野口晴哉先生語録

活元運動

《1》

  

自覚はちから

 野口晴哉 『風声明語』「人間の裡の自然」より

 活元運動を行なっている人々は、自分の裡にはかりきれない程のちからのあることを自覚します。自覚は又ちからです。

 自分の裡のちからに気づかない人は、少しのことにおびえたり威張ったりして、冷静にものごとの経過を、特に自分のことだと見極められませんが、ちからを自覚した人は自ずと、その時そのように対処する構えをしております。同じ人かと思われる程異なって見えることも少なくありません。

 健康であるということはつくりあげるものではない、自然のことだというような簡単なことでも、生きるちからの自然のはたらきを知り、そのちからがあることを自覚した人でないと、平素はそういっても、イザという時には乱れるものです。自覚ということはちからです。

  


  

野口晴哉 『整体入門』「第3章外路系の訓練」より

 …人間は快い方向に動いていれば健康になるし、健康になればどういうことをやっても快くなる。そして、その快いという方向に逆らわないようにさえしていれば、自然に丈夫になっていく。それを意識で「良薬は口に苦し」というようなことを考えてしまう、それは間違っています。頭を通さないで、意識以前の快さをそのまま感じて、それが行動につながるように生活すれば、人間は自然に丈夫になるのですが、意識が発達しすぎるとそれがむずかしい。

 そこで意識をいったん閉じて活元運動を練習して、そうして自分の体の無意識の運動が活元運動によっていろいろと動けるように訓練されて、自由に動けるようになることが一番望ましい。

  


    

野口晴哉 『整体法の基礎』「第2章活元運動」より

 …人間は裡の要求によって生活し行動しているのです。要求は全て運動系の働きで果たしている。だから人間の体の中の要求を、どんどん運動系に出さなくてはならない。そして要求が素直に現れるようになれば、自然に健康なのです。その運動系と要求の問題を無視して、健康をつくるつもりで、いろいろ細工をしてみても、それは飽くまでも細工にすぎない。丁寧に噛むというのも頭でつくった食べ方です。お腹が空けばガツガツ食べる方がずっと正常です。何時になったから食べるなどというのも、こういう物は栄養があるからと言って食べるのも、頭での食べ方です。その時の自分に適う物を食べなくてはならない。

 体操も、もっと自分に適うようにやらなくてはならないのです。活元運動は、自分にだけ適う運動をやります。そういう面で活元運動は、既成の体操に比べて、自分の体の要求を果たすとか、自分の体の要求によって動くとか、自分の体力を積極的に発揮するとか、調節するとかいう目的にみんな適っている。だから、健康のため、あるいは体の自然のための運動としてやるならば、まず活元運動を採るべきだ、と言い切っても言い過ぎとは思わないし、誰もが活元運動をやるべきだと思うのです。