7 体の要求を全うする
我々の体には、自分の生命を保つ機構を備えている。自分でその力を発揮して環境に適応し、その変化に対処してゆくようにできている。(中略)
例えば妊娠すると関節炎が治り、マラリアになると梅毒が治るというように、他の病気を治す為に体が変動を作っていることもある。体にそういう経絡(けいらく)があるのかもしれない。風邪を引いて熱が出れば、慌てて下げる工夫をするけれども、それも、体に熱を出す必要があって熱を出しているのかもしれない。
そういう体全体の関連性、必要性を体は知っている、しかし我々はまだ知らない、そういうことは多いのではあるまいか。病気になれば治すということしか考えないが、治すというよりは、体が要求している、その経過というものを全うすることの方に、却って意義があるのではないだろうか。
8 錐体外路系運動が体を守っている
頭が知らないことを体が知っていることは沢山にあるのです。赤ん坊が白いお乳を飲んで黄色い大便にしたり、赤い血にしたりするという手品のようなことは、大人でもその理屈を知らない。判れば自然の物と同じ人工の血液など易々(やすやす)とできるのでしょうが、それすらできない。代用品でしかない。またそのお乳の中に脚気の毒素などあると吐いてしまうけれども、赤ん坊のどこにそんな分析器があるのだろうか。吐かないで中毒したらその子供の体の機能は鈍っていたと言える。大人の知識で考えて、お乳を吐いたから「サア病気だ、大変だ」と騒ぐなどおかしいですね。
そういうように人間が生きているということは、殆んど意識しない動きによって行われているのです。目にゴミが入ったと慌てているうちに涙が出てきてゴミを押し流してくれる、鼻にゴミが入ると鼻汁が多くなったりクシャミが出たりして出してしまう。というように、人間の体の中にある健康を保とうとする働きは、頭で知っていないのに、自然にやってゆくのです。意識してやる運動でなくて、意識しない運動で行われている。
我々の普段の運動は、意識して行う錐体路の運動と、錐体路以外の働きで無意識に動いてしまう運動との重なりです。人の話を聞いていても、頭を上げている人もあれば、下げている人もあるというように、無意識に、話を聴くのに都合の良い態勢をとっている。そういう聴き易い態勢といっても、意識が知っている訳ではない。まばたきやクシャミと同じような無意識の運動が行われているのです。ちょうど受胎すると同時に体がお乳の用意をするような、意識しない運動は沢山にある。実際、まだ生命ということは医学の中でなく哲学の中にあるのです。生命ということは全然判っていない。それなのに女の人は意識しないまま、お皿を洗ったりしながら一人丸ごと作ってしまうのです。医学では出来ないことを易々とやっている。そうしたら生命の事は知識にはない、体の中の外路系という、無意識の動きの中にあるのだと言えるだろうと思うのです。
けれどもいろいろな健康法や衛生法は皆、環境の改善というようなこと、せいぜい意識運動でどうこう・・・・・・という段階に止まって、一番大切な、生命の基になる外路系運動の研究がなされていない。
意識しない動きの世界というものは、まったく未開拓のままで放り出されているというのが現状です。フロイト流の深層心理の分析ということがせいぜいで、それ以来何も開拓されていない。つまり無意識の問題はまだ放り出されたままだということです。わずかに反射運動という言葉で、こういう運動があるのだと言われているだけで、それをどのように健康維持に役立てるかということの研究は全くと言っていいほど行われていないのです。