「独立後娯楽映画の流れ」(2) The History of Indian Popular Cinema after Independence
ガンジスの流れる国 JIS DESH MEN GANGA BEHTI HAI (The Country Where River Ganges Flows)

[1960年制作]

監督・・・Radhu Karmakar

出演・・・Raj Kapoor
      Padmini
      Pra
      Cchauchal
      Lalita Pawar

ラージ・カプールのキュートな魅力大爆発!
そしてパドミニは踊る佐久間良子である

 ルルルールルールルルー♪野に咲く花のようにー♪♪
と聞こえてきそうなオープニング、手漕ぎの舟に揺られて片張り太鼓を叩きながらガンジス河を流れてくるラジュー(ラージ・カプール)。歌うは Mera Naam Raju (私はラジュー)で、まずは自己紹介。暑いインドでちゃんとお洋服を着ているあたりは彼の方が常識人であるのかもしれませんが(むしろ逆?)、リュックのかわりに太鼓を担いでおずおずと歩く姿はまさに
山下清。絵は描きませんが太鼓の腕はかなりのもので、画伯の絵と同じくらいに人々に感銘を与えます。そして彼の行動がいつしか人の心を解きほぐし誰もが幸せになった気がしちゃう辺りも、ね。おにぎりも好きそうだし
今回の作品群の中で最も音楽が充実しているといえるのでは。
先出の
Mera Naam Rajuや、Jis Desh Mein Ganga Behti Haiはさびのフレーズがつい口をついて出てしまう親しみやすさを持ちながらその歌詞の意味深さに胸を突かれる瞬間があるし、パドミニがそのワガママなボディを鎮める為に滝にうたれちゃったらもっと燃え上がっちゃたのと歌う(嘘)Begani Shadi Mein Abdulla Diwana、あなたの為なら切り立った崖もひとっ飛びよと歌う(だから嘘)パドミニのけなげさが心を打つAa Ab Laut Chalenそして特筆すべきは、盗賊達にはやし立てらながらも屈せずに太鼓の腕で勝負だぜ!と歌い踊り映画史上最も気になるフレーズ「パドミニのホイホイホイ」をその歌詞に取り入れた名曲中の名曲 Hum Bhi Hain Tum Bhi Ho・・・・もう一部の隙もありません。

パドミニ母さんのおにぎりは薔薇の香りがしそう・・・・
佐久間良子に似ているし・・・

Kanko    

黒いダイヤ KAALA PATHAR (Black Stone)

[1979年制作]

監督・・・Yash Chopra

出演・・・Amitabh Bachchan
     Shashi Kapoor
     Shatrughan Sinha
     Rakhee
     Parveen Babi
     Neetu Singh
     Parikshit Sahni

 インドのお嬢さん達を熱狂させたばかりか男も惚れた70年代の大スター「アミターブ・バッチャン」主演のこの作品。残念ながら私は見逃してしまったのでお友達のコメントをお楽しみください。終わりに本人のプロフィールも載っています。ではどうぞ。 (ラジニ歓子)

 炭坑を舞台にした、労働闘争の映画。確かにストーリーも、闘争・恋愛・友情と豊富なのですが、私はあえてこの映画の魅力は主役のヴィジャイ役のアミターブ・バッチャンの鍛えぬかれた肉体と、ラヴィ役のシャシ・カプールの彫刻のような美しさに尽きると主張します。その二人が水のあふれる炭坑内で、ぐちゃぐちゃになっている様子はミーハー魂をくすぐるのでした。しかも、岩に足が挟まって動けなくなったラヴィを救おうとするシーンなどは、友情以上のモノを感じずにはいられません。(それは私だけかもしれませんが)
 個人的には、動かなくなった炭坑用のエレベーターを動かすために、自分のトラックでリフトを引っ張った、赤いターバンのおじちゃんが良かったと思います。神頼みするとエンコしていたエンジンが動き出したり、やっぱりインドですよね。そういうのが。

書いてくれた人・・・ 灼彗我無羅 (しゃくすいがむら)
インドを魂の遊園地とする「シャー・ルク・カーン」ファン。電脳界は超ビギナーなので、誰か教えてやって下さい。下手の横好きで漫画も描く。ただいま「インド映画祭体験実録本」(同人誌)編集中。

 
この命 踊りに捧げて JHANAK JHANAK PAYAL BAAJE (Anklet Jingles)

[1955年制作]

監督・・・V.Shantaram

出演・・・Sandhya
     Gopi Krishna
     Madan Puri
     K.Date
     Bhagwan

 さて、この作品を見逃した私に変わって、インド古典舞踏バラタナティアムを指導している仲良しさん、まさに「この命 踊りに捧げて」るmissシャーンティがコメントを引き受けてくれました。シンクロニシティな生活を送っているmissシャーンティ監修による「インド舞踏解説」の特別おまけ付きです。映画の感想が読める上にインド舞踏にまで詳しくなれるグリコのようにお得なページはここだけよ。(ホントかしら?)・・・ラジニ歓子

 以前’95年にも科学技術館付属のフィルムライブラリーにおいて行われたインド映画祭でも何本かの映画を見ましたが、今年は6月封切りの「ムトゥ・踊るマハラジャ」と、続く「ボンベイ」のロードショーと日本における空前のインド映画ブーム皮切りの年だと感じます。そんな折、インド独立50周年を記念する「インド映画祭1998」が8月の2週間行われ、ワクワクしてなんと9本の映画を見ました。とりわけ芸道(舞踏)ものに興味があり、’95にはレカ主演の「踊り子」(高級娼婦と上流階級の紳士との悲恋もの)で、レカの美しさに酔いしれましたが、結ばれぬ恋の結末でそれほど深い感銘は受けなかったと思います。「カーマ・スートラ」は宮廷の華やかな生活の裏にある、人々の葛藤と性愛の秘技が描かれていましたが、最後のシーンで風雪に耐えてなお生き続ける女性の後姿から「人間は何があろうと生きていく」という感情との葛藤の先にある人生の根底のテーマが伝わってきました。今回の「この命 踊りに捧げて」は、芸道がテーマらしいとタイトルから察することができたので、この映画最後の上映日に友人との約束をキャンセルして見に行ったのですが、見終わってただ踊りの修業のプロセスを描くのではなく、奥深いテーマを感じ、何をさて置いても「見に来て良かった」と思った次第です。

 映画の冒頭シーン(映画配給会社のオープニングシーンか?)でニンフに扮した踊り子が蓮の花が開くと現れ、花びらを散らす映像がインドらしくまさに映像のインド絵巻きの始まり始まり・・・という感じがしました。映画のオープニングは、男女二人のグルグン(足鈴)をつけた足がステップを打ち鳴らしているシーンで始まり、前方に色々な粉(ホーリー祭で使われる)の小山が並んでいて、そこにジャンプして色粉を飛び散らせるという華やかなものでした。カラー映画の初期の作品らしく、マルチカラーをふんだんに取り入れようとオープニングの他、途中の公園で踊るシーンで、噴水が色とりどりの水を噴き上げるのに驚かされました。その他、主人公のサリーや衣装に色や柄を思い切りふんだんに使っているのが目につき、カラーが使えて「うれしいっ!!」という気持ちが伝わってきました。字幕が出てくるとパンフレットでは気付かなかったが、ローマ字表記のGOPI KRISHNAの名前を見つけて「あっ、あれは伝説のカタックの名手ゴーピー・クリシュナ!?」と分かり、ワクワクしてきました。私がデリーの学校で勉強している際、カタックのクラスの友人から超人的踊り手であるゴーピー・クリシュナの話は聞いていて、女性舞踏手のシータラ・デーヴィとゴーピー・クリシュナは伝説の人となっていました。舞踏史の本などで写真は見た事がありましたが、実際踊っている姿を見るのは初めてで、感激で一杯になりました。期待通り、ゴーピー・クリシュナの踊りはカタックとかインド古典舞踏というジャンルを超えた力強いステップと優雅な天界の踊りという印象でした。ホールを所狭しと飛び跳ね舞い踊る姿は、まさに名のごとくnautyでしかもsexyな若いクリシュナを彷彿とさせます。青い瞳と小柄で華奢な体つきも、まるで神話からクリシュナが飛び出て来たようです。どこかで見覚えがあるなと思っていたのですが、86年に肉体を離れたハレカントのババジの若いころにそっくりでした。ババジ師もシバ神の生まれ変わりと言われていますが、彼の力強いステップは、まるでシバ神がコズミックダンスを踊っているようでもありました。いうなれば彼はシバ神とヴィシュヌ(クリシュナ)を合わせ持つハリハラン神的存在だったと思います。やはりこの世に聖なる踊りを具体化するために生まれた天性の踊り手であったと。

 ストーリーは、古典舞踏の師マンガル・マハラージが、息子ギルダルと共に通りかかった街で、かつての弟子ループカラーの公演ポスターを目にしたことから始まる。そのいかにも大衆に媚びた彼女の姿に、マハラージはポスターを破り捨てる。その後、ある大邸宅の窓越しに踊る娘ニーラーを見つけ、やはり芸術には程遠い踊りに憤慨し、ギルダルに本物の舞踏を踊って見せるように命じる。彼の踊りに感激したニーラーがマハラージに弟子入りを願い出、盛大な入門の儀式(正式なプージャ:法要のようなもの)をとり行い、マハラージよりグルグン(足鈴)を受け取り、ギルダルより習い始める。プージャの途中で、インドの舞踏学校で朝礼の時に毎日唱えていたDHYANA’S LOKA(瞑想の祈り、シバ神への献歌)が唱えられていて、思わず一緒に口ずさんで唱えてしまいました。プージャの終わりに、ニーラーの「何でもお望みのものは差し上げます」という申し出に「それではおまえの踊りに賭ける熱意だけが欲しい」と答えるグルジーの言葉にも思わず頷いてしまいました。最近は古典芸術の世界にも現代化の波が押し寄せて、師と弟子との間の信頼関係より金銭関係が先行しているきらいがあって、古き良き時代が失われていく姿に淋しさを感じていましたが、この映画は本来の”芸道のあり方”を如実に伝えようとしている姿勢が冒頭から見えて嬉しくなり、心の中で「そうよ、これこそ本来の古典芸術の姿よ。温故知新。再び21世紀に向けて本物のインド古典舞踏ルネッサンスは起こるわ!」とエネルギーが沸いてくるのを感じていました。今は日本でも世界の民族舞踏がブームになりつつあるのか、あらゆるダンスを習うことができますが、その根底にある深い意味やコンセプトを知らずして、ただ表面的な型を追っていても、うわべだけの真似で終わってしまうと常々思っています。私も日本人として、インドの古典芸術を4年間学ばせていただきましたが、一生勉強だと思い、謙虚な気持ちでその濃い歴史に培われた芸術を称賛し、研鑽を積んで、又日本にもお伝えしたいと思っている次第です。日本にも素晴らしい古典芸術の数々−舞踏・音楽・武道や華道・茶道といった”道”がありますが、師から弟子へ”魂のあり方”である精神性を口承伝承という形で長い間秘儀伝授されてきました。それらは一生かけて体・心・魂の三位一体で伝え抜くもので、ただ一過性のお稽古事とは違います。インドでもGURUSHASHI PARAMPARAM−グルから弟子へ引き継がれること−という言葉がありヴェーダ(インド哲学)も音楽(サーマ・ヴェーダの中に書かれた理論より)も舞踏(ナーティヤ・ヴェーダの中より)もこの方法で真髄を伝えてきました。マハラージがプージャの最中に言った「踊りを教え乞う者には恋愛は御法度。修業の妨げになる」というセリフにも思わず頷きました。私も子供の頃より踊りが好きで熱中してきて恋愛には縁のない生活でしたが、インド滞在の4年間も慣れない気候と風習の中で、まったく初めてのステップとムドラーなどの理論の勉強で、生きて行くことと自分の勉強で精一杯で、あっという間に日々が過ぎていきました。一つの目標に取り組む時は真剣さが求められ、エネルギーは分散されるべきではなく集中することにより無限のエネルギーが発揮され、困難に打ち勝つことが出来ると思います。それは芸術に限らず、人生すべての局面における真理と心得ています。『バガヴァット・ギータ第6章5節』にはこう書かれています。「大いなる自己によりて自己を向上させよ。自己を落胆させてはならない。何故ならば大いなる自己こそは唯一の友であり自己こそは大いなる自己の唯一の敵なのだから」これは私の好きな言葉であり、昨年人生の良きアドバイザー(魂の導き手)である人に、会ったばかりの頃にかりたルーンの石(古代ケルトのドルイド僧たちによって使われていたと言う26文字が描かれた石による神話占い)の解説書に載っていたのを書き移し、トイレに貼って毎日読んでいるものです。「自己」とは小さな自己、エゴまたは自我をさし、「大いなる自己」とはハイヤーセルフまたは内なる神、アートマ(真我)を意味します。自我の欲求に翻弄されることなく、内なる神の声に従って自らを鍛練し、向上させることが人生の中心課題であると『バガヴァット・ギータ』全編を通して説いています。一人一人そのまっとうするべき目標の形は違いますが、映画の中のグルジーであるマハラージとその息子ギルダルの家系は、古典芸術を伝承するという形で表現する役割なのでしょう。インドは古来よりカースト制やジャーティーと呼ばれる職業カーストなどではっきりと生きる世界が分けられていて、その家系に生まれたならその世界で”生”をまっとうしなければならない厳しい掟がありました。ですからこの踊りの名手の家系に生まれたギルダルも舞踏大会で優勝するという重い使命があり、それは先祖代々背負ってきた使命でもあったわけです。しかし人間は万物霊長の中でも最も神に近い存在ではありますが、いまだ神に至らずその境地に向かって日々修業している存在です。他の動物と違い、喜怒哀楽など様々な感情と理性を持ち備えています。主人公のニーラーも初めのうちは無我夢中で学んでいたが、次第にギルダルを愛するようになり彼もニーラーに好意を持つようになります。男女が毎日顔を合わせ一緒にいれば情が移り愛に発展する、これはいたって自然な流れです。いくら神に誓ったとはいえ、感情は押さえられなくなり彼女は葛藤する。ギルダルも大会を控えながらも、心がそぞろになり練習中もボーッとしてしまったりして自分でも「これではいけない!」と感じるようになる。父であるマハラージも「息子は精神が強いから、誘惑に負けるようなことはない」と言い張るが、遂に二人の恋愛は彼の知る所となり、彼は修業の妨げになると二人を引き裂こうとし、ニーラーに「もう息子に近寄るな」と罵詈雑言を浴びせる。失意のニーラーは幼なじみのマニラールのもとへ走るが、本意ではない自分の行動に我を失い川に身を投げる。そこでヨガ行者に助けられたニーラーは山中に篭もり、衣服はボロボロ痩せてフラフラになりながら「ギルダルが大会で優勝するまでは、ここで彼の成功を祈っている」と心配して探しに来た使用人バドルーの妻に言って、彼への想いをバジャンで唱いあげるためにタンプーラ(ドローンを奏でる弦楽器)を買ってきて欲しいと頼む。その後ニーラーがまるでミーラ・バーイ(有名な伝説で王女ミーラがクリシュナに恋焦がれて宮殿を飛び出し、ただひたすらにクリシュナを賛歌し、全国を放浪し、様々な困難に遭いながらも遂にクリシュナと結ばれるというお話)のように、ガンジス川の岸辺のポーチで愛しいギルダルへの想いを唱いあげる。その感極まった想いの中でマハラージやギルダルの姿を回想し、彼女の想いは複雑に絡み合う。彼女の押さえる事が出来ないその強いエネルギーが、向こう岸で練習に励んでいたギルダルに届き、彼は川を泳いでニーラーのもとに駆けつける。すると空は一転にわかに曇り激しい雷雨となる。このシーンで、想いはどんなに遠く離れていても伝わるという波動の法則を思い出しました。そして人の思いがエネルギーとなって天候も変えてしまうほどのパワーがあるということも。以前インドで見た「名楽タンセン」という映画でも、ムガール王朝に仕えた優れた作曲家であり演奏家で有名なタンセンが、日照り続きで民衆が困っていた所、メーグマーラーという雨のラーガの曲を演奏すると、たちまち天から雨が降ってくるというシーンがありました。現在の地球環境の悪化と頻発する天変地異の数々も地球に住む我々人類の想念の成せる技と聞きますし、テレパシーなども見えない想念の波と考えられます。ニーラーのいる場所に泳ぎ着いたギルダルは「君はこんなにも僕のことを想ってくれていたのか。これからはずっと一緒にいよう」と求婚するが、ニーラーはつれない素振りをする。怒ったギルダルは彼女を殺そうとするが、そこに駆けつけた父がその手を止める。ここで感じたのは、ニーラー は死ぬほど彼を愛しているが、その時彼の申し出を受ければ彼は恋愛にのめり込み、大会にも出られなくなってしまい、そうすれば彼女のグルでもある彼の父マハラージは落胆し、今まで男手一つで育てた苦労が水の泡になり、彼女も恩をあだで返すことになると思い、彼女も辛かったが拒絶したのだということです。生きる望みを失ったニーラーは土に埋まって死を待とうとするが、恩人のヨガ行者と彼女の家の使用人夫婦が探しあて救い出す。彼女の最後の望みは「舞踏大会の会場の近くへ行き彼の成功を見届けたい」というものだった。華やかな大会会場でギルダルは、艶やかで躍動的な踊りを披露している。一方ベッドで息も絶え絶えのニーラー。しかしタブラの音とグングルの足音がすると、足が自然に音に合わせ動いてしまう。(会場からはドッと笑いが上がった)「どんな薬も効かないのに」というヨギのセリフに「その人の一番好きな物、夢中になれる事が一番の妙薬なんだ」というメッセージを受け取りました。ギルダルの独舞が終わり、双舞(デュエット)の部になると、改心してパートナーになったループカラーが土壇場でマニラールに買収され相手役を放棄してしまう。そこへフラフラのニーラーが現れ、脱ぎ捨てられた衣装をまとい、大地を破壊しようと暴れ狂うシバ神と、その怒りを自らの命を賭けて鎮めようとするパールヴァティ神の踊りを見事に踊る。その二人の踊りは、激しい男性的エネルギーのタンダヴァと女性的優美さのラーシャと女性エネルギーのシャクティ・パワーがよく表現されていて、他の色々な神々のダンスシーンの中で群を抜いて感動的でした。そして結果は見事ギルダルの優勝。「もうこれで私の役目は終わりました」と舞台を去ろうとするニーマーにマハラージは「これから仲良く二人で手を取り合って踊りの道を極めなさい」と二人のグルグンの紐(結婚式に首に結ぶ黄色いマンガラ・スートラの変わりに)を結び付けるのだった。感動的なハッピーエンドで途中から泣きっぱなしでしたが、最後のシーンで大泣きしてしまいました。実は今も想いが込み上げてウルウルしています。いろいろ心の行き違いや誤解があっても、常に自分の気持ちに正直に純粋に想いを持ち続ければ必ず願いは叶うものだという人生における大きなテーマをこの映画は教えてくれました。まさに「待てば甘露の日和あり」であり「念ずれば花開く」です。この映画は”芸道もの”という形式をとりながらも人生における究極の二大テーマ−@使命をまっとうするA愛情を超えて愛に至る−をメッセージとして与えてくれました。

 インド映画全般に言えることですが、笑いあり、恋愛あり、歌と踊り争いなどゴッタ煮的なストーリー展開の中に盛り込まれている哲学的境地は、まさにヴィジュアル版『バカヴァット・ギータ』又は『般若心経』といえるでしょう。インド映画といっても白黒映画時代から現在のものまで多種多様ですが、我々がインド映画と聞いて連想するような、いわゆるマサラ・ムービーなるものは、この世界にある全ての出来事を包括し、さらに面白おかしく大袈裟に描いています。そして見る者を抱腹絶倒させ、時には悲劇に涙させ、悪党を憎ませ、でも最後は皆仲良くハッピーエンドでめでたしめでたし。というパターンが多いのにお気付きでしょう。私はこれはインド人の使うユーモアのセンスと哲学的境地の現われであると解釈しているのです。人は心から笑うと脳内モルヒネが分泌され、脳がリラックスして気分が良く素直になります。そこへメッセンジャーたる主人公がセリフの中でヴェーダの教えを次々と喋ります。そうするとそのメッセージは童心にかえった観客の潜在意識に届くというわけです。これも良い意味でのマインドコントロールだと思います。「ムトゥ・踊るマハラジャ」の中でラジニカーント演じる主人公が片腕の男に自分の財産を横領されていると気付いた時に「騙すより騙される方が罪深い」と言って財産の全てをその人にあげて豪邸を出て行くシーンに「これが本来のヴェーダの教えなんだ」と感動するやら、こんなセリフを言わせる監督はすごい人だと感心してしまいました。これで何故インド映画俳優さんが政治家に転向する人が多いのかが頷けました。タミルナード州はその走りらしく、州長はM.G.R氏から今のジャヤ・ラリタ女史、次はラジニカーントという話もマドラスで聞いていましたから。マドラス滞在中の94年は映画誕生100周年の年で、ボリウッド(ボンベイのジュフ海岸近くの映画都市名)も数々のヒット作を生み出しました。今回上映の「1942 A LOVE STORY」もその年の作品であったし、タミル映画もマニラトナム監督の「ボンベイ」が同年だったと思います。今回見たラージ・カプール主演の白黒映画時代のものは、亡き母(※)が松竹時代に出演していた小津安次郎監督の映像表現になんとなく似ていたし、心の機微を描写する技法が大学時代に良く見たフランスのヌーベルバーグの作品を彷彿とさせました。とにもかくにも人間ドラマ−TAMASHA(タマシャ、インドの民衆劇)−が好きです。インド映画万歳!!インド映画に幸あれ!!

※ラジニ注釈:missシャーンティの母上は往年の映画スター「環 三千代さん」です。

シャーンティ プロフィール・・・ ?年9月8日生まれ、乙女座、B型。幼い頃より歌と踊りに親しみ、様々なジャンルの歌舞音曲に触れ’91年7月よりインドのニューデリー及びマドラスにて古典舞踏の研鑽に励み帰国。インド舞踏の教室である「ナーティアンジャリ」主催。「生きること、呼吸していることがダンス!」をモットーに日々の「一期一会」を楽しんでいるウーピー・シャーンティ。「シャーンティ」はサンスクリット語で「平安・調和」を意味する。ちなみにOM SHANTIとはI am peacefulという意味です。