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  虚弱と壮健 Part III (その3)
  

 カエサルの死と後継者の知らせが飛び込んだその日は、オクタヴィアヌスのローマ帰還準備に忙殺された。そして夜にはまたローマからの使者が到着し、エディニウスなども交えて情報を整理し、善後策を講じるのに費やされた。
 アグリッパは、文字通り目も回らんばかりの忙しさに見舞われた。エディニウスにしろ、ほかの連中にしろ、アグリッパがまだ十八歳で、つい最近まで親元で畑を耕していた事など、完全に忘れている。それに今のところ、オクタヴィアヌスの個人的な補佐官ではあっても、これと言った公職にもない。それでも全ての懸案事項の検討と決定には、アグリッパも参加し、決断を迫られた。
 アグリッパには戸惑う暇もない。そしてオクタヴィアヌスを友人として気遣う余裕もない。真夜中になってやっとオクタヴィアヌスの様子を見に行く時間が出来たと思ったら、『友人』はすでに正体なく眠りこけていた。

 翌日、アグリッパはオクタヴィアヌスよりも先にたたき起こされた。
 まだ日の出前だというのに、臨時で出たらしい船がアポロニアの港に到着し、またローマからの使者が来たというのだ。しかもそれは、オクタヴィアヌスとアグリッパを指名した『個人的な』使者だと言う。取次ぎに走った兵士は、まずアグリッパに知らせに来た。
 アグリッパは、『個人的な使者』と聞いて、それがサムニスに違いないと直感した。
 果たして、そのとおりだった。アグリッパが身支度もそこそこに外に出てみると、サムニスがポツンと立っていた。無口で、表情にとぼしいこの奴隷は、アグリッパを見ると無言で頷いて見せた。
 アグリッパは突然、カエサルの遺体を引き取った三人の奴隷の事を思い出した。そんな勇気と忠誠心を持っているものとなれば、サムニスもその一人だったかもしれない。しかし、それをわざわざ確認する気にはなれなかった。
 通常の起床時間前で、宿直の兵士が持ち場に就いている以外、辺りはまだ眠りの静けさを保っている。太陽は水平線に近づきつつあるらしく、空がやっと僅かに白み始めた。
 「よく来たな、サムニス。」
 アグリッパは言葉に困りつつ、やっとそれだけを言った。サムニスの主人はカエサルだ。奴隷という身分のこの男が、ローマから出てはるばるこのアポロニアまで来るには、相当の困難があっただろう。
 「いつ、ローマを立ったんだ。」
「三月十七日の夜です。」
 サムニスは陰気な声で応えた。元からそういう声だったのか、カエサルが死んだ今だからそう聞こえるのか、アグリッパには判然としない。
「遺言書が公表された翌日だな。」
 サムニスは頷いた。主人であるカエサルが突然死に、遺言書でその養子であり後継者と指名された者を知った以上、奴隷サムニスの『所有者』はオクタヴィアヌスの他にはなかった。だから、サムニスはオクタヴィアヌスの居る、このアポロニアに来たのだ。疲労とか、感情とかそういうものを一切顔に出さないサムニスだが、さすがにその姿は痛々しかった。
 サムニスは、カエサルを敬愛し、崇拝する奴隷だった。決して態度や言葉には出ないが、アグリッパには分かっている。分かっているからこそ、サムニスの悲しみが痛みとして伝わってきた。
 アグリッパには、サムニスに尋ねるべきことが沢山ある。ローマの情勢、元老院がオクタヴィアヌスをどうとらえているのか、アントニウスの態度、暗殺者達のその後 ― しかし、アグリッパの口からは、別の言葉が出ていた。
 「オクタヴィアヌスが後継者に指名されていると、知っていたか。」
サムニスは首を振った。当然だろう。アグリッパは、我ながらつまらない質問をしたと思いながら、細かく頷いた。
 「とにかく。衣服を改めて、少し食べろ。その頃にはオクタヴィアヌスも起きてくる。」
 アグリッパは、視線をサムニスから外し、わざと気を抜いたような声で言った。そうしないと、何かとんでもない事を言い出してしまいそうな気がする。
「今朝、到着してよかった。もう昼にはオクタヴィアヌスもローマへ出発する ― 」
 アグリッパは黙ってしまった。本心が、もっと他の事を尋ねろと要求してくる。ローマの政情はもちろんだが、もっと個人的な ― つまり、カエサルが死んだときの様子、態度、その後の遺体の扱い、遺族の様子 ― それらを知りたいと欲しつつ、知る事によって心を乱されるのを恐れる理性が、アグリッパから言葉を奪っていた。
(知らないほうが良いのだ―)
 アグリッパは自分に言い聞かせた。

 カエサルと面識は、偶発的なものだ。あの日 ― ヒスパニアへ出陣する前のあの日、馬場で乗馬の下手な美少年と友人になったという偶然のせいだ。自分は、カエサルの目撃者に過ぎない。カエサルの関係者でも何でもないのだ ― 友人のオクタヴィアヌスがカエサルの後継者と言うが、現実問題はどうだか、このアポロニアでは分かったものではないし、それにきっと ―
(自分には関係ないことだ。)
 ― でも、オクタヴィアヌスの副官に任じられ、周囲もそのように対処している。
(それは、他に人が居ないからであって、一時的な事に違いない。)
 どうしてこんなに必死になって『否定』するのか、アグリッパにも分からない。オクタヴィアヌス付きのカエサル直属配下になると、カエサルから直接言われたのに― 
(いや、違う。過剰評価だ。そんなはずはない ―)

 「アグリッパ。」
 サムニスが口を開いた。相変わらず陰気な表情と声をしている。何だ、と答える事もなく、アグリッパはサムニスを見つめた。
「アグリッパ、あの日の夜のことを、覚えていますか。」
 サムニスの言葉は唐突なようで、しかしアグリッパには何の事かは分かっていた。
「私がカエサルの天幕に呼ばれた日のことか。」
 サムニスは頷いた。ヒスパニアでの事だ。ムンダでの会戦が終わり、ローマ軍が帰路につこうとしていた頃、アグリッパが一人カエサルの天幕に呼び出され、カエサル直々にオクタヴィアヌス付きのカエサル直属兵士になる事を告げられた夜のことだろう。
「ああ、もちろん。」
 アグリッパは静かに言った。サムニスは相変わらず表情を変えない。
「あの時、カエサルは何をしていたか、覚えていますか。」
「何をしていたか?」
「アグリッパが天幕に入った時。」
「さぁ。確か、椅子に腰掛けていたと思う。」
「カエサルは、椅子に腰掛けて何をしていましたか。」
 アグリッパはサムニスの真意を測りかねたが、あの時の記憶をたどってみた。
「カエサルは椅子に腰掛けて…脇の机で、書き物をしていた。終わるまで、待てと言われて…」
 サムニスが深く頷いた。そしてアグリッパをじっと見つめている。
「書き物を…」
 アグリッパはもう一度つぶやいた。そして目に立っている奴隷の、変わりない表情 ― いや、悲しみが僅かに滲み出した表情を凝視した。
 カエサルは、書き物をしていた ―
「あれが…」
アグリッパは愕然とした。

 ― 遺言書だ!

 アグリッパは目を見開いて、サムニスを見つめた。サムニスは、もう一度頷いた。
「そうです。あの時、カエサルは遺言書を書いていました。即ち、オクタヴィアヌスを自分の後継者に指名する遺言書です。」
「お前は、内容を知らなかったはずだ。」
 アグリッパは喉が渇いて、声がかすれてきた。サムニスは一瞬目を伏せたが、すぐに答えた。
「内容は知りませんでしたが、遺言書である事は知っていました。その後の書類の扱いについて、少し働いたので。アグリッパ ―」
 サムニスはもう一度顎を引き上げて、アグリッパを真っ直ぐに見た。
「カエサルは、オクタヴィアヌスを後継者にと目していましたが、彼の補佐役を探していた。それを探し当てたと同時に、遺言書を書き、その補佐役をオクタヴィアヌスにつけた。アグリッパ、あなたこそ、カエサルにあの遺言書を書かせた本人 ― 」

 サムニスに言われなくても、あの時カエサルが書いていたのが遺言書だとしたら、アグリッパにもカエサルの真意が分かった。
 もう、否定するどころではなかった。

 カエサルは死んだ。だから、サムニスはアポロニアに来た。
 カエサルは死んだ。だから遺言書が公表された。
 カエサルは、アグリッパを見出し、オクタヴィアヌスの補佐に指名した。そして今、オクタヴィアヌスはカエサルの後継者だ。ローマの現状はともかく、とにかく事態は大きく動き始めている。

 カエサルは、オクタヴィアヌスと、アグリッパに ― 二人に託したのだ ―
 アグリッパの脳裏に、最後に会ったときのカエサルの姿が浮かんだ。なぜかそれがまぶしくなって、思わずアグリッパは目を閉じた。

 アグリッパは大きく息を吸い込むと、勢い良く吐き出した。視線を上げると、水平線の向こうが銀色に輝き、正に日の出の時を告げていた。
 「分かった。ありがとう、サムニス。」
 アグリッパはそう言って、すぐに踵を返して歩き出そうとした。しかし思い直すと、サムニスの方に振り返った。
 「カエサルは、オクタヴィアヌスと私の間に友情が存在する事も ― 考えに入れていたと思うか。」
アグリッパの質問に、サムニスは答えなかった。しかし、サムニスはゆっくりと口の両端を上げて、笑って見せた。アグリッパが知る限り、サムニスが笑ったのはこれが初めてだった。
 「そうか。」
アグリッパはひとこと言って頷くと、歩き出した。





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