琳猷と西養寺  希義の死がいは、そのまま野ざらしになっていた。もしかまっていると源氏の味方とみてどんな 目にあうかも知れないと考えたかも知れない。  介良の僧の琳猷(りんゆう)は、希義の死をあわれみ、遺骨を拾って、介良庄垣田郷に葬った。文治三年(1187) 五月八日この墓の上に堂を建て西養寺といった。法号は西養寺殿円照大禅定門という。  やがて頼朝が天下を平定すると琳猷は、希義の遺髪をもって手結の仏が崎を出帆。関東に行き頼 朝に面会した。琳猷が希義のありし日のようすや、殺された当時の話をすると、頼朝は非常に喜ん だ。そうして、  「まるで弟に会ったような気がする。何時までも鎌倉にとどまれ。寺を与えよう。」  といった。  しかし琳猷は、  「土佐に帰って希義公の霊をお弔いいたします」  と、のべて帰ってきた。  この時、琳猷は西養寺の僧として、鎌倉幕府から寺領を与えられ、格別の保護をうけた。  正徳三年(1713)火災にかかって、古文書、寺宝の全部が消失したのはまことにおしい。明 治維新後廃寺になってしまったが、寺跡に小さい建築ができ、学校にも使用された。  西養寺の石垣は今も一部残っているが、規模が広大であったことがうかがえる。  希義の墓は七百余年の年月を経てこけむしている。  墓碑は大きな桧のもとにある。山石を正方形に築いた1メートルの台座に、さらに二重台座があり、 その上に高さ40センチの卵塔形である。地面から2メートルあまり。卵塔には文字の跡らしいものが 見えるが、残念ながら全く読めない。  春風秋雨古色そのもので、土佐全体で年代のはっきりしているのはこの西養寺殿円照大禅定門の 卵塔が最古である。  なお、古塔の上段に希義神社がある。介良の人達が建てて希義の霊を祀っている。附属の社地は かつて二反六畝あった。土地の人はこれを保管して祭典供養の資にしていた。  昭和三年三月、高知県発行の「高知県史蹟名勝天然記念物」第一輯に、希義の墓も朝峰神社も採録 されている。  戻る  次へ


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