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  虚弱と壮健  (その2)
  

 アグリッパの、軍隊生活が始まった。
 軍隊という特殊な社会の日常は、事ローマにおいては規律の連続である。兵士の生活全般は決まりごとの中で進行し、実際の戦闘はほんの一時でしかない。将軍の才とは、兵士の規律正しい日常と、非日常である戦闘、そのバランス感覚をいかに上手く利用するかにかかっている。アグリッパはそう思った。
 彼は逞しい体と抜きん出た身体能力、さらに任務に忠実な性格からして、全く兵士向きな男だった。しかし、実際の軍隊生活において、彼は常に鳥のように軍団の様子を空から見ているような心理を持っていた。朝食を取る兵士たち。武器の手入れ、点呼、陣の設営、整然とした行軍、土木作業…それらの「日常」が、いかに勝利を導くのか。アグリッパは一兵卒の目からそれを見出そうとしていた。
 だから、初陣の青年にしてはやや、華に欠けている。まるで百戦錬磨の古参兵のように、落ち着いている。その様子を先輩兵士たちは、
「おい、故郷に残した子供は何人だ?3人か?4人か?」
と、からかったものである。
 戦闘そのものは、本格的にはなかなか始まらなかった。毎日の行軍と、それに伴なう防柵工事に従事した。ただ、防柵工事の小さなほころびを、アグリッパが隊長に報告したことがあった。隊長はこの青年が気に入っていたので、頷くだけではなく、なぜ気付いたのかを訊ねた。アグリッパは答えた。
 「こちらがあまり丁寧に工事をしなかった個所は、敵も重点的には攻めない所です。しかし、敵の中に臆病な兵士が居たとしたら。彼は激戦地点を避けていくでしょう。その先に、工事のほころびがある可能性が考えられます。臆病な兵士が、たまたますり抜けたほころびは、激戦地に投入されようとする敵軍からは良く見えます。かれらは必ずそこへ集中します。その時、味方は挟み撃ちに遭うでしょう。」
そう言って、アグリッパはまた黙々と作業を始めた。
 そんな彼を、遠くから見ていた男が居た。
 ユリウス・カエサル。英雄である。

 カエサルは、ローマの最高権力者になって4年が経とうとしていた。卓越した指導力で様々な政策を遂行する一方、内戦の火もまだくすぶっていた。しかし、今回のヒスパニア戦役を勝利で終えれば、その内戦も終るという段階にあった。
 カエサルはいつも何かしらの、しかも複数の課題を自分に課していた。それをいかにこなすか。彼の趣味のようなものである。そんな課題の一つの解決策を、見出したその日の夜。就寝前に、カエサルは一人の奴隷を天幕に呼び出した。
 奴隷は、名前をサムニスという。
 「ある男の事を調べて欲しい。」
 カエサルは、二人のほか誰も居ない天幕の中で、甲冑を外しながら言った。
 「名前はアグリッパ。恐らく新参兵で、17,8だろう。西側の陣地の防柵工事に従事しているはずだ。これだけで何とかなるか?」
 「はい。」
 サムニスは短く答えた。
 「その男の何を調べますか。」
奴隷にしては、遠慮のない物言いをする。実際、サムニスはカエサルを仕事のパートナー程度に考えている。卑屈に奉仕する相手ではない。その証拠に、カエサルが脱いだ甲冑を受け取ろうともしない。カエサルも、サムニスのその仕事に徹する姿勢が気に入っていた。
 「全てだ。どんな人物かを知りたい。」
「期限は。」
「急ぐ。」
「では、あさっての夜、ご報告に参ります。」
サムニスは、カエサルの反応を待たずに、天幕から出て行った。
(有能だ。)
カエサルは一人、微笑んだ。情報は重要視するカエサルだが、策謀は好まない。だからサムニスのような人材はさほど多くは必要ない。一方、カエサルは自分の直感を信じる性質ではあるが、その裏づけを取らないほど迂闊な男でもない。サムニスは必要な裏づけを持ち帰るであろう。
サムニスは常に、カエサルから任務の理由を聞こうとはしない。その点にもカエサルは満足していた。
 夜明けが近い。カエサルは短衣だけになると、靴を脱いだ。寝台に横になり、目を閉じる。明日は敵に和平交渉の使者を出すつもりだ。口上は出来上がっている。彼は起きているうちに、やるべきことを全て行なう男である。寝るときは、寝ることしかせず、考えて眠れなくなるような事はなかった。

 二日後の夜。サムニスが再びカエサルの天幕にやって来た。
「座りたまえ。」
 カエサルはサムニスにも椅子をすすめた。今日も天幕には二人だけである。
「名前はマルクス・アグリッパ。17歳です。」
サムニスは前置きもなく話し始めた。カエサルは頬杖をついて、奴隷の報告に耳を傾ける。
 「言葉からして、イタリア南部の農村出身。歩兵です。特に教育を受けた様子はありません。ラテン語の読み書きは出来ますが、ギリシア語は出来ません。無口で、落ち着いた性格です。協調性はあります。背が高く、逞しく、体力は十分です。剣の試合をやると必ず勝ちます。足も早い方です。腕力もあるので、土木作業においても有能です。工事中は時々、手を止めて辺りを見渡す癖があります。百人隊長をはじめ、同僚たちの評判は良好です。あまり喋りませんが、人の話は良く聴き、相槌をゆっくり打ちながら、静かに笑うことがあります。」
 「なるほど。」
 カエサルは見聞きした事実のみの報告に、満足した。どうやら彼の直感は当たっているらしい。
 「よろしい。ご苦労だった。」
 カエサルは机上から銀貨の詰まった皮袋を取り上げ、サムニスの前に出した。サムニスは僅かに目を伏せて受け取った。
 「ところで…」
カエサルはいたずらっぽく笑いかけながら、姿勢を崩した。
「女の方は、どうだ?若きアグリッパは。」
「カエサル…」
サムニスは迷惑そうに主人を見やった。
「分かっている。お前は憶測でものを言う男ではない。これは任務外だ。お前の想像するところでは、どう思う?」
「女ですか。」
 サムニスはしばらく考えてから、口を開いた。
「女がいる、という確信は持てません。」
「堅物か?」
「そうは言いません。ただ…」
「何だ」
「カエサルにはお分かりになりにくいと思いますが。」
「言ってみろ」
カエサルはまた笑いながら、身を乗り出した。サムニスは相変わらず渋い顔をしている。
「心にかけている女はいるかも知れません。」
「心にかけている、か」
「遠い存在の…高貴な婦人か、女神に対する憧れ、もしくは思慕のようなものでしょう。」
「それが、私には分かりにくい事か。」
カエサルは半分噴きだしている。
「アグリッパはその女性を実際口説いたり、ましてや手を出したりはしません。」
「やれやれ。」
サムニスがいう事を、カエサルは否定できなかった。
「つまりは、叶わぬ恋か。若者らしくて結構。」
「おそらく、身を捧げるほどの。」
「その点は悪くないな。」
カエサルは立ち上がった。
(しかし、ライバルだ。)


 
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