《一 目的論的生命観とは》 二 師野口晴哉の「目的論」的無意識観 その1 二 その2

  

「目的論」としての野口整体の思想 V1

 野口整体 身体文化教育         
気・自然健康保持会 主宰    
金井 省蒼

2011年6月21日

(2011年6月21日 V1)
  

一 目的論的生命観とは  

金井 近代科学発展以前の西洋における生命観は目的論というもので、これは、アリストテレス(古代ギリシアの哲学者)以来中世までの西洋における支配的な世界観でもありました。
 湯浅泰雄氏は「近代科学」と「目的論」について次のように述べています。

湯浅泰雄
『「気」とは何か』人体が発するエネルギー
NHK出版 1991年

目的論と科学

(202頁)目的論teleologyというのは、簡単にいえば、すべての現象は何らかの目的のために存在する、という考え方である。このような考え方は、近代以前の生物学の歴史によくみられたもので、歴史的にはアリストテレスのいう「目的因」の考えにまでさかのぼる。彼は生物学に造詣(ぞうけい)が深かったところからこのような考えにみちびかれたものであろうが、生命体の性質や構造はすべて一定の目的を実現するように造られている、とみることができる。たとえば、肺は呼吸するという目的のための手段である。目的があるということは、一般的にいえば、その現象は個体の生命にとって一定の意味価値があるということである。(中略)こういう考え方(目的論)は、常識の世界では今でも生きている。しかし、近代科学が発展するにつれて、目的論は科学の世界から次第に追放されるにいたった。近代科学の歴史は天文学や物理学のような物質現象を支配する因果関係の探求から始まったから、生きるための目的とか意味といった事柄は考慮の対象にならなかった。そこでは、事実がそのようにあるということだけが問題なのである。このような考え方を生命現象にまで適用するとすれば、生物学も医学も科学である限り、感覚(註)的に認識可能な事実の中に見出される因果関係を明らかにすることだけを任務とすべきである、ということになる。

(註)ここで言う感覚は単なる五感というものです。

 19世紀の生物学には、生命体に特有の力が存在することを認める生気論 vitalismのような考えもあったが、今世紀には否定されてしまった。生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない。近代科学はこのように目的論を否定する考え方を前提しているのであるから、当然のことながら、人間の生そのものについても、何の意味も価値も認めることはできない。科学の立場から見れば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。無論、個々の科学者 ―― たぶんその中の多くの人たち ―― は人生の意味とか価値とかを認めているであろうが、近代科学は、科学の立場としてそれを認めることは決してできないのである。
 ユングの考えるところでは、無意識の世界には目的論的なはたらきが潜在している。医療の場では、それは自然治癒力のような形であらわれる力である。分析家や医師は、その力が患者の内部からはたらき出すように手助けをするだけであって、自分の力で治療するわけではない。医術は機械を組み立てて動かすこととはちがうのである。

   

金井 野口晴哉、ユング、中村天風の三人は、科学的軍事力を背景にした近代化に世界が邁進していた二十世紀初頭、機械論によって生命本来の働きが見えなくなり、人間が根を断ち切られることによる問題を目の当たりにしました。そしていかに生命を理解し、活かすかという道筋を模索したのです。この三人に共通する生命観が目的論でした。
 これは、生かされてある命の働きの上に自分があり、自分の意識もあるという、生命・無意識を尊重した生命観です。しかし、近代科学の発展とともに、意識的に管理されることによって動いている体、という機械論的な生命観が一般的となったのです。
 ここでは、生命そのものが持つ自律性、方向性というものは認められませんが、ユングは、病症
(コンプレックス)は、その人の生命が生き方の軌道修正を図ろうとする働きであり、自我にそれを気づかせようとしている、と目的論的に理解することで、無意識を捉えようとしたのです。
 物の世界の原理ではなく、生命(無意識)の世界の原理として「目的論」を復活させたのがユングであり、これは東洋宗教と共通する観方なのです。野口晴哉、中村天風の両師は東洋人であるために、「目的論」という言葉は用いていませんが、ここに、この三人が説く生命哲学の核心があるのです。

  

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