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  虚弱と壮健 Part W (その2)
  

 ローマは妙な雰囲気に包まれていた。ギリシャから帰還したカエサルの後継者は、その妙な緊張感に迎えられたと言っていい。
 アントニウス本人と、彼を支持する人々は、心底オクタヴィアヌスを歓迎していなかったが、かといっていきなり蹴り飛ばすわけにもいかない。
 一方、カエサルの支持者であり、その後継に指名されたオクタヴィアヌスがそれにふさわしいかを見極めようとする人々 ― これが大多数である ― は、期待と不安と緊張感で一杯だった。
 しかしいざ、オクタヴィアヌスがその姿を見せると、双方ともほぼ同じ反応を見せた。
 まず、驚く。その美貌に。
 そして眉をしかめ、少し考える。これが本当にオクタヴィアヌスなのか。
 次の段階から、立場によって違いが出る。カエサル支持を貫き、オクタヴィアヌスを品定めしようとしていた人々は、大方オクタヴィアヌスに好意を持った。この美しい容姿の小柄な青年には、これと言って悪いところは無さそうだ。多少、小柄すぎるが頼りないようには見えない。
 それから、何よりもオクタヴィアヌスの支持者を増やし、なおかつお安心させたのは、彼が態度に尊大な所が一縷もなく、非常に礼儀正しく、奥ゆかしい雰囲気を持っていることだった。
 それで居て、実行しようとする事に関しては、意志強固で意外な行動力を持っていた。カエサル追悼競技会が良い例である。

 アグリッパはそもそも、オクタヴィアヌスのローマ帰還までの間に、アントニウスが競技会の実施を立案していないことに驚いた。
 カエサルの遺言による後継者指名など、なかった事にしてしまいたいアントニウスなのに、なぜオクタヴィアヌスに後継者の義務である競技会主催のチャンスを与えてしまったのだろうか。アントニウス自身が開催を決め、取り仕切ってしまえば、オクタヴィアヌスの出る幕もなかったのに。
 (アントニウスは、あれで意外と遠慮深いのだろうか。)
 アグリッパはそんな風に考えてみた。
「そうかも知れない。」
 オクタヴィアヌスは花か星が舞い散るような様子で笑い、そう言った。無論、同意などしていない。
 支持者の何人かは、端的な言葉でアントニウスの不可解さを説明した。
「けちなんですよ。」
 アグリッパはため息をついた。なるほど、アグリッパはカエサルとは正反対の性質の持ち主らしい。カエサルは吝嗇などは遥かに飛び越え、金銭感覚に問題があったくらいだ。カエサルに言わせれば、人心ほど大事なものはなく、それを得るためには破産覚悟で金をつぎ込んでも構わない。 
 一方、アントニウスには「戦費」という現実的な問題の方が、重要だった。彼は戦争を想定していた。むしろ、そうなってほしい。戦は彼の得意分野だ。戦争に持ち込めば、ローマから逃亡してその始末が先伸ばしになっている暗殺者たちなどたちどころに消えうせる。憎きキケロ ― 公然とアントニウスを非難していたこの老人に関しても、かたがつく。十八歳の女の子のような少年など、ただの役立たずだ。「勝利」という実績の前では、弱々しく消え入るしかないであろう。
 一々ごもっともな話だが、残念ながらオクタヴィアヌスはアグリッパの戦争の前に、「勝利」を得ようとしていた。

 カエサル追悼競技会の開催について、オクタヴィアヌスはすでに船中でその心を決めていたし、アグリッパとも首尾を相談していた。無論、アントニウスが何もしていないという、やや無理のある前提のもとにではあるが…
 最初から最後までの問題が、もちろん金である。
 「カエサルの遺産というのは、どのくらいあるものだろうか。」
 アグリッパが言うと、オクタヴィアヌスは簡単に答えた。
「あまり期待できない。」
 金額的にもそうだし、実際にそれを手に出来るかどうかも怪しい。その心配は的中した。アントニウスは、カエサル暗殺後、その財産を保管した。そして、それをオクタヴィアヌスに引き渡すことを拒否したのだ。その理由がふるっている。担当執行人の不在で、財産譲渡の法的手続きが出来ないというのだ。その不在の理由が、カエサルが死んだ事,殺したものが逃げ出した事なのだから、当たり前だ。
 それでもオクタヴィアヌスはあまり気に病んでいない。もともと、カエサルの遺産には期待してない。どうせ競技会を行うには、まったく足りない金額であっただろう。
 オクタヴィアヌスは、カエサルに後継者にふさわしい行動に出た。借金である。
 有力な大商人 ― 特にカエサルの政策によって莫大な利益を得た商人たちの所を訪ね、オクタヴィアヌスは鮮やかに資金援助を得て見せたのだ。
 それに同行したアグリッパは、借金というのはこういうものかと驚いた。借金というのは、もっと悲しげで、後ろめたく、惨めなものであるという観念があったが、オクタヴィアヌスのそれは逆だった。その美しい笑顔で礼を言うと、貸したほうが「貸すことこそ名誉」だといわんばかりのに感じるらしい。
 
 こうしてカエサルの後継者にふさわしく、借金まみれになり、それをものともしないオクタヴィアヌスは、カエサルの追悼競技会を成功裏に遂行した。
 ローマでのオクタヴィアヌスの評判は上がった。
 アントニウスは焦りはしたが、負ける気はしていなかった。彼は戦争に勝つ自信がある。そのチャンスはやがて訪れるだろう ― 。
 カエサルが死んでからずっと、アグリッパのアントニウスに関する感想の筆頭に来ていたことだが、アントニウスは優秀な軍人としての評判とは裏腹に、悠長な所がある。アントニウスの自信は、『戦闘になれば』という前提であって、それが始まらないのであれば、多少焦るべきなのだ。
 実際、オクタヴィアヌスは十九歳になるころには元老院に対し、正式にカエサルの後継者としての立場を認めさせていた。公職ではないが、影響力は大きい。カエサルの熱心な支持者たちが、堰を切ったようにオクタヴィアヌス支持者になった。
 その上、キケロはアントニウスへの非難の声を強めていた。オクタヴィアヌスに関しては、哀れキケロ、懐柔できるものだと思い込んでいる。
 アントニウスは得意の戦に持ち込むべく、ローマから逃亡していた暗殺者の一人デキウス・ブルータスとの一戦へと向かったが、元老院の同意は得ておらず、しかもキケロが激しく非難する。そのことに心中微笑みながら、オクタヴィアヌスは支持者の力を得て、独自の軍事力を持つに至った。
 ここで大忙しになったのはアグリッパであることは、間違いない。
 元老院も、キケロも、そしてアントニウスも油断していたすきに、オクタヴィアヌスは地位も軍事力も、すっかり身に着けてしまい、それを背景に美しい顔のまま執政官にまでなってしまった。
 
 オクタヴィアヌスの側近たちは、アグリッパに対し、一気にアントニウス打倒の作戦を展開しないかと持ちかけたが、アグリッパは却下した。絶対に負けるという自信がある。
 オクタヴィアヌスもそれを酌み、とりあえずはアントニウスと同盟する動きに出た。緩衝材としてレピドゥス ― カエサルの側近の一人だった男を交えての同盟だった。
 この同盟が発動するに当たり、彼らは共通の敵への処置を申し合わせた。各地に離散しているカエサル暗殺者たちはもちろん ― しつこくアントニウス非難を続けたキケロも、処刑者に加えられた。国父として、並ぶものなき名文家として名声をほしいままにしたキケロが、処刑されたのはそれから間もなくのこと。
 キケロの死を強く望み、処刑を渋るオクタヴィアヌスを押し切ったのは、アントニウスだった。それは事実だし、ローマ市民たちもそう認識していた。
 しかし、アグリッパは知っていた。キケロの死は ― オクタヴィアヌスの思惑通りだった…
 オクタヴィアヌスは、一言だけアグリッパに言った。
 「キケロが、もし ― アポロニアの学者だったら良かったのに。」

 カエサルの死から二年が経とうとしていた。それでも、オクタヴィアヌスはまだ二十歳。当然アグリッパも同じく。しかし、今やすっかり執政官と、その右腕だ。
 そして、四散していたカエサル暗殺者の生き残り,ブルータスとカッシウスが、ギリシャで兵力を結集し、オクタヴィアヌス・アントニウスに対して決戦を挑もうとしていた。場所はギリシャ北部、フィリッピの野であった ―


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