一 目的論的生命観とは 《二 師野口晴哉の「目的論」的無意識観 その1》 二 その2

  

「目的論」としての野口整体の思想 V1

   

二 師野口晴哉の「目的論」的無意識観
      
― 体の変動を経過することで体の力を自覚させる ―

〈その1〉

金井 それでは、昭和44年3月倉敷での初等講習会記録『整体指導の目的』を基軸として、野口整体の「無意識」観をユング心理学のそれと合わせ、この両者の生命観が「目的論」であったことを紹介します。

会報N0.48、49より編集

野口晴哉
『月刊全生』昭和44年5月号
同年3月28日 於倉敷 初等講習会記録
整体指導の目的(2頁)

※2と9の小見出しは原文にはなく、
 筆者が付けた見出しです。

 今日は整体指導についての、ごく初歩の問題を説明したいと思います。まず、整体とはどういうことかという問題から入るべきでしょうね。

 1 整体は無病ということではない

 普通、体が整っているということを健康ということと結びつけて考えています。確かにこれは間違いないのですが、では健康とはどういうことかというと、それを無病ということと結びつけている人がいる。その為に、「病気になったら、もう健康でなくなった」と思う人が沢山いるのです。
 ところが整体という観点からすれば、病気があるということは整体であることと矛盾しない。たとえ病気になっても整体は整体なのです。というのは何故かというと、悪い物を食べて吐いたとか、下痢をしたとか云っても、それは胃袋に、そういう悪い物に対して正当防衛をする力があったということであり、胃袋は丈夫だった、腸は正常だったと云うべきですから……。それを吐いたから病気になったとか、お腹を毀したとか言って騒いでいる。ちょっとおかしいですね。バイ菌が入ってくれば熱が出、喉にゴミがひっかかれば咳が出るが、それらも皆、体の機能が正常に発揮されたからであって、体がまともだったらそうなるべきなのです。細菌類は三十六度五分だと急速に繁殖する、しかし熱が四十度も出ると、それっきり繁殖できなくて消滅してしまうのだから、体はバイ菌が繁殖しにくい状態を素早く作ろうとして熱を出すのです。
 また太陽光線は長い間、万物を育てる力があると考えられてきましたが、六十年位前から、太陽光線の中でも紫外線は、過剰に与えると害があることが判ってきて、紫外線を防ぐにはどうしたらいいかということが問題になった。黒い物質で被えば紫外線が入ってこないということが発見されたのはそれからのことですが、人間はこの世に生れた頃から、強い日光を浴びれば色が黒くなってきたのです。

  

金井 「ごく初歩の問題を説明」と始まっていますが、師は野口整体の重要な基盤を話しているのです。ここには、「目的論」――「その現象は個体の生命にとって一定の意味価値がある(湯浅泰雄『「気」とは何か』)―― としての思想が展開されています。
 これまで私たちは、病症について、西洋医学の「正常と異常」という二分法的な見方に慣らされて来ました。症状が無いのが正常で、あるのが異常という「病症観」により、病症(異常)を経過するというのでなく、薬物により病症(異常)を止めてしまう=無くなった、として、これで「健康」を取り戻したと考えるようになりました。
 そうして、人工的な手段がどんどん発達してきましたが、果たして「病気」は増え、「病人」も増え続けています。最近では、医師の中には、根本的に何かが間違っている、と感じている人も多くなっていることと思います。
 西洋においても近代以前までは、アリストテレス
(古代ギリシアの哲学者)以来の「目的論」的生命観が支配的でしたが、師はこの『整体指導の目的』で、「目的論」の日本版である「養生・身(み)(註)」という、江戸時代以来の伝統的な考え方に基づいた「目的論的生命観」の純粋結晶とも言える思想を展開しています。
 ここには、生命に対する信頼があります。正常も異常も、健康も病症も分けることのできない統一である、という野口整体は徹底した肯定性の生命哲学なのです。

(註)(み) ・・・ 日本人は、体と心を分けない伝統的な考え方で、江戸時代以来「身をたもつ」ということばで、養生の心を受け継いで来ていました。

  

 2 人間に無病の病気あり、健康の病気も亦あり

 人間の生きるという要求を果す為に、体は万全といえないにしても、最善の方法、手段を講ずる力を発揮してきた。だから丁寧に人間の体の変化を見てゆくと、病気だと思われているものの中に、たくさん整体の現象があることが判る。病気になるとすぐに整体でなくなったと考えることも、健康でなくなったと思うのも、我々の錯覚にすぎないということです。
 けれどもその逆に、病気にならないのに整体でない人もあるのです。脳溢血を起こす人や、心筋梗塞を起こす人は、その一瞬前までは丈夫のつもりでいて、突然ガタッと死んでしまう。肝硬変でも癌でも白血病でも皆、自覚症状がないし、病気としての徴候も明瞭でない。いつの間にか進行していて、見つかった頃にはガタッと倒れてしまうけれども、そういう状態は決して健康な状態とは言えない。強いて言うなら無病の病気、すなわち無病病とでも言うべきでしょう。
 よく「俺は風邪ひとつ引かないほど健康だ」と威張る人がいます。確かに癌や脳溢血や肝硬変などになる人の体をよく観ていると、皆そうなる前に、風邪を引かなくなっているが、風邪を引いたり、下痢をしたりして、ちょこちょこ変動を起こしている間はむしろ安全と言える。子供のかかる疫痢
(えきり)の様な激しい病気でも、普段ちょいちょい下痢をしている子供はならないで、下痢などさせない様にと注意して育てている子供に限って、突然、重い病気にかかってしまう。また十年に一度とか、二十年に一度とかに、大病を患うというようなのも、そうなる前までは皆、異常を感じないで、俺は風邪も引かないと威張っている。そういう人がガタンとなると、途端に惨めになるのですが・・・・・・。
 そういう場合には、たとえその前に病気がない状態が続いていたとしても、それを「病気でない」と明瞭に言い切れるだろうか。そういう無病病状態も、やはり無病の病気と見なすべきではないだろうか・・・・・・と考えるのです。
 このように「人間に無病の病気あり、健康の病気も亦あり」ということであれば、病気の有無でもって健康であるか否かという基準にするということはおかしいということになりますね。

  

金井 鼻水を出したり下痢をしたり、また時に咳をしたり、ということで、実は健康が保たれているということをしっかり理解すべきだと思います。これには、知識だけによる理解でなく、症状前後の「身体感覚」を、丁寧に感じることが必要です。体の変化が起きていても自覚できない、ということは身体感覚が働いていないのです。
 気を集めることで感覚は高まります。落ち着いて、身体感覚を敏感にし、身体で理解することです。症状は、体の、状況や季節への適応のため、また、そうして恒常性を維持しようとするものである、という「体験」を通じた理解が必要なのです。

  

 3 余分な知識が病気を作る

 整体でない人達の中には、病気がないのに病気になっている人もあるのです。また血圧が上がったらどうしよう、またお腹を毀したらどうしよう、また熱が出たらどうしようと言っては、それに対する用心を重ねる。健康でありながら、病気になりはしないか、また毀れはしないかという予防病とでもいうような状態を呈している。いや、血圧が上がりはしないかという心配だけで、結構一人前の病人の顔をしているのです。
 最近多くなった糖尿病などはもっとひどい結果になる。人間の体には、体内の栄養が過剰になると、過剰分の栄養を捨てる働きがあるのです。体に必要でない程、栄養が体に溜まっていると毒素になるので過剰な栄養を捨てる、そういうのが健康な体である。その為に過剰な栄養を吸収する働きを止めてしまうのが、正常な体が最初にとる態度です。そういう過剰栄養は尿に糖分として出たり、蛋白として出たりする。今の人は栄養があるとなれば何でも口に入れるでしょ、栄養のない物とある物を並べて出したら必ず栄養価の高い物を食べるのです。自分の体が今、栄養を必要としているか否かに拘らずにです。
 けれども、年を取ると、若い人と違って、次代を作る働きを持たなくなる。そうなると特に、そういう余分な栄養の吐け口がなくなる。それなのに尚セッセと食べる。その結果、尿から糖が出たり、蛋白が出たりするが、そういう場合も病気だと言って、蛋白を出さない、糖を出さない工夫ばかりしている。
 自分が余分に食べているのではないか、ということなど考えもしないで、体が悪いからだと思っていろいろな細工を加える。体にしてみれば、とんだ迷惑です。余分な物を食べるのを止(よ)してくれればいいのに、それをしないで糖や蛋白を出さない工夫ばかりして、せっかく余分な栄養を排泄するようにインシュリンの分泌を控えた体に対して、外からどんどんインシュリンを注ぎこむ。そうすると体はいよいよインシュリンの分泌を抑えねばならなくなる。
 そうしているうちに体の中のインシュリンを分泌する機構が怠けて、錆つき、いよいよ明瞭に糖尿病の体になってしまうのです。
けれどもそれは、余分なことをした結果です。もう少し自分の体の持っている働きというものを知って、それによって生活してゆくことを考えるならば、体はあまり毀れないで済むのですが、そういう無理解な体の持主が実に多いので困るのです。

   

金井 戦中戦後の「飢餓」の経験と、戦後の栄養学 ―― アメリカの農産物の攻撃的輸出政策による策略 ―― による影響で、日本人は何でも「栄養がある」と聞くと、口に入れるようになりました。
 『伝統食の復権
(島田彰夫 東洋経済新報社 2000年)には、「高脂肪・高タンパクを説くドイツ栄養学を無批判に受け入れた明治日本。戦後は、アメリカの食糧戦略に基づいた食生活改善運動により、伝統的な食文化は否定され破壊された。高度経済成長の影響もあり、今や日本は "飽食の時代" を迎えている。」と述べられています。
 また「野口体操」の野口三千三氏は、極貧の中で育ちながら「自分はこんなに丈夫だから、今の栄養学は信じない」と、戦後の栄養学に反論されていました。戦前・戦中に国から教えられていたこと
(軍国主義教育)にも、強い反発を持ち、自分で考えることの必要性を強調したのが、氏の活動 ― 戦後の「野口体操」の発案と普及 ― でした。「脱力」、「自分で考える」という点で、野口整体の思想と共通しています。この共通基盤には「身体」があったのです。

  

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