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  虚弱と壮健  (その3)
  

  夜中に降り出した雨が、朝まで続いた。昼近くになって上がると、アグリッパの隊は、陣営の塹壕補修に向かった。ここ数日続けられていた和平交渉は難航しているらしい。何にせよ、状況はカエサル側に有利だった。それでも、陣営の守りを怠る訳には行かない。雨で崩れた塹壕補修は、重要な任務だった。
 塹壕、と言うより、堀に近い。底は人背丈二人分ぐらいの深さに掘り込まれ、上は堤防のように幅の広い壁になっていた。底に溜まった泥を掻き出し、排水をするのが、その日の仕事である。
 こうなると、兵士は戦士なのか土木作業員なのか分からない。ローマの軍隊においては、ごく普通の事だった。陣営を作れば塹壕や堀を作り、川に当れば橋を架ける。山道も切り開くし、落とし穴も作る。兵士達はみな、体中を泥まみれにしての作業となった。誰が指揮官だか、古参兵だか、新参兵だか皆目見当のつかない有り様だ。
 「見ろよ、アグリッパ。カエサルだ。」
 アグリッパの前で作業をしていた男が、振り返りながら言った。男が指す方を見上げると、なるほど塹壕の上をきらびやかな一団が近付いてくる。先頭を歩く背の高い男が、カエサルらしい。兵士達は皆作業を中断し、諸手を挙げ、総指揮官の登場に歓声を上げた。カエサルも日に焼けた顔に笑みを浮かべ、手を挙げて応える。隊長があたふたと壕を登り、カエサルの前で敬礼した。カエサルは泥を気にする様子もなく、隊長の肩に手を置いて、作業の労をねぎらっているらしかった。
 (たいした物だ。)
 アグリッパは思った。その姿を現しただけで、兵士達はみな歓喜の声で迎える。その昂揚感は戦闘においても維持されるだろう。そんなカエサルの姿は、さすがに輝いて見えた。
 カエサルに従ってやってきたのは、これまた身なりも立派な、輝かしい数人の若者達だった。アグリッパよりやや年上か、同年齢に見える彼らは、恐らくローマの有力者の子弟達だ。ローマでは上流階級の若者を、戦場見学に出向かせる。現場経験を積む事によって、将来の政治家・軍人としてのエリート・コースへの道を拓こうとするのである。カエサルも、そうした青年たちの教育に熱心だった。ここ数年、戦場に臨むカエサルの元には、常に英雄の側で学べる喜びに満ちた、青年達の姿があった。そして、彼らはカエサルの忠実な生徒となり、優秀な部下へと育って行くのである。
 カエサルは青年達に、壕の上に立ったまま塹壕や防柵、堀の重要性について語り始めた。
(一挙両得というやつだ。)
 再び手を動かしながら、アグリッパは思った。青年達への教育はもちろんだが、こうする事によって、工事に従事する兵士達のやる気も起こさせているのだ。総大将が、若きエリート達にその工事の重要性を語ってみせれば、たとえ泥にまみれても気分を良くしない兵士はいない。
 その時、奇妙な事が起った。カエサルに従う青年達の最後尾に、目立たぬ身なりの男が一人、所在無げに立っていた。その男が、何となく塹壕を覗き込んだとたん、大声を上げたのである。
 
「アグリッパ!」

 その場に居た人々が、驚いて一斉に振り向いた。しかし声の主は既に居なかった。足を滑らして、壕の上から泥沼めがけて真っ直ぐに落ちていたのである。
 一方、呼ばれた方も元居た場所には居なかった。道具を放り出し、走り出していた。結果、アグリッパの脳天に男が一人、落下・直撃したのである。
 今回は、フワリ ― とは、行かなかった。

それにしても、よく降ってくる男である。

 首筋を冷やしながら、アグリッパは少し呆れた。
「まだ痛むか?」
 泥にまみれてはいるが、無傷のオクタヴィアヌスは、心配そうにアグリッパの顔を覗き込んだ。
「大丈夫。大した事はない。」
 アグリッパが言うと、オクタヴィアヌスは少し安心したように肯いた。落ちてきたのが小柄な男でよかったというものである。肥満でもしていようものなら、ひとたまりも無い。
 塹壕補修作業は、休憩に入った。カエサル一行は暫し足を止め、兵士達と歓談している。
 (和平交渉は決裂か。)
 アグリッパは少し離れた井戸のほとりで、首を冷やしていた布を絞りながら思った。カエサルは兵士一人一人に声を掛けつつ、朗らかな勇気づけをしているらしい。ここまでやってきて、わざわざそうするという事は、遠からず戦闘が始まる事を暗示しているように見えたのである。どこまでも人心を掴むのが上手い男だ。
 「どうやら、会戦になりそうだな。」
 突然、オクタヴィアヌスが言った。アグリッパはぎょっとした。オクタヴィアヌスの泥に汚れた、けれど美しい横顔の表情は変らない。視線の先にカエサルが捉えられている。アグリッパと同じ事を考えていたらしい。
 「所で…」
 アグリッパは井戸から水をくみ上げた。
「オクタヴィアヌス。きみはどうしてここに居るんだ?まさか志願したのか?」
「その、まさかだ。」
 アグリッパは水の入った桶をオクタヴィアヌスの前に突き出した。
「遠い親戚が…」
 言いながら、オクタヴィアヌスは桶に顔を突っ込んだ。暫らくして顔を上げた彼は、情けなさそうに言った。
「…カエサルなんだが。遠征だと言うので、頼んで連れてきてもらったんだ。」
「カエサルが?」
「そう。私の母方の祖母が、カエサルの妹なんだ。」
(それはまた、随分遠い親戚だな。)
 つまり志願兵というより、遠い親戚・カエサルを頼って戦場見学をしに来た訳だ。カエサルを取り巻いている青年達の末席に居るらしい。オクタヴィアヌスは顎から水をしたたらせて、アグリッパの腕を取った。
 「あの時、アグリッパは出陣すると言っていただろう?だから会えるんじゃないかと思っていた。探そうとしたけれど、昨日まで旅の疲れで寝込んでね。今日初めてカエサルについてここに来てみたら、きみが居て…」
「落ちてきた訳だ。」
「そう。」
 笑みが、美しいオクタヴィアヌスの顔いっぱいに広がった。
 カエサルと青年達は兵士達との歓談を終え、作業再開となったらしい。二人はカエサル達の方へ歩き始めた。
 それにしても、二人とも泥だらけの、汚いなりである。オクタヴィアヌスがカエサル一行の元に戻ると、彼らの服装の美しさに比して、それが一段と目立った。しかし、服の中身が一番美しいのはオクタヴィアヌスである事に、疑いはなかった。
 「また、会いに来て良いかい?」
 オクタヴィアヌスは振り返りながら言った。
「もちろん。」
 答えるアグリッパを、 カエサルが暫らくみつめていた。それから妹の孫に当る、遠い親戚の青年に訊ねた。
「知り合いかね。」
「はい。」
「そうか。」
 もう一度、カエサルはアグリッパを見つめ、少し笑ったようだった。しかし、すぐにマントを翻し、兵士達を激励する言葉を残して、青年達と共に立ち去った。
 アグリッパは去って行くカエサルと、オクタヴィアヌスの後ろ姿を見送った。背が高く、悠然とした総指揮官と、小柄で痩せた青年の背中が対照的だった。

 カエサルは多忙である。和平交渉が不調に終わり、不本意ながら会戦で決着をつける事になったのだから、なおさらである。翌日に予定された戦闘の作戦を立て、会議にかけ、軍団長達に指示を出す。補給路の確認報告を聞き、密かに斥候を放ち、兵士に会えば勇気づけ、豊富とは言えない資金繰りを相談され、粗末な食事をしたかと思えば、ローマからの使者に会う。本国の情勢報告に目を通し、自分の不在期間の首尾を確認し、手落ちがあれば解決策と担当者を決め、今後の対策を練る。明日、大勝しても戦後処理が待っている訳で、直ぐには帰国できないから、ローマの留守居役にも絶え間なしに指示を送る…とにかく彼には尽きる事の無い仕事が山積みだった。
 そんな事情で、カエサルが就寝しようとした時は、すでに夜明けの方が近くなっていた。しかし、最後の斥候がカエサルに直接報告をしに来た。サムニスである。奴隷である彼に戦闘義務はないが、この男はカエサルの目となり耳となるのを生きがいとしている。カエサルが個人的に与える報酬は、すでにサムニスを奴隷から解放するに十分な財になっているはず だが、好んで奴隷のままでいる節があった。
 万事順調との報告をするサムニスを見て、カエサルは昼間の珍事を思い出した。
「サムニス、今日あのアグリッパに会ったよ。」
「そうですか。」
 サムニスは表情を変えない。カエサルは構わずに続けた。
「やはり、お前の報告した通りの男だな。私の勘は当っていたよ。」
カエサルは、一つ大きく息をついた。
「私はあまり、神頼みをしない。目的は頭脳と行動力で、自ら達成するものだと思っている。達成してから神に感謝はするが、飽くまでも自力が信条だ。
しかし、神は時として悪戯を仕掛ける。私がやろうとしていた事を、先回りして終わらせてしまう。そうして私が驚くのを面白がっているのだろう。しかし、それは驚きと共に、喜びでもある。今日、それをまざまざと知ったよ。知り合いだったか…」
最後の方は、独り言で、しかも笑いにかき消されていた。表情を変えないサムニスに、カエサルは改めて言った。
「もういいぞ、サムニス。ご苦労だった。明日は何処ででも戦の成り行きを見ているがいい。」
 サムニスは軽く会釈をして、天幕から出て行こうとした。その間際、カエサルが思い出したように、言葉を投げた。
「おい、サムニス。アグリッパの女に関するお前のあの推測、反対方向に間違っていたぞ。」
 しかし、間違っても仕方が無いと、カエサルは思った。


 
→ 虚弱と壮健 4
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