17.トラベリング・ウィルベリーズ The Traveling Wilburys   
   Part 1 ウィルベリーズ基本情報

   2007年6月、長い間廃盤になっていたトラベリング・ウィルベリーズの2枚のアルバムが、ボーナス・トラックや、ミュージック・ビデオ、ドキュメンタリー映像を加え、「トラベリング・ウィルベリーズ・コレクション」として再販されました。
 この素晴らしいバンドについて、4パートに分け、詳しくご紹介したいと思います。
 ここでは、文語体を用いる事にします。

 Amazon.jp :日本語訳のある日本版はこちら
           お安い輸入版はこちら(日本語字幕あり) 

 → Part 2 :更なる豊かなウィルベリーズ・ワールドについて
 → Part 3:全曲目,映像作品解説
 → Part 4:図解 異常に偏りのあるウィルベリー兄弟列伝 (総天然色)


 トラベリング・ウィルベリーズとは?

 1988年アメリカ・ロサンゼルスで結成された、ロックバンド。長男レフティ,次男ラッキー,三男ネルソン,四男オーティス,末っ子(従弟?)チャーリー・T・ジュニアの、ウィルベリー兄弟で構成され、全員ギター(一部ベース)とヴォーカルを担当する。
 「トラベリング」の名のとおり、彼らは奇妙な荷物を満載したトラックや、汽車に乗り込み、町から町へのドサ回り。ある時はさびれた倉庫、ある時は貨車、そしてまた客の殆ど入っていないミュージックホールなどに出没しては、楽しくロックする伝説のバンドである…と、言うのはウソ!

 その正体は、既にビッグスターの名を欲しいままにしていた、5人のロッカーが友情とノリで結成,アルバム製作を行った究極のスーパー・グループだ。一緒にアルバムを作ったものの、それぞれの所属会社が異なるため、別人名義のウィルベリー兄弟を名乗った・・・という事になっているが、半分遊びで兄弟を演じているような気もする。とにかく、その5人の紹介から始めよう。

ロイ・オービソン Roy Orbison (1936-1988 アメリカ テキサス州出身) = 長男レフティ
 ポップス史上最高の「ベルベット・ヴォイス」を誇る、愛称The Big O(ビッグ・オー)。度のきついサングラスがトレード・マーク。日本では、映画「プリティ・ウーマン」の主題歌 ”Oh! Pretty Woman” が特に有名。ロック黄金期に活躍したスターがこぞってリスペクトしており、特にディランによる賞賛は最上級。60年代後半以降、相次いで家族を失う不幸に遭ったり、音楽産業の大波に苦しんだりしたが、80年代に再評価&カムバック。そして最高のグループに加わる事になる。

ボブ・ディラン Bob Dylan (1941- アメリカ ミネソタ州出身) = 次男ラッキー / ブー
 ビートルズと共に、歴史の教科書にその名をとどめるであろう、20世紀文化の巨人。モダン・フォークを完成させ、発展させ、詞に革命を起こし、ロックして、ライブして、書きまくり、歌いまくり、旅に出る。歌い継がれる名曲は数知れず、その業績は神々しい。
 物凄いだみ声に、聞き取り不能の語り口、しかも頭髪は傍若無人に爆発し、目つきの悪い最強の仏頂面で、無愛想。気難しく、近寄りがたい…というのが一般論だが、一部の人(↓)にとってはそうでもないようで…

ジョージ・ハリスン George Harrison ( 1943-2001 イギリス リヴァプール出身) = 三男ネルソン / スパイク
 その人生と作品は、思索的でユーモアに富み、ひたすら美しい慈愛ギタリスト。天下無敵の太眉美男子。60年代には、ビートルズだったこともある。その独特のスライド・ギターは、ポップでロックでありながら、優しい滑らかさを持つ、唯一無二の芸術作品。
 「友達全員を特別扱いする」とまで言われるほど、男の友情を実行させたら(質量ともに)右に出るものは居ない。そのため、「ジョージ好き過ぎ病患者」が山ほど存在する。仕事は飽くまでマイペースだが、いったんハイテンションな「やる気モード」に入ると、その友情パワーでとんでもない奇跡を起こすこと度々。

ジェフ・リン Jeff Lynne (1947- イギリス バーミンガム出身) = 四男オーティス / クレイトン
 ビートルズに魅せられ、ありとあらゆる技術と才能を駆使して、その再現に挑むオタク・クリエイター。アフロ+髭+サングラスで本来の人相は良く分からない。大林宣彦監督とは、関係ない(はず)。とくにELO(Electric Light Orchestra)での活躍が有名で、「テレフォン・ライン」「ザナドゥ」「トゥワイライト」など、誰もが聞いたことがある超有名ポップソングを量産した。
 プロデューサーとして、他のアーチストの手助けをする才能に恵まれており、そちら方面での評価も高い。彼のプロデューサー手腕が奇跡への重要な布石となる。

トム・ペティ Tom Petty ( 1950- アメリカ フロリダ州出身) = 末っ子チャーリー・T.Jr. / マディ
 ロック黄金期のスピリットを現在進行形でぶちかますバンド、Tom Petty & The Heartbreakersのリーダー。彼とそのバンドが活躍する限り、アメリカン・ロック・シーンは大丈夫だと思わしめる存在。豊かな詞と美しい曲調をロックに仕上げ、しなやかな歌声も特徴的。金髪が綺麗な若造に見えるが(血統的にはチェロキー族のクォーター)、88年の時点ですでに超大物。欧米と日本とでは、その知名度の落差が大きい事でも有名。
 彼自身が最高のロッカーである一方、同時に50,60年代の先輩達へのリスペクトを大事にして、態度に表す「最高の弟」。この存在感も、後の奇跡を導く事になる。


 偶然と奇跡への布石 ― もしくは必然という経歴

 ウィルベリー兄弟で最初に出会ったのは、ロイとジョージ。1963年、既に大スターだったロイの前座を勤めたのが、当時駆け出しのビートルズだった。ナマイキなビートルズも、さすがにあのベルベット・ヴォイスには圧倒されただろう。ジョージとロイの親交はお互いを家に招くなど、継続していく。
 次に出会ったのが、ディランとジョージ。1965年、ビートルズのアメリカ・ツアー中にホテルで面会し、ディランがビートルズにマリファナの吸い方を教えたというのは、有名な話。その後、ジョージとディランは公私にわたって深い交流を続ける。

 時は流れて80年代。ディランはファーム・エイドで共演したトム・ペティのバンドが気に入り、一緒にツアーを始める。
 その頃、しばらく音楽活動を休んでいたジョージが、新しいアルバム『クラウド・ナイン』の製作を開始。プロデューサーに起用されたのが、ジェフ。ジョージはジェフのプロデューサーとしての手腕を大いに買っており、同時に大の仲良しになる。これはジョージの常だったが…
 1987年10月、ジョージはイギリスに来たディランとトムの楽屋を、ジェフと共に訪ねる。ここでジョージとトムは、すぐさま大親友に。その縁でトムも自分のアルバムのプロデュースを、ジェフに依頼。しかも忙しいジェフは、ロイの新譜プロデュースを約束していた。
 ジョージも暮れをLAで過ごそうと、家族と共にやって来る。こうして、『その日』を迎える要素は固まって行った…


 1988年4月 ロサンゼルス

 4月6日の夜、ジョージはジェフと夕食を共にする。この時、一緒に仕事をしていた、ロイも同席していた。ジョージは前年に発表した『クラウド・ナイン』からシングル・カットするため、急遽もう一曲録音する必要に迫られ、プロデューサーのジェフに明日にもスタジオに入りたいと伝え、快諾された。
 しかしそんなに急には、スタジオが取れない。そこでディランに電話して、自宅の小さなスタジオを貸してくれと頼むと、「いいよ」との回答。せっかくだから、ロイも録音に参加しようという話になる。ジョージはここ最近入り浸っている、トムの家にギターを置いていたので、それをとりに行くとトムも在宅。トムも明日は暇だから一緒に行くと決まった。

 翌4月7日。マリブのディラン邸に4人が訪れ、家主を加えた5人はジョージのために曲を作り始める。裏庭の芝生にギター片手に座り込み、この優秀なソングライター5人が集まれば1曲書き上げるのに、たいした時間は掛からない。こうして”Handle with care”のデモ・テイクが夜には出来上がっていた。

 ジョージから曲を聞かされたレコード会社は、びっくり仰天。あまりの素晴らしさにシングルB面にするわけには行かないので、他の手を考えるようにジョージに勧める。
 そこでジョージが思いついたのが、この5人であと9曲録音して、アルバムを作ってしまおうと言う物凄い思い付きだった。もとより当人達はやる気満々。ジョージが「バンドをやるぞ!」と言うと、全員がそのアイディアに賛成し、夢のようなプロジェクトは本格始動した。


 1988年5月そして…

 ディランはツアーとその準備があるため、それまでの10日間ほどを、バンドのレコーディングに割ける事になった。場所はLAにあるデイヴ・スチュワート(元ユーリズミックス。ジョージやトムの友人でもある)の別荘を借りた。
 一応スタジオと録音ブースはある。しかしブースは狭く、全員でギターを持って入れない。そんなわけで、キッチンに5人分の椅子とマイクを並べ、ギターテイクをすべて、ここで録音した。ヴォーカルは、狭くても5人で納まり、一つのマイクに向かって仲良く録音している。
 作詞・作曲も5人の共同作業。思いつく言葉を出し合い、どんどん詞を磨いてゆき、最高の曲が出来上がっていった。「食事の間も、歌詞ノートが回ってきた」と、トムは語っている。
 ボブはツアーのために10日間でレコーディングを終わらせ、旅立っていった。残された4人は多少寂しさも感じたようだが、楽しく録音を終える。そしてイギリスのジョージの自宅スタジオに移動し、仕上げ作業を完了させた。

 5人揃ってオフィシャル写真撮影,“Handle with Care” のビデオ撮影を終え、秋にはアルバム「ヴォリューム・ワン」が発売された。ウィルベリー兄弟を名乗る5人が(ロイ=レフティ/ボブ=ラッキー/ジョージ=ネルソン/ジェフ=オーティス/トム=チャーリーT.Jr.)、実は大ロック・スターのユニットであることは瞬時にばれ、その素晴らしい音楽の完成度にアルバムは大ヒットした。アメリカ・ビルボードのアルバム・チャートで2位,キャッシュ・ボックスでは1位を記録している。

 12月。ウィルベリー兄弟はそれぞれの場所で、アルバムがプラチナ・アルバムになったことを知った。長男ロイも、末っ子トムとその事について電話で話し、心から喜んでいた。「ほんとうに凄い事だ!」そのロイが、心臓発作で死去したのはその数日後。12月6日のことだった…
 ロイの葬儀の翌日。「ヴォリューム・ワン」からのシングル・カット曲“End of the Line”のビデオ撮影が行われた。そして残された兄弟は、またそれぞれの仕事へと戻ってゆく。こうして幸せに満ち、同時に悲しみを経験した1988年が過ぎていった…


 1990年ウィルベリー兄弟再び!

 「ヴォリューム・ワン」以降も、ウィルベリー兄弟はそれぞれ、個別に交流を続けていた。
 そして1990年春。ジョージの妻オリヴィアが中心となって、ルーマニア孤児救済団体「ルーマニアン・エンジェル・アピール」が発足する。これを支援するためにチャリティ・アルバムが製作され、多くの大物ロッカーたちが参加した(リンゴ・スター,エリック・クラプトン,ポール・サイモン,etc…)。その中に、トラベリング・ウィルベリーズの名もあったのだ。
 熱き友情再び。ディラン,ジョージ,ジェフ,トムの四人は、偽名もあらたに ― それぞれウィルベリー・ネームを改名していた。ボブ=ブー/ジョージ=スパイク/ジェフ=クレイトン/トム=マディ ― 新たなウィルベリーズ伝説を作るべく、結集したのである。この再結成を最初に呼びかけたのはディランだった、という話もある。

 ともあれ1990年春、再びウィルベリー兄弟はLAに集い、新しいアルバムの録音を行い、「ヴォリューム・スリー」として発売された。ロイの死の悲しみを吹き飛ばすような、元気で明るいアルバムは、一作目に勝るとも劣らないウィルベリー・クォリティを保っていた。アルバムのインナーには、こう記してあった。

  Volume 3 is dedicated to LEFTY WILBURY
  「このアルバムをレフティ・ウィルベリーに捧ぐ」

 それにしても、2枚目のアルバムなのに、なぜタイトルが「ヴォリューム3」なのか?この事が様々な憶測を呼ぶ事になる。


 その後のウィルベリー兄弟

 ウィルベリーズのアルバムは、権利関係が複雑なせいか、なかなか重版されず、長期の廃盤状態に入る。そのため、中古市場では高いプレミア価格で取引された。そして時とともに、その存在は伝説化していった。
 一方、ウィルベリー兄弟もそれぞれの仕事へと戻っていく。ディランはアルバム製作に意欲を取り戻し、同時に今日まで続くツアーを続行。いつも旅している次男であった。
 ジェフは自分のソロや、ELO名義の作品、そして他のアーチストのプロデュースと活躍の場を広げ、「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」では、『新曲』のプロデューサーに起用されて、少年時代からの夢を叶えた。
 そしてトムも自分のバンドを率いて毎年精力的なツアーをこなし、オリジナル・アルバムも好調。アメリカを代表するロック・バンドであり続けている。
 そんなトムは、いつもジョージと会ったり、電話をするたびに「今度はいつ、ウィルベリーする?」と楽しく話していた。そう、心から次のウィルベリー計画を楽しみにしていたのだ。

 しかし、ジョージにその時間は残されていなかった。「ビートルズ・アンソロジー」の仕事がひと段落した頃、癌を発病したのだ。しかも、暴漢に襲われて胸に大怪我を負うという、アクシデントにも見舞われる。世界中のジョージを愛する人々が心配する中、ジョージは入院した病院からコメントを発した。
 「あいつ(=暴漢)はどうやら、トラベリング・ウィルベリーズのオーディションを、受けに来たわけではないみたいだね!」

 どんな苦しみに際しても、ユーモアと、愛するものの存在を忘れないジョージ。癌は転移し、2001年11月。各国を転々として出来る限りの手術,治療を受けたジョージも、万策尽き、家族と共に愛したハワイに向かった。
 しかし、ジョージの体力は、もうそれにも耐えられなかった。彼はLAに落ち着き、そこで家族に看取られ、旅立っていった。そう、あの思い出の、ウィルベリーズの町LAから…

 ディランは立ち止まらなかった。彼は今もツアーを続けている。ジェフはエリック・クラプトンと共に、ジョージに捧げるコンサートの準備に入った。この「コンサート・フォー・ジョージ」には、トムもバンドと共に駆けつけた。(ボブは参加しなかったが、代わりにニューヨークでジョージに捧げる「サムシング」を歌っている。)
 ジェフとトムは、バスター・サイドベリーこと、ドラマーのジム・ケルトナーや、ジョージの遺児ダーニとともに、“Handle with Care”を演奏した。素晴らしき音楽、素晴らしき友情、素晴らしきウィルベリーズ…観客たちはスタンディング・オーベーションでそれを称えた。 
 以来、トムは自分のコンサートでも、かならずジョージに捧げるべく、“Handle with Care”を演奏している。

 いつの頃からか、『廃盤になっていたウィルベリーズのアルバムが、再販される』という噂が、世界中の音楽ファンの間でささやかれるようになった。
 メンバー五人の権利問題が非常に複雑な問題だったが、時間をかけてそれを解決したのだろう。ウィルベリー兄弟自身の、そして全てのファンの夢が叶い、2007年6月、ウィルベリーズの2枚のアルバムは、4曲の未収録曲と、5曲分のビデオ,ドキュメンタリー映像のDVDを追加して、「The Traveling Wilburys Collection」として発売された。
 特別仕様の限定ボックスは瞬く間に売り切れて、入手不能。通常版も好調な売れ行きを示し、イギリスでは1週目にアルバム・チャート1位を記録。その後も7週間にわたって、5位内をキープする。北米はもちろん、ヨーロッパ各国でも好調な売れ行きを示し、ネット配信でも上位をマークした。再販物としては、驚異の大ヒットであった。

 オリジナルの発売から19年。伝説となっていたウィルベリーズ。それが今蘇り、彼らを愛する全ての人の手に、そして心に届けられたのだ…


 トラベリング・ウィルベリーズ その魅力

 音楽

 ウィルベリーズの音楽を語るとき、音楽評論家・荻原健太さんの言葉が適切だ。「ロイ・オービソンこそが、『ウィルベリーズの音楽はこれだ!』というものを決定付けている。」
 ロイはディランやジョージといった、60年代ロック黄金期世代よりも、少し年上。年下の四人は、そのロイの声と音楽を敬愛し、ロックが成立する前段階への憧憬を表現している。この基本姿勢こそが、ウィルベリーズの無骨な芯を支えた。
 具体的には、まず目立つアコースティック・ギターを中心とした曲の構成(連想されるのはビートルズや、バーズ)。そして、美しいメロディとコーラス,絶妙な詞と曲の融合、随所に見られるユーモア感覚。そして全く質の異なる複数のヴォーカルの共演などが、ウィルベリーズ音楽の根本にある。
 雰囲気としては、穏やかな明るさが支配している。エコーは抑え目で、全体にさわやか、清々しい印象に満ちている。

 生ギターが奏でるコードには、少しひねりがある。これはコードの名手ジョージの存在が大きいだろう。その上、ジョージは繊細ながら滑らかなヴォーカルを織り込み、唯一無二のスライド・ギターが、堪能できる。
 そしてギターとハーモニカの名手ディランは、独特の強烈なヴォーカルでバンドを引っ張る。トムは持ち前のしなやかなヴォーカルで、ディランとそのほかメンバーのギャップを埋めた。
 ジェフはコーラスの名手だ。誰の声にも絶妙にマッチする、美しいコーラスをつける。そして何といっても、彼のプロデュース手腕こそが、ウィルベリーズに欠かせない要素だ。古い音楽への回帰を目指すバンドにありがちな、とっつきにくさは微塵もない。ポップでロックで、キャッチーで、それなのに軽くない。音楽経験が豊富なマニアたちも、納得の仕上がりは彼の働きの賜物だろう。ELOの音が好きになれない人でも、ウィルベリーズは別物だ。
 そして「ヴォリューム・ワン」には天からとどろくロイの美声…こえはもう説明無用だろう。

 詞に関しても、ウィルベリーズは突出している。何といっても、20世紀最高の詩人ボブ・ディランがいるのだ。ジョージもビートルズ時代から鍛えられた作詞能力の持ち主。
 そのジョージが、「凄い詞を簡単に作ってしまう」と評するトム。彼もディランを目の前にして、堂々と作詞してゆく。基本的にユーモア満載の楽しい詞が多く、希望や愛を歌っても、肩の力が抜けた感じが心地良い。
 リビングにくつろぎならが、タバコを吸いながら、ギターを弾いたり、食事をしている間も、歌詞ノートが回ってくるという、ウィルベリーズ流作詞術。作曲方法も含めて、こんな音楽の作り方が出来るのも、彼らの間に友情が存在するからだった。

 友情

 トムはウィルベリーズでの体験を、こう表現している。「僕の人生の中でも、一番幸せな時期だった。他のメンバーもそうだろう。いつでも音楽に溢れ、いつも笑っていた。」…
 単に良い音楽が出来ただけで、「一生で一番幸せ」と表現できるだろうか?答えは否だ。ウィルベリーズの音楽,映像に溢れる幸福感は、そこに存在する友情がもたらしている。
 個々に友情を育んでいた彼らが、ジョージという友情で幾つもの奇跡を起こしてきた男の存在によって導かれ、偶然も作用して一堂に会したのだ。彼らにとって大事なのは、アルバムの売り上げではない。ただ、友情と彼らが愛する共通音楽のためだけに、時を過ごしたのだ。

 そんなウィルベリーズは、エピソードに事欠かない。最初にディランの家で“Handle with Care”を録音した経緯や、ディランが作詞を手伝うに至る『取扱注意』の箱、食事時にはディラン自らメンバーのためにチキンを焼いてくれたと言う。
 本格的なレコーディングに入っても、遅くまで子供をほったらかしにして歌い続けたり、冷蔵庫が叩いたり、ヘンな会話を録音したり、歌詞の間違いにハマって大笑いしたり…ドキュメンタリー映像に刻まれた彼らの姿は、学生の楽しい夏合宿そのものだ。

 人間関係において、もう一つ重要なのは彼らの間に『敬意』が存在することだ。彼らは単に「仲良しなお友達」なだけではなかった。常にお互いの才能に敬意を持ち、それを尊重していた。特にロイに対する最上級の賛辞の数々。弟たちが、いかにロイを慕っていたのか、よく分かる。
 ディラン、ジョージ、ジェフもそれぞれに一時代を築いた伝説のロッカーの域にあり、お互いがお互いのファンに他ならない。一番年下のトムでさえ、ディランにその実力を見込まれ、ジョージやジェフが惚れこむ才能の持ち主なのだ。当のトムは、世代的にも兄貴達に大きな憧れを抱いて、ロッカーになったことは言うまでもない。
 ロックの歴史上、仲良しな友達や兄弟から発した多くのバンドが、才能はあっても人間関係の困難さから消滅していった。そこに必要だったのは『互いを尊敬する』という気持ちだろう。これはそう簡単に実現できることではない。

 ウィルベリーズの貴重なところは、音楽的才能の豊かな、しかも強い友情で結ばれた5人が、互いに尊敬し合い、しかも一緒にレコーディングをする機会に恵まれたと言う点だ。これら全てが揃った状態を、人は「奇跡」と呼ぶ。
 男の友情なんて、物語やドラマの世界の事ではないだろうか?いや、ここにウィルベリーズという実例がある。音楽の素晴らしさもさることながら、こんな奇跡を目の当たりに出来る事が、人々の心がウィルベリーズに惹き寄せられる理由なのだ。
 この「奇跡」が現実のものにした原動力は、やはりジョージだ。彼の「友達のためなら、何だってする」という(彼にとっては当たり前の)生き方が、ウィルベリーズの母となった。ジョージはとにかく友人の多い男だが、ウィルベリーズになり損ねた友人達は、さぞかし悔しがった事だろう…


 ありがとう、ウィルベリーズ

 ロックを愛する全ての人が、一度は夢見る理想のバンド、トラベリング・ウィルベリーズ。その存在は、夢のようでありつつ、確固たる事実として、私達の元に届けられた。彼らのアルバムを聞いた人々の胸には、どんな思いが湧き上がっているのだろうか。

 ロックは誕生から半世紀以上を経て、様々に変容し、無数のアーチスト達が現われては消えていった。そして一握りの本当の実力者たちが、1950年代1960年代 ― つまりロック黄金時代の伝説を作る事になった。その中には、いくつもの悲劇も含まれている。
 しかし、黄金時代に出現したロックは確かに強くて、美しくて、繊細で、優しく、逞しく、たとえようもなく豊かな音楽には違いない。ウィルベリーズがもたらした音楽は、そんな豊かさだった。それと同時に、人と人の繋がり ― 友情や敬愛の心も、音楽と同様に強くて美しいものなのだと、彼らは証明してくれた。しかも、それを80年代というロックにとっては試練の時代にだ。

 私はこうして最大の賛辞を、目一杯叫ぶが、当の本人たちは何かを証明したり、説得したり、導いたりした「つもり」が、全く無い。ウィルベリーズは、純粋に友情と音楽だけで、あれだけのものを作り上げた。
 そのさり気なさ、気張らない姿勢、穏やかな空気… 愛とか、友情とか、素晴らしい音楽って、誇示するものではないよね… ウィルベリー兄弟はタバコをくわえ、ギターを爪弾き、ちょっと肩をすくめてそう言っているような気がする。

 ウィルベリーズがもたらした全てのものに、感謝したい。



 → Part 2 :更なる豊かなウィルベリーズ・ワールドについて
 → Part 3:全曲目,映像作品解説
 → Part 4:図解 異常に偏りのあるウィルベリー兄弟列伝 (総天然色)



No reproduction or republication without permission.無許可転載・再利用禁止
Copyright(c)2003-2006 Kei Yamakawa All Rights Reserved.