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  虚弱と壮健 Part III (その2)
  

 常時二人居る執政官のうち、一人がカエサルだった。残る一人はマルクス・アントニウス。正にカエサルの右腕であり、非常に有能な軍人だ。アントニウスは当然、カエサルを死に至らしめた暗殺者達を非難する側だった。そして、アントニウスはカエサル亡き後のローマを収めるべく、粛々とその仕事にとりかかろうとしていた。
 その手始めがカエサルの遺言書内容の発表である。遺言書は、カエサル死翌日、ローマ全市民に公表された。

 カエサルの財産は全ローマ市民に三百セステルティウスずつ贈与される。
 ガイウス・オクタヴィアヌスをカエサルの第一相続人とし、同時にカエサルの養子とする。オクタヴィアヌスはカエサルの名を継ぎ、カエサルの資産の四分の三を相続する ―

 アグリッパの左手首を握ったオクタヴィアヌスの小さな手に、びっくりするほどの強い力が入った。アグリッパは僅かに顔を傾けて、オクタヴィアヌスの表情を窺った。

この一瞬の表情を、アグリッパは一生忘れないだろう。

 オクタヴィアヌスの美しい顔は、まっすぐに前を向いたままだった。しかし、その瞳にアグリッパが今まで見た事もないような光が浮かんだのだ。悲しみとも、怒りとも、恐れとも、そして喜びとも感激ともつかない、― 突然何かを発見したような ― そしてその瞳に捕らえられたものを、吸い込むような光が ― オクタヴィアヌスの瞳に降り立った。
 アグリッパの右手が、ほとんど無意識の内にゆっくりとあがって、左手首をつかんでいるオクタヴィアヌスの手に重ねられた。そうしてからやっと、カエサルの遺言の意味が咀嚼されてきた。

 カエサルは、他の誰でもない、このオクタヴィアヌスを、後継者に指名したのだ。

 アグリッパはもう一度それを心の中で繰り返した。そしてエディニウスの顔を見た。エディニウスもオクタヴィアヌスから視線をアグリッパに移し、僅かに頷いた。― そうだ、間違いない。
 集まった小隊長たちも、やっと遺言書の一番重要なところを理解し始めた。理解できた者から順々に、あの駐屯地の人気者、― 桁違いの美貌と常識はずれに弱い腸の持ち主 ― 十八歳の小柄な青年へ視線を移した。そして同時に、そのオクタヴィアヌスの傍らに立つ、背の高い落ち着いた面持ちの青年が、何のためにオクタヴィアヌスと行動を共にしているのかを、理解した。その場の全員がオクタヴィアヌスに視線を集めたその時―
「カエサル ―」
 エディニウスが厳かに言った。オクタヴィアヌスは迷わずに一歩進み出た。アグリッパは右手を離したが、オクタヴィアヌスが左手首を離さなかったので、一緒に進み出る事になった。
 オクタヴィアヌスは静かにエディニウスのところまで進み出ると、くるりと向きを変えて小隊長たちと対面した。アグリッパも彼に付き添うように向きを変えた一瞬、オクタヴィアヌスの横顔がまた目に入った。いつもの微笑が消えている。冷たい大理石の彫像のように静かで、研ぎ澄まされた美しさ ―そして、あの瞳に灯った光 ― アグリッパは背筋が寒くなった。
 「カエサルが ―」
 オクタヴィアヌスは口を開いた。常日頃小声で話す彼にしては、大きな声だった。
「カエサルが、私を養子とし、後継者に指名した以上、私は直ちにローマに帰還します。」
一同は、息を飲んだ。アグリッパも同じだったが、表情には全く出さなかった。オクタヴィアヌスは、間髪を入れずに続けた。
 「パルティア作戦については、ローマからの指示を待ってください。このアポロニアは引き続きエディニウスに任せます。私の帰還同行者は、補佐官に任ずるアグリッパと、他に十人程度を指名します。」
 一瞬の沈黙の後 ― 小隊長らはもちろん、エディニウスの補佐官たちも一斉に口を開いた。曰く、やれ今ローマに戻るのは危険だとか、暗殺者たちの罠に違いないとか、戻るなら軍団を引き連れてカエサルのルビコンに倣えとか、プリンディシに上陸したら、しばらくとどまれとか、とにかくまとまらない意見が一気にほとばしり出たのである。しかし、共通していた事が一つある。全員がこの小柄なカエサルの後継者を、自分こそが助けてやるという、気概を持っていたことである。
 エディニウスは騒ぎを抑えるのも諦めて、眉を下げている。すると、オクタヴィアヌスがおもむろに右手を挙げて、一同を制した。再び静寂が戻ったとき、オクタヴィアヌスはアグリッパの方に向き直った。
 「アグリッパの意見は?」
 アグリッパは一度、瞬きをした。そしてついさっき、オクタヴィアヌスが「補佐官に任ずるアグリッパ」と口にした事を思い出した。アグリッパは一瞬、集まった小隊長たちを見やった。全員真剣な面持ちでアグリッパの発言に注目している。
 アグリッパは次に、脇をちらりと見た。外から、男が一人入ってきている。アグリッパは低く、落ち着いた声で言った。
 「ローマ市民全員への、カエサルからの財産贈与の執行は、養子であり、後継者たる人の仕事です。アントニウスがそれを行ったという知らせは?」
アグリッパに尋ねられると、エディニウスは首を振る。アグリッパは顔を上げて、もう一言付け加えた。
「使者が。」
 一同は、アグリッパの視線を追った。薄汚れた旅装に、紐でぐるぐるになったパピルスを握った男が、エディニウスの補佐官の袖を引いたところだった。ローマからの使者だ。
 エディニウスは緊張した面持ちで使者からパピルスを受け取り、オクタヴィアヌスの顔を見る。若きカエサルの後継者がうなずいて見せると、エディニウスは封を切り、内容を読み上げた。
 「ローマは暗殺者に対する非難で不穏な情勢。執政官アントニウス、三月十七日に元老院会議を召集。暗殺者たちの処遇はひとまず保留。十八日、カエサルの火葬が行われる。十九日、ブルータス、カッシウス、ローマから脱出。以上。三月二十日付け。」
 アグリッパは薄汚れた使者に尋ねた。
 「ローマから来たのか。」
使者は頷いた。途中で交代していないという意味だ。
「アントニウスは、カエサルの財産分与について、何かしたか?」
アグリッパの質問に、使者はつばを飲み込むと、ガラガラ声で応えた。
「何もしていません。ただ…」
「ただ?」
エディニウスが促すと、使者は付け加えた。
「自分がローマを立つ前に聞いた話ですが、アントニウスはカエサルの財産をひとまず、自宅に保管したとか。」
 一同は、再び息を飲んだ。使者からのこの情報は、アントニウスのある方針を明確に示していた。オクタヴィアヌスを、カエサルの後継者とはみなしていないのだ ―
「アグリッパ。」
 オクタヴィアヌスが、もう一度言った。アグリッパは僅かに頷き、ゆっくりとした口調で言った。
 「一刻も早くローマに戻るべきです。」
「決まった。」
 オクタヴィアヌスは初めて微笑んだ。その微笑みを向けられた小隊長たちはもう、『戻るな』とは言えなかった。

 エディニウスは即座に、散会を宣言した。小隊長たちは、部下である兵士達全員に、カエサルの死という衝撃的な知らせを伝えねばならない。それと同時に、あの小柄な美青年がカエサルの後継者に指名された事を知って、また兵士達も驚く事だろう。
 その小柄な美青年は、エディニウスと、その数名の補佐官、二人の小隊長、そしてアグリッパと共に引き続き本営にとどまった。
 まず、エディニウスが一同を代表して、カエサルの『息子』に、カエサルの死を悼む挨拶を述べた。
 実のところアグリッパは、少し前から呆れ始めている。驚きを通り越して呆れてしまったのは、オクタヴィアヌスの態度だった。エディニウスらからの弔意を受けて、落ち着いた声で礼を返し、
「カエサルの死は青天の霹靂、動揺がないと言えば嘘になります。しかし、このアポロニア駐留軍に動揺は許されません。皆さんの協力が頼りです。」
などと、堂々と言ってのける。これを見て、呆れないで居るほうが無理というものだ。
 (顔は綺麗だが、相当の食わせものだ。)
 それが、アグリッパの正直な感想だった。エディニウスたちは、小柄で頼りない姿に、突拍子もないほど美しい容貌のオクタヴィアヌスを、心の底から「助けてやらねば」と思っている。つまり、ついさっき突然オクタヴィアヌスの表情に加わった瞳の光に、彼らは心を吸い込まれてしまっているのだ。その事くらい、彼らの顔を見れば分かる。
 しかもオクタヴィアヌスは、自分がカエサルの後継者に指名されている事など、ついさっきまで全く知らなかったのだ。それなのに、動揺だの呆然だのという感情は微塵も見せない。この「とんでもない」事態に、これだけ平静を保てるのだから、カエサルの後継者としては悪くない。
 (しかし、そろそろ限界だろう。)
 アグリッパはそう分析していた。精神的な問題ではない。肉体的な問題である。アグリッパはそっとエディニウスに耳打ちした。するとエディニウスはびっくりしたように、アグリッパの顔を見た。そして暫くして、オクタヴィアヌスの極端に弱い腸のことを思い出したらしい。それに、エディニウスを含めて、誰もがやや興奮気味だ。ここで一息入れる必要がある。
 エディニウスはまだオクタヴィアヌスを囲んで話し込んでいる補佐官達や、軍団長に、夜に再度会合を持つ事にして、ひとまず散会するよう、指示した。そして召使を呼び出すと、オクタヴィアヌスの居室をこの本営に移すように命じ、同時にオクタヴィアヌスもひとまず自分の宿舎に戻るべく、その場を離れた。
 アグリッパは残った。その前を通り過ぎる一瞬、オクタヴィアヌスはアグリッパの顔を見たが、話す余裕はない。第一、例によって腹下しが辛い事が、その表情に出ている。
(腹の具合の事は、顔に出るのか。)
アグリッパは心の中で、つぶやいた。
 補佐官達や召使らは相変わらずわぁわぁ言いながら、オクタヴィアヌスと共に出て行った。

 アグリッパとエディニウスが残された。
 エディニウスは大きくため息をつくと、椅子を引き寄せて崩れ落ちるように座り込んだ。アグリッパは、奴隷を呼んで冷たい水を持ってくるように命じた。それが届くと、アグリッパが受け取り、エディニウスに差し出した。
 「大丈夫ですか。」
 アグリッパがそう尋ねると、エディニウスは水を受け取りながら頷いた。そして水を飲み干すと、改めて目の前に立っている青年を見上げた。
「アグリッパ。確か、十八だったな。」
「ええ。」
「オクタヴィアヌスも。」
「そうです。」
 エディニウスはまた、長くため息を吐き出した。
「オクタヴィアヌスがカエサルの養子になる事は、知っていたのかね?」
「いいえ、まったく。」
「彼自身も?」
「知りませんでした。」
「それにしては、落ち着いている。」
「そうであるべきでしょうから。」
「君もな。」
 エディニウスは立ち上がった。それから、もう一度アグリッパの顔を見据えると、ゆっくりと低い声で言った。
「アグリッパ、君がオクタヴィアヌスと一緒に居てくれて、本当に助かった。」
「大変なのは、これからです。」
「そうだな。」
 エディニウスは、少し微笑んだ。アグリッパは、随分年上のエディニウスを勇気付けるように、少し声を張って言った。
「さぁ、のんびりとはしていられません。出来る事なら、明日にも出発したいので、まず船から話をつけましょう。」
 アグリッパは手を差し出してエディニウスを促すと、連れ立って本営から外に出た。アグリッパには、エディニウスが昨日より十歳ちかく老けてしまったように見えた。
 午後の日差しが傾き始め、アグリッパの顔をまぶしく照らした。港へ向かって歩を進めるアグリッパの両脇で、ローマ軍の兵士達が持ち場につき、仕事を粛々と行っていた。
 しかし確実に、ついさっきまでのローマ軍とは違った。彼らは全員、悲しみと怒りに打ちひしがれていた。涙を拭くものもある。友人と嘆き、抱き合う者もある。
 アグリッパは遅ればせながら、喉の奥が焼きつくような、衝撃と、悲しみが湧きあがってくるのを実感した。

 カエサルが殺されたのだ!




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