介良風土記 (橋詰延寿 著、介良風土記63ページから) 源希義の墓  介良村学校南方約三百メートルの山麓、西養寺あとにある。 → 西養寺跡・伝希義の墓  源希義は頼朝の弟で、平治の乱(1159)のあと土佐に流されてここにきた。それで介良冠者ともいう。  治承四年(1180)兄の頼朝が東国の伊豆(静岡県)で兵を挙げた。すると、平家はその家臣の平田太郎 俊遠、蓮池権頭家綱等に命令して希義を討たした。兄の頼朝に呼応して平家を討つから先手を取って やったわけである。時に寿永元年(1182)九月二十五日のことである。  希義は介良の里を出て、ふだん親交のあった今の香美郡夜須町にいた夜須七郎行家の居城、夜須城 に向かった。  その途中、住吉(南国市大篠住吉)まで来る、喉がかわいて困っていた。するとそこの農夫が湧いて いる清水を柏の葉に汲んで捧げた。希義は大喜びで喉をうるおし、お礼にもっていた扇子を与えた。 それ以来篠原の柏水とよばれている。 → 篠原の柏水跡  さて、希義が長岡郡年越(南国市坂折山)南方にさしかかった時、蓮池、平田らの軍は追って来て希 義を殺した。希義、時に年二十五。 → 鞍掛の岩  一方香美郡夜須町の夜須七郎行家は、早くも平家方が希義を追討することを聞いて一族郎党を引き つれて西に向かった。  彼の救援軍が今の野市町の北、野々宮(県青少年センター南方)まで来た時、希義が殺されたことを 聞いた。  夜須七郎行家は、引き返して今の手結(てい)港のところ仏が崎から船に乗って紀州(和歌山県)の方 へ出ようとした。そこへ平家方の使者が二人見えていう。  「心を入れかえて平家方に仕えよ。そうすると重い恩賞をとらせる。」  との話である。その当時は土佐は平家の天下であって断然強かった。ところが夜須七郎行家は、使 者の言うこと、が真っかな嘘であることが目に見えていた。そこで行家は使者を門出の血祭りして、 仏が崎を出た。 次へ


目次へ

連絡先