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  虚弱と壮健 Part III (その4)
  

 本来ならここで ― つまり、オクタヴィアヌスと自分にこれからのローマを託すというカエサルの志を実感したところで ― アグリッパはオクタヴィアヌスの元に駆けつけるべきなのだろう。美しい友人の華奢な体を抱きしめでもして、これからは自分が全力を尽くして助ける、手を携えて共にこれからのローマを導いて行こう ― と、美しくかつ感動的な誓いでも立てるべきなのだろう。
 しかし、現実はそう言う訳にも行かない。何せ昨日、カエサルの悲報を受け取ったばかりだというのに、今日の昼にはオクタヴィアヌス,アグリッパ以下急ごしらえの旅団がローマへ向かって出発するのだ。その準備も間に合うかどうか怪しい状況である上に、アポロニアに残る大多数のローマ軍についての相談も、出来るだけエディニウスたちと詰めなければならない。それにローマ,アポロニア双方への情報伝達経路も、出来るだけ確保しておきたかった。
 結局、アグリッパは夜明け前にサムニスと話した後、食事もせずに駆けずり回る事になった。昼過ぎの出港に際しても、もう少しで船に乗り遅れるところだった。
 アポロニアの港には、エディニウス以下沢山の兵士が見送りに押しかけ、オクタヴィアヌスは美しい笑顔で彼らに応えていた。しかしアグリッパは出港してもまだ、しばらくはてんてこ舞いで、従ってアポロニアに残る兵士達の、感動的な見送りの声など、ほとんど耳にしていない。
 それでも流石に、船が海に出てしまうと仕事は順次片付いて行く。海の上では、新たな懸案事項がそう簡単にはもたらされないからだ。船は一路プリンディシを目指し、西へ向かっていた。アグリッパがようやく大方の仕事を片付け、一息ついたのは夜になってからだった。

 忙しさで気付かなかったが、海の上である。船内の所々には、船酔いで倒れている者も現れた。アグリッパが人をつかまえてオクタヴィアヌスの所在を尋ねると案の定、船底で伸びているとの事だった。
 アポロニアへの往路ではアグリッパがオクタヴィアヌスの看病役だったが、復路では大分状況が違っている。カエサルの息子であり、後継者たるオクタヴィアヌスには、何人かの召使と奴隷がついているだろう。それが無いにしても、サムニスが居る。アグリッパは改めて、自分とオクタヴィアヌスを取り巻く環境が変わった事を小さいながらも実感した。
 だから夜もふけた頃、暗い甲板でオクタヴィアヌスと会ったのには、アグリッパも驚いてしまった。

 まったく嵐のようにめまぐるしく、忙しい二日間が過ぎ、アグリッパもそろそろ船室で横になろうとしていた。その前に一度、夜風にでもあたろうと考え、甲板に出たのである。
 夜の風は力があるが、視界不良である。船は恐る恐るという風情で、海面を進んでいた。
 アグリッパが夜空を見上げると、雲が風で流されている。その合間に、春の星座がチラチラと見え隠れしていた。さすがに海上の夜風は冷たい。アグリッパはずっと大回転していた頭を冷やし、大きく深呼吸した。聞き慣れたような、不快なような音を聞いたのは、この時だった。
 アグリッパは顔をしかめた。そして、その音のした方へそっと歩を進めると、予想通りの光景が夜の闇の中にぼんやりと見えた。ふなべりに、小柄な男がはり付いているのである。
「オクタヴィアヌス。」
 アグリッパが呼びかけると、ふなべりの男が左手を上げて合図した。しかし、未だすっきりしないらしく、暫く唸っていたかと思うと、もう一吐きしたようだった。アグリッパが感心するのは、そんな状況にもかかわらず準備は良い事だ。やっと顔を上げたオクタヴィアヌスは、持ってきていたらしい水差しから水を含み、口をゆすいでぬぐうと、済ました顔で立ち上がろうとした。
「こんな夜中に一人で甲板から身を乗り出したりすると、危ないぞ。」
 アグリッパはオクタヴィアヌスの手を取って起こしながら言った。カエサルの養子で後継者が、ローマへの帰路で船から転落して死んだなどといったら、それこそ洒落にならない。しかし、オクタヴィアヌスは涼しい顔をしていた。
「みんな、疲れて寝ていたから。起こすのも気の毒で。」
 召使達の事を言っているらしい。
「サムニスは?」
「姿を見なかった。」
 あの男のことだ。甲板まではオクタヴィアヌスをつけて来て、アグリッパが居るのを知って姿を消したのかもしれない。
 
 二人して甲板の用具箱に腰掛けたが、何から話せばよいのかアグリッパには分からなかった。昨日、カエサルの悲報に接して以来、二人きりになっていないし、二人の会話もほとんどしていない。同じく黙っているオクタヴィアヌスを見やると、その美しい鼻梁が夜の闇に形を成していた。そういえば、初めて馬場でオクタヴィアヌスを見た時も、やはりこの美しい顔の形が目に付いた。
「カエサルは…」
 オクタヴィアヌスが、いつものように小さな声で言った。
「あと、何年生きるつもりだったと思う。」
 妙な質問だ。しかし、そう思う気持ちも、アグリッパには分かる。
「そうだな。少なくとも、十年か、十五年辺りだろう。」
「それを切り取られてしまった。」
 オクタヴィアヌスなりの表現だった。正に、カエサルの人生は『切り取られて』しまった。オクタヴィアヌスが続けた。
「切り取られたその年月が、私とアグリッパに縫い付けられた…」
「縫い付けられた…か。」
 そうかもしれない、とアグリッパも思った。表現に納得しながら、もう一度オクタヴィアヌスの横顔を見た。
「オクタヴィアヌスと…私にもか。」
「もちろん。」
 オクタヴィアヌスがアグリッパに向き直った。暗がりでよく見えないが、例の美しい笑顔を浮かべているようだ。
「カエサルが後継者に指名したオクタヴィアヌスは、アグリッパと共にあるオクタヴィアヌス。」
 小さくか細い声だが、その響きには迷いがない。
「私は―」
 アグリッパは低い声で言った。
「まさか自分が、ローマの政界に足を踏み入れる事になるなど、想像だにしなかった。せいぜい百人隊長ぐらいになれれば良いと考えていたから。」
 オクタヴィアヌスは黙ってアグリッパを見つめている。アグリッパはそのまま続けた。
「カエサルの遠い親戚と偶然友達になったとしても、それが自分の人生の道筋に、大きく影響を及ぼすとも思ってはいなかった。しかし…そうでもないらしい。あの日、偶然出会った男は、カエサルの後継者だった。はっきりしているのは、カエサルが決めたこと。私はカエサルの後継者の協力者であり、部下であり ―」
「友人。」
 オクタヴィアヌスが素早く言った。夜目が利いてきたのか、アグリッパにもオクタヴィアヌスの美しい瞳の輝きがはっきりと見えてきた。
「そう。」
アグリッパは躊躇せずに頷いた。
「今の内にはっきり言っておくが ― この先、下手したら二度と言う機会に恵まれないかもしれない。とにかく、オクタヴィアヌス。どんな役割が私に課せられようとも、きみの友人であることには変わりない。」
「二度と言わない?」
オクタヴィアヌスが笑いながら首をかしげた。アグリッパは眉を下げた。
「状況が許しそうにない。」
「確かにそうだ。自分がカエサルの後継者としてふさわしく、それに見合う働きが出来るかどうか、悩む余裕もない。」
「悩む必要がないから。」
アグリッパの切り返しに、オクタヴィアヌスは声を立てて笑った。
「本当にそう思うかい?」
「思う。」
 アグリッパは飽くまでも真面目に答えた。カエサルの悲報と後継者指名を知ったとき、オクタヴィアヌスの瞳に宿った光が、アグリッパの脳裏に焼き付いていた。その後の驚くようなオクタヴィアヌスの態度、言動は、カエサルの選択が間違いではなかったと、アグリッパに確信させていた。

 この友人は、顔かたちこそ美しいが、一筋縄ではいかない ― 食わせ物だ。

 アグリッパは、アントニウスやキケロなど、並み居るローマの大物政治家たちが、この十八歳の美青年の容姿と手腕に驚くのが、容易に想像できた。アグリッパとて、オクタヴィアヌスの政治家としての手腕など、まだ一つも見ていない。しかし、彼には完全に理解できていた。
 当人も理解しているらしい。
「悩む必要はないとして ―」
オクタヴィアヌスは笑いを収めながら言った。
「でも、カエサルの死を悲しむ余裕がないのは、どうかな…」
オクタヴィアヌスはゆっくりと立ち上がった。アグリッパも一緒に立ち上がる。
「そろそろ限界か?」
「まだ大丈夫。」
嘔吐の話をしている。
 オクタヴィアヌスは非常にゆっくりとした動作で、額をアグリッパの右肩に押し当てた。アグリッパは、右手をオクタヴィアヌスの肩にそっとのせた。少しでも力を入れたら、壊れてしまうのではないかと思うくらい、華奢な体つきだった。僅かにその肩が震えているのは、海風が冷たいのか、カエサルの死を悲しんでいるのか、もしくは ―
「そろそろ限界。」
 オクタヴィアヌスは体をアグリッパから離すと、テクテクとふなべりまで歩いて行き、座り込むとまた盛大に吐き始めた。
 アグリッパは、アポロニアへの往路と同じ事を思った。
(ろくに食べもしないのに、どうしてそんなに吐くものがあるのだろう…)

 カエサルが死んで一ヶ月。四月の半ばにオクタヴィアヌスはローマに帰還した。アントニウスにとっては歓迎できない帰還だった。一方、ローマ市民にとってはオクタヴィアヌスとは何者なのかと、大きな興味を抱いた。
 オクタヴィアヌスとアントニウスの対面は、表面上おだやかで礼儀正しいものだったが、すでに戦いは始まっていた。それはオクタヴィアヌスの戦いであり、アグリッパの戦いであり ―
(カエサルの戦いでもある。)
 アグリッパは、そう確信していた。




あとがき
 Foolscap開設三周年記念小説、「虚弱と壮健 Part V」を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
 今回は、カエサルの死という大事件がもたらされるお話でした。主役の二人の感情の表れは非常に抑えたものになりましたが、実際の古代ローマ人というのはどうなのでしょう?
 カエサルという人物は書いていてとても爽快なキャラだったので、その死によって出番がなくなってしまったのは、とても残念です。
 さて、来年も続きを書く事になるでしょうか?基本的に登場人物を限定した作品にしているので、あまり「歴史」というものを壮大に描くものにはならないと思いますが、来年に向けて、ボチボチ考えようかと思います。
 最後に、もう一度読んでくださった皆様にお礼を申し上げます。ありがとうございました。ご感想などありましたら、是非お寄せ下さい。
                                   1st July 2006
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