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  虚弱と壮健 Part II (その1)
  

  アグリッパはひとまず、オクタヴィアヌスの家で生活することになった。最初にローマに出てきた時、すぐに出陣することになっていたので、住まいを定めていなかったからである。オクタヴィアヌスの家は、即ち母方の祖母・カエサルの妹の実家であり、つまりはカエサルの家のひとつだった。しかし、カエサル自身は主に最高神祇官邸を使用していた。さらに、彼には多数の愛人宅もある。若者たちが家でカエサルに会う事は殆ど無かった。
 オクタヴィアヌスの祖母は既に故人で、姉も嫁いだため、彼には家族がなかった。僅かな使用人と奴隷たちだけの、静かな生活だったのである。そこにアグリッパが加わったわけだが、二人は使用人・奴隷たちにとっては実に手のかからない、仕えやすい住人だった。
 更に加わったのが、サムニスである。この奴隷は主人からして曖昧だった。どうやら、カエサルと、オクタヴィアヌス・アグリッパ双方へ半々の割合で行き来しているらしい。若者二人の下に居るときは、別段何をすると言うわけではない。ただ二人のそばに付き添っているという風情だった。若者たちは、この事実上の「カエサルのお目付け役」が嫌いではなかった。

 ローマに戻ってからのオクタヴィアヌスとアグリッパの日常は、しばらくカエサルを観察することに費やされた。執務にあたるカエサルの取り巻きの、そのまた外側から、終身独裁官の仕事振りを見ることもあったが、主にはカエサルが発令した様々な政策を学ぶことが、「観察」となった。
 法治国家ローマであるから、まずカエサルが施行した多数の法律・制度を法務官から説明され、それに目を通す。そして政策現場に出向き、実務を見学したりもした。どの現場に行っても、カエサルを知ろうとする二人の若者は歓迎された。こういう若者は少なくないのである。もっとも、多くの若者の場合政治家である自分の父親に付いて学ぶものだし、年齢的にはもう少し上が多かった。オクタヴィアヌスとアグリッパは、ともに18歳。親はなく、平民の二人はそういった若者の中でもやや異色の存在だった。
 しかし、オクタヴィアヌスの桁外れの美貌と、アグリッパの年齢不相応の落ち着き以外は別段目立つ事もなく、静かに過ごすのが常だった。
 健康を回復したせいもうあるだろう。アグリッパの見るところ、オクタヴィアヌスはローマに戻ってから輝き出した。やはりこの美青年は、戦場が不向きなのである。
 とはいえ、いつも消化不良で下痢気味という体質に変りはない。使用人や奴隷達も慣れたもので、オクタヴィアヌスの姿が見えないとなると、即座に「あの場所」にいると判断しているらしく、アグリッパもそれに倣うようになった。オクタヴィアヌスにとってはヒスパニアや往復路の重い病状が「調子の悪い状態」であり、ローマに戻っての一般的には調子の悪い状態が、「普通」の健康状態と言う訳だ。
 一方アグリッパにとっては、毎日が新しい経験の連続だった。農村から出てきて、兵役でヒスパにアに行き、戻ってきたばかりである。法律だの、政治だのは彼にとってまったくの新世界だった。もっとも、アグリッパは生来の性格なのか、どこへ行っても落ち着き払っており、驚きや好奇心や戸惑いを顔にあらわさなかった。若者たちの会合に参加しても、二人はいつも冷静と沈黙を守っていた。若者の中でも年下に属しているうえ、二人とも自分の考えを声高に主張して喝采を得ようという気がまったく起きなかったからである。

 それでも、アグリッパにはアグリッパなりに感じるものがあった。特に強く感じたのは、カエサルの「目指そうとするもの」である。カエサルは彼自身の猛烈なまでの優秀さと、機敏さで、彼一人でローマを率いていた。一見、それは彼がライバルたちとの競争に勝ち残った結果であり、終着点に思える。しかし…
 (カエサルが目指しているものは、これから本当に始まるのではないだろうか)
アグリッパは、かなり早い時点でそう思った。カエサルが目指すローマは、内戦がほぼ終了した今、その第一歩を踏み出そうとしていた。この点において、オクタヴィアヌスも同意見だった。
 だが、アグリッパには一つの懸念があった。カエサルは優秀だ。天才であり、英雄だ。あたらしいローマ世界は、これから彼が作り出してゆくだろう。しかし、新しい国の姿は、一朝一夕に出来上がるものではない。カエサルは極めて頑健な55歳で、あと10年や15年は平気で現役政治家でいられるだろうが…
 (カエサルに、もしものことがあったら?)
 この疑問は、さすがにオクタヴィアヌスにも言いかねた。しかし、カエサルの右腕と言われるアントニウスや、デキウス・ブルータスなどを観察してみても、カエサルほどの能力があるとは、とても思えなかった。と言って、ほかに適当な人材は周囲に見当たらない。アグリッパよりも少し年上 ― 30歳前の若者たちを見ても、アグリッパにはピンと来る人物が思い当たらなかった。
 (こんな事を考えるのは自分だけなのだろうか)
 アグリッパは首をかしげた。きっと、そうなのだろう。ただ、カエサルが引退する頃、オクタヴィアヌスや自分は、誰が率いるローマで生きることになるのか、それがぼんやりとした疑問として、アグリッパの心の隅にわだかまった。

 ローマに戻ってからの若者二人の生活は、非常に充実したものだったが、長くは続かなかった。カエサルに、ギリシャのアポロニア行きを命ぜられたのである。
 カエサルは、いよいよ大国パルティアへの遠征を決定したのだ。もちろんヒスパニアでの内戦平定など問題にならない大軍が動員される。その大軍の集結地の一つが、アポロニアである。オクタヴィアヌスとアグリッパは、大軍に先立ってアポロニア入りし、兵士たちの受け入れ準備と、軍隊の編成、基地の設営、情報収集などの遠征準備にあたるようにとの、任務が与えられたのである。
 この任務については、珍しくカエサル自らオクタヴィアヌスとアグリッパを呼び出して言い渡した。


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