活元運動に上手下手はございません。体が鈍っている処を治さなければならないなら余分な運動が出ます。過敏があれば過敏な処が激しく動きますから大きく動きます。けれども、大きく動くべくして動き、動くべからずして動かないのなら別段異常ではない。体の状態の正常な反映として運動があることが良いのです。
そういう意味で敢えて進歩を言うならば、心が天心で、その人の人生観が自然に従って素直に生きてゆくということです。そういう自然の感じ方が身につくか、つかないか、意識的な努力、意識的な気張りでやっているかどうかということが、上手と下手を分けると思うのです。
そういう気張りがだんだん無くなってくると、運動が自然になる。運動の現象が変らなくとも、運動の内容は、その人の心を清めるように動いてゆくと思うのです。つまり上手下手ではなくて、その自然の感じというものが身についたかどうかということの方に問題があると思います。
野口晴哉 「本来の体育 2」より
『月刊全生』平成12年9月号
ともかく、生きているということの自覚のないまま、みんな他人任せで、自分の健康管理まで人のせいだと思い込むような人がたくさんになったのでは、いくら医者を増やしたって足りるわけがない。やはりみんな自分の体は自分で責任を持つことが大事です。自分で管理して自分の体を壊すようなことをしないで、もし壊れても自分の体の力で治っていくようにならなくては駄目だと思うのです。そのためには難しい方法がいるのかというと、そうではない。いろいろな雑念、意識を閉じて、体の自然に任せればいい。意識を閉じて整う。無心になって整う。知識を全部捨ててからっぽにして、生まれたままの心の状態で、ポカンとしていると、ひとりでに整うのです。
・・・自分の体の力を自覚して、自分で自分の体を丈夫にして生きていく決心をして、そしてその方法としては天心、ポカーンとして自分の動きに任せるというだけでいい。寝相を転々とするだけで疲れが抜ける。鼻にゴミが入ればくしゃみが出るし、同じゴミでも目に入れば涙が出るし、喉に入れば咳が出るのですから、そのゴミの性質をいろいろ調べるより、咳がくしゃみが涙がどうやって出るかを調べる方がずっと賢明なのです。健康になるということはそんなに難しいことではないのです。体の要求に任せていればそれでいいのです。もっと人間の体の本来持っている力を自覚するようにしなければいけないのだと考えております。
そういうようなことで、私は活元運動を勧めると同時に、整体のパターンをもっと大勢の人に理解してもらい、そのパターンによって活元運動を行なっていくようにして欲しいと希望しているのです。不思議だと思ってやるのも、効果があったからといってやるのも、もう止めた方がいいと思うのです。たしかに活元運動をやると体が早く丈夫になるし、壊れれば治るけれども、他人が治ったって自分が治るとは限らない。そういうのは盲信というのです。盲信してやっている人がいくら多くなっても、活元運動は本当の力を発揮できない。だから今まではいかに大勢の人に伝えるかということに懸命になっていましたけれども、もうそれをやめて、理解してやる人を多くする。まずやれる人だけやって、それで百年なり百五十年なりたって世界にパターンが広がっていけば、自発的に活元運動をやろうとする人達も出てくると思うのです。ともかく私はそういうように理解する人に活元運動を誘導する、或いは活元運動する方法を教えていきたいと思っています。
野口晴哉 「裡の自然」より
『月刊全生』平成6年5月号