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  虚弱と壮健 Part W (その4)
  

 
 オクタヴィアヌスは「良い勉強」で済んでも、アグリッパはそうは行かなかった。予想はしていたが、自分が指揮するオクタヴィアヌス軍が負けたことを自覚している。アントニウスがその穴埋めをしてくれれも、アグリッパの心は慰められない。
 自分が何のためにカエサルに見出され、オクタヴィアヌス付きになったのか。それを考えると、敗戦はその中の非常に重要な部分を失ったような気がしてならないのだ。オクタヴィアヌスがちっとも落ち込んでいないのは救いだが、アグリッパの落ち込みは別問題だった。
 アグリッパは、決心した。
二度と、負けるまい。
今回の敗戦を徹底的に分析し、過去のいかなる戦に関する資料にも目を通そう。経験豊かなベテラン将兵に弟子入りしてでも、戦争というものを学ぼう。会戦当日だけではない。その長い準備段階にはいくらでもやるべき事がある。
 彼は一生懸命、思いを前に向けようとした。 ― それでも、やはり気持ちは沈む。本当に負けるというのは嫌な事だ。
 「なぁに!気にするな!カエサルだって一回も負けなかったわけじゃない!」
ベテラン将兵たちは、アグリッパを慰めた。本気で朗らかな慰めだ。
「負けにだって程度があるんだ。取り返しのつかない負けなんて歴史上にだって多くは無いさ。今回はちょっと劣勢だっただけ。この程度のこと、一々気にしていたら、良い将軍にはなれないぞ、若者!」

 慰めと勇気付けは、それはそれで有難いが。その日の夜ぐらいは、落ち込んでいたかった。
 とりあえず大きく崩れた軍勢を整理しなおし、宿営の安全を確保し、被害状況を点検し、アントニウス勢との合流を確認すると、すっかり夜中になっていた。
 オクタヴィアヌスは、遅くなってからアントニウスとの会見から帰ってきて、笑顔でアグリッパの労を労った。
「ありがとう、アグリッパ。首尾は上々。」
 一体何が上々なのかは、具体的ではない。それでも、オクタヴィアヌスの表情を見ていると、とにかくうまく行ったのだろう。オクタヴィアヌスの初戦は負けだが、彼の中では折込済みの事。そして、いつものとおり疲労困憊したらしく、さっさと休みに行ってしまった。

 アグリッパは自分の天幕に戻り、そろそろ落ち込むのは終わりにするために、心を切り替えようとした。身の回りの世話をする奴隷たちを下がらせ、寝台に座り込むと、右手で額を押さえた。
 そうだ、きっとこの負けは一生のなかで小さな負けになるだろう。自分は軍人として郷里から出てきた以上、その立場がどうであれきっと負ける日もある。それがたまたま最初に来ただけだ。くよくよ考えるのはよそう ―
 と、せっかく心を持ち直していると、突然天幕に入ってきた明るい顔が、
「やぁ。アグリッパ、今日は残念だったな。」
などと言うので、また逆戻りしてしまった。
「マエケナス…」
アグリッパは呪ってやりたい気分になりながら、顔をあげた。
「まだ居たとは思わなかった。」
「今朝、『またあとで』と言ったろう?本当はオクタヴィアヌスに会いたかったのだが、もう休んでしまったみたいで。彼はいつも休んでいるな。」
 マエケナスの明るい顔つきは、灯りの乏しい夜の天幕でもお構いなしだ。
 アグリッパは、この男がオクタヴィアヌスの配下に加えてもらうためにやってきた事が、わかって来た。どういう素性の男かは分らないが、今朝の捨て台詞が『オクタヴィアヌスは良い交渉役を持った方が良いぞ』だから、自分こそ適任だと言いたいのだろう。
 アグリッパは立ち上がった。そうしてみると、マエケナスの体つきは普通の人と同じという以外、これと言って表現しようのないものであり、とにかく顔の明るさだけが目に付く事が分った。しかも、アグリッパに会いに来るたびに、何か間の悪さを持っている。
 「ところで。」
 マエケナスが先に口を開いた。
「挨拶に来たんだ。…そんな顔しないでくれ。」
 マエケナスは悪戯っぽく目を細めて笑った。いかにも何か含む所がありそうな笑みだ。それによって相手に、何かを言う気を失わせる事に関しては、オクタヴィアヌスに似ている。
「負け戦のお祝いを言いに来たんじゃない。お仲間になった挨拶さ。」
「お仲間?」
「そう。オクタヴィアヌスは私を顧問にすることにしたから。」
「いつ?」
「ついさっき。」
「会えなかったのだろう?」
「ああ。」
 マエケナスは事も無げに頷いた。
「ただ、朝のうちに伝言を残しておいたんだ。『顧問にして欲しい』って。さっき会いに行ったら当人を休んでいて、秘書官が『受諾』というオクタヴィアヌスからの伝言を返してくれた。」
 アグリッパは目をしばたいた。一体、どこにローマの最高指導者を目指そうとする人間に対して、こんな仕官の仕方をする男が居るのだろうか。
 マエケナスはお構いなしに続けた。
「自分はそんな話は聞いていないっていう顔だな。気にするな。私がそれを知らせるための使者だから。」
「オクタヴィアヌスは交渉役が必要だと言ったな。」
 アグリッパがやっとそれだけ言うと、マエケナスは嬉しそうになった。
「よく覚えていてくれたな。」
「今朝の事だ。」
「今日は長い一日だったろう。すまん、負けを思い出させた。とにかく、私も少しはオクタヴィアヌスのお役に立てるかと思ってな。なぁ、アグリッパ。オクタヴィアヌスは、恐らく救いようの無い戦下手だぞ。きみも荷が重かろう。余計な戦はしたくないだろうから、私と組まないか?オクタヴィアヌスを最高のローマ世界の指導者に出来るぞ。彼にはそもそも、その素質がある。」
 アグリッパは少し考えた。この男は、もうお互いに何年も付き合いがあるかのような物言いをするが、実際はほとんど初対面だ。しかも、その名を最後に聞いたのは二年前。アグリッパは静かに訊き返した。
「マエケナスは、オクタヴィアヌスを良く知っているのか?」
「いや、ぜんぜん。ローマ市民の平均程度。ただ、前回は私の上に降って来た。」
「なんだって?」
 アグリッパは声を潜めて聞き返した。
「降って来たのだよ。私の上に。オクタヴィアヌスが。」
「いつ?」
「さぁ、何年前だったか。最初にオクタヴィアヌスを尋ねた時。彼は外出中だったので、宿営の中庭で待たせてもらった。ウロウロしていたら、いつの間にやら戻って来ていたオクタヴィアヌスが、突然私の上にドサーっと降って来た。」
 キケロを訪問した日の夕方だ。アグリッパは細かく頷いた。
「その時、彼と話は?」
「できなかった。オクタヴィアヌスは降ってくるなり、何処かへ走り去ってしまったからな。あれは一体どうしたんだろう。」
 説明しなくても、そのうち分るだろう。
 アグリッパは疲れていた。マエケナスが言ったとおり、長い一日だった。ひどく疲れる、辛い一日だった。そろそろ、頭も、体も休ませたい。この訪問者の言いたい事も分った。経緯と相手の正体は分ったが、なんとなく気にしないで良いという直感がする。
 「オクタヴィアヌスが降ってきたのか。」
「そうだが…それが?」
 マエケナスは初めて怪訝そうな顔になった。アグリッパは答えた。
「悪くない。」
「オクタヴィアヌスが降ってきた事が?」
「そう。彼には腹心になるべき男の上に、降って来る癖がある。」
 さすがに人を食ったようなマエケナスも驚いたように、また訊き返した。
「他にも誰かの上に降って来たのか?」
 アグリッパは答えずに、マエケナスに笑って見せた。これが、アグリッパがマエケナスに笑って見せた最初だった。

 アグリッパはフィリッピの戦いにおける戦後処理に奔走している間に知ったのだが、マエケナスという男は、長いあだギリシャに留学していた裕福なローマ市民の息子だった。教養という点では、アグリッパはもちろん、オクタヴィアヌスよりも豊かだろう。
 彼はギリシャ留学中に、アポロニアに来たカエサルの遠い親戚 ― つまりオクタヴィアヌスの名を知ったらしい。話に聞いただけで、マエケナスはこのオクタヴィアヌスは将来に見込みのある男だと判断した。
「直感だよ。」
 マエケナスは笑った。
 オクタヴィアヌスと親交を持ちたいと思っているうちに、カエサルが殺されるというとんでもない事件が起こり、オクタヴィアヌスはアポロニアを後にしてしまった。
 マエケナスもその後を追ったのだ。彼はオクタヴィアヌスの通った後に残された好評価をたどりながら北上し、最初にナポリでオクタヴィアヌスに追いついた。ここではオクタヴィアヌスに降ってこられただけで、何の成果もなかったが。
 マエケナスもオクタヴィアヌスとほぼ同時期にローマに入った。そうしたら直ぐにでもオクタヴィアヌスを訪ねたかったが、マエケナスの一族にひとまず引き止められていた。オクタヴィアヌスはカエサルの後継者だが、その実力は未知数だから、よく見極めるように若いマエケナスを説得したのだ。そのせいで仕官が二年遅れになったのだと言う。
 表面上は長老たちの忠告に従うように見せたマエケナスだが、心はきまっていた。
 同時に、彼はアグリッパの噂も耳にしていた。
「これは良い友達になれそうだと、思った。」
 冗談だろうとアグリッパは思ったが、マエケナスは本気らしい。
「第一、オクタヴィアヌスの大親友ときている。でも、きみはきっと、忙しく走り回る運命にあるよ。」
「否定はしない。」
 アグリッパは仕方なく頷いた。カエサルにオクタヴィアヌスと行動をともにするように命じられてから、もっぽら走り回るのはアグリッパなのだ。今回の戦でもはっきりしているが、オクタヴィアヌスに戦闘指揮は向かない。軍部全体にも、総大将はオクタヴィアヌス,実務的指揮官は若きアグリッパという認識が広まりつつあった。

 「そうなると、オクタヴィアヌスには常に傍で忠告をしたり、身代わりに交渉ごとをこなす人間が必要というわけだ。」
 至極、まっとうな意見だ。
 フィリッピから帰還したある晩、やっとローマに定まった家を持ったアグリッパのところに、マエケナスが来て、一緒にぶどう酒を飲みながらそう言った。オクタヴィアヌスも来ていたが、さっさと寝てしまっている。
 「アントニウスは認めたくないだろうが、オクタヴィアヌスの天才政治家だろうな。」
抽象的な表現だ。マエケナスは構わずに続ける。もっぱらこの男ばかりが喋っていた。
「その天才を、活かすも殺すも、補佐する人間次第だ。まず友情には事欠いていないし…」
そういいながら、アグリッパを指さす。
「その男は軍団指揮には、向いているらしい。」
 この頃になると、アグリッパもそう言われる事に、一々疑問を感じる事を止めた。
「何よりも、友情は大事だぞ、アグリッパ。」
マエケナスは大真面目に言った。
「きみにはないのか?」
 アグリッパが聞き返すと、マエケナスは少し眉を上げた。
「私に…何が?」
「オクタヴィアヌスに対する友情さ。」
「さぁ。」
 マエケナスは首をかしげた。
「まだ、彼とは友情を育むほど付き合いは長くない。」
 アグリッパとて、オクタヴィアヌスに対する友情を確固たる物にするのには、大した時間はかけていないのだが、黙っていた。
「とにかく、私に友情は当てにしないでくれたまえ。」
マエケナスは笑いながら続けた。
「私は友情以前に、オクタヴィアヌスに惚れこんでいるんだ。…いや、表現が良くないな。カエサルの後継者として ― もしくはそれ以上として、見込んでいる。この男のために自分の才能を使うことこそ、私の生きがいになる。どうだ、悪く無かろう。」
「オクタヴィアヌスをどうする気だ?」
 アグリッパが訊き返した。少しぶどう酒が進んで、大雑把な表現になっている。
「ローマ随一の政治家にする。なぁに、あの若すぎる美形にはその才能がある。…失礼、きみも同い年だったな。」
「随一になるには、対抗者も多いぞ。」
「それを一つ一つ、潰していくのが、我々の目標だ。」
「アントニウスは強敵だ。」
「そうだろう。最終的には、彼を打ち負かしてやる。」
 やはり、お互いにぶどう酒の飲みすぎのようだ。アグリッパはまた訊き返した。
「彼を打ち負かしたら…どうする?」
 マエケナスは、手にしていたカップを置くと、視線を浮かせて少し考えた。
「さぁ。やる事がなくなるな。…また、ギリシャへ勉学でもしに行くか。」
 なるほど、そういう考え方もあるかと、アグリッパは思った。マエケナスも含め、自分たちは若い。その目的を達した時も、まだ若い部類の人間かも知れない。
 そうしたら、マエケナスはオクタヴィアヌスの元を去って、ギリシャに行くかも知れない。行かないかもしれない。
 アグリッパには、そういう考えも悪くないと思えた。自分がオクタヴィアヌスと共に生きる以外の人生を送る事に関しては、想像すら出来ないが。
思えば、兵役につき、カエサルにオクタヴィアヌス付きを命じられてから、三年が経っていた。あのときの、カエサルの言葉が蘇る。

「きみたちは若い。時間は沢山ある―」

 その『沢山の時間』のうち、今はどのあたりにあるのだろうか。アグリッパはぼんやりと考えた。そして、どうやらこのマエケナスという男も、『きみたち』の一人であるような気がしてきた。カエサルはマエケナスを知らなかったはずだが、そう思えてならない。
 そう考えると、アグリッパは少しマエケナスが好きになった。




あとがき

 Foolscap開設四周年記念小説「虚弱と壮健PartW」を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
 例年、開設日である7月1日に発表していましたが、今回は約1ヶ月遅れでのアップとなりました。お楽しみいただけたでしょうか?
 今回から、オクタヴィアヌスは歴史の表舞台への登場となりました。したがって、彼を動かしにくかったというのが、書いてみての感想です。
 無論、塩野七生さんの著作を参考にしながらの小説ですが、かなりの歴史的経緯は省きました。このシリーズでの基本姿勢なのですが、オクタヴィアヌスやアグリッパが、どんな会話をしたのかが頭に浮かんだところを中心にこ、構成していますので。そして、今回はかねてから登場させたかった人物 ― マエケナスが初登場となりました。
 マエケナスは、私の小説に良く出てくる、頭が切れ、よく喋るキャラクターですが、友情に関しては淡白 ― ということにしています。マエケナスとアグリッパの最初の会話の箇所は、何年も前から私の頭の中にあったため、今回文章にできて本当に嬉しいです。
 さて、来年はどうなりますやら?
                                 5th August 2007
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