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  虚弱と壮健  (その1)
  

  マルクス・アグリッパは、背の高い少年だった。
 しかも姿勢が良く、立ち姿は実に美しかった。それは元老院のお歴歴方と比べても引けを取らない、堂々としたものだった。
 しかし、もちろんアグリッパは元老院議員などではない。地方の一農民に過ぎなかった。口数の少ない性質だが、仲間からの人望があった。また、大人達からも信頼されていた。村の祭事や、農民の共同作業など仕切らせると、非常に上手い。少ない指示で的確に人を動かす才能に恵まれているらしかった。それでいて体格も良かったので、アグリッパが青年になる頃、周囲の大人は軍人になる事を彼に奨めた。百人隊長ぐらいには、きっとなれるだろうと。
 アグリッパ自身も、家の経済状況からして、自分は軍人になるだとうと思っていた。本来は騎兵に憧れていたが、馬を持つような財はない。歩兵から始めるしかなかろうが、それはそれで面白そうだと思った。ローマの軍隊の主力は歩兵だったからである。村の富裕者が所有するパピルスの中でも、彼はポエニ戦役におけるハンニバルやスキピオの戦い振りを読むのが好きだった。そして想像をめぐらした。もし、軍勢の数が違っていたら?地形が違ったら?将軍が違う性格だったら?…彼の目には、郷里の小川にも、荒れ野にもひしめく軍勢が見えていた。
 幸い、同郷の男に百人隊長の補佐官を勤める者が居た。17歳になった青年アグリッパは一人郷里を離れ、その男を頼って冬のローマへと旅立った。

 ローマに着いた早々、アグリッパは出陣する事になった。同郷の補佐官が所属する隊に欠員があったのと、アグリッパの身体能力の高さが買われたからである。しかも、反乱軍討伐のため、ヒスパニアへの遠征が決まったばかりだった。入隊するや、訓練もそこそこに出陣とは、アグリッパは多少呆れた。しかし、いきなり実戦経験が積めるのだから、幸運にも思えた。
 百人隊長はアグリッパが気に入ったようである。ローマ滞在中、よく自宅に呼んで食事を振る舞ってくれた。青少年教育に熱心なのは、貴族も平民も、軍人も文人も同じなのがローマである。この無口で落ち着いた青年から、隊長は色々話しを聞き出そうとした。いずれは隊長クラスに出世すると、彼も見込んだのである。結果、青年は馬が好きである事が分かった。出陣までの僅かな期間だが、騎兵隊の馬場に出入りできる様、便宜を図ってくれた。
アグリッパがその「少年」に初めて会ったのも、馬場での事である。

 どんよりと曇った午後だった。アグリッパが仲良くなった騎兵たちから乗馬の手ほどきをうけ、そろそろ帰ろうとした頃である。馬場の入り口から、馬が一頭人を乗せて入ってきた。
 (頼りない手綱さばきだな。)
 アグリッパは遠目で見ながら、そう思った。馬は良いが、乗り手に問題がある。少年だ。小柄で痩せている。短衣から出た白い脚は、馬の腹を挟むには細すぎるようだ。顔は良く見えないが、淡い栗色の髪と、形の整った鼻梁が目に焼き付いた。
 少年は馬の背に居るのがやっとの様子だ。馬を思う方向に向けられず、もがいている。それを眺める騎兵たちにとって見慣れた光景らしく、彼らはまただ、とでも言うようにクスクス笑った。
 (危ないな)
 アグリッパの心配は当った。下手な手綱さばきに、馬が業を煮やしたのである。激しく首を振り、高くいなないた。
(まずい)
 アグリッパは走り出した。馬は後ろ足で立ち上がり、激しく体をゆすぶった。少年の小さな体が、簡単に放り出される。更に蹴られる寸前に、アグリッパが轡をつかんだ。
 その時―

 フワリ。と、少年がアグリッパの目の前に舞い下りた。

 状況を把握するのに、やや時間が掛かった。アグリッパの目の前に、小柄な少年が立っていた。馬から振り落とされる一瞬、身を翻し、二本の脚で無事に降りたのだ。アグリッパは、左手で轡をつかんだまま、しばし少年を見て呆然とした。
 (何て事だ)
 アグリッパは、これまでこれほど美しい人間を、見た事が無かった。郷里でも、旅の途上でも、ローマに来てからも、どんな女も、どんな女神像も、今自分の目の前に居る少年より美しいものはなかった。
 「ありがとう」
 アグリッパを我に返らせたのは、その少年の声だった。しかし、小さくて低いが、よく通る声が愛らしい唇から漏れたとたんに、アグリッパはまた言葉を失った。相手が余りにも呆然としているので、少年の方が驚いた。
「あの、助けてくれて…」
「ああ。」
 やっとそう言って、アグリッパは少年から一歩離れた。馬は落ち着きを取り戻していた。アグリッパは轡を持つ手をやや緩めた。そして、もう一度少年を見た。少女とも、貴婦人ともつかない不思議な美しさだ。ただ、馬には似合わない。
「これは、君の馬かい?」
アグリッパの問いに、少年は恥かしそうに微笑んだ。
「そう。親戚からの贈り物で。練習しなくてはと思うのだけど、私はどうも乗馬に向いていない。」
(そうだろう)
 言う替りに、アグリッパは手綱を取って水場へ向かい歩き始めた。少年もそれに続いた。茶色いマントを厳重に巻き付けている。身なりはさして良くはない。馬を贈った親戚が裕福なのだろう。
 水場に馬をつなぐと、少年は木陰に腰を下ろした。騎兵たちが側を通ると、誰もが
「やあ」
と声を掛ける。
 「きみは、ここに良く来るのかい?」
 アグリッパも少年の隣りに腰を下ろして訊ねた。
「たまに。家が近いので。」
 少年は目を細めて空を見上げた。雲の間から夕日が差し始めたのである。彼は遠慮のない調子でアグリッパに話し掛ける。
「きみは?よく来るのかい?」
「ここ最近。でも今日で最後だ。」
「出陣?」
「ああ。」
 少年は琥珀色の艶めいた瞳で、アグリッパを見つめ、微笑んでいる。よく見ると、左後頭部の髪が一房、はね上がっていた。寝癖らしい。
 急に少年は立ち上がった。アグリッパもつられて立ち上がる。少年が右手を差し出した。
 「私は、ガイウス・オクタヴィアヌス。17歳です。」
 あっ、とアグリッパは驚いた。余程年下の少年かと思ったら、同い年ではないか。
「私はマルクス・アグリッパ。17歳…」
 アグリッパは差し出された手を握った。オクタヴィアヌスの手は、少しでも力を入れ様ものなら、壊れてしまいそうなくらい、頼りなかった。
 (あまりふさわしくない贈り物だ。)
 アグリッパは、オクタヴィアヌスに馬を贈った親戚の気の利かなさを、思った。
 いや。せっかく贈ったのにと、気を落としているかもしれない。


 
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