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  虚弱と壮健 Part II (その2)
  

  カエサルの秘書の、そのまた使者が二人の元にやって来て、最高神祇官邸に来るようにと言う伝言をもたらしたのは、その年の秋に入ってすぐの事だった。
 オクタヴィアヌスとアグリッパは、朝一番に最高神祇官邸にやって来たが、既にそこはカエサルに面会しようとする人で一杯だった。カエサルの執務室の前の控えの間は、パピルスを抱えた男たちが、順番待ちをしているのだ。若い二人は取り次ぎに到着を告げると、控えの間の片隅に静かに座って待つことにした。
 カエサルとの面会を待つ者同士が静かに話す意外は、さして騒々しくなる理由もなさそうだが、この朝は少々事情が異なるらしい。カエサルの秘書の一人をつかまえて、老婆が一人わぁわぁと言い騒いでいるのだ。秘書は迷惑そうな顔だが、口調は勤めて冷静に言った。
 「伝言はしますが、面会はお断りします。カエサルは今執務中なのですから。」
 すると老婆は秘書の冷静な態度にも怒りを覚えるのか、声を更に大きくして喚いた。
「あなた、執務中、執務中ってそんなのは聞き飽きましたよ!いいえ、伝言なんてのも聞き飽きました!第一、あなた誰にものを言っているんです?このガトゥーニアは女王陛下の使者なんですよ!私に無礼を働くとは、女王陛下に無礼を働くも同然!カエサルの秘書だろうが、ええ、カエサル本人だろうが、許されるものではありません!」
 オクタヴィアヌスとアグリッパは隅っこの方から老婆のこの剣幕を見ていたが、聞いているうちに彼女が何者なのかが分かってきた。今、ローマにはエジプトから来たカエサルの愛人と、二人の間の息子が滞在しているのである。この愛人というのがエジプトの女王で、老婆はその侍女なのだろう。
 主人がエジプトでは女王である以上、ガトゥーニアというこの侍女の理屈も分からないでもないが、ここはローマである。カエサルの愛人の存在自体、別に珍しくもないローマであり、女王もその内の一人だった。アグリッパは内心、秘書が気の毒になってきた。
 秘書も多忙である。珍しくも無いカエサルの愛人の事で、午前中の仕事時間を浪費されてはたまらない。
 「お怒りは分かりました。ともかく、伝言しますから。あなたの主が、カエサルに会いたいとおっしゃっている。そうですね?」
「女王陛下です!」
「これ以上ここで大声を出しても、何も発展しませんから、引き取ってください。」
 若者二人を含む控えの間の男たちは、笑いを一生懸命こらえている。その時、老婆の声が届いたのか奥の執務室から、長身のカエサルが姿を現した。今しがた面会していた議員や、秘書などが彼を取り巻いている。
 「騒々しいな、どうかしたかね?」
 カエサルは控えの間に集まった男たちに目礼しながら、秘書に尋ねた。秘書は決まり悪そうに言い訳した。
 「カエサル、申し訳ございません。すぐに引き取ってもらいますので…」
「カエサル!一体どこの誰が女王陛下にこのような無礼を働くと言うのです?」
 ガトゥーニアは秘書を乱暴に押しのけると、カエサルに掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた。
「おや、ガトゥーニア。元気そうだね。」
カエサルはにこやかに、そして穏やかに言ったが、老婆はその手には乗らなかった。
 「元気なものですか!女王陛下はあのようにふさぎこまれて、私が元気で居られるわけが無いでしょう!一体何日女王陛下の所にいらっしゃらないと言うのですか?陛下は毎日毎日、お待ちですよ!昨日や今日など、悲しみのあまり死んでしまうかという有り様で!」
「それは、それは。」
 カエサルは陽気に笑いながら言った。
「女王には、今日の夕方にカエサルが参ると伝えてくれ。ご苦労だったね、ガトゥーニア。」
 カエサルに、にこやかに言われてそれ以上何か抗弁しようとする方が無理である。ガトゥーニアは秘書にくるりと体の向きを変えられ、仕方なく出口に向かう。彼女は、オクタヴィアヌスとアグリッパの前で足を止めると、呆れたような大声を上げた。
 「なんとまぁ、こんな小僧っ子に会う時間はあるのに、女王陛下をないがしろにすると言うんですかね?!」
 そんな捨て台詞を残して、老婆は出ていった。控えの間に居た人々の間から小さく笑い声が漏れた。決まり悪い表情で突っ立っているオクタヴィアヌスとアグリッパに、カエサルが声をかけた。
 「二人とも、入ってくれ。」
 カエサル自ら招くので、二人は人々の間を擦り抜けて執務室に入った。待たされる人の中には、あの女の子のような少年と、元老院の重鎮のような青年は何者だろうと思う者もあった。

「女王は慣れぬローマ暮らしに、少々飽きてきたようだな。待たせて悪かった。」
カエサルは押しかけてきた愛人の侍女などどこ吹く風である。
「二人とも、元気そうだな。」
 カエサルは椅子に腰掛けると、若者達を順々に見ながら言ったが、語尾に自信がなかった。姿勢も顔色も良いアグリッパはともかく、真っ青な美貌に色々な物を厳重に着込んで宙に浮くが如き雰囲気で立っているオクタヴィアヌスに「元気そうだな」というのは、名文家のカエサルにとっては、しっくりこないらしい。
 少し笑いを堪えるような表情でペンを取ったカエサルに、秘書が書類を差し出した。カエサルは軽く目を通すとそれに署名して、オクタヴィアヌスの前に差し出した。
「話はもう聞いていると思うが、アポロニアへの出動命令書だ。いつ出発する?」
「船の確認中です。」
受け取りながらオクタヴィアヌスが綺麗な声で答えた。
「今日の午後にも確認が取れると思いますが。恐らく、明後日には立ちます。」
「そうか。」
カエサルはまた微笑むと、もう一度二人の顔を見回してから頷いた。
「アポロニアの先行隊長はエディニウスという男だ。百戦錬磨のつわものだが、気は優しい男だ。彼の世話になれ。助言を良く聞いてな。次に私に会うのは春以降だろう。ご苦労だった。もういいぞ。」
 カエサルはもう取り次ぎから耳打ちされ、秘書からパピルスを差し出されている。若者達はカエサルに礼をすると、踵を返して退出しようとした。
「アグリッパ。」
 出て行こうとする背中に、カエサルが呼びかけた。アグリッパが振り返ると、カエサルは書類を片手に顔を上げていた。笑みが消えて、引き締まった表情をしている。
「よろしく頼む。しっかりやれ。」
 アグリッパは暫しカエサルの顔を真っ直ぐに見詰めていたが、やがて黙ったまま深く頷いた。そしてもう一度礼をしてから、オクタヴィアヌスを追って執務室から出て行った。

 最高神祇官邸を後にすると、先に出ていたオクタヴィアヌスが少し首をかしげながら尋ねた。
「ブリンディシまで何日だって?」
 秋の日差しがオクタヴィアヌスの金髪がかった淡い栗色の髪を照らして輝き、恐ろしいほどの美貌を一層際立たせた。アグリッパは少し目を細めて答えた。
「早ければ一ヶ月。一緒に行く補給部隊の規模にもよるが、おそらく四十日以上はかかるだろう。」
 そうか、とオクタヴィアヌスは小さく呟くと、手を後ろに組んでのんびりと歩みを進めた。この虚弱青年は、いかにして行軍を乗り切るのかでも考えているのだろう。
 さっきの老婆 ― ガトゥーニアが甲高く喚く声がしたのでオクタヴィアヌスとアグリッパは足を止めて振り返った。最高神祇官邸前で、ガトゥーニアがマルクス・アントニウスを捕まえて何やら怒鳴っているのだ。カエサルに軽くあしらわれた怒りを、たまたま通りかかったアントニウスに難癖つけることで、発散しているらしい。女王、女王と連発しても、ここローマでは大した効力を持たない事を、未だに理解していないらしい。
 カエサルの右腕を自認し、優秀な武人であるアントニウスも、これには閉口しており、一刻も早く逃げ出したいという顔をしている。
 (お気の毒に。)
 アグリッパは遠巻きに見ながら、心底アントニウスに同情した。

 その日の執務が終わる頃 ― 普通ローマ市民はだいたい午前中に仕事を終えるが、カエサルがやっと一息をついたのは夕方近くだった ― カエサルの居室にサムニスが呼ばれた。
 サムニスというこの奴隷は不思議な男で、カエサルが彼を必要とする時は必ず若者達ではなくカエサルの元に居た。特殊な嗅覚でも持ち合わせているのだろう。
 サムニスがいつものとおり無表情な顔で静かにカエサルの前に控えると、主人は果物を一切れ口に含んで、一息ついたところだった。
 「サムニス、お前はローマ残留だ。エーゲ海を見たいだろうが、期待は私が出陣する時にとっておくのだな。」
 サムニスは黙って頷いた。カエサルの言葉の後半にではなく、前半に対してである。
「それで、どうだサムニス。これまであの二人を観察したお前の感想は。上手く行きそうか?」
カエサルは椅子に腰掛けると、足を投げ出してくつろいだ。
「良い取り合わせだと思います。」
「ローマに来てからも?」
「はい。」
「行軍中は…オクタヴィアヌスは寝込んでいたな。」
「アグリッパが奔走を。」
「これからもそうなりそうだな。」
 カエサルはクスクス笑い出している。サムニスもその通りだと思っているのだろうが、顔には出さずに黙っていた。カエサルが続けた。
「お前が見た所、あの二人の友情に関しても間違いないという事だな。」
「はい。」
「それは一安心だ。機能が上手く噛み合っても、心情的に合わないのでは色々やりにくい。安心してアポロニアへ送り出すとするか。」
 カエサルは手を伸ばすと粗末な書き付けを取り、サムニスの前に出した。
「オクタヴィアヌスとアグリッパに、馬と鞍を用意してあるから、送り届けておいてくれ。」
「分かりました。」
 サムニスが頷いて書き付けを受け取ると、カエサルはもういいぞ、と言う風に手を振ってみせた。サムニスは礼もせずに踵を返したが、居室を出ようとして足を止めると、振り返った。
「一つお聞きしますが。」
カエサルは少し驚いて顔を上げた。サムニスが質問をするというのは珍しい。
「何だ。」
「あの若いお二人は、このまま友人のままで居られますか?」
「私はそう思っているが。お前もさっき、その点は間違いないと言っただろう。」
「私がお聞きしているのは、そう言う意味ではありません。」
カエサルはゆったりと脚を組むと、口角を上げて含み笑いをした。
「つまり、サムニス。あの二人はいつか主従になるのではないかと訊いているのか。」
サムニスは黙っている。つまり、そうだと言う事らしい。カエサルは小さく息をついた。
「そうかも知れん。」
 カエサルは短く答えたが、実際そうなるだろうと思っている。アグリッパはオクタヴィアヌスの「右腕」として、働く事になる日がいつか来る。それはきっと、対等な友人ではなく、主従と言った方が良いだろう。二人の出自からして明白だろうし、今の本人達にも多少の自覚があるはずだ。
 それでも、わざわざサムニスが質問したのは ―。
「ただの友人のままで居させてやりたいか。」
 カエサルが低い声でゆっくり言うと、サムニスは沈黙を以ってそうだと答えた。
「お前の気持ちは分かる。」
 カエサルは立ち上がった。そして回廊の方へ進むと、柱に手を掛け、ようやく日の傾きはじめた空を見上げて、大きく深呼吸した。
「私も同じような気持ちはするよ、サムニス。しかしあの二人が ― オクタヴィアヌスとアグリッパが、ただの仲の良い友人同士としてのみ生きる事は叶わないだろう。― このカエサルがそうはさせぬ。」
 サムニスはやはり黙っているが、悄然としているのは分かる。僅かに、自分の主人 ― カエサルに恨めしい気持ちを持っているらしい事を察知して、カエサルはまた笑った。
 「若い連中の美しい友情を守ってやりたいとは、サムニス、お前も歳を取ったな。アグリッパがオクタヴィアヌスを事実上の主として、助けるように仕向ける私を、恨むならそれでも良かろう。ただ、こうも考えられる。」
カエサルは悪戯っぽく続けた。
「たとえ主従の関係になったとしても、今現在のような友情は友情として、保ち続けるかも知れん。」
「そんな事が可能でしょうか。」
サムニスは陰気に訊き返した。
「さあな。しかし、望みはありそうだ。希有な例になるかも知れないが、賭けてみたらどうだ?」
サムニスは小さく溜息をついた。奴隷には確信がなかったが、カエサルにはそれがある。
「もう行け、サムニス。贈り物を若者達に届けたら、また命じる事があるからな。」
 カエサルはそう言って、かつて無感情だった奴隷を居室から退出させた。今のサムニスには、多少の感情があるらしい。


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