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 主語って何ですか? 
 シンハラ語に限らず南アジアの言語は主語を必要としないときが多い。それでも主語にこだわるのが言語学で、様々に変則する主語をシンハラ語に見つけ出している。

No-82 2007-Nov-02 , 2007-Dec-07

赤い色の文字はKaputa Fontでお読みください。


主語って必要ですか?

私、シンハラ語、話す。

私がシンハラ語を話す。
私はシンハラ語を話す。
シンハラ語を話す。

私はシンハラ語が話せる。
私にはシンハラ語が話せる。 



 
南アジアの言語は主語を使わないことが多い。文に主語が無い。二つの意味で主語が無いのだ。
 ひとつは実際に文に主語を使わないということ。もうひとつは、「私が」の「が」で言い表す文法形式(主格)主語の代わりに「私に」や「私を」という言い方で(つまり与格で)主語を表すということ。「私に」や「私を」では主語にならないだろうと思われるだろうけど、どっこい、そこには主語の使い方の裏道がある。いや、ありていに言えば、シンハラ文法では「私を」という対格で主語を用いることが「私は/が」という主格で表す主語よりも頻繁に文に現れる。

 例えば、日本語で「私にはシンハラ語が話せる」と言った場合、「私には」は主語だけど主格ではない。「私には」が形式として主格ではなく与格なのだから、形式上はこれを主語とは呼ばない。そこで、とりあえず与格主語というアイデアを出して形式上の処理、文法上の整理をしておくのだけれど、現代日本語には例外的にしか見られないこの与格主語だが、シンハラ語では日常茶飯に使われて、むしろ、与格主語のほうが主格主語より一般的に使われたりもする。
 言い表したいこと(意味)として I speak Sinhala を根底に持つとき、シンハラ語ではそれをママ・シンハラ・カターカラナワや、マタ・シンハラ・プルワンと表現する。ママが主格主語、マタが与格主語だ。
 「私はシンハラ語を話す」「私はシンハラ語が話せる」がそれぞれの日本語訳にあるが、「私はシンハラ語が話せる」は「私にはシンハラ語が話せる」としたほうがシンハラ文の形式的な意味になる。そして、 「私はシンハラ語を話す」は「ママ・シンハラ・カターカラナワ」だが、「私はシンハラ語が話せる」を「ママ・シンハラ・プルワン」と言うことはない。

 日本語では「私は」だろうが「私には」だろうが、(文法形式の違いはともあれ)その両者の意味に違いは意識されない。ところが、シンハラ語ではママ(一人称主格)とマタ(一人称与格)の間には意味上の大きな差異を生じている。その差異に気付かなければ、たとえシンハラ語が話せていたにしても、シンハラ語特有のエッセンス、シンハラ語の心理に触れていないし、シンハラ語を母語とする人たちともコミュニケーションは出来ていないことになる。
 ママとマタの表す違いを違いとして意識しない日本人が多いのはこれまでの(日本語や英語でかかれた)シンハラ語教科書にそのことが触れられていなかったから仕方のないことだけれども、その部分の欠如はコミュニケーションの大きな障害になる。

 シンハラ語研究は米国で盛んで、生成文法の流れを汲む研究者が詳細なシンハラ語分析を行っています。以上のことをガイアのシンハラ語解析から読み直して見ましょう。
 ジェームス・W・ガイアの「Subject, Case, and INFL in Sinhala」に「シンハラ語では主格以外にも様々な格が主語になる」として与格・対格・具格の名詞が挙げられています。この下の表をご覧ください。

シンハラ例文出典 Subject, Case, and INFL in Sinhala /James W. Gair
The man runs
ミニハ(男は)+ドゥワナワ(走る/意志を持って)→男が走る
主格/主語+動詞(意志動詞)/述語
The man runs (involuntarily)
ミニハ・タ(男・には)+ディウェナワ(走る/自らの意志は無く)→男が走る
与格/主語+動詞(無意志動詞)/述語
I see the elephant now
マ・タ(私・に)+ダェン アリヤ・ワ(今、象を)+ペーナワ(見える)→私は今、像を見ている
与格/主語+対格/目的語+動詞(無意志動詞)/述語
The man might fall into the river
ミニハ・ワ(男・を)+ガンガ・タ(川・に)+ワェテーウィ(落ちただろう)→男は川に落ちたのだろう
対格/主語+与格/目的語+動詞(無意志動詞・推量形)/述語
There police there
エヘー(そこに)+ポリシ・イェン(警察/警官によって)+いる→そこに警察(警官)がいる
処格/補語+具格/主語+存在動詞(生命体/動く物の存在を表す)/述語
The gorvernment gives support for that
アーンドゥ・ウェン(政府によって)+エーカ・タ(それに対する)+アーダーラ・ドゥンナ(援助が与えられた)
政府がそれに対して援助を行った
具格/主語+与格/目的語+動詞(意志動詞)/述語
ゴシック文字の日本語はガイアの例文に添えられたシンハラ例文の英訳をそのまま日本語にしたもの。




 シンハラ例文の英文訳も、当方で加えたその日本語訳も形式的な主語の形を取っています。
 ところが、シンハラ例文をそのままに読むならば、主語は「〜が」ではなく「〜に」だったり、「〜を」だったりしなければなりません。下のシンハラ例文で日本語訳過程を説明する文節ごとの訳はシンハラ文の単語が持つ本来の(形式的な)意味をそのままになぞったものです。

 和訳説明に意志動詞・無意志動詞とあるのは、他動詞・自動詞とほぼ対応します。ガイアの説明では他動詞。自動詞となっていますが、ここのところがシンハラ語の主語の不思議のエッセンスなので、あえてシンハラ文法用語で用いる意志動詞・無意志動詞という用語で理解しておきます。
 例えば3の「私は今、象を見ている」ですが、「見ている」はシンハラ例文で「ペーナワ」です。シンハラ語では「自ら見ようとして見る」ときは「バラナワ」を、「自然と見える」ときには「ペーナワ」を使います。これは英語のLook(他動詞)とSee(自動詞)の違い、日本語の「見る」と「見える」の違いに順ずるのですが、シンハラ語ではバラナワを意志動詞、ペーナワを無意志動詞というように分けます。そして、この無意志動詞がシンハラ語的な意味を作るのです。

 日本語でも「見る(バラナワ)」と「見える(ペーナワ)」は使い分けられいます。「私が見る」、「私に見える」というように「が」と「に」を使い分けるのです。文法としては「私が」は主格、「私に」は与格を表します。働きとしてはともに主語を表しますから、「私が」は主格主語、「私に」が与格主語です。ここからわかるのですが、日本語でもシンハラ語の与格主語文と同じ仕組みが作られているのです。
 「天皇陛下にあらせられましては」の「天皇陛下に」は与格主語で、日本語では古代、尊敬を表す主語に与格が用いられたとされています。日本語の与格主語はヒエラルキーの事情で使われるだけのようですが、シンハラ語では違います。
 シンハラ語の与格主語は無意志動詞に対応する。それ以外に、感情や生理現象---怒る、とか、空腹だ、とか--も与格主語で表します。

 同様に「〜に/によって…される」、「〜を/をして…になる」という日本語の言い回しが当てはまるシンハラ語の主語は具格主語、対格主語という捉え方が出来ます。4,5,6の例文も和訳では最終的に「〜は」という主格主語の言い回しになっていますが、シンハラ語では「〜によって」、「〜をして」と言い表します。この言い回しが話者の気持ちをもっとも良く現すのです。言い回しとしましたが、これがシンハラ語のエッセンス、言語表現に現れる文化の様式なのです。
 はたして、これら与格・対格などの斜格を「主語」と呼ぶべきかどうか。スリランカという風土を思うとき、それらを主語と表現するのは適切でないような気がします。
 主語はいらない。そうした風土で暮らす人々がいるのです。


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