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  虚弱と壮健 Part W (その1)
  

 船という移動手段は、特殊な環境を提供し、それに起因する精神的作用をもたらす。ひどい場合には、この世に生きる人間はこの船に乗っている人間だけで、港に着いても誰も居ないのではないかなどと思い始める。寄航と寄航の間隔が開けば開くほど、その傾向は強まる。
 そこまで酷くないにしても、外界からの情報が遮断された環境では、あらぬ想像が掻き立てられるものだ。それが楽観的であるものは少数で、多くは悲観的 ― とまでは言わないまでも、少なくとも楽観的ではない。オクタヴィアヌスは前者,アグリッパは後者だった。

 カエサルの死とその遺言を訊くや、即座にローマへの帰還を決定したオクタヴィアヌスの判断自体は、間違っていないとアグリッパは思う。しかし、その後の展開がどうなるのかは分からない。何せ、オクタヴィアヌスがカエサルの後継者に指名された事自体、当人も初耳だったのだ。この時点で、アントニウスに遅れをとっていた。
 マルクス・アントニウス。カエサルの忠実な部下にして、優秀な軍団長。年齢は三十八歳。現執政官の一人だ。もしカエサルの遺言さえなければ、万人が認めるカエサルの ― 誤解を恐れずに表現すれば ― 後継者に間違いない。
 当人にもその自覚はある。しかも積極的に。アントニウスはカエサルの火葬とそれに付随する行事を取り仕切り、暗殺者達を公に非難した。結果暗殺者達はローマから退去せざるを得なくなる。アグリッパにとって意外なのは、その後の事だ。
 軍人であるアントニウスなら、暗殺者たちをいち早く包囲するなり、逮捕するなり ― そしてまたローマ人たちの今の心情であれば、その口実も簡単にでっち上げる事が ― 出来たはずだ。しかし、アントニウスはそうはせず、暗殺者がローマから退去し、段々と距離を広げていくよう、仕向けている。鮮やかにカエサルの後継者となるには ― そして一体それが何者かも誰も知らないような少年の影を一掃するには必要な、一気呵成の勢いに欠けている。
 船酔いの間隙をついて、アグリッパがその事を言うと、オクタヴィアヌスは船体が軋む音にかき消されそうな小さな声で、
「キケロだろう。」
と言った。

 マルクス・トゥッリウス・キケロ。弁護士出身で法学に精通し、並ぶもののない優秀な文筆家としても有名な政治家だ。彼はカエサルの終身独裁官就任に、反対する立場にあった。キケロは大物だが、随分前から政治的実権と影響力の外にいる。立場は明確だが、それは意見者のそれ以上のものとは、みなされていない。
 しかしキケロがカエサル暗殺にあたって、暗殺者達を援護する側に回ったことで、状況は少々変わった。

 オクタヴィアヌスとアグリッパの一行がプリンディシに到着すると、そのキケロの動向が情報としてもたらされた。
 オクタヴィアヌスは、陸に上がってやっと生きた心地がしたのだろう。押しかけたカエサルの支持者達に、にこやかに挨拶し、用意された休憩所で情報収集にとりかかった。
 暗殺者達は南へ、南へと移動し、一体何のためにカエサルを殺したのか誰にも分からない状況になっているという。要するにローマから逃げ出したのだ。
 それを最も嘆いていたのはキケロだ。彼は若い暗殺者達を叱咤激励する書簡を何度も送り、共和政治の危機を今救わずしてどうすると訴えた。アントニウスがカエサルに取って代わっただけではないか ―
 その話を聞いた時、オクタヴィアヌスは長い睫が音でも立てそうな様子で、何回か目をしばたいた。
(アントニウスには無理だろう。)
 アグリッパはオクタヴィアヌスの横顔を眺めながら、心の中でつぶやいた。アントニウスの軍事的な優秀さは、知っている。しかしそれだけだ。
 アグリッパの中のアントニウスは、どういうわけかいつも同じ場面で思い出される。ローマを立つ前、カエサルが執務を執り行っていた最高神祇官邸の前で、誰かの侍女に絡まれて、困った顔をしていた。
 キケロは見込みが甘い。カエサルが死に、暗殺者達は四散し、そしてローマにアントニウスがカエサルのごとく『君臨』するという彼の思考は、間違っている。カエサルの死を、キケロにとって『意味のあるもの』にするには、オクタヴィアヌスに留意すべきだ。しかし、キケロはオクタヴィアヌスの名前さえ、覚えているのかどうか怪しい。
 その報告を聞いて、オクタヴィアヌスは嬉しそうに微笑んだ。
「ローマに入る前に、キケロを表敬訪問しよう。」
「キケロは味方についてくれるでしょうか?」
 誰かが疑問を呈したが、オクタヴィアヌスは何でも無いような顔で即答した。
「つけますよ。」

 オクタヴィアヌスの一行はイタリア半島を北上し、ローマへと向かった。行く先々でカエサルを支持し、引き続きオクタヴィアヌスを支持することに早くも決めた面々が出迎え、どんどん情報をよこしてきた。
 アグリッパもオクタヴィアヌスも揃って呆れた事に、アントニウスはまだカエサルの財産を、後生大事に保管していた。
(早く配ればよいものを。)
 アグリッパは内心でつぶやいた。ローマ市民にあまねくカエサルの財産を分与すれば、彼らもアントニウスをカエサルの後継者とみなすだろうに、何を待っているのか。まさかオクタヴィアヌスではあるまい。オクタヴィアヌスにカエサルの財産を渡してしまったら最後、アントニウスはただの留守居役でしかなくなる。
 「アントニウスは、ブルータスたちと、会戦で決着をつけるつもりなのですよ。そのほうが華々しいでしょう。」
 ローマから駆けつけた誰かがそう言った。軍資金の一部にするつもりなのだ。
 オクタヴィアヌスは人々の前で、あまりアントニウスの人物評を行わない。ただ、アグリッパと二人だけになった機会に、そっと言った。
「私はアントニウスを、もっと思い切りの良い人だと思っていた。」
 アグリッパは同感だと答えた。そして、その原因の一つがキケロの存在なのだろうと、付け加えると、オクタヴィアヌスも頷いた。
「あの国父(キケロ)がブルータスたちの支持者ともなると、優秀な軍人も出足が鈍るらしい。正直に言うよ、アグリッパ。私はこの件ではじめて、キケロが偉大だと知った。」
「そんなこと、まさかキケロ本人には言わないだろうな?」
 念のために確かめると、オクタヴィアヌスは春の花の香りを一身に集めたような様子で笑った。
「まさか!昔からの信奉者で行くさ。ああ、彼の著書を読んでおかないと…」
キケロとの会見を前に、準備をしておくつもりらしい。

 作戦の第一段階は上々に推移した。オクタヴィアヌスがナポリの別荘ににキケロを訪問すると、いくらも時間がたたないうちにキケロはオクタヴィアヌスを援助すると、言い出してしまったのである。
 そもそも、カエサルから後継者に指名されたオクタヴィアヌスが、カエサル暗殺を基本的に喜んでいるキケロに良い感情を持っているはずがない。キケロがいかにお人よしでも、それくらいの想像力は働いても良さそうなものだ。二人の対面に立ち会ったアグリッパは、何度かキケロに警告したくなる気持ちになった。
 (この小柄な美青年は、あなたを「父」などと呼び、助力を請うてはいるが、ただの見せ掛けですよ。)
 無論、アグリッパは黙っていた。オクタヴィアヌスと共にキケロの邸宅を辞し、最後の挨拶をする頃には、筆まめなキケロが、この後友人達にオクタヴィアヌスの好印象を書き送る事は目に見えていた。
 このとき、オクタヴィアヌスが同伴していたのは、アグリッパと二人の奴隷だけだった。支持者や補佐を大勢引き連れると、キケロの気を悪くするだろうと言う配慮である。
 帰り道、二人の奴隷はオクタヴィアヌスとアグリッパの少し後ろのほうからついてくる。まだ春の風が体に冷たく感じるのか、オクタヴィアヌスは厳重にマントを体に巻きつけ、のんびりと歩を進めていた。アグリッパも歩調を合わせて宿営地へ向かっている。
 「キケロとは…」
 オクタヴィアヌスは、もうすぐ沈もうとする西の空を見やりながら言った。雲が多く、太陽の姿は見えないが、切れ間に赤い光が滲んでいる。
「乱暴なことには、なりたくないな。」
 妙な表現だったが、アグリッパにはオクタヴィアヌスが言わんとしている事が分かった。
 キケロはいずれ、除かれなければならないだろう。カエサル暗殺を支持している以上、これはゆるがない。キケロはアントニウスをあからさまに非難している。アントニウスは許すまい。
 オクタヴィアヌスはカエサルの後継者である以上、もちろんキケロとは相容れない。気の毒に、キケロはオクタヴィアヌスを懐柔できると思っているが ― とにかく、オクタヴィアヌスにはキケロを庇う理由が一つもなかった。
(むしろ、積極的に除くほうだな。)
 アグリッパはオクタヴィアヌスの美しい鼻梁を眺めながら、心の中でつぶやいた。そのオクタヴィアヌスが『乱暴なことにはなりたくない』と言う。
「キケロは健康そうだ。」
 アグリッパは短く答えた。オクタヴィアヌスは前を向いたまま、気楽そうに笑い、そのとおりだと頷いた。事態は流動的な今、キケロが『乱暴なやりかた』で除かれることを免れるとしたら、穏やかに寿命が尽きる事しかない。しかし、それは望めそうになかった。
 オクタヴィアヌスは、心中ではキケロを政敵と位置付けているくせに、自分がキケロを直接除く人間にはなりたくないらしい。『国父』を殺すような立場は、避けたいのだろう。一時代前のそれだとしても、キケロの影響力も、まだ捨てたものではないと感じてもいる。
「アントニウスが役に立ってくれそうだ。」
 オクタヴィアヌスは鼻歌でも歌いそうな雰囲気で言った。
 アントニウスに、キケロを殺してもらうらしい。
「きみを敵には回したくないな。」
 アグリッパは声に出した。するとオクタヴィアヌスは、嬉しそうに笑い出した。
「私と、アグリッパを ― だろ?」
 アグリッパは返答しなかった。宿営地に到着したのだ。
 
 実のところ、キケロ邸へ同行できなかった側近達は ― 既にオクタヴィアヌスの周辺には側近団が形成されていた ― オクタヴィアヌスとアグリッパがキケロ邸へ出向いたが最後、無事には戻って来れないのではないかと気を揉んでいた。無論、オクタヴィアヌスはそれを一笑に伏し、更に成果まで持ち帰っている。
 成果についての報告は、アグリッパが行った。アグリッパは気付いていなかったが、オクタヴィアヌスはキケロ邸からずっと、気分が悪かったのだと言う。ナポリでの宿営所に戻ると、オクタヴィアヌスは直ぐに横になりに行ってしまい、後はアグリッパに任された。今日の場合、頭痛と少し吐き気がするらしく、中庭の気持ちの良いハンモックで少し休むと、オクタヴィアヌスは言い残した。
 アグリッパの報告を聞いた側近たちは、まずはキケロの懐柔に成功した事に安堵した。勝負はこれからだ。
 さて解散、となったとき、オクタヴィアヌスの秘書が ― 既に秘書もついていた ― やってきた。アグリッパを捕まえると、少し困ったような顔で言う。
 「お二人が留守の間、面会希望の方が来ました。」
それ自体は珍しくない。
「ですが、妙な人で。ちょっとオクタヴィアヌスに会ってみたいという口上なんです。」
 確かにおかしな物言いだ。アグリッパは首をかしげた。
「用件を言ったか?」
「いえ。ただ、『オクタヴィアヌスにちょっと会ってみたい』というのが、口上だそうで。」
「紹介は?」
「ありません。」
「名前は?」
「ガイウス・マエケナス。知っていますか?」
 知らない名前だ。もっとも、アグリッパにとってはカエサルの後継者に面会を求める名士達の殆どを知らないのだが。この場合、来訪者が名士かどうかも分からない。秘書は首をかしげながら続けた。
「まだ二十歳ぐらいにしか見えないお若い方なのですけど、いかにもオクタヴィアヌスに面会して当然みたいな雰囲気で。不在を告げると、アグリッパには会えるかと尋ねるのです。」
「私を知っているのか。」
「そうみたいです。オクタヴィアヌスと一緒に外出中だと申し上げると、待たせてもらうと言いました。」
「まだ待っているか?」
「たぶん。中庭で。」
 明日にはローマに向けてまた出発する。その前に会うべき人、目を通すべき知らせなどが山積しているが、アグリッパはこの不思議な来訪者が気になった。中庭で待っているということは、ハンモックで休むと言っていたオクタヴィアヌスとはち会ったかもしれない。
 アグリッパが足早に回廊を進み、もう少しで中庭だというとき、そちらの方向から穀物の詰まった布袋が落ちるような音と、なんとも形容しがたく、短い悲鳴が聞こえた。オクタヴィアヌスの声ではない。
 アグリッパが小走りに中庭に出ると、そこには誰も居なかった。たそがれ行く日の光が弱々しく影を作り、その影の主たる果樹の大きな枝には、誰も居ないハンモックが虚しく揺れている。
 人の気配がして振り向くと、陰気な表情でサムニスが立っていた。
「オクタヴィアヌスは?」
アグリッパが訪ねると、口さえも動かしていないのではないかとさえ思えるほど無表情に、サムニスは答えた。
「いつものところへ。」
 つまり、常のごとく腹の調子が悪くて、いきつけの場所へ向かったのだろう。
「客が来ていなかったか?オクタヴィアヌスへの面会希望者だが。」
「来ていましたが、帰りました。」
「オクタヴィアヌスとは会えたのか?」
「会いましたが、何も話さずに帰りました。」
 妙な事を言う。アグリッパはその真意を知りたかったが、サムニスは音も立てずに居なくなっていた。


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