「目的論」としての野口整体の思想 V1

   

二 師野口晴哉の「目的論」的無意識観
      
― 体の変動を経過することで体の力を自覚させる ―

〈その2〉

会報N0.48、49より編集

野口晴哉
『月刊全生』昭和44年5月号
同年3月28日 於倉敷 初等講習会記録
整体指導の目的(2頁)

※2と9の小見出しは原文にはなく、
 筆者が付けた見出しです。

 7 体の要求を全うする

 我々の体には、自分の生命を保つ機構を備えている。自分でその力を発揮して環境に適応し、その変化に対処してゆくようにできている。(中略)
 例えば妊娠すると関節炎が治り、マラリアになると梅毒が治るというように、他の病気を治す為に体が変動を作っていることもある。体にそういう経絡
(けいらく)があるのかもしれない。風邪を引いて熱が出れば、慌てて下げる工夫をするけれども、それも、体に熱を出す必要があって熱を出しているのかもしれない。
 そういう体全体の関連性、必要性を体は知っている、しかし我々はまだ知らない、そういうことは多いのではあるまいか。病気になれば治すということしか考えないが、治すというよりは、体が要求している、その経過というものを全うすることの方に、却って意義があるのではないだろうか。

 8 錐体外路系運動が体を守っている

 頭が知らないことを体が知っていることは沢山にあるのです。赤ん坊が白いお乳を飲んで黄色い大便にしたり、赤い血にしたりするという手品のようなことは、大人でもその理屈を知らない。判れば自然の物と同じ人工の血液など易々(やすやす)とできるのでしょうが、それすらできない。代用品でしかない。またそのお乳の中に脚気の毒素などあると吐いてしまうけれども、赤ん坊のどこにそんな分析器があるのだろうか。吐かないで中毒したらその子供の体の機能は鈍っていたと言える。大人の知識で考えて、お乳を吐いたから「サア病気だ、大変だ」と騒ぐなどおかしいですね。
 そういうように人間が生きているということは、殆んど意識しない動きによって行われているのです。目にゴミが入ったと慌てているうちに涙が出てきてゴミを押し流してくれる、鼻にゴミが入ると鼻汁が多くなったりクシャミが出たりして出してしまう。というように、人間の体の中にある健康を保とうとする働きは、頭で知っていないのに、自然にやってゆくのです。意識してやる運動でなくて、意識しない運動で行われている。
 我々の普段の運動は、意識して行う錐体路の運動と、錐体路以外の働きで無意識に動いてしまう運動との重なりです。人の話を聞いていても、頭を上げている人もあれば、下げている人もあるというように、無意識に、話を聴くのに都合の良い態勢をとっている。そういう聴き易い態勢といっても、意識が知っている訳ではない。まばたきやクシャミと同じような無意識の運動が行われているのです。ちょうど受胎すると同時に体がお乳の用意をするような、意識しない運動は沢山にある。実際、まだ生命ということは医学の中でなく哲学の中にあるのです。生命ということは全然判っていない。それなのに女の人は意識しないまま、お皿を洗ったりしながら一人丸ごと作ってしまうのです。医学では出来ないことを易々とやっている。そうしたら生命の事は知識にはない、体の中の外路系という、無意識の動きの中にあるのだと言えるだろうと思うのです。
 けれどもいろいろな健康法や衛生法は皆、環境の改善というようなこと、せいぜい意識運動でどうこう・・・・・・という段階に止まって、一番大切な、生命の基になる外路系運動の研究がなされていない。
 意識しない動きの世界というものは、まったく未開拓のままで放り出されているというのが現状です。フロイト流の深層心理の分析ということがせいぜいで、それ以来何も開拓されていない。つまり無意識の問題はまだ放り出されたままだということです。わずかに反射運動という言葉で、こういう運動があるのだと言われているだけで、それをどのように健康維持に役立てるかということの研究は全くと言っていいほど行われていないのです。

  

金井 「体は知っている」という「体」は、外路系・無意識というのと同じです。環境の改善や意識運動という、「意識」の世界に留まっていたのが、従来の科学的医学観というものです。

  

 9 身体感覚と生命の働き

 では整体とはどういうことを言うのかというと、外路系運動が敏感にキチンと行われるような体をいうのです。風邪を引かないことでもなく、下痢をしないことでもなく、異常があればすぐにそれを感じ、感じると同時にその異常を調節する働きが起こるような、刺戟に敏感に反応する体を整体というのです。異常があっても感じない、実際に毀れているのに感じない、毀れているのにその徴候も出ていないというような鈍い体は整体とはいえない。(中略)

  

金井 師は「体でも、心でも、異常を感ずれば治るのです」と言われています。
 敏感な状態とは、「凝り」や「痛み」をきちんと感じられることです。身体感覚が自分を守っているのです。硬張っていたり、鈍い状態では、個人指導でスパっと背骨が通る(統一体になる・正坐がきちんとできる)ということは期待できず、敏感な状態に進むことで、眼が輝くような整った状態になることもできるのです。

  

 10 体の力を自覚する

 健康を保とうとして体は悪い物を吐いているのです。意識ではない、本能なのです。本能だから、赤ん坊でもやっているのです。ところが赤ん坊は吐いた後サッパリしているのに、大人が吐くと、胃袋を毀したと言って慌てて苦い薬など飲んで、蒼い顔をして寝込んでしまう。体が丈夫さを発揮したのに、そうは考えないで、吐かない胃袋の方が丈夫だと一途(いちず)に思い込んでいる。食べた物の中には悪い物が混っていることもある。それで吐きもしないで中毒したとなったら、全く馬鹿な胃袋だとは思いませんか。それなのに吐いた胃袋を責めているのですよ。そういう働きが行われているのに、それをどのように自覚するかということで決まってくる面は多い。(中略)
 病気もすべて外路系運動の働きでするのだから、生きている証拠であり、生きようという要求の現れなのです。そうですね、死んだ人は熱も出さなければ苦しみもしない。だから我々が生きているということを、どういう角度で自覚するか、生きている働き、その現れとしての体の異常をどう自覚するかという事に、問題は帰ってゆくと思うのです。
 例えば汗をかいたとします。それは体温が調節されたことを示している、つまり体を動かせば体温が高まり、それを体が調節した・・・・・・と考えるならばいい。けれどもそうは思わないで、こんなに汗をかいたら体が疲れると思う人もあり、風邪を引いてしまうと思う人もある。風邪を引いたら困るとすぐに風邪薬を飲んだりしたらおかしなことです。おかしなことで済んでいるうちはまだいいが、その繰り返しが体の調節作用のアンバランスを来し、体を毀
(こわ)すことにつながってゆくということを考えねばならない。
 また欠伸やクシャミも外路系運動ですが、そう自覚していれば、欠伸が出る毎に自分の体の中にある衛生の力を感じ得る訳です。ところが衛生というとすぐに環境を開拓することや、意識的に何かをどうこうすることだけ考えて、自然に起こる無意識の運動というものを無視している。病気になる意味、また病気を経過する意味というものをまるで考えないで、昔からの、病気は苦しいものだ、だから治す方法を講じるということをそのまま踏襲
(とうしゅう)しているだけで、病気を経過するということが体にとってどういうものであるか、それによって体がどう変わってゆくか、外路系のどういう部分の訓練が行われるか・・・・・・ということを考えていない。
病気だって無意味でない筈なのです。蚕
(かいこ)が繭(まゆ)に入ったのを病気だと思って、早く解剖して自由にしてやらなくてはならないと考えて袋を開けて出してやっていたら、蚕は死んでしまうでしょう。毛虫だって蝶々になれないでしょう。それと同じで人間でも、病気になったら何が何でも治さねばならないと思ってやっていたら、体は次に飛躍する機会を失ってしまうかもしれない。
 本当に、変に病気を治すようなことをしなかったら、背中に羽が生えて、空を飛びまわれるようになるかもしれませんよね。蝶々だってそうでしょう、蛹
(さなぎ)になったのを、かわいそうに、こんな固い殻の中では呼吸もできないだろうなどと、それから出してやっていたら、いつまでたっても毛虫は蝶々になれない。この辺で我々ももっと、人間の体を通して、病気をやるという意味を研究しなおさなければならない。
 確かに医学は進み、知識も豊富になりました。けれども体を健康に保つという実際面では、まだまだ知識は無力です。それもそうですね、錐体路系に関する知識では錐体外路系の働きは判らない。やはり本能であり、本能を敏感にする為には外路系運動の訓練をしなければならない。そして硬張りのない、伸び縮みの自由な体を保っていかなくてはならない。
そういうことを自覚しないままに、病気は治せばいい、熱が出たら冷やせばいい、歯が痛ければ痛みを止めたらいいという考え方だけだったら、いつまでも人間の本当の力は発揮されない。

 11 整体指導とは・・・・・・

 我々は整体指導をするということを通して、体の持っている働きを自覚させ、外路系運動の意味を自覚させねばならないのです。病気を治すということでなく、病気は経過するものだという自覚をさせ、そういう自分の持っている能力を自覚させるのです。我々は、普段気がつかなかったという意味で潜在体力という言葉を使っていますが、潜在しているとは考えない、誰でも普段に使っている体力を自覚させる。その体の意味をはっきり自覚させて、自分の体を良くする為にはどうしたら良いかということを自分で考えて、自分で自分の体の力を発揮するように、そういう機会を通して指導してゆくのが整体指導ということです。だから病気を治すことでもなければ、健康を教えることでもないのです。整体の角度からその人の持っている力や、それが働いている意味を自覚させる、その自覚ということが一番大事な問題なのです。自覚しなければ持っている力も働けないのですから・・・・・・。
 人間は、自分の生命を完全に生ききろうとする力を持っている。知識がなくとも、ちゃんと味わえば必要な物は旨い、必要のない物は旨くない。必要なことは快い、必要でないことは嫌な感じがする、体に悪いことは触りたくもないような感じがする、というように、すべて体の感じで決めてゆけばいいのですが、この簡単なことが難かしい人がある。外路系運動が鈍感だからですが、そういう意味で、外路系運動の訓練と共に、その人の持っている力を自覚させる、その体の現象を整体という角度から自覚させるということが大切になる。

  

金井 科学の切り捨てた「感情」と「感覚」は、野口整体のキーワードの中でも、より重要なものです。

  

 病気になるまい、なるまいとすることで病気になる機会が多くなり、治そう、治そうとすることで治らないということがある。そして余計に病気が苦しくなる。ひいてはそういう考えが病気を苦にする基になっていたともいえる。汗をかいたり、屁をしたりするのと同じように、熱を出したり、小便の中にいろいろの物を出したりするのだとは考えられないだろうか。そういう事自体が体の健康法であると自覚した時に、全ての病気はなくなると私は思っています。

  

金井 湯浅泰雄氏は『宗教経験と身体』(岩波書店 1997年)の中で、哲学的問題として、近代科学全盛後の21世紀という時代に、機械論によって駆逐された「目的論の復活」を提唱し、次のように述べています。

  

 6 科学と倫理

 以上はやや駆け足の説明になったが、くわしいことは将来の機会にゆずりたい。筆者が共時性の考え方を重視するのは、それが、科学の全体としてのあり方と世界における人間の生き方の関係について、次の時代における新しい方向を示しているように思われるからである。最後に、一つの哲学的問題をあげておきたい。それは目的論の復活という問題である。

目的論と科学

 われわれは、事実の意味を知ろうとするとき、「なぜ(Why?)」と問う。この問いは、次の二つの場合に分けられる。第一は、事実が「どのように」あるか(How?)という意味の問いである。これは因果性にもとづいて事実を観察する態度である。科学はそこに成り立つ。第二は、事実は「何のために」存在しているのか、と問う立場である。これは、昔から目的論(tereology)とよばれてきた見方である。
 時間論の観点から言うと、因果性の立場は、過去の事実の観察と蓄積にもとづいて現在の状態を理解する見地に立っている。未来はそれによって予測される。これに対して目的論の立場は、まず未来を考え、それにもとづいて現在の状況の意味を知ろうとする。これは、人間と生命体が生きるために行動するようにつくられているところから生まれてきた態度である。生命体には何かの目標に向かって行動するという、物質にはない特徴がそなわっている。事実のもつ「意味」を判断するに当って、因果性は過去から現在をみる視点に立ち、目的論は未来から現在をみると言ってよいだろう。
 常識の立場では、目的論は生命体の構造と結びつけて語られる。「キリンの首はなぜ長い?」「高いところの木の葉を食べるためだ」というような説明である。しかし因果性を基本にして考える近代科学の立場では、事実が何のために存在しているのかという問いは無意味である。科学はただ、キリンの首が長いという事実を観察し記述するだけである。しかし目的論の考え方は、心(意識―無意識)の問題から出発することによって、新しい意義を帯びてくるだろう。時間論の観点から言うと、フロイトは、無意識とは過去の経験が蓄積された場所であり、意識の現在はその上に存在していると考えた。これに対してユングは、無意識の深い部分には未来を直観するはたらきが潜在している、と考えた。そういう観点からみると、夢や神経症は、無意識が意識に対して発している警戒信号という意味をもってくる。「そういう生き方をしていると、あなたの未来によくない」と無意識が教えるのである。こういう心の作用を補償と言うが、これは意識の作用の偏りを補うということである。予知夢のような超常的性質をもった現象は、このことを示している。言いかえれば、無意識は、心身を正しい方向へと向かわせる心的な自然治癒力を蔵しているのである。古人はそれを「生命の気を知る」とよんできたのである。このような観点からみるとき、自然は生きた生命の場としてとらえられるだろう。

  

《おわり》