができた。飯炊きの後発組と会うのに数時間無駄にしているが、踏査らしいことが出来たのはこの日だけである。塩辛谷まで進んで、役夫たちの活躍によって夜は小屋に泊まることができ、「塩辛谷小屋之圖」が残された。
十六日は早朝にたち、朝7時牛石に至り小休止をとって海抜測定をしている。いよいよ下りの難路にかかり「小木森の官林」に達したのが午後3時である。そこで古津に下りるか舟津に下りるかを相談する。そのとき役夫たちから、ここで一泊する提案がある。
役夫曰く、「公等足を折る、舟津の行必す可らず。如かず、早きに及んで此の溪間に居を卜せんには」。皎等可かずして曰く、「糧の餘す處幾許なし。足を憩ふて腹を空ふす、更に利害の償ふ處なし。糧舟津に在り。糧を得れば足亦從て憩はん。」
天野皎は膝を傷つけている、木下文三郎は臀を痛めている。「舟津へ直行するのは無理だから、少し早いがここで一泊するのが上策です」と。役夫らは官吏らの疲労と痛めた体を考慮して提案してくれたのである。官吏らはその提案を有難く受け入れる度量を持っておらず、変な理屈をこねる。「食糧は残り少ないし、足を休めるために一泊しても、腹が空いてしまう。舟津に下りれば食糧はいくらでもあるんだから、そこで腹を満たし足を休めることができる」と。
一行は下山を強行するが、すぐ夜になってしまう。雨の暗黒の急坂を怪我人をかかえて下る。そのため役夫は天野皎を背負って下りたい、と言う。天野は拒否する。さらに進んでから役夫がまた言う。
役夫曰く「公の如くすれば、則夜半に達するも、山下に出る能はず。公を負ふは、則ち予輩を助くるなり」强て皎を脊に して下る。
このままだと、夜中になっても山を下りきることは出来ません、あなた様を背負うのは自分たちのためなのです。そういって無理に天野皎を背負って下った。
別の役夫たちは先行して船津に行き、ただちに救援隊を差し向ける手配をする。畚(モッコ)を持ってきた者もあり、天野皎はそれに乗って船津に達する。一行3人はほとんど遭難していると言って良い状態である。山慣れた役夫たちとすぐ救済に駆け付けてきた船津新田の人々のお蔭で何とか無事であったのである。
そもそも、この探険の目的は何だったのか。「強引に大臺原を横断する」という蛮勇を示すこと、に過ぎないように思える。日程を急ぐ理由が存在したのであろうか。「安楽國」を出したり、空腹と足の負傷をからめる屁理屈を述べたりすることから、わたしは日程を急ぐ特別な理由はなく、一種の「蛮勇」ゆえに強行したのではないかと思わざるをえない。道を選ぶのに、松浦武四郎が4ヶ月前にすでに通過した道だから止めようというシーンが何回か出ている。前人未踏の初踏査であるならともかく、役夫たちはよく承知している山である。意味のない強がりではないか。
しかし、大臺原について
山中更に恐るべきものなし。猛獣蛇蝎を見ず、只猪鹿の痕あるのみ。
と報告しなければならないような水準に彼らがいたことを考慮する必要があろう。彼らは半身を、大台ヶ原山には恐ろしい「猛獣蛇蝎」がいるかも知れないという伝説や迷妄の中に置いていたのである。この探検行の反省として、
山に入る、須らく、役夫十人を携ふべし(一行を三四人として)。糧十日を貯ふべし。山に入るの前、豫め板屋を三四ヶ所に設くべし。
が出てきている。逆に言うと、彼らは役夫の人数や食糧の量、宿泊の準備などに関して、事前に入念に計画せず、行き当たりばったりだったと思われる。
この官吏3名は、現地で雇う役夫たちは単なる荷運びの人夫ではなく現地をよく知る案内人でもあること、その役夫たちとどのような関係を作らねばならないかに、心を砕いていない。
対比のために書いておく。「大臺原紀行」では役夫5名のうち岩本弥市郎の名前しか書き留められていないが、松浦武四郎は役夫たちの名前を常に記録している。次は、松浦の最初の大台ヶ原行のとき、天ヶ瀬から出発する際の記述である(明治18年5月17日、「乙酉紀行」)。
天気快晴と見えければ、米、塩、噌、梅干、鉞、法螺貝、細引、ケット等支度調ひ、亀市、弥市、善導の三人を曳て、八坂神社より街道を上り、・・・
3回目最後の大台ヶ原行では、松浦武四郎は牛石で盛大な護摩供養をするが(明治20年5月12日)、そこへ参集した人々の名前を村毎に年齢も添えて記録している。男女老若を交えて62名の名前がある(「外二人」とか、「外子供一人」も見える)。ここには松浦の“哲学”が感じられる。
(6) 講農版「前書」について
講農版には編集者による「前書」がある。次の5行がそのすべてである。
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講農版の編集者は「大臺原紀行」を大台ヶ原の「十數年前の有様」が「詳細に縷述し盡」されていると高く評価している。大和講農雑誌の読者のなかには大台ヶ原に関心を持つ方もあるだろうから、(明治34年の時点で)16年前の明治18年を「追懐」する「参考にもならん」と編集は考えたというのである。心の通ったよい前書であると思う。
前書き最後の「其の許諾を得て茲に載することゝしぬ」という文言は重要である。大阪府に編入せられていた奈良県が再度奈良県として設置されたのは明治20年(1887)であった。したがって、明治34年(1901)に講農版を出す際には、大阪府から奈良県に移管されていたであろう「復命書」とその付属文書を雑誌掲載するについて、奈良県に正式に許可を求め、その了解を得たうえでここに掲載する、という意味である。これは大和講農雑誌が奈良県が保管していた「原本」を参照したことの直接の証言である。
奈良県は、この文書を公開してよいかどうか点検・判断した上で許可を与えているであろう。その際、(2.2)で触れたが、わたしの推量では、明治18年10月に大阪朝日新聞に大阪府が掲載許可を与えた前例にならい、「官金」の出ている個所を省略するように指示したのだと思われる。
(7) 「大臺原紀行」の文体
天野皎は明治20年代半ば以降、大阪朝日新聞の有名記者として健筆をふるった。彼が正式に大阪朝日新聞編集部に入社したのは明治24年(1891)であるが、すでに明治10年代から朝日新聞への寄稿家として知られていた(天野徳三「鐵腕居士の事ども」)。明治26年(1893)はシカゴ世界博覧会に半年間派遣され、筆まめに世界博覧会の見聞を日本へ送っている。その1年後、明治27~28年の5ヶ月間は日清戦争の戦争特派員として帝国陸軍第2軍と行動を共にして取材を行い、その報告は朝日新聞に連載された。(天野皎の遺文集『入清日記その他』(私家版1929)は国会図書館近代デジタルライブラリーで公開されている(ここ)。)
「大臺原紀行」はそういう人物の執筆にかかる明治18年(1885)の紀行文、探険レポートである。天野皎は文筆家としてすでに名のある人物であり(「鉄腕」の名が大阪でひろまったのは明治14年)、単なる大阪府官吏がレポートしたというのとは違う。「大臺原紀行」は明治18年時点でメディアに登場することを意識して執筆されている。
右は、大阪朝日新聞(明治18年10月24日)の紙面に掲載された「大臺原紀行」連載第1回目の終わりの部分である。当時の新聞の総ルビと共に、句読点・改行がまったくないことに驚く(なお、直接ここには関係ないが、原稿の改行を示すために“「”を入れている。当時は紙面節約のために「白部分」を極端に怖れていたことが分かる)。当時の読者は、流し読みをせず、時間をかけて丁寧に読んでいたと思われる。右を横書きにしてみる。
予等一行の此に達するや衣外は雨を以て濕ひ衣内ハ汗
泉の如し因て衣嚢の物を出し衣と共に溪流に浴し水中
衣を脱して之を洗ふ水冷にして久しく浴す可らず雨斷
續遏まず此の夜安樂窩中に泊る屋低くして狭く坐する
も猶身を局せざる可らず飯するも身を局し煙を吹くも
身を局し到底体を伸ぶるの地なし終夜火を燒て暖を取
一つの文が短く、畳みかけるようなくり返しのリズムがある。対句表現が使われ(「衣外」と「衣内」)、誇張表現が好まれる(「局し」を繰り返して、小屋が低く狭いことを強調する)。全体として、引き締まったキビキビとした印象である。
ここに現れている「大臺原紀行」の文体はいわゆる漢文「訓読体」で、近世後半から広まったものである。元々は、漢文(白文)に訓点をつけて日本語として読み下せるようにし、それを読んだもの「漢文の読み下し文」をいう。訓読体が普及するにしたがって、漢文から離れてその文体が独立し、その文体によって表現することが広く行われるようになった。幕末志士の文章の多くが訓読体を採用し、明治以降の政治・法律関係の多くの文章が訓読体によった。「五ヶ条の誓文」(慶応四年1868)の文体である。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ(以下省略)
漢文(「書記体系」としての漢文)が機能性にすぐれ普遍性を持ち、東アジアに漢字文化圏というべきものを創り出したことはよく知られている。中国を中心としベトナム・朝鮮・日本などである(モンゴル語がなぜ漢字文化圏に入らないかについて、温品廉三「モンゴル語に入った漢語起源の語彙」2013 は分かりやすく、とても興味深い)。日本では幕末期以降、大量の西洋書籍(オランダ、イギリス)の翻訳がなされたが、それは訓読体を用いている。
訓読体は「漢語」を「てにをは」などで結合していく構造であるが、その「漢語」として多数の「訳語」が創出された。その多くは、中国へ逆移入しているという。
文化、文明、民族、思想、法律、経済、資本、階級、分配、宗教、哲学、理性、感性、意識、主観、客観、科学、物理、化学・・・(ウィキペディア 「和製漢語」より)
書記体系としての漢文がこのような柔軟な応用を許すことを抜きに、幕末から明治維新以降の日本の近代文化を論じることはほとんど不可能であろう。むしろ、わたしたちはその恩恵に浴していることを通常は意識していないほどである。ほんの10年、20年前までは、すべての法律が「漢字片仮名混じりの訓読体」で書かれていたことは、よく知られている(刑法の口語体化が1995年、民法が2004年)。
新聞・雑誌のメディアの文体として訓読体がみごとに適応し、大量に印刷・販売され、文明開化の新知識を運んでくる媒体として日本の知識大衆に受け入れられた。わたしは齋藤希史『漢文脈と近代日本』(NHKブックス2007)に多くを学んだ。
幕末になって登場した新聞というメディアには、さまざまな文体が含まれていたし、小新聞と言われる民衆向けのメディアでは、「ござります」のような江戸の俗語系のことばもさかんに用いられていたのですが、知識層を相手にするいわゆる大新聞では、訓読文が主流となりました。『国民之友』など、同じ読者層を想定した雑誌も同様です。徳富蘇峰がそうであったように、明治前半の新聞や雑誌の記者たちは、私塾や藩校で教育を受けた世代ですから、文章といえば漢文が規範でした。つまり、訓読文を書くのがいちばん速くて楽だったのです。いつの時代でも、マスメディアはスピードが要求されます。(齋藤希史 前掲書p104)
天野皎は地学系の専門家としての教科書などの著作、その後、大阪で実業界に入ってから「商況新報」や「大阪朝日新聞」への投稿を重ねている。したがって、大阪朝日新聞への掲載を意図して書かれた天野皎「大臺原紀行」の文体は、まさしく、上述のような歴史的流れのなかで成立してきた訓読文が、メディアに受け入れられた典型的な文体であった。
近代日本の文体といえば、誰しも想起するのは東海散士(柴四郎)『佳人之奇遇』(初編・明治18年1885)、坪内逍遙『当世書生気質』(第1号・明治18年1985)、二葉亭四迷『浮雲』(第1編・明治20年1887)などであろう。これら近代日本文学の草創期の作品と、わが「大臺原紀行」がどういう位置関係にあるかを押さえておこう。
わたしは意外に感じたが、政治小説といわれる『佳人之奇遇』、小説理論を示したという『小説神髄』の実作版として書かれた『当世書生気質』とは、「大臺原紀行」と同年の明治18年の出版であった。『佳人之奇遇』は「大臺原紀行」と同系列の訓読文と言ってよい。先入観を捨てて読んでみると、難しい漢語を読み飛ばしながら案外容易に物語に入っていける。しかし、男女の心情の表現がいかにも典型的で古くさく感じる。個々の人物のユニークな内面の表現になっていないのである。
『当世書生気質』は江戸の軽文学の系列を引いていると思うが、書生風俗を描いて面白い。面白いが、文体の問題としてはいまだ不十分で、やはり『浮雲』の言文一致体において新しい文学表現の水準に達していると言うべきである。『浮雲』では個人の揺れる内面表現がなされていることが、すぐ分かる。
これら文学者たちは天野皎よりことごとく若い世代である。東海散士(柴四郎)は嘉永五年1853生まれで2歳年下。坪内逍遙は安政六年1859生まれで8歳年下。徳富蘇峰は文久三年1863生まれで12歳年少、二葉亭四迷は元治元年1864生まれで13歳の年少。
明治18年の『佳人之奇遇』、『当世書生気質』の文体(文学表現)と比較すると、「大臺原紀行」は翻訳文・理論書・メディアの表現などとしてすでに確固たる地歩を得ていた漢文訓読体に根差していた、と言ってよいだろう。
(8) おわりに - 実利行者の「孔雀明王碑」のこと
わたしが「大臺原紀行」に関心を持つようになったそもそもの始まりは、実利行者を調べていてのことであった。実利行者の行跡が「大臺原紀行」にたまたま捉えられていたのであった。天野皎の筆によって、行者自身が建てた「石碑」(孔雀明王碑)の碑面の文字などが記録された。実利行者の研究にとって、これは稀有な僥倖である。
確認のために記しておくが、松浦武四郎が最初に牛石を訪れたのは明治18年5月20日で、実利の庵の跡について述べ「実に世に目出たき行者にてぞおわせしなり」と記しているが(「乙酉紀行」)、それは天野皎らの4ヶ月前のことであった。松浦は同19年5月3日、同20年5月12~13日にも牛石に至っている。残念ながら、孔雀明王の「石碑」については触れていないようだ。松浦武四郎は実利行者に言及するとき常に敬意をはらっているように感じられるが、実利行者の弟子であった岩本弥市郎らと深く親交を持ち、三度の大台ヶ原行の案内役としている。弥市郎から行者の行跡を詳しく聞いていたはずである。あれほど広い視野を持ち、メモ魔と言いたいほどよく記録した松浦武四郎がなぜ孔雀明王碑について記録しなかったのか、不思議に思えるほどだ(この碑に関して最も詳しく情報が集積してあり、信頼できるのはサイト「実利行者の足跡めぐり」の「大台ヶ原 牛石」である。そこには碑の現状を示す写真が何枚も掲げてある。また、このサイトには岩本弥市郎の山伏姿の肖像写真も、おいてある)。
天野皎ら一行が牛石に立ち寄ったのは「十六日」の午前7時で、海抜を知るための気圧測定をした。小野戒三が牛石に「踞して休」んだために、役夫らに非難された際のことである。上の「実利行者の足跡めぐり」では「牛石を繋ぎ止める杭のようにも見える石柱」が「孔雀明王碑」であると、実にうまい表現がなされている。右写真で牛石と孔雀明王碑の位置関係を理解してもらいたい(写真は「実利行者の足跡めぐり」さんからいただいたものです。深く感謝いたします)。
つまり、戒三が牛石に「踞し」たとき天野皎も牛石の傍にいて、足元の「石碑」に気が付き、その碑面の文字を直ちにメモに採ったのだと思う。当然、同行している岩本弥市郎の説明も聞いたであろう。彼は古美術や建築などを鑑賞し評価することに実績を持っているプロであり、すでに大阪府博物場でも「絵画品評会」(明治17年)を行って成功を収めていた。余裕のない日程で大臺原を横断した探検行の中で、牛石に立ち寄ったわずかの時間でこの「孔雀明王碑」の記録が残ったのは、天野皎の熟練した鑑賞眼が在ったからこそと思う。普通の探検隊であれば見過ごしていたであろう。
碑の裏面(「実利行者の足跡めぐり」によると、正しくは左側面)に「実利及■の花押あり」というところの「花押」という語は、天野皎の判断が入っているとわたしは考えている。つまり、その面には合計3字が彫られてあり、上から「実利 」であった。天野皎はそれを「実利」および「の花押」と説明しているのである。つまり、「実利」の下にあるのは通常の文字として読むべきではなく、「花押」であると鑑定したのである。
「大臺原紀行」の原本には天野皎によって が書き込んであったはずである。それを朝日版、講農版は活字を造って忠実に表現しようとした。山林版は活字を造らず、比較的似ている「丞」を宛てた。山嶽版もそれに習って「丞」を使った。・・・わたしは目下このように考えている。しかし、実利行者の花押に関しては、今後更に研究しなければならないと思う。
―― 「大和講農雑誌版を読む」 終 ――
き坊(大江希望) 7/11-2015
講農版 山林版 講農版の山林版との比較
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