「活元運動」とは?

  

■活元運動は体の中にある自然の健康法

「野口整体 気・自然健康保持会」では、より多くの方に「活元運動」を実践していただくよう、毎月各地(東京、鎌倉、熱海、静岡)で「活元指導の会」を開いています。

2005年1月11日の朝日新聞朝刊に、野口晴哉先生の活元運動を紹介する記事が掲載されました。「活元運動」という言葉がメジャーな新聞に載ること自体大変な驚きでした。今まさに、活元運動が広く求められ始めていることを感じます。
以下は記事の抜粋です。

 

「活元運動」で体整え

 東京都世田谷区の主婦宮坂行子さん(67)は、活元運動を実践して36年になる。当時、子どもが通っていた保育園の園長先生から晴哉氏のことを聞いたのがきっかけだった。
 「寝相のようなもの」。活元運動はそう説明される。人間は寝ている間もさまざまな姿勢をとり、体をほぐそうとする。起きている間も体を伸ばしたり、足を組み替えしたりして疲労の発散を試みる。こうした「自分の体を整える」動きを、みぞおちを緩めるなど簡単な動きで活性化するのが活元運動だ。
 体のこわばりは一人ひとり違うから、それをほぐす動きも異なる。宮坂さんが初めて「活元運動の会」に参加した時も、踊るように動く人や、手で畳をたたく人などさまざまだった。宮坂さんも準備運動をすると、手足を思い切り伸ばせるような気持ちになり、自然に動き出した。大量の汗をかいたが、不思議と呼吸は乱れなかった。帰り道の桜が、来る時と同じ花とは思えないほど色鮮やかに見えたという。
 
調整力高まる

 晴哉氏は戦前「天才的な治療家」として知られたが、戦後は「ふつうの人が自力で健康になるための技術」としての整体法の普及に専念した。
 「患者が治療者に身体を治してもらう」という発想とは異なり、「人間が本来持っている、自分の身体を整えて元気になる力を発揮させる」ことを目指した。活元運動はそのための基礎的な体操と位置づけられている。
 多くの身体を観察した晴哉氏は「風邪など多くの病気は一見『体を蝕む悪』に見えるが、長い目で見れば、より健康になるためのひとつの過程」と考え、「病気を自然に経過させる」ことを重視。「活元運動で体を整えれば、風邪をひいてもすぐに経過するし、悪い物を食べても吐き出してしまうなど、体の調整機能が高まる」という。
 宮坂さんも、活元運動を続けるうちに自分の体がよく理解できるようになり、風邪や下痢の時も、どんなパターンで終わるかが経験で分かった。「ひとに無理に勧めるつもりはないが、私には『これでよかった』と心から思える」と話す。
 整体法にくわしい昭和大医学部の安本和正教授(麻酔科学)は「例えばがんを切除しても、その背景にある本人の体質まで改善されたわけではない。晴哉氏はそうした面に着目し、実践的で的確な身体観をつくりあげた」と、指摘する。
 晴哉氏は76年、64歳で亡くなった。著書「整体入門」「風邪の効用」(ちくま文庫)は02年〜03年に復刊されて計27万部を売り上げ、現在も版を重ねる。同様の書籍としては記録的で「時代がようやく晴哉氏に追いついてきた」と担当編集者。

(2005年1月11日 朝日新聞朝刊より)

活元運動」は元々「霊動法」と呼ばれ、古神道に伝わる行法でした。それを野口先生が宗教的な要素を取り払い、「体の中にある自然の健康法」として提唱されました。
次のような文章があります。

   

 野口晴哉 (『月刊全生』平成十二年八月号「本来の体育」より)

 昔の人はそれに怒るとか、泣くとか、騒ぐとか、声を出すとか、今我々が感情の動作だと思っているようなものも一緒にやっていたに違いない。振り御魂などという神道の行事がありますが、体中を揺すぶる、ダンスとかいうようなものは世界中にあって、それらはやはり体の活元運動的な要求で動くというその当人に合うような体育として行なわれていたのだと思うのです。体だけでなく、もっと全身的な運動だったに相違ない。だから古代の体を丈夫にするとか、体を清めるとかいう方法は、みな体を揺すぶって元気を出していた。穢れるというのは気が枯れるということで、活発に動き、気を清めれば元気になると考え、ダンスや何かのように元気に振る舞ったのだろうと思うのです。だから今の体育よりはもっと全身で揺すぶっていただろうと思う。

 活元運動にもしばしばそういう動作が表われるのです。わいわい泣いたら喘息がなくなってしまったという人もおりました。「泣きだめして喘息になっていたんだ」などと笑ったのですけれども、その人は子供の時から泣けなかったのだそうです。ともかく、泣いたり怒ったりすることもきっとそういう健康につながる動きなのです。だから活元運動の中にそういうものが出てくるように、昔の健康法はそういうものであったのであろうと思います。あまり知識で物事を考えすぎて、そして体の中にある自然の健康法というものを忘れてしまって、頭の中で健康を作ろうと思っていろいろな動作を工夫しだしたのですけれども、結局そういうことで体育としての体操は却って退歩してしまった。健康のために体操をするなどということは人間が知識でいろいろと考え出すずっと前からやっていたことなのです。

 

■心と体の解放感

活元運動は欠伸や伸びの延長で、自由な運動法です。「こうしなさい、ああしなさい」ということではなく、体の内側から起こってくる動きを感じて、その動きに自分をまかせ、自由に気持ち良く動いていきます。「動こう」「動かそう」ではなく「動きたい」「動いてしまう」という感覚です。
何よりも動くことが心地良く、愉しい。強張っていたところがゆるんで伸びていく時には痛みを伴いますが、これがまた気持ち良い。心と体が同時に解放されていくのを感じます。
熱海の「活元指導の会」では、個人指導を受けて活元運動に取り組んでいる人がほとんどですから、皆さん活元運動がよく出ます。ゆらゆらと体を揺する、体をくねらす、腕や肩を回す、横になってゴロゴロ転がる、腰を捻ったり、体の脇を伸ばしたり、自由に、そして実に愉しそうに動いています。
活元運動に慣れている人ばかりですと、独特の雰囲気が出来てきて、気持ち良く動いていけるのです。観ていると、何とも不思議な光景です。一人ひとりは全く違う動きをしているのですが、みんなの気がひとつになって、うねっている。体調が悪く、動きの悪い人もその気に動かされて、だんだんと動きがよくなっていきます。なかには泣いてしまう人もいます。泣くこともまた活元運動です。つかえていた感情が体の動きと一緒に外に出て発散されてしまう。金井先生の『野口整体 病むことは力』(春秋社 2004年)の中に「泣いてしまえば終わる。訴えてしまえば終わる」(46頁)という一文がありますが、まさにその通りなのです。
終わった後の皆さんの顔はスッキリ爽やか、目に輝きが戻り、肌がつやつやして、澄んだ素敵な笑顔です。体でいうと、上半身(頭・首・肩・腕)の力が抜け、背骨が通り、腰が伸び、下半身がどっしりとしてきます。「上虚下実」「頭寒足熱」という状態です。こうなるとザワザワしたものが鎮まり、心が落ち着いてきます。気が静まっているのです。
体の強張りが抜け、弾力を取り戻すと、みんな生まれ変わったように活き活きしてきます。そんな姿を見ていると、「体の強張りは心の強張りなんだ」とあらためて実感します。

 

■錐体外路系よる運動の重要性

活元運動」とは、生理学的には「錐体外路系の運動」と言われます。
野口晴哉先生は以下のように説明されています。

 

野口晴哉 (『健康生活の原理』全生社 九十四頁より)

 活元運動とは、ひと口に言えば、思わずクシャミをしたり、アクビをしたり、無意識に痛いところを手で押えたりするように、体がひとりでに動いてしまう運動であります。

 一般に活元運動は、病気の治療法であるとか、健康法であるとかいうふうに解されているようですが、それはあくまでも結果でありまして、目的ではありません。体操とか体育とかいうと、意識して体を動かす面のことだけが認識されがちですが、われわれが生存を全うしていけるのは、意識して体を動かす運動よりも、無意識に行なってしまう運動の恩恵に浴していることのほうが大部分を占めているといえるのです。ですから、この無意識に行ってしまう錐体外路系の運動を積極的に訓練して、われわれの日常生活に活かしていきたいというのが、みなさんに活元運動をおすすめする所以なのであります。

 ご承知のように、人間の体の運動は、筋の張弛によって行われております。その筋にも、手とか足とかを意識して動かし得る随意筋と、心臓とか胃袋のようにわれわれの意志では動かすことのできない不随意筋とがあります。つまり意識して動く運動と、意識しないで動く運動と、この二つのものが重なって行われております。
意識しての運動は、左の頭で命令して右の体を動かし、右の頭で命令して左の体を動かしますが、この命令を伝えるのが生理学でいう〈錐体路〉であって、錐体路は後頭部で交叉しております。ですから、右の脳溢血を起こして錐体路が毀れると左の半身不随となり、左の脳溢血を起こすと右の半身不随となります。

 このような錐体路系の運動以外に、われわれが意識しないのに、行ってしまう運動があります。ビックリすると思わず体がすくむとか、冷や汗をかくとか、眼にゴミが入ると洗い流すために涙が出るとか、思わず顔が赤くなるとか、ともかく意識しないで動いてしまう体の動きはたくさんあります。それが、いわゆる錐体外路系による動きであって、われわれ人間生活には、この錐体外路系による運動が、きわめて重大な働きをもっているのであります。

 歩いていて、不意に片足を払われると転んでしまう。けれども、われわれは片足だけで立っていることができるし、片足飛びだってできるのです。ですから、不意に片足を払われても、反射的に片足だけで立っておれるのは外路系運動の準備がなされるからであります。

 このように人間の運動を観てまいりますと、日常生活の中で意識して行われている体の動きの大部分が、意識しない外路系運動の裏打ちによってなされているのであります。いや、意識による運動以上に、外路系運動のほうが大事な比重を占めているといえましょう。たとえば、外路系運動が鈍ってしまいますと、いくらゴルフを練習しても上達しないのです。ピアノでも、習字でも、踊りでも、同じです。錐体外路系による無意識の運動が健全になされていてこそ、はじめてそういう意識運動が思う如く行われるといえるのであります。