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  虚弱と壮健 Part III (その1)
  

 ギリシャのアポロニアに到着すると、アグリッパとオクタヴィアヌスにとって忙しい日々が始まった。
 一緒に旅してきた旅団の隊長や兵士達は、船底で死体のようになっているオクタヴィアヌスを気遣って、アポロニアに到着したらしばらくゆっくり休ませたらどうだと言ったが、アグリッパの意見は違った。オクタヴィアヌスの体調不良は慢性的なもので、船旅ではそれが極端な表れとなるが、一旦陸にあがってしまえば、「普通の体調不良」に戻るのである。毎日寝食を共にしていれば、アグリッパにもそれくらいの事は簡単に把握できた。

 アポロニアに駐留しているローマ軍を束ねるのは、エディニウスという男だった。いかにも叩き上げの軍人という人物で、年のころは四十歳くらい。手足や顔は黒々と日焼けし、体のあちらこちらに古傷の痕があった。幅の広い顎と大きな口はいかにも厳格な上官風だが、笑うとえもいわれぬ愛嬌がある。さして身分は高くないが、カエサルの信任厚いという事もあり、アポロニアのローマ軍の中でも尊敬を集めていた。
 十八歳のオクタヴィアヌスとアグリッパは、このエディニウスの世話になった。
 対パルティア作戦はまだ準備段階ではあるが、その基地となるアポロニアのローマ軍は多忙を極めていた。しかし、エディニウスはこの留学と経験のためにやって来た若者達に対し、丁寧で親切な対応をしてくれた。カエサルの命令である事ももちろんだが、エディニウス自身が若者に親切な性分なのだろう。
 オクタヴィアヌスとアグリッパは、軍事拠点作りよりも、ギリシャでの勉強が優先された。アグリッパはまったくギリシャ語が出来ないし、オクタヴィアヌスもお世辞にも得意とは言えない。それでも通訳や、ラテン語の出来るギリシャ人などを交えて、毎日哲学や法学、数学、修辞学、音楽、科学、そして兵法などについての講義がすすめられた。

 アグリッパの予想通り、オクタヴィアヌスは普通の体調不良にもどり、至極のんきな様子で、勉学に励んでいた。ギリシャの教師達は最初、この神話に出てくるような美青年が、ことあるごとに下痢で行方不明になることに当惑していたが、そのうち慣れたし、行き先も把握できた。これはエディニウスを筆頭とするローマ軍の兵士たちも同じである。
 瞬く間に、オクタヴィアヌスはアポニア一の人気者になっていた。カエサルの遠い親戚である要素より、彼の美貌と、穏やかな物腰、話し方、人との接し方に好感が持たれたのだろう。
 一方、アグリッパもまた別の意味で「人望」を集め始めた。特にローマ軍の上官たちや、ギリシャの平方学者達は、カエサルの人材を見出す才能に舌を巻いていた。アグリッパ自身は、自分のどこが軍人 ― しかも将軍クラスの軍人に向いているのかを、はっきりとは把握していない。とにかく、アポロニアでの彼の評判は、「将来きっと名を成す将軍になる」というものだった。
(ものに動じないからだろうか。)
アグリッパは、首をひねった。
 あるとき、兵法学者が尋ねた。
「パルティア作戦がはじまったら、きみは無論前線へ派遣されるのだろう?」
「さぁ。」
アグリッパはまた首をひねった。実のところ、アポロニアでの勉学と基地整備以外、カエサルから特に指示は受けていないのである。作戦が始まってからどうするのかも、まったく決まっていなかった。
「どうなるか分かりませんが、とにかくオクタヴィアヌスと行動を共にするのでしょう。」
「本当かね?」
今度は兵法学者が首をひねった。この二人の若者が、非常に仲が良いのは分かるが、同じ仕事をするとは、とても信じられないのだろう。
 アグリッパも同感だった。

 ローマよりは大分楽な冬が過ぎ、春が来ようとしていた。これからの太陽こそが、本物のギリシャの太陽となるだろう。その年の三月半ば、アグリッパはそんな事を考えていた。オクタヴィアヌスは、厳重に着込んだ衣服を、どの程度減らすべきか、真剣に検討していた。

 その知らせは、三月の末日に飛び込んできた。
 事件が起きたのは三月十五日。ローマからアポロニアまでの距離としては、異常な速さでその知らせは、やって来た。
 知らせを携えた使者は港で船から降りるなり、すぐに駐留ローマ軍に飛び込み、エディニウスに面会を求めた。
 丁度その時、オクタヴィアヌスとアグリッパは、訪問先だったギリシャ人修辞学者の家から、駐屯軍宿舎に帰ってこようとしていたところだった。
 二人が宿舎に戻ると、どうも兵士達の様子がおかしい。何か不安そうな様子で、ひそひそと小声で話しているものも居る。オクタヴィアヌスが兵士の一人に何かあったのかと尋ねる前に、向こうから二人に声を掛けて来た。
 「二人とも、本営のエディニウスの所へ行けよ。小隊長も全員集められているみたいだ。」
オクタヴィアヌスとアグリッパは顔を見合わせた。
「何かあったのですか?」
オクタヴィアヌスが美しい顎をすこし斜めに傾けて尋ねた。
「分からない。ローマで何かあったらしい。とにかく、二人とも名指しで呼ばれているから、急いだほうがいい。」
二人ともそれ以上は訊かなかった。

 二人がアポロニア駐留ローマ軍の本営に行ってみると、エディニウスとその部下達、そして小隊長たちが集まっていた。それぞれ、何があったのか分からず、当惑顔だが、所々で小さな声で話す以外は、静かだった。驚いた事に、エディニウスの補佐官がやって来て、二人にもっと前に来るように指示した。それに従ったオクタヴィアヌスとアグリッパを見て、エディニウスは堅い表情のまま、僅かに頷いた。
 (まさか ― )
 アグリッパは、俄かに一同がここに集められた理由が分かったような気がした。そっと隣のオクタヴィアヌスの表情を窺うと、一瞬目が合った。こういうとき、オクタヴィアヌスはかならず微笑んでみせる。しかし、珍しい事に今回はそのまま視線を前方にもどしてしまった。
(同じ事を考えている。)
 アグリッパは心の中でつぶやいた。

 やがて、小隊長たちも全員集まった。一堂はしんと静まり、椅子から立ち上がったエディニウスに注目した。
 エディニウスは、低い声でローマからの使者がもたらした知らせを述べた。

 三月十五日の朝、カエサルが元老院の会議へ向かう途上、ポンペイウス劇場の回廊にて、短剣を隠し持ったマルクス・ブルータス,カシウス・ロンジヌス,ガイウス・トレボニウスら総勢十四名によって襲撃され、その場で絶命した。暗殺者たちの大義は、終身独裁感として権力を一身に集めたカエサルによる、王制を未然に防いだ、というものだった。
 その場に居合わせた暗殺者以外の人々や、ローマ市民は全員カエサルの死に衝撃を受け、自宅に引きこもってしまった。回廊にしばらく放置されていたカエサルの遺体は、彼の奴隷数人によって、自宅に引き取られた。

驚天動地の知らせにも、一同は静まり返っていた。誰一人声を発しないし、ぴくりとも動かない。まるで時間までもが、メデューサの首で石化してしまったかのようだった。

カエサルが死んだ。 ― しかも元老院への途上で、暗殺されたのだ。
 
あまりに事に、誰もがどうすれば良いのか、分からないのかも知れない。
 一方のアグリッパと言えば、予感が当たってしまった事に驚いていた。いや、正確にはカエサルが死んだという予感がした一方、「殺された」とまでは思っていなかったので、その点に呆然としていた。そして隣のオクタヴィアヌスの方を窺うと、こちらは視線をまっすぐにエディニウスに向けたまま、顔色ひとつ変えない。ただ、小さな右手がアグリッパの左手を探り当て、その手首を握った。

 エディニウスは一息つくと、その後の経過を説明した。
 三月十六日、カエサルを殺した暗殺者達は、ローマ市民たちに向かって演説を行った。曰く、自分たちはローマ市民がカエサルの奴隷となり、尊い共和制が失われる悲劇を、未然に防いだのだ、と。しかし彼らが直面したのは、カエサルを死に至らしめた暗殺者達に対する、ローマ市民の怒りだった。
 暗殺者達は、ローマ市民たちがこのような反応をすると予想できるほどの、想像力を持ち合わせていなかったらしい。カエサルを暗殺するという事の重大さも、正確に想像できていなかったのだろう。とにかく、怒りに駆られたローマ市民のありさまに、暗殺者達は身の危険を感じてカピトリーノの丘の神殿に逃げ込んだ。この時点で、ローマで彼らの身を安全に保つ事が出来るのは、神聖にて暴力が禁忌となっている神殿だけだった。

 ここまで説明されて初めて、並み居る兵士達の間から怒りの声が上がった。彼らが心から敬愛するカエサルを殺した者たちへの怒り、カエサルが死んだという事に対する悲しみ、これからローマはどうなってしまうのか、自分達はどうすれば良いのかとい不安 ― それらが、一気に怒号、慟哭になって噴出した。
 そんな感情の渦の中、オクタヴィアヌスとアグリッパは黙ったままだった。二人とも視線をまっすぐに、エディニウスに向けている。エディニウスは、感情を爆発させる兵士達を静止するでもなく、黙っている。そしてオクタヴィアヌスを ― カエサルの遠い親戚にあたる青年を見詰めていた。
 アグリッパは、エディニウスが何枚かのパピルスを握っている事に気付いた。ローマからの知らせは、恐らく数日分が一緒になっているのだ。まずカエサルが死んだという知らせ。そして暗殺者達が神殿に逃げ込み、ローマ市民は怒りに打ち震えているという知らせ、その次は ― 
 やがて、泣いたり喚いたりしていた男達も、エディニウスの沈黙に気付いた。そうだ、知らせには続きがある ―。一同は再びシンと静まり返った。それを見定めたエディニウスは、ローマからの次なる知らせを、述べた。



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