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  虚弱と壮健 Part W (その3)
  

 オクタヴィアヌスはアントニウスとの連合軍を組んだ。オクタヴィアヌス側の将軍は彼自身と、アグリッパだ。
 アグリッパは当初、拒否した。自分には戦を指揮した経験がない。確かに自他共に認めるオクタヴィアヌスの右腕だが、そんな大役が務まるはずがない。しかしオクタヴィアヌスは笑って取り合わなかった。
「ほかに任せられる人がいないから。」
 酷い事を言う。カエサルの下で何年も戦場を駆け巡った、百戦錬磨の将兵がいくらでもいるだろうに。しかしオクタヴィアヌスの意志は強固だった。これだけは譲れないらしい。
 アグリッパとしては、その百戦錬磨,ベテランの将兵たちに、オクタヴィアヌスを説き伏せて欲しかった。しかし、彼らは力強い表情で『オクタヴィアヌスが指名した以上、頑張れ。大丈夫、自分たちがしっかり補佐する。』などといって励ますので、アグリッパの抵抗は封じられた。

 しかし、いざフィリッピでの会戦となると、さすがにこれはまずいと、アグリッパはもう一度思った。
 オクタヴィアヌスは自分の軍団を引き連れてはいるが、会戦での行動はアントニウスの指揮下に入るべきだと、アグリッパは考えていた。アントニウスはとにかく、そちらに関して有能なのだから。
 しかし、オクタヴィアヌスはアントニウスに、あっさりと自分は自分で指揮を行うと宣言してしまった。その場に同席していたアグリッパは仰天した。無論、顔には出さずに。
 仰天したのはアントニウスも同じだ。かねてから、この若者は顔こそ美しいが、少々ずうずうしいのではないかと考えていたアントニウスである。それでも、戦の経験がない以上、自分の指揮下に入るしかないだろうと思っていた。
 なのに、オクタヴィアヌスは自分の軍団を引き連れて、ブルータスの軍勢を担当するから、アントニウスはアントニウスで存分にカッシウスの軍勢をやっつけてくれと、言ってしまったのだ。
 (冗談じゃない。取り消せ。)
 アグリッパは心の中で何度も繰り返した。アントニウスも同じようなことを考えているような顔をしている。しかしオクタヴィアヌスはそ知らぬ顔で、「ご健闘を祈ります」などと言う。アントニウスの顔は、怒気を含んだようだったが、しかし思い直したようだ。彼は、甲冑の胸を一つたたくと、穏やかに微笑みながら、オクタヴィアヌスに言った。
「分った。オクタヴィアヌスの健闘を祈る。勝利の後、また会おう。」
 若造が自分の指揮下に入らないのは気に入らないが、これで負けてしまえば、それはそれで良い気味だ。坊やの負け分は、自分が取り返してやれば良い ― と、考え直したらしい。

 アントニウスの心が分っているアグリッパは、オクタヴィアヌスに再考を促した。
 アントニウスのとの会談を終え、自陣に戻ってくると、オクタヴィアヌスは将兵たちに、我が軍はアグリッパを指揮官とし、アントニウスの指揮下には入らない事を宣言した。将兵たちはすっかりやる気で、やんやの喝采を挙げた。
 オクタヴィアヌスは、その足で自分の天幕にすたすたと歩いていく。アグリッパはそれを急いで追いかけた。
 オクタヴィアヌスは、重い甲冑の着心地が悪いのか、しきりに首を回したり、肩を押さえたりしている。姿は美しいのだから、何を着ても似合うが、着心地には慣れないようだ。
 アグリッパはオクタヴィアヌスに続いて天幕に入ると、声を低くして言った。
「本気か、オクタヴィアヌス。」
「何が?」
「アントニウスの指揮下に入るべきだ。」
「それは無し。」
 オクタヴィアヌスは少し目を細めて応えた。アグリッパは僅かに首を振り、オクタヴィアヌスの左腕を掴んだ。
「無茶だ。我々には無理だ。」
「そんな事もなかろう。」
「何を根拠に…」
「だってアグリッパ、きみは軍人としての優秀さをカエサルに見出されたのだろう?」
 オクタヴィアヌスは屈託なく言ったが、アグリッパは騙されない。
「そんな話は、カエサルからは聞いていない。私を当てにしようとしても、無茶なものは無茶だ。負けるぞ。」
「それでも、アントニウスの指揮下には入れないよ。」
「オクタヴィアヌス、きみの考えは分っている。アントニウスの指揮下に入れば、彼に屈した事になるかもしれないが…」
「さすがアグリッパ、完璧に理解している。」
「よせ。」
 はぐらかそうとするオクタヴィアヌスに、アグリッパは食いついた。
「いいか、冷静になってくれ。これは戦なんだ。戦うんだ。軍団が、兵士たちが剣を抜き、投石器がうなり、人が殺しあうんだぞ。勝たなきゃだめだ。」
「アントニウスに負けるわけにはいかないんだよ。分っているだろう。」
「分っている。でも、今の敵は反逆者たちだ。カエサルを殺した、暗殺者たちの軍勢だ。彼らに勝たなきゃ、意味がない!」
「彼らに私たちが負けても、アントニウスが勝つだろうさ。」
「オクタヴィアヌス…」
 アグリッパは言うべき言葉を捜した。そうしている間に、声を低くするよう、一生懸命心を落ち着けようとした。
「反逆者たちに負けてでも、アントニウスの指揮下には入れないと?」
 オクタヴィアヌスは笑みを消して、深く頷いた。
「そのとおり。アントニウスにだけは屈しない。」
 戦の目的が分らなくなってきた。
「大丈夫だよ、アグリッパ。」
 またオクタヴィアヌスは微笑んだ。
「きみも知っているとおり、アントニウスは優秀な将軍だ。絶対に反逆者たちに勝つ。彼にはせいぜい、勝者気分を味合わせておくさ。」
「負けた我々はどうなる?」
「負けたことを想定したくないな。」
「したくもなる。」
「まぁ、多少落ち込むだろうけど、大したことじゃない。反逆者たちはどのみち、おしまいだ。ローマ市民は、カエサル暗殺者の始末が終わったとしか、とらえないさ。アントニウスと一緒に帰還すれば、私も勝者の一人だろう?」
「そんなに甘くない!」
 平素、あまり表情を顔に出さないアグリッパも、さすがに目をむいて勢い良く首を振った。
「『オクタヴィアヌスは、カエサルと違って戦下手。今回もアントニウスのおかげで勝てた』と言われるんだぞ?」
「『オクタヴィアヌスはまだ若いから、仕方あるまい』とも言われるよ。」
「『あんな戦下手に、カエサルの後継は務まらない』かも知れない。」
「そうは言われない自信がある。」
 オクタヴィアヌスの顔を見ていると、その自信の根拠は何だと聞きかえす気が失せる。しかも、アグリッパもそれには、多少の同感がある。
 確かに、今回の戦でオクタヴィアヌスが戦功を挙げられなくても、それほどローマ市民の評判は落ちないだろう。戦の負けを甘受してでも、アントニウスには膝を屈しないというオクタヴィアヌスの気持ちは分るが…
「冷静になれ、オクタヴィアヌス。戦に負けるという事は、多数の兵士が死ぬということだ。」
 オクタヴィアヌスは極上の美しい笑みを浮かべ、小さな、小さな声ながら力強く応えた。
「最後の勝者になるには、多少の犠牲は致し方ない。」
 この悪党め ― 叫びそうになるのを、アグリッパはこらえている。もしオクタヴィアヌスに対する、厚い友情がなかったら、実際に叫んでいただろう。
 オクタヴィアヌスは自分の左腕を掴んだままになっていたアグリッパの手を、なだめるようにさすり、また笑みを広げた。
「さぁ、アグリッパ。もう行かないと。開戦だ。将軍がこんな所に籠もっていちゃいけない。それに…」
 もう一度、オクタヴィアヌスは悪戯っぽく微笑み、アグリッパの顔を上目遣いで見つめた。いつもの事だが、アグリッパは眩暈を感じる。今回は、遣る瀬無さも加わっている。それに構わずに、オクタヴィアヌスが続ける。
「…私は、腹の調子が悪い。」
 こうなっては、アグリッパが述べるべき言葉はない。ゆっくりとオクタヴィアヌスの腕を放すと、相手は何事もなかったように天幕から出て行った。
 アグリッパは一人になった天幕で、大きなため息をついた。オクタヴィアヌスは、将兵たちの前で既に宣言してしまっている。もう後戻りは出来ない情勢だった。
 アグリッパには今回の敗戦が分っていた。そして、オクタヴィアヌス軍の負けを、アントニウスが取り戻すであろう事も。
 アグリッパが肩を落としていると、突然オクタヴィアヌスが外から顔を出した。
「アグリッパ、もちろん勝っても構わないのだけど、どうしても無理かなぁ?」
 アグリッパは手近にあった槍を投げてやりたい気分になった。しかし、それを知ってか知らずか、オクタヴィアヌスはもう姿を消していた。

 負けが分っていても、戦ははじまる。アグリッパはその準備に奔走した。
 敵勢の布陣も定まり、アントニウスからも使者が来て、明日の決戦の健闘を祈ると言う。
オクタヴィアヌス陣営のベテラン兵や、将校たちはアグリッパを勇気付けた。
「戦は出た所勝負だよ、アグリッパ。大丈夫。カエサルと共に戦から戦へと、渡り歩いた我々がついているのだから!」
 経験豊かな彼らがそういう以上、勝利を確信するような顔をしなければならない。アグリッパはそれが出来る男だった。それでも気は重い。とにかく、被害と、アントニウスのオクタヴィアヌスに対する優位感を、最小限に抑える事前の努力に奔走した。
 それから乗馬も下手な上に、甲冑を身に着けただけで倒れそうになっているオクタヴィアヌスへの配慮も忘れてはならなかった。とにかく体面を保つ程度には後方に下がらせ、守りを固めさせた。オクタヴィアヌス守備に配された部隊が、まるでいにしえの姫君を守っているかのような意気込みだったのが、アグリッパにとっては救いだった。

 決戦の日の朝。アグリッパは随分早くに起きて、最終的な布陣の確認に出ようとしていた。オクタヴィアヌスは休ませておく。
 奴隷たちが手伝いながら身支度をしていると、サムニスがやってきた。彼はカエサルに仕えていた頃と同じく、戦場にあっては、事前の諜報活動に携わり、その当日はあまり仕事がない。
 「面会希望者です。」
サムニスは平素のとおり、無愛想に言った。
「誰だ。」
アグリッパが聞き返すと、サムニスは短く応えた。
「ガイウス・マエケナス。」
 アグリッパは少し考えた。この決戦の朝に会うべき人名の中に、入っていない。しばらく考えて、二年前、キケロと面会した日の夕方に、オクタヴィアヌスに会いに来た男であることを思い出した。
 「丁重にお断りしてくれ。さすがに今はその暇がない。」
「お会いになった方が良いです。」
 めずらしく、サムニスが意見を言った。
「今日の戦闘に関わる件か?」
「違います。ただ、オクタヴィアヌスには必要な人材かと。」
 アグリッパは当惑した。そして同時に、サムニスには勘があることに思いが至った。どうやら、このマエケナスという男は、オクタヴィアヌスに自分を売り込みに来た男らしい。サムニスの観察眼によると、この人材はオクタヴィアヌスに有益なようだが、さすがに時期が悪かった。
 それをマエケナスに伝えようとした時、天幕が外から開き、明るい顔が入ってきた。
「申し訳ない、さすがに忙しいな、アグリッパ。」

 その妙に明るい顔を見て、そしてアグリッパはもう一度サムニスを見た。奴隷は瞬きだけで、この変に明るい顔の男が、マエケナスであることを伝えていた。そして何も言わずに、天幕から退出する。同時に、アグリッパの身支度を完了した奴隷たちも出て行く。マエケナスは出て行く奴隷たちを背に、少し瞬きしながらアグリッパを見つめている。
 アグリッパは、マントを肩の辺りで直しながら、この訪問者を見つめた。
 今まさに、天幕の外では、兵士一人一人が身支度を開始し、百人隊長たちが最終確認と戦意の鼓舞に努めている。甲冑がぶつかる音がそこここに響き、剣や槍先がやっと差してきた朝日が当たり、キラキラ輝き始めている。
 そんな中、この訪問者 ― ガイウス・マエケナスはきちんとトーガを着込んだ平服で、見方によっては風光明媚な別荘でくつろいでいる男にも見える。歳は若く ― 二十歳のアグリッパやオクタヴィアヌスよりは多少上に見えるが ― 顔の色艶が良い。 
 この男はどういう人物なのか、アグリッパには一瞬では把握しかねた。最初の印象は、『明るい顔』だが、べつに笑っているのではない。笑っていないのに、そういう顔に見える。好印象だろうが、実は何を考えているのかは分らない ―
 実際、こんな時に面会を求める意図が分らない。
 アグリッパがそんな事を感じている短い間に、マエケナスはもう踵を返していた。
 「分っている、悪い時にきた。ただ、ひとこと伝えたくて。アグリッパ、オクタヴィアヌスは良い交渉人を持つべきだ。それでは、またあとで。戦の様子は遠くで拝見させてもらうよ。」
 アグリッパがあっけに取られている間に、この突然の訪問者は天幕の外へ出て行った。

 明け方の訪問者のことは、早々にアグリッパの頭から消え去った。それどころではないのだ。その上、この日はアグリッパの生涯においても、悪い日の一つとして記憶されるだろう。
 彼の予想通り、フィリッピでの会戦でオクタヴィアヌス勢は負けを喫した。アグリッパもどうにか態勢を立て直そうと奮闘したが、状況がそれを許さない。ベテラン兵たちもアグリッパと一緒になって頑張ったが、無理は禁物だった。どうせ負け戦なのだ。死者を増やしたくない。オクタヴィアヌスもまた、淡白だった ― というより、戦闘中はどこで何をしていたのかさえ判然としない。
 そしてこれまた予想された事ではあるが、反逆者側の軍勢はアントニウス勢によって総崩れになり、戦い全体から言うと、アントニウス・オクタヴィアヌス「連合軍」の勝利に終わった。
 根っからの軍人であるアントニウスは、目の前の勝利に機嫌を良くした。しかも、戦闘が終わる頃にどこからともなく ― そして問答無用の美しい表情で出てきたオクタヴィアヌスが、この勝利に便乗していることに気付かない。オクタヴィアヌスの台詞はこうだ。
 「良い勉強になりました。」
 これでアントニウスも、将兵たちも納得してしまうのだから、若さは得だ。



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