(202頁)目的論teleologyというのは、簡単にいえば、すべての現象は何らかの目的のために存在する、という考え方である。このような考え方は、近代以前の生物学の歴史によくみられたもので、歴史的にはアリストテレスのいう「目的因」の考えにまでさかのぼる。彼は生物学に造詣(ぞうけい)が深かったところからこのような考えにみちびかれたものであろうが、生命体の性質や構造はすべて一定の目的を実現するように造られている、とみることができる。たとえば、肺は呼吸するという目的のための手段である。目的があるということは、一般的にいえば、その現象は個体の生命にとって一定の意味や価値があるということである。(中略)こういう考え方(目的論)は、常識の世界では今でも生きている。しかし、近代科学が発展するにつれて、目的論は科学の世界から次第に追放されるにいたった。近代科学の歴史は天文学や物理学のような物質現象を支配する因果関係の探求から始まったから、生きるための目的とか意味といった事柄は考慮の対象にならなかった。そこでは、事実がそのようにあるということだけが問題なのである。このような考え方を生命現象にまで適用するとすれば、生物学も医学も科学である限り、感覚(註)的に認識可能な事実の中に見出される因果関係を明らかにすることだけを任務とすべきである、ということになる。
19世紀の生物学には、生命体に特有の力が存在することを認める生気論 vitalismのような考えもあったが、今世紀には否定されてしまった。生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない。近代科学はこのように目的論を否定する考え方を前提しているのであるから、当然のことながら、人間の生そのものについても、何の意味も価値も認めることはできない。科学の立場から見れば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。無論、個々の科学者 ―― たぶんその中の多くの人たち ―― は人生の意味とか価値とかを認めているであろうが、近代科学は、科学の立場としてそれを認めることは決してできないのである。
ユングの考えるところでは、無意識の世界には目的論的なはたらきが潜在している。医療の場では、それは自然治癒力のような形であらわれる力である。分析家や医師は、その力が患者の内部からはたらき出すように手助けをするだけであって、自分の力で治療するわけではない。医術は機械を組み立てて動かすこととはちがうのである。