『月刊全生』1964年7月号(整体協会)
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師野口晴哉 十七歳
眠ることより起きていることに魅力を感ずるよう生くること第一也
眠るも醒むるも快き呼吸つゞけること全生の道也
溌剌と生くる者にのみ深い眠りがある。生ききつた者にだけ、安らかな死がある。
生死自然也
生ありて死あり、死ありて生あり
生死別ならず
生死ともに自然に順(したが)う
之全生の心也
生は苦也
死は楽也
生々と生くる者に苦多く、楽つゞけば眠る也、たゞ生々と生くる者、苦を苦とせずそこに潜む快を身につける也
人に自己保存の要求あり、種族保存の要求あり、その要求凝りて、人産れ、育ち、生く。
もとより何の為に自己保存を為すか、種族保全を為すか知らず、たゞ裡の要求によって行動するのみ・・・・・・
何の為に産れ、何の為に生き、何の為に死するか人知らず。只裡の要求によって行動するのみ。
人ありて言う。国家を隆盛ならしむる為人は生くると。果たして然るか。
人ありて言う。人類の繁栄に貢献せんが為に働くと。果たして然るか。
人ありて言う。この学問を完成する為に吾は生くると。果たして然るか。
之らは、自分で産まれてから考え、つくった目的であって、本来あるものに非ず。されど、この目的のうちに種族保存の要求あることは確か也。その要求によって生の目的を樹てたる也、良きこと也。しかし何の為に産れ、何の為に死するか。その要求を知らざる限り、生の目標見定め難き也。
しかも目的なくも、たゞたゞ生ききんと人は努めている也。
人の生きんとするは人にあるに非ず、自然の生、人になり生きる也。
それ故、人に目的なくも生きんとし、産まんとし、人のつくった目的が成就しても尚生きていることあり、目的途中にでも、死する人あり。自然の生の案配、人のつくりし目的によらざる也。
自然、人を通じて生く
生死、命にあり
自然に順(したが)うこと、之生の自然也
人の生くること、生くる為也
その生を十全に発揮し生くること人の目的也
その為、人健康を快とし、いつも快く動く。その動きの鈍れる体を重しとし、その不調の体を自づと調律し、いつも健康への道に動きつづける也。
しかも、死あり快く動きて人は死に至る之自然也、生ありて不快、体ありて動かず之生の自然に非る也。
人の生くる目的、人にあるに非ず。自然にある也、之に順う可し。順う限り、いつも溌剌として快也。
健康への道、工夫によりて在るに非ず。その身の裡の要求に順つて生くるところに在る也。
いつも溌剌と元気に生くるは自然也、人その為に生く。
自然を征服するという人あり。厭やなうちは自然に順つている也。
死ぬまいとし、傷つくまいとしているうちは、自然の要求に動いている也。高い山に登っても、広い海を渡っても、征服に非ず、人工の眼をつくっても、手をつくっても、之征服に非ず、孫悟空の飛んだ釈迦の掌の中のこと也。
自然に生くるとて髯を伸ばし、爪を伸ばし体を洗わず、煮焼きせぬもののみ食している人ある也。之他動物の自然の生き方にして、人の自然に非ず。
その具わる機関を十全にはたらかして生くること自然也。頭あらば頭を使うべし。胃袋あらば胃袋を使うべし。手あらば手を使うべし。胃袋あらば胃袋を使うべし。
人の自然、四つ足で歩くことに非ず、野に伏し、生のものを食べることに非ず。
感じ、考え、手足を使うこと也
笑うも、憎むも、喜怒哀楽するも自然也
火を使い、水を使い、雷を使うは人の智慧也、器物を使い、道具を使い、時を使うは人の智慧也。
そのもつ頭を使い、手を使うは自然也。
人その身を傷つけず、衰えしめず、いつも元気に全生すること人の自然也。全生とはもちたる力を一パイに発揮していつも溌剌と生くること也。
これは私が十七才の時に記した「全生訓」の一節です。
こういうことが、全生の要旨であり、健康に生くることが人間自然順応の姿であるということが、私の感じて来た人間の生き方であり、之だけが、人の生くる目的なのです。十二才の時(関東大震災の年)に気づいてから以来少しも迷いません。四十年、いろいろのことを丁寧に見て来ましたが、このことを少しも変えることなく生きて来ました。安心立命こそ、天の道です。之に至るのも、天の道を大手をふつて歩くだけで良い。工夫し才覚し、頭を熱くしなければ安心立命できないと考えている人もありますが、それは間違いです。反つて、そういうことを抛り出してこの道は開かれるのです。方法も何も要らないのです。しかし、自分の体の動きを鈍くしている人が多いのでその無意運動の訓練方法を教えているのです。之が行われれば、誰も、自づから健康に至るのであります。