夜須七郎行家 源希義の救援に出たが間にあわなかった夜須七郎行家は、手結の仏が崎から一旦紀伊に着いた。 その後、頼朝の勢が天下にとどろくと頼朝は、伊豆右衛門尉有綱を土佐にやって蓮池、平田の二 人を殺し、夜須七郎行家の忠節を賞して国中の仕承とした。 行家は文治元年(1185)壇の戦に従軍して奮戦し、平家の家臣の周防国の住人岩国三郎兼秀、同四 郎兼末をいけどり、鎌倉に行き恩賞を請うた。ところが梶原景時がじゃまをして、 「壇の浦の合戦に有功の将士に夜須というものはいなかった。彼の兼秀らは生けどりではなく、 自分自身から降参してきたものだ。」 といった。 行家は後日このことを訴えた。頼朝は行家の剛直なことをふだんから知っている。そこで自ら裁 決した。行家が従軍の時、春日部兵衛尉と同船していたことがわかったので、春日部を召し出し、 その所見をのべさせた。 兵衛尉は、 「行家の申す通りであります。」 と証言した。 そこで行家に厚く恩賞をとらせた。景時は、ざん訴のとがで鎌倉中の道路を作らされた。みなの ものがこれを見て大笑いして喜んだ。 建久元年(1190)七月十七日、頼朝は行家積年の功を賞して所領夜須一帯を与えられた。(東 鑑) 戻る 次へ