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  虚弱と壮健 Part II (その3)
  

  アポロニアへ出発するにあたって、カエサルが若者達に立派な馬と鞍を贈ってくれたのは良いが、オクタヴィアヌスは相変わらず乗馬が苦手だった。
 カエサルと面会してから三日後、オクタヴィアヌスとアグリッパは補給部隊と一緒に一路ブリンディシ ― イタリア半島南東部の港町へ出発した。それはオクタヴィアヌスにとって苦難の道のりでもある。
 ヒスパニアからの帰路ほどではないにしても、騎馬での行軍はこの虚弱体質の美青年にとってはひどく消耗するものだった。アグリッパは最初からそうなるだろうと予想していた。
 カエサルから贈られた馬にしても、一頭はやや気性が荒く御すのに技術を要するが中々の駿馬、もう一頭は大人しくて乗りやすいがあまり脚は良くないと来ている。最初から若者達のどちらにどの馬が贈られたのかは明白だった。
 自然と、アグリッパは補給部隊の前方へ、後方へと走り回って立ち働き、オクタヴィアヌスは隊列の最後尾にやっとついてくるという形になった。ブリンディシまでの四十日あまりの行軍中、それがずっと続いた。

 面白い事にこの部隊のお荷物のような美青年は、ブリンディシに到着する頃にはすっかり人気者になっていた。遠いとは言えカエサルの親戚である事も、その要因だろう。もう一つは、オクタヴィアヌスが意外にも話上手、聴き上手という事にあるらしい。
 駆けずり回るアグリッパとは違い、じっくりと隊列についてくるオクタヴィアヌスは、補給部隊の兵士達と仲良くなって、度々話す機会があった。兵士達は長い行軍中、様々な愚痴や不平を口にするが、オクタヴィアヌスは美しい顔に穏やかな笑みを浮かべて、それを静かに聞いている。
 「それであなた、これをどう思いますかね。」
と兵士に尋ねられると、オクタヴィアヌスは小さな顎に手を当て、すこし首を傾げてから答えた。多くは微笑みながら兵士に同情的に頷くのだが、最終的には穏やかに説き伏せているのである。物は考えようであり、直面している事態がそうであるには、それなりの理由がある。だから、一度この困難に立ち向かってみてその後でもう一度考えてみよう…というような論法だ。
 冷静に考えればいかにも政治家の使いそうな手だが、オクタヴィアヌスという若くて呆れるほど美しく、小柄で華奢な青年が穏やかに話すと、相手はいつの間にかオクタヴィアヌスに同意せずには居られなくなるのだ。
 (妙な才能だな。)
 アグリッパは感心した。いかにも「積極的に人の心を掴む」という感じのカエサルの口調とも違うし、かのキケロのような厳格で格調高い語り口でもない。オクタヴィアヌスの持っている雰囲気は決して軍事行動向きではないが、政治向きであることは、アグリッパにも分かった。

 一方、アグリッパである。
 補給部隊がプリンディシに近づくに従って、彼は殆ど補給部隊副隊長か隊長補佐のようになってきた。もちろん、隊長が居るのだがこの男はアグリッパをすっかり気に入ってしまった。行動力や洞察力に長け、落ち着いているのでこの上なく軍人向きで、かつ強靭な肉体と精神の持ち主だ。隊長はたちまちアグリッパを頼りにするようになった。だいぶ暫くしてから、アグリッパがオクタヴィアヌスと同じ十八歳と知って腰を抜かした。
 この最終目的地をアポロニアに定めた補給部隊は、オクタヴィアヌスとアグリッパという絶妙の同行者を得て、妙な一体感を増幅させながら行軍することになった。

 もっとも、オクタヴィアヌス自身はプリンディシが近づくに従って ― つまり旅が長くなるに従って、どんどん消耗していく。例によって楽天的な病人の彼だが、顔色は悪いし、食事は僅かしか口にしないし、いつもに増して消化の具合が悪い。部隊の兵士は皆こぞってオクタヴィアヌスを心配して、どうにかしろと迫るので、アグリッパはすっかり閉口してしまった。
 どうするもこうするも、カエサルに命じられた以上自分は飽くまでもオクタヴィアヌスと行動を共にしなければならないし、オクタヴィアヌスも離脱する気など毛頭ない。その上、真っ青な顔で就寝前は必ずアグリッパに、
「明日も順調に進めると良いな。」などと言うのだ。
一番順調でないのは、この万年下痢症状の美青年である。
 馬に跨るのも辛いのか、ほとんど馬の首にもたれるようにして揺られているオクタヴィアヌスを見ると、どこかの捕虜か、誘拐された貴族の子供か、生け捕られた小動物のようだ。いっそのこと、補給物資と一緒に革袋にオクタヴィアヌスを詰め込んで、荷馬車の中に積んでおいた方が良いのではないかとさえ思える。実際、不可能ではあるまい…

 オクタヴィアヌスが荷物の一つになる前に、部隊はブリンディシに到着した。ここからは、船である。アドリア海経由でイオニア海を航行し、ギリシャのアポロニアを目差す。
 オクタヴィアヌスは乗馬から解放されたが、今度は船酔いとの戦いだった。季節は冬に向かっており、海が多少荒れたことも不幸だった。
 船酔いというものは、多くの人に程度の差はあれども発生するものらしい。陸上の行軍は一向に平気だった兵士たちも、最初は少々船酔いをした。しかし、さすがに彼らは一日か二日たてばすっかり慣れてしまった。アグリッパに至っては例外的に、最初から全く酔わなかったのである。驚いた船長がアグリッパに君は漁師出身かと尋ねたぐらいである。
 オクタヴィアヌスは ― アグリッパのみならず、補給部隊の兵士全員が予想したとおり、ひどい船酔いになって倒れてしまった。まだ船が港を出ないうちから、船べりにはりついて吐いていたのである。例の船長は、船酔いどころか別の病気に違いないと思った。ともあれ、ひとしきり吐くだけ吐いた後、オクタヴィアヌスは船底に引きこもって寝込んでしまった。

 陸上の行軍と違って、船に乗ってしまうとアグリッパも暇になった。何せまだ戦争が始まったわけではない。美しい海を眺めながらの気楽な船旅の良さを、オクタヴィアヌスにも味あわせたいが、それどころではない。アグリッパは船底のオクタヴィアヌスの枕元に付き添い、さすがに何か食べさせなければとあの手この手を使ったが、一向に成果を上げなかった。
 アグリッパが枕元で途方にくれると、オクタヴィアヌスも流石に申し訳ないと思ったらしい。
 「済まない、アグリッパ。でも、大丈夫だよ。じきにアポロニアに着くのだから。」
 着く前に飢え死にするんじゃないかと、アグリッパは半ば呆れながら、そっとオクタヴィアヌスの額に大きな手を置いてみる。オクタヴィアヌスは少し微笑むと、そのまま目を閉じて眠ってしまった。

 アポロニアに向かう船の中では、船酔い対策会議が流行りになった。もちろん、兵士たちはとっくに慣れているのだから、オクタヴィアヌスのためのものに他ならない。
 兵士たちは、自分の田舎で信じられている船酔い対策 ― 要するにまじないなどを披露しては、検討する。しかしそれの多くは「何かを食べてから」踊るだの、祈るだのというものだった。オクタヴィアヌスはまったく口からの食料を受け付けない状態に近いのだから、どうしようもない。
 かろうじて、船が補給の為に島に停泊した時にアグリッパが船底からオクタヴィアヌスを運び出し、ようやく陸上で軽い食事を摂る事が出来た。そうするたびに、アグリッパはまたオクタヴィアヌスを船に戻すことに躊躇するのだが、本人はまったくその気配がない。
船が出る時間になると、さっさと自分の足で船に戻ってしまい、またしたたかに吐いて船底に倒れこむのである。
 このサイクルが出来てくると、アグリッパも心配しなくなった。要するにオクタヴィアヌスは虚弱であり、変に頑丈なのだ。

 ある日、船底のオクタヴィアヌスの具合が良さそうなので、アグリッパは彼を甲板に誘った。船はギリシャに近づいており、海と空は更に青く事の他美しい。気温も暖かく、波穏やかで風も気持ちよかった。
 甲板に出たオクタヴィアヌスは、少し表情を明るくした。そして多めに息をすると、身を乗り出して海を眺めた。そこで、アグリッパが「意外に頑丈だ」という話をすると、オクタヴィアヌスは笑い出した。美しいギリシャの海と空に溶け込んだオクタヴィアヌスの笑顔に、アグリッパは軽く眩暈を覚える。
 「そうかも知れない。死んだ祖母に言わせると、私は長生きをする相らしい。」
「だといいな。」
アグリッパが苦笑気味に言うと、オクタヴィアヌスはまた僅かに笑った。
「実際に今、こうやって生きているから、本当だろう。海と空は青く、アポロニアはもうすぐだ。」
「そうだな。着いたら忙しくなる。」
アグリッパの言うとおりだった。アポロニアには、パルティア遠征のための拠点を作らねばならない。軍勢の受け入れ施設の建設や、物資補給路の確保、商人との交渉やその他雑多な仕事が山積しているはずだ。
 その上、若いオクタヴィアヌスとアグリッパには勉強も課せられていた。ギリシャの政治学者,哲学者,修辞学者などからいくらかの講義を受けるようにと、カエサルに指示されている。今回のアポロニア行きは、実地訓練と共に小さな留学も兼ねていた。
「忙しいが、気候的にはよかった。」
 アグリッパはそう付け加えた。もうすぐ冬がやってくる。ひどく寒がりですぐに風邪をひく体質のオクタヴィアヌスには、ギリシャの気候の方が良いだろう。
 「ありがたい。カエサルはそれも見込んで、私たちをアポロニアに送ったのかな?」
 そうかも知れない、とアグリッパも思った。早くギリシャの地に慣れて、パルティア遠征に備えろ、という事でもあるだろう。多忙なギリシャでの生活になりそうだが、実りの多い時間になるに違いない。
 アグリッパは、自分の胸が期待に膨らんでいるのに気付いた。アグリッパはそれを言おうとオクタヴィアヌスの方を振り返った。しかし、そこにその姿はなかった。船べりにしがみついたオクタヴィアヌスの小さな体が、海の方に上半身を乗り出して、盛大に吐いていたのだ。殆ど食べないのに、どうしてこんなに吐くものがあるのだろうかと、アグリッパは不思議に思う。いっそのこと、短衣のように口から体を全部ひっくり返して、腹の中のものをきれいにしてしまった方が、吐くより手っ取り早いかも知れない。

 オクタヴィアヌスが衣服のように表裏にされる前に、船はアポロニアに到着した。補給部隊と若者二人は先行部隊長エディニウス傘下に入り、ギリシャでの生活が始まった。
 オクタヴィアヌスとアグリッパにとって、実地訓練と共に、勉学面でも充実した毎日が続いた。
 翌年の三月十五日は、そうしているうちに何事もなくやって来た。




あとがき
 Foolscapの開設二周年記念小説「虚弱と壮健 PartU」を読んでくださり、ありがとうございました。前回この作品を書いた時、いつか続きを書こうと思っていたので、嬉しいです。しかし、また中途半端な所でおわってしまいました。オクタヴィアヌスとアグリッパが歴史の表舞台に登場するのは、この後なのですが…
 今回も登場人物を極端に制限した作りになりました。この中途半端な終わり方は、当然続きを書くものと思われ、その時はまたあらたな登場人物も現れることでしょう。
 また「虚弱と壮健 Part V」を皆さんに読んでいただける日が来るように、努力したいと思います。
                                   1st July 2005
 
 

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