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  虚弱と壮健  (その4)
  

 アグリッパは、オクタヴィアヌスと会う機会が多くなった。オクタヴィアヌスの方が、アグリッパを訪ねてくるのである。
 まず、ムンダでの会戦の翌日、真っ青な顔でやって来た。ローマ側の圧勝だったが、やはり殺し合いである。アグリッパの安否を気にして、訪ねてきたのだ。
 しかしアグリッパにしてみれば、最前線で激闘に参加した自分より、この乗馬の下手な友人が乱闘の間どうしていたのかの方が、余程心配だった。戦闘開始の頃、カエサルが真紅のマントをたなびかせ、軍団と共に突進するのを見たからである。まさか、それについていったのではあるまいと思ったが、さにあらず。オクタヴィアヌスは死ぬ思いでカエサルの後に従ったらしい。しかし馬は言う事を聞かない。そのうち具合も悪くなる。
 結局カエサル命で護衛兵に守られながら後方に退いたというのである。一緒に話を聞いていたアグリッパの同僚達は、この美青年の間抜けな初陣に大爆笑した。

 軍勢はローマへの帰路につき始めた。

 オクタヴィアヌスは、食事の時や夜などにアグリッパをよく訪ねてきた。そうしているうちに分かった事は、まずオクタヴィアヌスがとんでもなく虚弱体質である事だ。
 ひどく小食で、消化不良らしい。その上腸も弱いので、下痢を起こしては、度々しかるべき場所にこもった。体力もなく、青い顔をしてはすぐに疲れ、どこででも寝てしまう。アグリッパと話していて、黙ったかと思うともう寝ていたりする。アグリッパを訪ねない日は、寝込んでいると考えてまず間違いなかった。この体で、よくもヒスパニアの戦場まで来たものだと、アグリッパは感心するより、呆れてしまった。
 次に、「カエサルのとても遠い親戚」という、微妙な生い立ちも分かってきた。父親は地方出身の平民である。しかし数百人いる元老院議員の末席には、名を連ねていた。そんな訳でオクタヴィアヌスはローマで生まれ育った。
 父親は早くに死に、母親も他家に嫁いだため、祖母―これがカエサルの妹なのだが―に育てられた。特に裕福でもなく、貧しくもない。要するに中くらいの育ちなのだ。すさまじい美貌の割に、粗末な衣服で居るのは、経済的理由ではなく、オクタヴィアヌス自身にそちらへの興味がないかららしい。学問に特別熱心でもなく、ギリシア語も得意ではない。
 あらゆる意味で、ローマの一般人・オクタヴィアヌスである。カエサルの「ファン」である事も、ごく普通の若者としての共通点だった。この点、アグリッパとて例外ではない。
 親戚とは言え、「一カエサル・ファンの若者」に過ぎず、しかも虚弱体質。そんなオクタヴィアヌスを、同行させてくれたカエサルは親切である。アグリッパの同僚たちは、ある種の羨望から、子供の時分からカエサルに良くしてもらったのか、オクタヴィアヌスに訊きたがった。しかし、彼は済まなそうに否定した。会って話すようになったのは、今年に入ってからだという。
 これは仕方がなかった。オクタヴィアヌスは未だ17歳である。カエサルがガリア遠征に出かけたのがオクタヴィアヌス5歳の時。それ以降カエサルは転戦に転戦を重ね、ローマにあってもカエサルより忙しい人間は居ない。妹の孫などに会う機会が無いのは、当然だった。
 アグリッパは、あの馬場での事を思い出した。オクタヴィアヌスに馬を贈った親戚というのは、カエサルの事ではないか。これは正しかった。カエサルは戦場に出られる年齢に達した祝いとして、あの馬を贈ったのだという。技術的な無理を承知で、練習しようとしていた辺り、オクタヴィアヌスなりに、英雄カエサルの好意が嬉しかったのだろう。

 (それにしても…)と、アグリッパは思う。
(妙な縁で友人とは出来るものだ。)
 自分とオクタヴィアヌスは、ごく普通のローマ市民だ。ただし、まったく対照的な意味で。アグリッパは、地方の農村出身であり、土地さえあればブドウでも作っていただろう。しかし周囲の人間が言う通り、自分は兵士に向いている。百人隊長ぐらいには、なれると良いと思っている。下士官で軍務を全うし、退役後はまたどこかの農村で、畑を耕す事だろう。
 そんなアグリッパに対し、オクタヴィアヌスはローマ育ちで、兵士にとことん不向きだ。それでもカエサルについて戦場見学に来たのだから、それなりに目指すものがあるのだろう。何にせよ、畑仕事だの、コロニーだの、退役軍人だのには縁の無い、ローマでの人生を送る事だろう。
 若い二人の前には、長い長い人生の道のりがある。ローマで、そしてこのヒスパニア戦役で、どういう訳か二人の道が交叉した。そしてまた、それぞれの、恐らく平凡な人生が積み重なって行く。その途中で偶然にも出来た友人なのだから、これから先少しは手紙のやり取りでもする事になりそうだ。
 (パピルス代がかさむのは、かなわないな。)
 アグリッパは、ぼんやりと思った。

 そんなアグリッパが、カエサルに呼び出された。ヒスパニアからローマへの行軍3日目の夜である。
 さしものアグリッパも、緊張した。一人でカエサルの天幕に出向くと、奴隷が中に案内した。天幕の奥で、カエサルが独りテーブルに着いて何か書き物をしていた。下を向いたままの総指揮官に、アグリッパは敬礼をした。
 「すまない、もう終る。座ってくれ。」
 アグリッパは戸惑った。この17歳の一兵卒が偉大なるカエサルの前で、いきなり椅子に座ってよいものだろうか。
 考え込んで突っ立っていると、カエサルが書き物を終えて顔を上げた。そこに若者がまだ立っているので、総指揮官は笑いながら言った。
 「構わないから、座りたまえ。折り入って話しがあるのだ。」
 その笑顔につられて、カエサルの前の椅子にアグリッパは腰掛けた。背を真っ直ぐに伸ばし、両手を握りしめた。緊張は解けていない。
 一方、カエサルの方はにこやかな表情のまま、長い脚をゆったりと組んだ。そして前置きなしに言った。
「アグリッパ。きみを、私の直属にしようと思う。」
 アグリッパはどう反応してよいのか分からず、視線をカエサルに向けたまま、黙ってしまった。そうして、カエサルの言おうとしている事は何か、考え始めた。
(所属変更を知らせるためだけに、わざわざ呼び出すだろうか…)
 カエサルも、それを察したらしい。
 「きみには、将来大軍を託せるする指揮官になってもらいたい。歩兵から始めてたたき上げでなるのも一つの方法だが。私の直属になって、早い内に指揮系統から軍事を学び、実戦経験を積むのも手だろう。この場合は、最初に素質が見出せる事が条件だが、アグリッパ、きみはその条件を満たしている。」
 「恐れ入ります。」
 取り敢えずアグリッパはそう応じたが、まだカエサルの核心がつかめない。
「それから…」
カエサルは脚を組み替えた。
「きみにはパートナーが居る。オクタヴィアヌスだ。これからは常に彼と行動を共にしたまえ。私は今後、きみたちに様々な任務を課す。もし二人で解決できない事態となったら、遠慮せずに直接私の指示を仰いでくれ。」
 ここまで聞いて、ようやくアグリッパはカエサルがしようとしている事が解ってきた。合理的な考えだ。立身しようとしている若者が二人居るのなら、一緒に教育したほうが、互いに成果が上がる。そして…
 (虚弱児を託された訳だ。)
 アグリッパは、この事をカエサルの表情から読み取った。カエサルの方も、読まれるべく、それらしい笑みを浮かべている。アグリッパは立ち上がり、改めて敬礼した。
 「解りました。明日から早速任務に就きます。」
「よろしい。用件は以上だ。」
 カエサルも立ち上がった。そして、静かに、ゆっくりと言った。
「アグリッパ、きみたちは若い。時間は沢山ある。」
 アグリッパは、また黙ってしまった。するとカエサルは悪戯っぽく唇の端を上げ、愉快そうに言いながら、アグリッパの肩をかるく叩いた。
「まぁ多少なら、私にもあるだろう。…お休み。」
 アグリッパは、カエサルの天幕から出ていった。入り口に、さっきの奴隷が立っていた。内側からの灯かりで、その顔が僅かに見えた。
(…なるほど)
 アグリッパは声には出さず、自分の陣幕へと歩き出した。

 「サムニス。」
 カエサルは若者の去った天幕の中で、また椅子に腰掛け、奴隷の名を読んだ。サムニスは音も立てずに入ってきて、主人の命令を待った。
 カエサルは頬杖をつき、左手を顎に添えて、やや視線をぼんやりと空中に浮かせた。
「アグリッパは、お前に気付いたようだな。」
「はい。」
 サムニスは相変わらず表情を変えない。
 カエサルは、若者の去り際、彼が奴隷の顔に目を留めたのに気付いていた。
「目端も利くというのは、結構。」
これは独り言だった。
(それを口に出さないのは、なお結構だな)
 カエサルは、段々可笑しくなってきた。自分が見出した人材が、ものの見事に目的に適っているのは、快感だ。それから、自分が17歳の頃を思い出した。アグリッパとはまったく異なる青春時代だった。少なくとも、今のアグリッパが持っている落ち着きはなかったような気がする。
 とにかく、カエサルは新たな課題に大きな期待と、楽しみを見出した。アグリッパは予想以上の軍人に育つに違いない。それに、さほど手を煩わさないで済むだろう。とにかく、カエサルにはやる事が山積している。その意味でも、これ以上ない若者を得たものである。自分には、「若者運」のようなものがある。カエサルはそう思い始めた。
 カエサルは立ち上がった。今日の仕事はこれで終わりである。寝るまえに、奴隷に命じた。
「サムニス。お前は明日から、オクタヴィアヌスとアグリッパ付きにする。」
「お守りですか。」
「そうとも言う。」
「…わかりました。」
「なに、あまり手の掛からない連中だ。せいぜい良く観察して、報告してくれ。」
「報告は頻繁な方が良いですか?それとも…」
「その必要はないだろう。時間はあるのだから。」
 カエサルの人生は、常に明日への希望の連続だった。これからもそうであろう。彼自身が、その点を一番理解していた。

 (妙な事になったものだ)
 アグリッパは、星空を見上げながら思った。とっくに消灯時間を過ぎ、陣営は歩哨達の歩く音以外は静まりかえっている。アグリッパは、ゆっくりと自分の隊の天幕へと、歩を進めていた。
 考えてみれば、短い会見だった。明日から、自分はオクタヴィアヌス付き,カエサル直属の兵士になる。要するに、そういう事だった。
 (名誉なんだろうな)
 アグリッパはそう考えてみたが、あまりピンと来なかった。それこそ、カエサル付きの直属兵士ともなれば、名誉中の名誉だが、オクタヴィアヌスとなるとそうは行かない。アグリッパはローマ下層市民の一兵卒だが、オクタヴィアヌスとて、とくに上層部の人間という訳ではない。まさに「行動を共にする」つまり、同士という訳だ。
 カエサルによると、アグリッパには将来大軍を任せられるだけの素質があるらしい。そう言われたくらいで、有頂天になるような軽率さは、アグリッパにはなかった。カエサルも、そこは十分承知の上で言っているのだろう。だとすれば、事実、その通りだと受け取るしかない。
 (何せ、私の事を調べていたのだからな)
 あのカエサルの奴隷は、アグリッパの隊の周辺で見た顔だった。ほんの2日間程度だったが、アグリッパの注意をひいていた。もっとも、その行動は軍略的なスパイ行為とは思えず、ましてや自分が標的だとは思っていなかったので、さっきまで忘れていた。
 自分の事をわざわざ下調べした上で、オクタヴィアヌス付きとし、これから任務を課すと言う。しかもそれをカエサル自ら通知したのだ。自分も、そしてオクタヴィアヌスも、カエサルに「見出された」と捉えるべきだった。
 (しかし、くにの連中は…)
 アグリッパは、夜空に向かって少し溜息をついた。郷里の両親も親戚も、アグリッパは地道に、真面目に軍務に就き、百人隊長にでもなって退役をむかえ、妻を娶り、退職金を元手に土地を買い、農民に戻るものだと信じている。その道を、いきなり外れてしまった。
 (まあいい。放っておこう。)
 外れてはいても、つまらない道ではなさそうだ。

 アグリッパが自分の天幕に着いた頃、同僚兵士たちはとっくに夢の中だった。アグリッパは歩哨に帰還を報告し、陣幕に入ると忍び足で自分の寝台へ向かった。
 たどりついてみると、そこには先客が居た。
 オクタヴィアヌスである。友人の不在中に来たらしい。本来アグリッパのものである寝台に、うつ伏せに眠っていた。顔だけはこちらに向けて、寝息を立てている。
 アグリッパは、ゆっくりと枕元に座り込んだ。そして美しい友人の寝顔を暫らく眺めていた。とにかく、明日からはこの虚弱青年との任務、ひいては毎日の生活が始まるのだ。
 (そうか。)
 アグリッパは気付いた。
(オクタヴィアヌスが自分に託されたと言う事は、自分もまた、オクタヴィアヌスに託されたという事だ…)
 ふと、オクタヴィアヌスが目を覚まして、枕元に座っているアグリッパを認めた。
「…やあ。」
 彼は横になったまま、億劫そうな声で言った。
「どこに行ってたんだい?」
「カエサルの所に呼び出されていたんだ。」
アグリッパが答えると、
「そう。」
と言い、オクタヴィアヌスはまた目を閉じて寝息を立て始めた。
 アグリッパは、急に、さっきカエサルが言った言葉を思い出した。
「きみたちは若い。時間は沢山ある―」
 お互いに託された若者同士の、潤沢な時間…それは、「いつまでの時間」なのだろう。アグリッパは、ぼんやりと考えながら、立ち上がった。
 そして、今夜はどこで寝ようか、思案し始めた。

 翌日から、アグリッパは隊を離れた。隊長や同僚達は、カエサルによる大抜擢だと言って、喜んでくれた。
 しかし、「オクタヴィアヌスと常に行動を共にし、任務にあたる」という一事は、初日にして早くも挫折した。オクタヴィアヌスが本格的に寝込んでしまったからである。
 後になって分かった事だが、この時の病気は、普段から虚弱な彼の中でも、かなり重い方だった。馬に乗るなどとんでもない話で、ましてやカエサルからの命令をこなすなど、不可能だった。
 結局、アグリッパ一人が駆けずり回る事になった。
 もっとも、軍勢は各大隊の解散地,最終的にはローマに向かっているだけである。カエサルから課される任務は、もっぱら兵站線の視察と、拠点撤去の指示、立ち寄る町への先行と軍団受入れ準備など、地味な仕事ばかりだった。ある時は軍団に先行するが、ある時は最後尾に回る事もあった。「しんがり」を学ぶ為だ。もっとも、今回の場合背後から敵が追ってくる事はなかったが。
 カエサルにはめったに会わなかった。カエサルの直属とは言っても、任務はもっぱらカエサルの部下から発せられる。内乱を鎮圧し終わった今、終身独裁官のカエサルは政治に没頭しているからだった。
 しかしたまに会うと、カエサルはアグリッパににこやかに声をかけた。オクタヴィアヌスが寝込んでいる事も承知の様子で、その点の労もねぎらった。オクタヴィアヌスの症状が最も悪い時は、負傷兵護送の隊に入れられたのだが、その護衛と指揮にアグリッパを指名したのは、カエサルだったのだろう。
 アグリッパは、毎日の任務を終えると、オクタヴィアヌスの居る天幕に戻った。オクタヴィアヌスはどんなに体調が悪くても、気分が沈み込むタイプではなかった。いつも笑顔で友人の戻りを待っている。そして1日の出来事をアグリッパの口から聞くのである。
 そもそも、オクタヴィアヌスは楽天的な病人だった。彼は自分の虚弱さを誰よりもよく理解しており、嘆いても仕方がないと達観している風だった。放っておけば良くなるとでも言うような暢気さで、アグリッパはやがて、オクタヴィアヌスの病状をいちいち気にしなくなった。
 そんな調子で軍勢は進み、順次解散していった。カエサルがイタリア本国に入り、側近を従えてローマに帰還した時、市民は終身独裁官の帰宅を、通りに出て歓迎した。もちろん、迎えられる一団の中には、アグリッパとオクタヴィアヌスの姿もあった。オクタヴィアヌスは、やっと馬に乗れる程度に回復していた。

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あとがき
 私は歴史の専門家ではありませんが、歴史に題材を取るのは好きです。特に、オクタヴィアヌスとアグリッパに関しては、中学生の頃から書きたいと思っていたので、こうして形に出来たのはとても嬉しいです。
 中途半端な終わり方をしていますが、やはりいつか続きを書きたいと思います。何せ、若い二人は、、この後が大変なのですから。
 最後まで読んでくださった皆様に、お礼を申し上げます。そしてもちろん、塩野七生さんに敬意を表して...
                                                                    1st July 2004

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