Top 『錦絵』 22-33号(雑誌)大正八-九年(1819) その他(明治以降の浮世絵記事) 出典:『錦絵』(相場七二編 国書刊行会錦絵部 大正六年(1917)四月創刊~大正九年(1920)五月) (国立国会図書館デジタルコレクション) ☆ 大正八年(1919) ◯「大蘇芳年」饗庭篁村著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝(前略)明治十五年の絵画共進会に出品された保昌笛を吹く図(注1)は立派なものと思つたに、それが 浮世絵といふ廉で、陳列された場所がよくなかつた、チヤツパなつく芋山水(注2)などが巾を利かして 浮世絵だからとて麁末に取扱ふのはきこえぬ事だと思つたので、僕は其の頃読売新聞者の世話になつて 居たが、根岸の住居から朝の出がけに根津の芳年氏の許をはじめて訪ふた、庭も家も荒はてた、夜は物 凄からうと思ふ家であつた、名刺を出して来意を通じると、ヤ饗庭さんがお出か サア此方へ と快闊 な声がして直に座敷へ通して呉れた、見ると芳年氏は腹掛の上に温袍(注3)を引掛けたといふ様な職人 風の形であつたので 僕は心中聊か驚いたが、話して見ると面白くつて初対面といふ事は忘れて仕舞つ て共進会へ出品の絵の事について話を交へた、苦心談やら不平談やら同氏も腹蔵なく語られて 果は酒 肴をもてなされた、是が同氏との逢ひはじめで、 芳年氏の名も天下に響いて住居も浅草須賀町の立派な家となりし頃も折々尋ね、また諸所で出会した 事もあつて 隔てなく話しかはされて呉れた、殊にいつでも昔の修業時代の面白い話で、感服なこと、 また時世風俗の変遷、物価の安かつた事などで 為になる事が多かつたが 今は皆忘れました、中に一 事、同氏が師の国芳の許に寄宿して居た頃の修行振についての話のあとに「私は国芳に附いて居たのは 長い間の事ぢやァありません、はじめは松月といふ四條風の絵師に就いて習つたのですがネ 是ぢァ売 れないと見切て 国芳の門下になつたのです」と語られた、芳年の伝に はじめから入つたといふ事が 無かつたのでいつかは此事を何かに書かうと思つて居たので 今思ひ出してかきました、 芳年氏について 僕が最も嬉しいと思つたことは、これも昔し紅葉山人が『新作十二番』といふのを 出して二冊めを僕にとの注文、安受合に受けこんで『勝鬨』といふのを作り、偖(さて)その挿画を芳年 にと云ふと 板元の春陽堂は眼を円くし、芳年先生は今なか/\盛んで口絵を頼んでも一月や二月では 出来ません、どうか他の画家へとのこと、マア頼んで見て呉れ、おそくなる様なら外へ頼むから と無 理に頼ませ下字(僕は画がかけないので下絵のかはりに下字と号して委しく書くだけ)を持たせてやる と、芳年氏見て大喜び、書くよ下絵はいけねェ 饗庭さんの下字に限らァ、大急ぎなら明日中に書き上 げるよ、表紙はどうする 見かへしは と上機嫌なのに春陽堂の使は吃驚し、表紙と表紙裏は川崎千虎 先生が書れるさおうです と恐る/\云へば、それでは序文のところの地へ花紅葉を己が書かう、と頼 まぬ所まで引受けたので、使の男(これが気の利いた若者で今は外国に居るとやら)は急ぎ僕の許へ来 て、先生の御威光は今さらに驚きました、下字を見ると大にこつきで明日書くよ、ばかりでなく序文の ところへ花紅葉のから摺をしろ それもおれが書くよです、下地は好なり御意はよしとは真個に此事で せうと此男コツサに洒落て帰りしが、其のかはり彫工も摺師も絵の具までも芳年の差図で立派な口絵に 出来上つたが入費は予想外でしたと、これは春陽堂主人が後の話しなり、芳年氏は気持の能い真の江戸 ッ子なり、今思ひ出しても其の姿(さま)目の前に、其の清元が猶耳に残るごとし、浮世絵の名人なるこ とは諸君が知らるゝ通りなれば 云ふに及びませんが、何にしても明治年代の一名物でしたよ〟(注1)「藤原保昌月下弄笛図」 (注2)「つくね芋山水」文人画の蔑称 (注3)どてら (注4)『新作十二番』春陽堂(明治23年4月創刊~24年12月終刊 8冊)「勝鬨」饗庭篁村著・口絵芳年画 23年4月刊 ◯「近世錦絵製作法(二)」石井研堂著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝 三、製作法の一 原画 錦絵の製作は、之を略言すれば、先づ全画の骨格部たる墨絵の原画を、木版面に彫刻し、其の摺本に 依て更に彩色部の版を起して、彫刻部の手を離れる、之を摺るにも亦、先づ其の黒摺部を摺り、次に彩 色部を摺りて完成するのである。予は、記述の混雑を避けるが為めに、原画、彫刻、摺刷の三網に分ち、 各自をその下に属(つ)けて全部を悉すことゝしやう。 〔イ〕画稿 版画の第一稿は、白描の粗稿である、図画の位置結構大小等を稿本上に活殺し取捨し、稿定つて然る 後に浄写して原画とするのである。明治以前の浮世絵師の稿本を見るに、多くは墨一色に限つてあるが、 明治後のものにあつては、先づ鉛筆にてあたりを付け、次に淡朱筆で其の活線だけを描き、更に墨で定 稿を作る者さへ有つた、これ技倆筆力未熟の為めに、ぶッつけに稿をつけること能はず、再三再四塗抹 修正して辛く稿を作つたからである、第二十一号に掲げた国芳と芳年の画稿と、それの出来上つた錦絵 の例を参照せられたい、国芳の画稿中、煙管の雁首や、左上部の老人の着物のこけて肩を露はした部分 なぞは、画稿と錦絵と、小異あるを看取さるゝが、これは、浄写の際に、改め描いたものであらう。 〔ロ〕版下 画稿定つて後ち、之を浄写したものが所謂版下である、即ち版下絵の略言である、版下は、白描にし て古来の所謂白描画とは異り、墨版に属する分を全部一紙上に描いたものである、版下を一名写本とい ふは、薄い紙に浄写したものに限るより出たる名であらう。 版下は、其の画面を木版に糊付し、紙背より彫刻する為めに、紙背を透して画の見えるのが便利であ る、故に、古来の版下画は、紙質の強靱で薄いものを多く使ひ、薄美濃紙又は良質天狗帖など、明治に 入つて後は、薄葉雁皮紙も多く用ひられた。 版下画は、型の一定した或る部分は、彫工の巧みにまかせ、之を細写密描しないこともあつた、人体 の髪の生え際や毛筋など即ちこれで、版下には唯大体の見当を示すに止つて居る、建築物中、障子の骨 割りなども、亦其の骨の交叉部の各線の連接と断絶などは、総て彫工の自由に彫り成すにまかせてあつ た、併し、明治年代のものは、版下通りに彫らせるといふ風なので、版下も、其の積りで描いてある。 版下は、板に糊付して彫刻して仕舞ふものであるから、錦絵と成つたものゝ版下は、その時限り無く なつて仕舞ふ、今日に存在する幾多の版下は、元々上木する予定で描き上げたものながら、何かの都合 で上木しないで仕舞つたものに限る筈である (中略) 版下は白描であつて、其の刻成の版は墨版を成すものである、然るに現存の版下には、人物ならば目 くま口紅を入れ襟袖口を赤くし、景色ならば遠洋上空を薄く彩色したものなどがある、これ等の目口襟 袖口遠洋上空等の施彩は、彫刻には何の関係も無く、唯版下に生気を発し、一時版下を好く好く見する 様に、「売り物に花を飾つた」絵師のお愛相に過ぎない、俗に之を「御祝儀」と称するは、売れ行の好 きを寿く名でも有らうか、 ◯「紙鳶画(たこえ)に就いて」巌谷小波著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝 正月が年々淋しくなる。それも自分が年を取つて来るからかと思ふのに、万更然うでも無いらしい。 第一僕等不平に絶へないのは、例の紙鳶と云ふものゝ、僕等の少年時代に比して、著しく振はなくなつ た事だ。 僕等子供時分には、歳暮(くれ)から新春(はる)へかけての遊びは何と云つても紙鳶が一番だつた。随 つてもう十二月に入ると、方々の玩具屋の店が、殆んど紙鳶で埋まつてしまふ。皆紙鳶専門の店が出来 て、女の子に対する羽子板店と共に、例の年の市の賑ひに、どんな色彩を添へて居たか知れない。 それが此頃は、羽子板屋は相替らず盛んなれ、紙鳶屋はとても以前ほどは見られない。尤も羽子板の 方だつて、似顔画が滅法拙くなつた様だが、紙鳶の武者絵なるのに至つては、頗る失望させられる。 一体紙鳶には色々ある。まづ大別して云ふと、画凧、それから奴凧・鳶凧・蝉凧・虻凧の如き、形を 其の侭取つたものもあるが、要するにこの首なるものは、何と云つても画凧に限る、で、又その画様は と云ふと、日の出に鶴や、達磨や、牡丹や、童子格子や、三筋に蝙蝠や、種々類もあつたけれど、中で も一番子供心をそゝつたのは、矢張り豊国畑から出た武者絵であつた。例へば頼光とか金時とか、八幡 太郎とか、鎮西八郎とか義経とか清正とか、子供の好きな大将武将が、北からの順風に乗じて、悠然と 空へ伸あがる所は、何とも云はれない愉快なものだつた。 それも入念の物となると、二半枚から四枚半迄の間に、二人立から五人立位まであつて、かなり精巧 を極めて居たから、一種の美術品としても、亦見るに足るべく思つた。イヤ、全く子供の時分の美術思 想は、画本、錦絵口絵この画凧なるものあつて、どれ丈養成されたか知れないのである。此点から見る と、彼の長崎式の所謂「ハタ」の如きは、競技の上には元より趣味に富んで居るが、美術眼の前に出し ては、殆んどゼロと云つても可い。 然るに今や東京の市街は、空に電信電話の邪魔あり、地に電車自動車の危険あつて、紙鳶に余念無く 遊ぶを許さず、随つて紙鳶屋も少なくなれば、紙鳶画も振はなくなつてしまふのは、何たる残念な事で あらう。(以下略)〟 ◯「江戸時代の流行と人気役者(中)」斎藤隆三著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) (第一 帯) 〝吉弥結 延宝年間に美貌を以て世に聞えたる女形の元祖玉村吉弥が、工夫した帯の結方で、恰も唐犬 の耳の垂れた様に、三寸幅の帯の二つ結びの両端をだらりと垂れさせたもので、後には両端の隅々へ鉛 を入れて重みを付けるやうになつた、又帯屋は此結び方に適するやうに、特に帯の幅の尺長いのをこし らへて、売り出したという程で、元禄頃まで、東西を通じて盛んににはやつたのである、後世には腰元 結を吉弥結といふやうになつたが、これは初めのとは全く変つて居る吉弥結 菱川師宣画 「見返り美人」部分(国立国会図書館デジタルコレクション) 幅広の帯 元禄年間の女形役者荻野沢之丞が、元禄九年の江戸中村座で、女鳴神の狂言をした時に、当 時の通例の帯の幅であつた三寸五六分といふのでは、如何にも見栄がしないといふので、特に幅広の帯 にしたのが、漸次に一般婦女子の幅広の帯を要求する様になつた動機であるとのことである水木結 元禄の初年京都から江戸に下り、猫の所作事槍踊で、江戸中の喝采を得た、水木辰之助が、 背丈の並勝れて高いのを、まぎらす為めに、結び始めたもので、後帯の結びの手先の長く垂れた結び方 だとしてある、これも元禄の流行である平十郎結 村山平十郎といふ立役の役者が始めたもので、竪に結んだのだとあるが、どんな結び方か分 らない路考結 宝暦頃から文化頃まで、東西に亘り非常な勢で流行したのが、路考結である。これは王子路 考の名を以て世に知られ絶世の美貌を唄はれた、二代目瀬川菊之丞が、宝暦十三年八百屋のお七の狂言 の時に、橋懸りで、帯の結び目の解けかゝつたのを、結び直す暇がなかつたので、取敢へず取つて挿み、 芸をしたが、その無造作にした帯の形が、ひどくよかつたとて、はやり出したのである。謂ゆるまをと こ結びの類で『都風俗化粧伝』には、図の様な結び方としてある、これは之に比べると幾分の修飾やら 変化やらがあるらしい。路考結 速水春暁斎画 合巻『都風俗化粧伝』佐山半七丸作(国立国会図書館デジタルコレクション) (第二 被(かぶ)り物)沢之丞帽子 荻野沢之丞が野郎帽子の左右に鉛の錘をつけ、左右を垂れさせたものである荻野沢之丞と松本勘太郎の草紙洗い 伝鳥居清信筆 (東京国立博物館) 瀬川帽子 享保十九年、江戸中村座「十八公今様曽我」の狂言で、初代瀬川菊之丞が、座敷女中に扮し て、かむつたのが初めで、後の世まで知られて著しいものである宗十郎頭巾 享保十九年の春、京都の芝居で、初代沢村宗十郎が、梅の由兵衛に扮して被り出してから、 世に流行したのである、今様押絵鏡 梅の由兵衛 三代目歌川豊国画 (演劇博物館デジタル) 大明頭巾 宝暦元年に、慶子と呼ばれた初代中村富十郎が、若女形として大阪から江戸に下り、寒風を 防ぐ為めに、紫縮緬で一種の帽子をこしらへて被つたのが、時の婦人間の流行になつたのである、やが て男女通じて之を用ひたといはれて居る、後の世のお高祖頭巾 はこの頭巾の少し変つたものであるお高祖頭巾 宗十郎頭巾 三代目歌川豊国画 (演劇博物館デジタル) ◯「江戸時代の流行と人気役者(下)」斎藤隆三著(『錦絵』第廿三号所収 大正八年二月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) (第三 模様柄)小太夫鹿の子 玉村吉弥時代の女形で、伊藤小太夫といふ役者の好みから出たもので、一に小太夫染と もいはれたものであるが、ドンナ柄か今分りにくい千弥染 中村千弥から出たもので、享保元年、千弥が江戸中村座へ下り、三巴家督関といふ狂言で、 樋口女房の役で、花車方二人腰元三人とも之を着せ、又木戸若い者にまでも、其の綿入羽織を着せてか らはやり出したので、江戸はいふに及ばず、京阪に亘り一時の大流行をなしたものである。紫の大絞り とのことである市松染 寛保元年、江戸中村座で、若衆形の鹿野川市松が、高野心中の狂言に、小姓粂之助を勧め、 石畳に染めた袴を着けたのから一世の大流行となつたので、之れが為めに爾来石畳の名は追ひやられて、 此型を市松染又は市松小紋といふやうになつたのである小六染 左り巻きの手綱染で、延享頃の嵐小六が好みである、初め小六、延享二年に中村座に下り、 二代目市川海老蔵を請けに女暫を演じ、其の時に小六が鶴菱の着付で出たのが一枚絵となつて世に出て、 「かほ見世や、鶴の巣ごもり小六染」といふ賛の句があれば、初めは鶴菱繋ぎを小六染といつたのであ らうと『後昔物語』などに書いてあるが、兎に角これは後の手綱染に推されて消えてしまつたものと見 へる。左り巻手綱の小六染は、延享四年お初徳兵衛の狂言で「夢結ねくらの蝶」といふ浄瑠璃所作事に 中村七三郎と両人して、右の肩から左にかけ、紅白のたり巻(ママ)した着付をなし、肌抜ぎで出たのが評 判になり、遂に大流行となつたのだといふ。同時に紅白の紐を小六紐といつて共に流行つたとのこと亀蔵小紋 小六等と同時代で、所作事の名人と呼ばれた九代目市村羽左衛門が、まだ亀蔵といつた折、 (宝暦十二年羽左衛門襲名)所作事の着付に遣つた模様で、渦巻の小紋である。これがひどく評判にな つたので、遂に渦巻は後年に市村家の替紋にまでなつたのである。伝九郎染 宝暦年間、中村伝九郎が全盛の当時に、其の贔屓客に、三十間堀の材木屋和泉屋甚助俳名表 徳太申といふものがあつた、甚だ虚名を喜び、曾つて己が名の著書として、江島大双紙太申夜話といふ ものを出し、又書家烏石に千字文を書かし、太申書と落款して板行せしめたこともある。又浅草観音境 内へ桜を植えて太申桜と称へさせ、道中の雲介に金を呉れて「お江戸の太申様は桜がお好き」と唄はせた といふこともいはれて居る。それが恰も三井親和の篆書を模様にした親和染流行の折柄であつたので、 之に擬して太申の二字を篆書繋ぎに染めさせ、馴染の吉原遊女豊里に着せ、之を一枚絵に画かして世に 出し、又宝暦八年森田座の狂言に伝九郎にも着せて舞台に上らせたが、却つて伝九郎の名に押されて、 世間では太申染とはいはずに、伝九郎染といつてはやつたといふことであるかまわぬ模様 文化九年六月市村座の二番目「散書仇かしこ」の狂言に、七代目市川団十郎が、まだ二 十二歳の若盛り、大工六賛の役に扮し鎌と輪と「ぬ」の字を、大きく染め抜いたのを着たのが、江戸中 にはやり出し、衣裳模様は素より、手拭手遊にまでも応用されて、大流行となつたのである。此模様は 古く侠客などの間に喜ばれたものであるが、此時に復活されたのである。これから市川男女蔵は、鎌と 井桁と枡を列ねて「かまいます」の意味をうつし、又尾上菊五郎は斧と琴を配して「よきこときく」の 意を宴するなど、いろ/\の工夫したものを出したが、「かまわぬ」程にはやつたものはない蝙蝠模様 及び三升格子 天保初年に、八代目市川団十郎の希代の人気につれて、夥しく江戸中に流行し 夏衣の染模様はいふまでもなく、簪の挿込、櫛の蒔絵、手拭などにも、盛んに用ひられた。市川家の家 紋に一輪牡丹があり、之を福牡丹といつて居たが、此「福」字を「蝙」に通じて蝙蝠模様としたのであ る。又三筋格子は同じく家紋の三升を格子に崩したのである (第四 染色) 路考茶 鶸萌黄の少し黒味がゝつた色で、先づ鴬の羽色といつたやうなものである。宝暦十三年 市 村座でした「八百屋お七」の下女お杉の役で着たのが初めだとも、又銀杏娘の時からだともいつて居る。 路考の人気の旺盛なると共に、非常な勢で流行し婦人の着物はこの色に限るやうな有様であつたのであ る。其の大阪に流行したのは、ズツト降つて享和二年三代目菊之丞(此前年路考と改む)が大阪に下り、 「東金草浪花着綿」の狂言に腰元のお百となり、此茶染を着てからのことゝいはれて居る、兎も角も文 化文政から天保頃までの長い間 東西通じて娘子供の間に歓迎されたのは驚くべきことである 升花色 縹色(はないろ)の薄いので、五代目市川団十郎の好みから、安永天明の江戸に流行したもの である。 梅幸茶 初代尾上菊五郎俳名梅幸が好みで、草柳色である。この人特に衣裳の物好きがあり、花やか なのを好んだとのこと、天明三年に没した人であ(る)から、安永頃の流行であらうが、文化頃まで及ん で居る 岩井茶 大太夫として知られた、杜若岩井半四郎の好みで、路考茶のやゝ薄いやうな色合である。之 も寛政から文化頃まで及んで居る 璃寛茶 藍媚色で、文化年中京阪に盛んに流行したものだが、江戸にも及んで居る 芝翫茶 三代目中村歌右衛門即ち梅玉歌右衛門の好みで、栗梅色の変態である。 同時代に市川団蔵から出た市紅茶なども、上方で一時流行つたが、上の二色とは比すべきでない。明治 時代になつてからは、今の中村歌右衛門が福助時代に、薄い草色を福助色と称へて流行つたことがあつ た(中略) 以上の外、頭髪の結ひ方に影響したものに、三枡徳太郎から出た三徳髷、姉川大吉から出た大吉髷、 芳沢いろはが信夫の役から始めた信夫かへし、路考から出た路考髷といつたやうなものもあるし、又男 の髪には、山中平九郎から出た平九郎鬢などといふものもある。 それから役者の名前を売物に冠して、それによつて売弘めたものゝ内に、元禄頃の団十郎艾、寛政頃 の団十郎煎餅、岩井せんべいなどとの類もある。役者の屋号を仮りて直に屋号とし白粉油や又煙草店飲 食店などを出したものも少なくない〟 ◯「北斎筆の悪魔降服」兒玉蘭陵著(『錦絵』第廿三号所収 大正八年二月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝 忘れもせぬ、十余年前の秋の末ツ方でありました。竹屋の渡から、向島の土手へ掛つて、牛の御前へ 参詣した時の事でありました。拝殿へ上つて見ると、左の方の隅に、六尺四方の大きな額が、凭り懸け てあるのでありました。その横の方に、障子で仕切つて、二畳位な居間らしい所に、机を控へた社掌ら しい、若い男が端然と坐してゐたのであります、私は突如その額を注意して見ますと、七十三歳北斎と いふ落款があるので御座います。 温顔玉の如き白衣の神様の前に、群鬼慴伏して、降服の状を呈してゐるのでありました。筆勢飛動、 彩色鮮明、坊間では容易に見ることを得られぬ稀代の北斎物でありますから、私は社掌らしい男に、そ の訳を訊ねますと「これは当社の宝物で御坐います」と、先づ口を切つたが、―如何にも然うらしい代 物に見えました― これは葛飾北斎が、本所に住んでゐた時、即ち同区選出の市会議員袴田喜四郎の裏 長屋を借りて。随分同家から厄介を見て貰つてゐた時、天保度に流行病が、流行出したので、この牛の 御前悪魔降服の図を額面に仕立て、牛の午前へ奉納したのであります、所が不思議にも流行病が、忽ち 殄滅して、氏子の町内が、平穏無事に治まつたといふ芽出度い事でありました、然し世に伝ふる牛頭天 皇といふ素盞鳴尊といsてあるのに、これは何う見ても。天照太神の如き女神の尊容でありますが、北 斎の如き古今の大家が、牛の午前の縁起神体を間違る訳のない筈で、即ち一説の女神とあるのを取つて、 態と温容玉の如き女神としたのであらうと思ひます、社掌らしき男曰く「外国人が、この額を見て、地 獄変相の図だと云ひます」、それは群鬼慴伏してゐるからで。無理ならぬ批評であります(以下略)〟〈関東大震災によって焼失する以前の牛島神社の絵馬「須佐之男命厄神退治之図」。十余年前とあるから明治の四十年 代なのだろう。貴重な証言だが、腑に落ちない点が二つ、寸法と落款にある。『国華』の白黒写真をもとにデジタル 技術を駆使して彩色原寸復元したというすみだ北斎美術館のそれは126㎝×276㎝・「前北斎卍筆 齢八十六才」であ るのに対して、兒玉蘭陵が観たものは六尺(180㎝)四方・「七十三北斎」である。安政7年2月、卍楼門 窓鵞が模写 したもの(大英博物館蔵)には「八十六齢卍筆」とあり、また『東都絵馬鑑』(山内生編 明治43年刊)所収の模写にも 「前北斎卍筆 齢八十六才」とあるから、蘭陵の誤認であることは明らかだが、それにしても「七十三北斎」とは不 思議である〉 ◯「近世錦絵製作法(三)」石井研堂著(『錦絵』第廿四号所収 大正八年三月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝 三、製作法の一 原画のつゞき 〔い〕地本錦絵問屋の株 地本錦絵問屋は、他の問屋類と同じく、地本問屋の株といふもの有り、この株の所有者以外は、之を 営業することは出来なかつた、錦絵を出版し得るこの地本問屋の株は、十一軒に限り、外に、雕工摺師 の手を明けさせない為めといふ、準株者が七軒、前者の団体を古組、後者を仮組と称して居つた、この 株は、一種の権利で、売買譲渡し等随意であつたので、営業上の都合で、廃業者一軒有れば、他の者が 其の株を買つて新に、錦絵出版を営むといふ風なので、全数は常に同じであつた。人形町の具足屋は、 鍵庄の株を持つてゐる養子を取り、それから錦絵出版者となつたやうに聞て居るの類、此の株は無論有 価財産であつた。 錦絵の小売店は、今日の煙草店絵葉書店などのやうに、市内到る所に多数有つたが、其発行所は、前 記十八軒に止り、今日想像するよりは少いものであつた、其の発行者には、店舗を有し、出版と販売と を兼営する者が多かつたが、中には又、うら通りや路次内のシモタ屋に住んで店舗を有せず、ほんの出 版の仕事と卸し売を専門とする者も有つた。(中略) 又、錦絵発行者の中にも、多少其の営業方針を異にして、各特色を有し、魚栄などは、際物を好まず、 源氏画とか景色画とか、同じ役者ものにしても、見立ものを多く出版し、山口、上金等は、新狂言あて こみのものに多く手を着け、又手遊絵、千代紙など、俗に四文絵と称する安物を主として出版する店も あつた。 因みに、新版錦絵の小売相場を書いておかう、近年まで一孔二厘づゝに通用してた寛永青銭、あの青 銭が四文銭と通称されて、小寛永の四当銭であつた、手遊絵などは、価四文でこの青銭一孔、三枚つゞ き芝居絵は四十八文(青銭十二孔)を常とし、田舎向の安物などは、それ以下であつた〟 〔ろ〕絵師と芝居と出版者と 錦絵の最多数は、役者芝居に関したものである、で、絵師と錦絵出版者と芝居と、この三者の関係を 少しく述べておかう、芝居と錦絵の関係は、今日の芝居と新聞紙の関係と、殆ど同一であつた、たとへ ば、芝居のまだ蓋の明かない幾日前かに、市内の錦絵店に新版の芝居狂言錦絵がずらつと下る、市民は それを見て、始めて其の出し物や役割を知つて評判するといふ風であり、或いは新版の錦絵を一揃買ひ、 之を重ねて上の一枚を巻くれば次の錦絵が見えるやうに重ねて張り下げ、淡島さまをかついで歩くやう な体に、之を持つて市上の各家の軒さきに立ち、今度の一番目狂言は是々、中幕は是々と説明を加へな がら錦絵を巻くつて之を見せ、銭を貰つて歩く乞食の一種もあつた、若し夫れ名優の死去でもあれば、 追善絵(俗に死絵といふ)を多数買い込み「これはこの度……無常の風に誘はれて……」などの定文句 を呼び立て、市上を売り歩く者有り、各家は呼び止めて之を買つて見、始めて其の死去を知ること、猶 今日の新聞号外に露違はない、斯く、芝居に就ての錦絵は、全部今日の新聞紙の役を勤め、芝居の為め に錦絵が売れ、錦絵の提灯の為めに、芝居の人気を湧き立たせるといふ風で、相互利得の関係であつた、 で、芝居の座元や作者と、絵師との間柄は、今日の新聞記者と劇場の間柄以上に、親密で円滑であつた。 芝居の方で、出し物が決定すれば、座付作者から先づ通知を受けるのは、錦絵を書く浮世絵師であつ た、忠臣蔵とか太閤記とか、筋の極つたものは、只其の役割だけに止つて居るが、中幕などには、大抵 新作などを挟むので、新作ものには、絵番付のやうに登場者を略図し、それに一々、役名年齢かつら衣 裳、道具の類まで注語を加へてものを通報す、絵師は、之に拠て各場面の概略を数枚の下図に画き、得 意さきの絵草紙店に使を廻し、今度の狂言は斯う極つたが、どれを書かうかと、注文を取らず、絵草紙 店主之を見て、売れさうな場面、たとへば初段と五段の下絵に、店名を注記して注文を定む、第二の絵 草紙店では、甲店が初段と五段ならば、手前の方は三段と七段といふやうに、成るべく重複を避けて注 文を極める、或いは又、五段目が好ささうだから、甲店の注文もあるが、手前の方も五段目をと重複さ することもあるが、それは又その様に、絵師の方で趣を別にし、衝突しないやうに画いてやるから差つ かへは起らない。 以上は、開場前に見立て―想像で書いて仕舞ふので、其の為めに、実演と相違を生ずることも少なく ない、登場人名の、新之丞を新之助とかき、下女お兼を下女お亀と書くの類、今日現存の錦絵に、間々 其の例を見るが、これは早急を主として上木するので已を得なかつたのだ。 又、絵双紙店の望みで、絵師が中見をしてから書いてやることもある、絵師は、開場の三日目などに ―初日に出揃ふことは少かつた―興行元から招待されて往く、大抵鶉の三間めなど、舞台に近い観覧席 を供せられ、無料で見るのだが、それに従いて往く門人まで木戸御免、今日の新聞社の劇評記者の待遇 に酷似して居つた、絵師の、此の日の観劇は、中々楽なものでは無く、登場者の顔面部に属する観察は、 一毛漏さずスケツチするなり、頭に納めるなりしなければならない、お供役の門人亦、衣裳の模様、か づらの種類、背景等、悉くスケツチの仕事あり、一時に多数登場する時などは、とても観察行届かず、 幕がおりると直ぐ楽屋に往つて、一々写生しなければならぬこともある、此の日は、楽屋の方から、絵 師へ色々の進物などもあるので、それをよッとこサと提げて帰らねばならないのが、弟子の役であつた。 大阪などから、下つた役者が有れば、其の役者の頼寄(たよ)つて来た役者又は作者などが紹介者とな り、近づきとして、絵師の処へ連れて来る、勿論相当の進物を持つて来、世間話しなどをして帰るのが 常だ、絵師は、其の間に、相貌の癖を眼に留めおき、錦絵の上に出すことになる、下り役者の顔を、其 の役者の少しも関係の無い場面の錦絵に出しておくことが間々有るが、これは、絵師の方への鼻薬が能 く利いた結果なのだ。斯かる間に出来た錦絵の版稿が、彫刻師の手に渡つて彫刻され、色ざしを済ませ て出来上りとなるまでに、彼是一週刊位を要したものだ、中には、芝居が終つて後に出来上る錦絵など もあつた、が、今日とは違つて、芝居の興行日数が永く、又、興行が済んで後までも相当に売れて居た ので、敢て十日の菊にはならなかった〟〈「十日の菊六日の菖蒲(あやめ)」時期に遅れて役に立たないことのたとえ〉 ◯「錦絵の揮毫料」麦斉著(『錦絵』第廿四号所収 大正八年三月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝(浮世絵師寸談「錦絵の揮毫料」) 戯作者が、最初は別段作料とて、一定の報酬を取らざりしと同じく、浮世絵師も、錦絵の画料は、金 額を定めて請求すること無かりしが、その、額を定めて請求するは、一勇斎国芳より以後の事なりとい ふ、地本問屋は、錦絵の出来上るや、その納本一部と、包み金壱封を、絵師の許に贈るを例とし、絵師 も、幾らの礼やら碌に改めもせず、之を神棚に供へおく、金子に入用を生じたる時に及び、始めて神棚 の包みを開きて使用する位なりし、然るに、国芳は、元来江戸ッ子肌の男にて、銭づかい荒く、人を寄 せて飲食せしむる事など多く、常に清貧なり、絵の方も、追々売出し来りて、書ききれず、医者の薬価 同様、先き次第にして居たらんには、やり切れざる所より、一定の額を定めて請求することにし、これ より他の絵師も、追々潤筆を請求するやうになれり、故に亀戸豊国の晩年には、版下を地本屋(ママ)に届 ける時、潤筆料の領収書を同時に持たせやりて、現金引替にせしめ「書き出しをやつて取るのは、何だ かきまりが悪いが……」など言ふこと屡(シバシバ)ありしといへり、当時、豊国の画料は、三枚続一組二 分なりしといふ、勿論、色ざしまで、すべての料金この内にこもる、当時の米価は、両に二俵といひ居 たり、故に一分にては米半俵を買ひ得べく、今日の米価に比すれば、約十円ならん、国芳の武者絵など は、一組三枚にて金弐朱のこと多かりしといふ〟〈1両=4分=16朱=米2俵。三代豊国、三枚続一組2分=8朱=米1俵。国芳、同2朱=米1/4俵。三代豊国の画料は国芳の四倍〉 ◯「近世錦絵製作法(四)」石井研堂著(『錦絵』第廿五号所収 大正八年四月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝 刻法の一 板材 〔イ〕梓 古来、書画の版といへば、其の板材は梓に限つたものゝやうになつて居り、上梓、繍梓、鏤梓等の成 語あり、亀井戸豊国が、錦絵面に「梓元(あづさもと)の好に任せて」など、蛇足を附記してあるのは、 度々見る所である。 一体、この梓といふ樹は、支那で言ふ梓と、日本で言ふ梓(し)とは、大に異つて居るらしい、本草綱 目に拠れば、梓は其の木は桐に似て葉は小さし、花紫にして角(さや)を生ず、其の角猶樹に在り、其の 子(み)を予章(よしやう)と名づくといふによれば、余程桐に近いものらしい、日本では、赤目樫の古名 を梓(あづさ)といひ、弓の材料にするのもこれである、版を梓といふのは、支那の熟字を借用したゞけ で、名実相称(カナ)つて居ない 〔ロ〕桜 本邦で用ひる書画の版木材は、桜である、で、版のことを「桜に鏤(え)り」とか「桜に寿す」とかい ふて始めて、其の実に称つて居るのである。 錦絵の人物の、髪の生え際の、毛彫(けぼり)を見ただけでも首肯されやうが、錦絵は、余程繊細の線 をも自由に摺り成してある、従つて、其の版材は、可なり堅緻なものでなければならない筈である、又、 毛よりも細い長い線を摺り上げた手際を観れば、其の版材に、堅軟不同があつてはやれない筈である、 そして、其の材料が、余り高価のものではならず、又、其の材料は、望みの大さを満足さするものでな ければならない、これ等数種の条件を備へたものが、即ち、桜材である、古人が、此の桜を版材ときめ るまでには、多分種々の木材を使つて試みたことだらうと思ふ。厚朴は、材質に不同(むら)の無い点は 好いが、堅緻の度が足りない、黄楊(つげ)は堅緻と不同なしの点は及第しやうが、其の価の高いのと、 大材を得がたいとによつて、亦不適としたといふ様に、多数を試みた上げ句に、比較的難の少ない桜を 取つたのであらう。〈厚朴はホオノキ〉 本邦錦絵用の版材は、殆ど桜に限つてあつた、目の細緻にして質堅く、素直なるは桜材――単弁白花 の山桜――に及ぶものは無い、で、桜材は、工芸用として挽地にも指物にも使用せられて居るが、就中 第一良質のものを版材、二番三番ものを、挽地材、指物材に廻すのが常である。版材の山桜の産地は、 伊豆を第一とし、殊に海岸に育つたシホボクといふのを最良とした、併し、伊豆の桜も、無尽蔵に有る 訳でないので、日光産、磐城岩代産を普通品として用ひて居つた。 〔ハ〕板屋 錦絵の盛んに発行さるゝ時代には、――今日でも、其の面影は残つて居るが――、板屋と称し、錦絵 の版材を専門に供給する営業者があつた、馬喰町附木店の、板三、儀平、儀八の三軒は、即ちこれで、 こゝへ往きさへすれば、立ちどころに間に合ふやうになつて居つた。板屋の仕事は、能く枯らしたる木 材を挽いて板となし、尺三寸に九寸、厚さ一寸の定寸に取り、それを、直ぐ彫らるゝばかりに仕上げて 売つたものである、今日では、厚さ一寸は無く、八分有れば、好いとしてある位だ。版材面は、実に平 滑鏡のやうなもので、逆目の立ち易い材を、斯くまでに仕上げるのは、亦板屋の熟練である、普通、三 回乃至(ないし)五回の鉋仕上げを為し、椋の葉木賊(とくさ)を用ひること無論である※第二十六号 正誤 第二十五号六頁中段 椋の葉の一行を削る 〔ニ〕はしばみ 版木の反(そ)りを防ぐ為めに、両端の切口に細き材を填めこむことを端食(はしばみ)といふ、普通の 書物の版は、皆之を施すが、錦絵の版には之を施さないのが多い、版材已に厚いので、若し反る時は、 少しばかりの桟があつても、其の甲斐が無いからである、若し反つた時には、中部に水を付けおいて、 自然に水平に直るを待つことゝしてある〈桟(さん)は反り止め用の横木〉 〔ホ〕墨板色板 一枚の錦絵版を彫り上げるに、最も精緻細密の彫刻のあるのは、全画の骨となる所の墨ずりの板であ る、彩色用の版の彫は、之に反して極めて粗大なるものである、で、同じ版板でも、墨摺用には良質の 材を要し、色摺用は、夫れ程やかましく言ふに及ばない、之を代金で言へば、墨板材一枚一円のものな らば、板材は七拾銭位のものである。墨摺は、板の一面を用ひるに止るが、色摺板は両面とも用ひる、 たとへば、錦絵一枚の所用として、板七枚を注文するとすれば、板屋は墨板一枚色板六枚をよこすを常 とする、この色板六枚中に、潰し用として、質のやわらかなる板を一枚交ぜて、よこすことになつて居 つた、摺の方から言へば、潰しの摺は至難の仕事なので、其の用材に吟味を要するのである、――潰し とは、無地一色に地を色つぶしにすること 〔ヘ〕乾燥 彫刻は第一墨版を彫り上げ、それに施すべき色板を、墨彫の校正に依て彫るのである、で、彫り上げ て後ち、用材に伸縮を生ずるやうでは「見当」の合ふ筈が無く、彩色版として用を為さない、で、版材 は、十分よく乾燥枯死したものでなければならない、ただ随時の芝居絵などは、其の時限りのもので、 後年追摺といふことも無いので、乾燥不十分の版を用ひることもある、芝居が終つて後、之を削り落し て、時代ものゝ色版材に再用するの類は、屡々あることであつた。先年向島に出水あり、摺師が店より 預つてあつた木版を、水の中に一週間ばかりおいたことがあつた、其の後、心無き若者が、之を日光に 当てゝ乾かさうとして、全部損壊して仕舞つたことがあつた、又、其の水中にあつた版材を再用して、 彫刻に供したものが有つたが、風の強い日に、満面割れ目を生じて、廃物になつて仕舞つた、斯かる板 はせめて半年もし(ママ)陰干になければ、版材に(ママ)適すまじとのことであつた〟以上 2025/02/28 ◯「近世錦絵製作法(五)」石井研堂著(『錦絵』第廿六号所収 大正八年五月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み 〝 彫刻の二 版稿の糊着 錦絵の版の彫刻は、骨がきだけの版稿(写本と称す)の画面を、版材面に糊着し、其の紙背より絵画 部を摺り上げるのである、これが基礎版たる墨(すみ)版となるもので、彫刻の第一着手である。(色版 のことは後に述べる) 糊着用の糊は、彫工の好き/\で、姫糊(米糊)を使ふ者と、生麩糊を使ふものとある。何れも、普 通経師屋のうら打糊よりは稍(ヤヤ)濃めの糊を、刷子(ハケ)を用ひず、手の腹にて板面に塗る人が多い、刷 子では、不同(むら)を生じ易く、時としては全く糊の付かない部分を生ずることがあるからである。手 の腹にて、軽くこまかく打つ様にすれば、糊は浮く気味で、不同なく厚く付かる、この糊付は、重に弟 子にさする仕事で、それに版稿を伏せるのが頭彫(かしらぼり)の仕事である。頭彫とは彫工中の師匠株 の称である。 糊を付け終つた板面上に、画面を下に向けた版稿(写本)を持ち、其の位置を鑑しつゝ、徐か(ママ)に板 面に落す、そして中央部より始め、左右上下四隅に向つて軽く撫で付け、紙にシワ、ツリなどを生ぜし めぬやうに、全部を糊着(のりづけ)させる、写本は雁皮紙などが多い、故に若し一たび板面に落して、 糊に触れしめた後は、之を剥がす時は、其の長さに於いて一分伸びるのは常である、この紙の伸縮性は、 彫工摺師の不断忘れない所である。 彫刻の三 彫刻刀及び彫刻用雑具 彫工の用ひる要具は至つて簡単である、今之を全部収挙するも僅かに左記の数種に過ぎない。 錦絵の版は、概して、古代のは其の彫が深く、近古ほど浅い、殊に近年に至る程浅彫になつた、これ、 新聞挿絵の駒などは、其の印刷法の精緻なるが為めの、彫は浅くともケツ(版の浚(サライ)の不充分の為 め、摺本に色料の汚れを来すこと)の付く恐れが無くなつたので、木版は一体に浅彫に趨(オモム)き、終 に錦絵の版まで其の影響を及ぼしたのである、この故に、錦絵版の彫刻刀類などは、近年総て繊小にな つて来た、刀鑿類の細小なるは、力の入ること弱く、彫の深浅は、刻刀の大小に比例すること云ふまで も無い。 錦絵の彫刻刀類は、之を小刀、間すき、円鑿、鑿の四種に分けることが出来やう、先づ小刀にて板面 に深く切り込み、間すきと円鑿にて其の地間をすき取り、鑿にて白地をさらひ取り、版木はこゝに完成 するのである、尚断面図で之を詳説すれば、図中黒体を板材とし、其の上に白と黒とを表はせしは、版 稿と絵の一部である、今小刀を以て垂直に近く絵の左右に切り込み、次に間すきや円鑿にてすき取り、 次に鑿にて広い地をすき去つて、こゝに凸版を成すのである。 〔イ〕ほり小刀巾三分位を大とし、最小なるは錐の尖(さき)ほどのものまで、四五種あり、柄(ツカ)の長さ三寸一二分位、真鍮な どの縁金物をはめおく、刀身の柄より露はれ出て居る部分八九分有り、昔は、傘製造者の竹骨を削る傘屋切出しを 使つた人も有つた。 絵と地との間の垂直部を切りまはす第一の要具で、普通の切出し小刀より刃尖(ハサキ)を鋭くする為めに、みねを 少しく磨り込んで刃を付けおく、故に刃尖は剣の切尖の如き形をなせり、指のイノ一二これを示す。(図省略) 之を使ふるは、拇指(オヤユビ)の腹を柄頭に当て四指にて柄を握り、立てゝ左に右に使ひてあらゆる絵の形を成さし める。 〔ロ〕あひすき余白の空地(あひ)をすき取る鑿に近いもので、肉薄く刃さきを弧形にす、挿絵ロノ一二之を示す。 大なるは巾二分半位より、小なるは五厘位まで、大小七八種あり、柄の長三寸三分位、平地をさらひ取るに具合 が好い、之を使ふには、拇指と示指(ヒトサシユビ)の股に柄頭を当て、両指の腹を柄に当て、左の二指をも添え て、四十五度以下に寝かし、適宜に進めながらさらふ。 〔ハ〕円のみ円筒を二つ割りにし、其の半円の一端に刃を付けたやうな形の小鑿の一種で、坪錐の長いものと想像すればよい、 挿図のハ之を示す、巾二分位から、楊枝のさき程の細小のものさへ有る、昔は絶て使はなかつた品だが、近年に 至つて大に流行り出した、間すきの七分のみの三分の働きを助けると言ふが適当らしい。 〔ニ〕のみしのぎに似、普通大工用の鑿よりはずつと薄い、刃さき弧形を為す、巾一寸八分六分等各種有り、広い地を削り 去るを主とす。 〔ホ〕罫引左刃の切出小刀である、一枚の絵をほり始めやうとする時、先づ曲尺に之を当てゝ線をほりつけ、わくの正角な らぬをも正し、又小刀にて彫込むを助く。 〔へ〕打込たがねに似た長さ二寸ばかりのもので、版面に訂正改刻の必要を生じた時、之を版面に打込みて孔を明け箸の様 に削つた木を挿し込むに便ず。 〔ト〕挿木切極小さい鋸のことで、巾六七分に長三四寸のもの挿木(さしき)を版面のろくに切り離すもの。 〔チ〕木槌大小三種ほど、鑿にて地をさらふ時鑿を打つに使ふ、浚ふ部分の多い色版の彫刻には特に多く之を使ふ。 ◯「浮世絵師寸談」麦斎記(『錦絵』第廿六号所収 大正八年五月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝 写楽のかき印 小林文七氏所蔵の写楽筆、角力とりの版下九枚は、珍とすべきものなり、国芳社中の旧蔵であつたか、 紙端に、芳桐の朱印あり、発行店蔦屋の名壺(なつぼ)富士山に蔦は、何れも丁寧な筆がきで。其の大小 同じからず、近年の錦絵上の名壺は、すべて、名壺印を押してあるが、写楽の時代までは、一々筆写し たものか〟 〝 彫工の名 鳥居清忠筆 大判漆ゑ 劇場の図(鶴かめ貢太平記 四番続 第一くわんじんたいこの幕)に、絵師 と彫工嘉七郎と相並べて出してあるのは、錦絵面に彫工の名を出したものゝ中、最も古い一ならんか〟 ◯「近世錦絵製作法(六)」石井研堂著(『錦絵』第廿七号所収 大正八年六月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み 〝 彫刻の三 刻法 〔イ〕原稿の筆画を明に見る法 版稿の張り着け終り、いよ刻刀を執つて彫り始めるに当り、文字彫ならば、稿紙を張り着けた版面の 上に、油類を引くことも有る、さうすれば、紙が透明になつて、文字の筆画が鮮明に見えるからである が、錦絵の彫の方では之を為(し)ない、唯間鋤(あひすき)の際に、鋤くべき部分々々に油を与へること は有る、これ油を与へる時は、木質がハネ易くなりて、鋤が楽に出来るからである。 版稿の用紙は、薄美濃紙を常としてあつた、(明治の中頃からは、雁皮紙を用ひるやうになつた)で。 版稿の絵は、紙の背から明に見え、彫刻にさしつかへる様なことは無い、若し又紙が厚過ぎたりして、 明に見えない時は、指の腹で紙うらを軽くこすり、撚りて剥ぎ取ることは有る。 〔ロ〕彫刻の時の版の位置 彫刻すべき版は、立絵横絵に拘はらず、木目を横にし――刻几の木目と一致する位置――立絵の時は、 其の上部を右の方へ据えおきて彫るを常とする、毛わりの時の外は、手勝手の為めに、版木を廻して位 置を変へて彫るを、彫工の恥としたものであつた、が、今日では、版木を廻さないで彫る者とては無い 位である。 〔ハ〕輪郭の切り廻し 絵の四囲に、枠(輪廓)のある錦絵の時は、絵を彫刻する前に、先づ枠を正し、之を切り込んで形を定 めることになつて居る、其の法、曲尺を当てゝ定木となし、罫引(けびき)にて枠線の両側に切りめを入 るゝのである、罫引の事は、已に彫具の部に説いた通りで、此の預工は、画いた枠の正角を失つて居る のを正し、且つ又枠を彫り起こす導(ミチビキ)となすのである 〔ニ〕執刀法 絵の彫刻法は、小刀を握り、左手の平を版面に当て、中指のさきを刀に添へて、ぐらつくを防ぎ、比 較的刀を立て、線の右に左に切り込むのである。線の剛柔曲直緩急疾舒、意のまゝに彫り成すこと、絵 師が筆にて書く自由さと少しも違はない、運刀の語は当にこれで、其の意のまゝに刀の進むは即ち彫工 の生命で、唯驚嘆すべき熟練である。 すべて、絵を彫るには、絵の中心に向つた内側を先きに切り廻し、地の方に向いた外側を後に切廻す を法とする、たとへば、左を向いた人物の鼻や頬を彫るに、鼻筋の線の右なる内側を先にして、外側を 後にし、頬も衣裳も、皆この法に従ふを常とする。 切り廻しゝて後、広い余白の地を鋤き取り、次に絵に近い地を鋤き、段々こまかい間を鋤き取つて、 彫り上りとなるのである。 〔ホ〕彫工の最も苦心の点 彫工の最も苦心するのは、人物画の顔面部である、再び鼻に就て之を例しやうが、其眉間に一刀を下 すや、慢身の精神を集注し、一気に彫り進んで、小鼻まで下らなければならない、若し、この途中で刀 を停めたならば、再び刀を継ぐことはもう不可能である、殊に頬などは、絵師の版稿は其の線太くて、 其のまゝ彫り成したのでは、到底絵になるものでない(絵師は、面相筆のさきを、一寸焼き切つたのを 使ひよしとし、線香などで焼いて用ゐるので、精密に言ふ時は、筆さきは真の秋毫でなく、至つて太い ものである、それで画く所の版稿の思の外に太いことは勿論である)この時、其の太い画稿の一線を、 三分の一の太さに彫り上げやうとするに、左側を存して右側を棄て去るべきか、或いは中央部を存して 左右部を棄つべきやなどは、専ら彫工の胸中のあることで、それを心の中で修正しつゝ彫り上げるので ある。 大首絵の頭の毛の生え際の、カツラならば羽二重といふべき部分などは、版稿には毛筋一本有るわけ では無い、それを一筋づゝ彫り分けるのが所謂毛わりで、彫工の腕である、眉の末を引伸ばした見当の 処なる鬢に、先づ一髪を彫り出し、それに準じて、上方へも下方へも、或いは平行線、或いは放射線状 に、髪の形の応じて、割りながら彫り上げるのである。又、頭の毛筋の、長く通るを通し毛といふ、同 じ通し毛でも、水にぬれた毛、幽霊の毛、振り乱した毛など各其の特性を現はさなければならない、又 毛わりの一種で、数本毎に太い毛の有るものがある、櫛目を現はしたもので、之を八重毛といふ、とも に、全く原稿に無い所の毛筋を彫り成すのである。 以上、顔面部、及び手足の指、毛わり等は、彫工中の良工で無ければ彫れず、胴体衣裳付立等は、第 二三流の庸工で間に合ふ、所謂かしら彫、胴ぼりの別を生ずる因由で、其の六ヶしい少部分だけを頭ほ りが彫り、他の全部を胴ぼりが彫ることになつて居る、源氏絵などのやうに、衣裳その他に手の込んだ のは別だが、大首の芝居絵などになると、頭ぼりが全刻費の三分一、胴ほりが三分の二を得る位のもの である。 〔ヘ〕続き錦絵の重ね方の不自然 一体本邦人の習慣として、紙を二枚つぎ合せる時は、見る人の右の方を上前にし、左の方を下前にす ること、手紙用の巻紙の如くするのが常である、然るに、錦絵の三枚続きなどは、常に左方が上前にな り、邦人すべて習俗と相反して居るのはどういふ訳であらう、この左前に重ねる習慣は、余程古くから のものらしく、これまでに、右前の例はまだ見たことが無い、多年錦絵の売買を業務として居る二三の 人にも尋ねて見たが、此の様なことには案外サツパリした人々ばかりで、余の言によつて始めて其の左 前なるに気付く位で、未だ首肯すべき程の明答を与へてくれた人が無い、邦人の習俗を犠牲にしてまで、 左前に摺る錦絵は、何が然るべき原因が無くてはならぬことゝ思はれる。 この変体の続き方は、彫工が立位置の絵の上部(人物画ならば頭部)を右方に据ゑて彫る習慣と、手 勝手の為めに、彫方に不均衡を生ずるより来るのであるまいか。 彫工の、版に対して刀を操に、一線の両側ともに、其の刀を入るゝ角度は、均等なるを望むのである が、手腕の働きの都合よりして、彫者自身に向ふ側は急峻に、反対の側は緩になり易い、故に版の一線 を堤の形状とすれば、自ら其の登りの傾斜に緩急の差を生じて来る、そして、版の見当(見当は、摺る べき紙をおく足定線を示すもの、後に述べる)は、「向ふ見当」とて、彫者より言ふて版の向ふ側に付 けることになつて居る。 又、摺工が錦絵を摺るには、彫工と反対に、版の上部を左方に据ゑ、見当を膝に近づけおく、そして、 色刷子を版面左右前後に動かして、全部に色料をぬり、次にむら取りの為め、刷子を手前より先きへ向 けて、木目を横断するやうに払ひ、然る後に始めて紙をのせ、バレンを当てるのである、この、むら取 の刷子を、木目なりに払つたのでは、色料を殆ど拭き尽して、極端に言へば紙に着くべき料を留めない、 木目を横断するやうに払つて、始めて必要の色料を保有せしめることを得るのである、然るに、前いふ た如く、線の向ふ側と手前の側と、其の登りに緩急陰陽ありとすれば、其の陰の方より陽の方へ刷子を 払ふ時は、色料モタレて摺るに便ならず、是非陽の緩なる方より反対の側に刷子を払ひ、むらを取らな ければならない、かう考へて見ると、四辺有る版木ながら、見当を付ける適所は唯彫者の向ふ側であつ た一辺にかぎるのである、版木に見当のある一辺は、紙の一辺に正しく平行させて摺ること出来るが、 その反対の位一辺はさうはいかないので、行きなりにまかせるを便とする、で、重ねて下前になるべき 紙の余白は、見当の側の反対に作らなければならない、して見れば、見当の向ふ側が続き絵の下前にな るべきは、摺仕事の上の結果である、故に予は、錦絵の続きの左前なるは、彫刻に陰陽有ると、頭部を 右方に据えて彫るとに起ることで、若し彫刻の時に、版の上部を左方におく、習はしに改むる時は、続 き目の右が上前になること勿論で、早晩は、是非斯う改めたいと思つて居る〟 ◯「近世錦絵製作法(七)」石井研堂著(『錦絵』第廿九号所収 大正八年八月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み 〝 彫刻の四 色版 イ 色わけ 錦絵は、墨色版と多くの色版とを摺重ねて成ること、既に説いた通りで、上文は、主に其墨版を説く に過ぎなかつた。 最初、絵師が版稿を作る、先づ其の墨摺部を描くのである、墨摺部は、骨がき とも異称する程で、全 画の骨子となるものである、この墨版成つて後、始めて色版の原稿も出来、彫刻も成るのである。 其の法、墨版が刻成する次第、之を上等美濃紙数枚に摺り、之を色つけ用として絵師の方に廻す、其 の数、手遊絵などのやうな安絵ならば六七枚、普通絵錦ならば十四五枚乃至(ナイシ)二十枚以上を常とす る。 絵師は、最初墨版の原稿を作る時に、一切の彩色は、唯之を胸中に運(メグ)らすのみであつた、是に 至つて、全画中、同色に摺上ぐべき部分々々を、紙を別にしてこの墨の校正摺に施彩する、故に二十遍 摺になるものならば二十枚、七八遍で済むものならば七八枚の色分けが出来る、施彩といふても、望み の色を以て、一々丁寧に染めるのでは無くて、薄朱などで大体を染め潰し、只其の紙の余白へ、紅なら ば紅、浅黄ならば浅黄など、色の指定を文字で記入するに過ぎない。 又、色潰しなどは、其の潰すべき画面全部を塗り潰さず、粗く数線を引くに止る、或いは薄鼠色の空 に白ぬきの雨を出し、青地に白の雪を出す時など、其の雨や雪を白ぬきにぬり潰すのは手数なので、其 の白ぬきにすべき雨や雪だけを濃墨にて画き、地を薄朱薄墨などで塗り潰す、こまかい鹿の子麻の葉の 絞り模様などを白ぬきにする時も亦同しい、が、彫工が万事呑み込んで居るので、斯く一種の符号同様 の指定で、色版を起すには差仕へない、丁字、一文字、ふきぼかしなど、摺り方を文字で指定するのも、 亦色がき の一である、月の近くに村雲を出さうとすれば、色がきの鼠色の部の月の位置に、文字であて なし、又はあてなしぼかしと記入するの類である。 ロ 彫刻 校合摺(キョウゴウズリ)に、色がきの済んだ版稿は、又彫工の手に戻る、彫工之を板面に糊着(ノリヅケ)し、 其の色をさゝれたる部分だけを彫り起す、此の版稿は、たとひ少しでも伸縮すれば、色のすり合せ且吾 (そご)するので、其の糊着に十分の注意を要することは、前既に述べた通りである。 色版の彫刻は、最初小刀にて切り込むを切廻しといふ、次に総間(そうあひ)を浚ふこと、墨版の彫刻 に異なる所は無い。 其の色の部分が極めて少ない時は、その為めに一枚の板を費やさず、他の色版の明き地を利用して之 を彫ることもある、之を彫りぬきといふ、又、色合によりて、安絵或いは安絵でなくとも、少しばかり の色で版一枚になるものは、其の色版を省き、甲乙二色をすり重ねて間に合すことのあるのは勿論であ る。 版木一枚――墨版と色版を合せ、一枚の錦絵を摺り成すに足るだけのもの――を一番 といふ、錦絵の 三枚一組のものを三番ものといひ、五十五枚続きのものを五十五番続絵といふの類これである、想ふに、 番は版の同音仮借であらう、又古来、出板、板元、何々堂板などゝ書く時の板も、同じく版の仮借と想 はれる。 ハ 色わけの古今の相違 色わけの主要部は、絵師自ら之を作すこと勿論であるが、衣裳のさや形、屏風の模様など、さして重 要でない部分は、一切之を門人ともに作さしめるのが常である。 此の絵師の色かけ法は、錦絵の出来上りなる五彩爛然たる絵が、明々白々頭の中に浮んで居ればこそ、 之を分解して、左程の色落ちもなく、出来るなれ、如何に熟練とは云へ、其の心匠意識、驚くべき技術 である、が、この色分け法は、明治期の芳年時代頃までを限り、それ以降は全然廃れて仕舞つた、即ち 近頃の版画絵師は、石版法などの如く、最初一枚の成画(無論彩色あるもの)を作つて之を授けるか、 或いは墨摺一枚に各色を施して与へ、色分けは全部版工まかせにして顧みない、従つて、絵師に製版上 の酌量無く、遍数の如何に構はず書手に描き成し、これと分毫も違はないやうに仕上げよと注文するの が常である、為めに、終に五十遍八十遍などいふ手数を掛けなければならず、そして其の割には見栄の 無い摺物を得るに過ぎないやうになつて仕舞つた、摺の数遍少くて、そして配色の美を全ふするものが、 錦絵の長所得意であつたのが、今日では、唯肉筆まがひの繊弱にして生気のない摺物に堕して仕舞つた。 ニ見当 錦絵の、一糸乱れず巧みに施彩さるゝは、各色の版ごとに、只これ見当を力にして摺り、各色を正し き位置に摺り成すことを得るからである、見当とは、西式石版の色摺ものに言ふ所の摺合せ十字に同じ く、摺るべき紙を版上に下す時の位置を示す足定線のことである、墨版彫刻の時に、向ふ見当とて、刻 者の反対の側に、絵の枠に平行して二個を付刻す、一は曲尺(かねじゃく)状で一は一文字状、曲尺状な るは右方に在りてカギといひ、一文字状なるは左方に在りて引付(ヒキツケ)といふ、カギは紙の一角を受く べき直角、引付は、紙の一辺の線に平行す。 色わけ用の校合摺には、皆この二ヶの見当を摺込みおき、又之を各色版の見当とするから、色版は幾 枚に別れても、絵と見当との距離は比較的同一に出来上り、しつくり合ふ所の摺り合せを得るのである。 (始めて摺る時、見当を修正することは摺工の條に述べる) 『燕石雑志』に、明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、版木師金六といふ者、版摺某甲と相語(か たらひ)、版木へ見当を付ることを工夫して、はじめて四五遍の彩色摺を製し出せしが云々と書いてあ るが、見当の発明は、色摺界の新紀元ともいふべく、この見当を、今日までの状態に進歩さするに就い ては、金六始め多くの彫工及び摺師の頭を痛めたことは、一通りでなかつたらう。 併し、見当の利用は、忽ち其の精密の域に達したらしく。歌麿の筆に成る両面摺の絵の如く、一枚の 錦絵の表裏に、一婦人の前姿と後姿とを摺り、之を日光に翳(カザ)して見て、些(イササカ)の見当の狂ひの 無いものを得るまで精巧を極むるに至つた。 ホ 特殊の色版 〔い〕ぼかし 錦絵の施彩の一種に、ボカシといふものが有る、濃い色より漸く薄く、終に無色に至ら むるの法のことである。 ボカシに、掛けボカシ、板ボカシなどの数種あるが、就中色版に因て施彩する板ボカシだけをこゝに 述べ、其の他は摺の條下に述べやう。 板ボカシの彫刻法は、絵師の画いたボカシの積よりも、周囲二三分づゝ大きくダメを付けて彫りおき、 其の周辺を木賊(トクサ)にて磨りおろし、次に椋(ムク)の葉にて研ぎ、ボカシめの界(サカイ)を有るが如く無き が如くに磨り去るのである、之を約言すれば、板ぼかしの版は、其の色と地との界に、線を留めぬやう に彫り成すのである。 〔ろ〕むだぼり 色板の見当を正確ならしむる為めに、墨版にむだぼりを存しおき、色版の刻成るを持 つて、之を削り去ることがある、たとへば、こゝに桜花満開の図を刻し、桜樹の幹や枝や小枝を墨摺に し、花の雲を薄紅色に仕上げるものとしやう、この時、花の雲なる薄紅は、其の適処を得て、中空に懸 らなければならず、画師は最初墨版の画稿中に、其の大体の当りをつけておくのが常である、彫工は、 墨版上に、其の花の雲のあたりを、大略ながら彫り成して存しおく、やがて色わけの時に、薄紅の版上 に、其の花の雲の当りを其のまゝ生かして彫り成せば、即ち枝や小枝や幹に親着した花を成すこと容易 で、見当の外れる恐れが無い、この薄紅の版さへ出来上れば、墨版上のむだぼりを削り去るのである。 〔は〕布目の版 錦絵面に、から摺の布目つぶしの有るのは、屡(シバ)見る所である、これは、色版に、 布目にすべき形を彫刻すること、他のものと同じくし、其の形と同じ大きさに、絽又は紗を切りぬき、 之を版面に糊差して版とするのである。 〔に〕欅(けやき)の如輪木目(じよりんもくめ) 又欅の如輪木目で、地つぶしをすることがある、これ は、色板に欅板を象箝(ゾウガン)し、其の自然木理を応用して版とするので、如輪木目に似せて彫つたも のでは無い。 〔ほ〕細密の格子目 初代歌麿筆の「六玉川月眉墨」や、泊りの蚊帳、北斎筆の百富士中の四手網など は、極めて細密な格子目の版で、蚊帳や網を摺つてある、一寸見たのでは、彼の格子目を彫り成すには、 非常な精力を費やしたものゝ様に思はれるが、実はさうで無い、彼の網目蚊帳目は、何れも経(タテ)は経 緯(ヨコ)は緯、二版にほり分け、之を摺り合せて始めて網目を成さしめたものである。 〔へ〕洋画の印影 洋画模倣の浮世絵の錦絵には、洋画の陰影を現はすに、可なり苦心した跡が歴々見 える、唯、淡彩を施して陰影としたるもあり、密なる平行線で現はしたものもある、前者は北寿や国芳 の画中に求むべく、後者は貞秀の画中に其の例少なくない、明治元年に、横浜で発行した新聞紙の一種 に、交叉したる斜線で陰影を現はした画のこまの入つて有るのを見たことが有る、が之を諦視すれば、 矢張二度ずりで、横斜線を摺り重ねたのであつた、明治十一年に出した清親筆の木戸孝允公の肖像は、 陰影を現はすに大小の点の集合を以てし、後年会田氏の仏国から輸入した小口木版の先駆をなして居る。 ヘ 彫工 彫工と摺師とは、錦絵の完成に就て、どんなにか隠れたる苦心史が有ることゝ察せられる、で其の功 績は、絵師と殆ど同等の位置に据ゑても好からうと思ふが、不幸にして、これまでの世間は、絵師の功 績程に、彫工と摺師の功績を認めて居なかつた、従つて名工の伝記や研究の事柄等は案外伝はらず、探 るべき道の絶無なのは残念である。 (い)錦絵面に署名の前例、錦絵の衰頽期に向いた嘉永以後の錦絵面には、往々彫工の名を署する事が 行はれたが、それ以前の錦絵には(絵本類を除いて)彫工の名を明にすることは殆ど無かつた、たまに これ有るは、寧ろ異例と見ても好い位である。 錦絵面に、彫工の名の明なのでは、鳥居清忠筆大判錦絵 劇場の図(鶴かめ貢太平記 四番続 一く わんじん太鼓の狂言)に、 絵師 鳥居清忠 彫工 鶴見嘉七郎 と絵師と相並べて出した例がある、これ等が古い分であらうか、又、鳥居清信筆大判丹絵の美人画に、 「根元画所板木屋七郎兵衛」の名壺有るものがある、板木屋即ち発行者であつたらしい。 板木屋即ち錦絵の発行店の例は、この外にも有る、嘉永後に、湯島四丁目に居て錦絵を出した彫多吉、 又住所は明でないが、同じく錦絵を出した彫正、共に彫工から転業した錦絵屋であつた。彫工の転業といふに因み、絵師の子で彫工や摺師になつた例をも挙げておかう、初代豊国の実子は、彫工になつたる が、放蕩にして住所不定なりと、馬琴の『後の為の記』に見えて居る、又、明治まで生存した芳藤の実子も、錦絵の 彫師であつた。 (ろ)彫工の記名、鳥居清信、清忠の年代よりは、ずつと下つて、天保五年の序文有る広重の横画「東 海道五十三次の内、御油」の宿屋の宿札に、彫工治郎兵衛 摺師平兵衛とあるのは、誰も知つて居る例 だが、この二人は、彼の大画集の刻と摺の責任者であつたのだらう。 年代は明ではないが、一陽斎豊国の「奉納御宝前(ママ)」三枚(西村板)に、刻工小泉新八 摺師□□ 屋長義の記名あり、嘉永年中 国芳筆大石良雄肖像(海老林板)に、摺工幸之助 彫房次郎と記名有り、 明治二年四月芳年筆 三村治郎左衛門の肖像に、刻師登龍斎勝俊 助刻安岡常次といかめしい記識が有 る、そしてこれ等が何れも念入りの彫や摺の錦絵なるより推せば、彫工や摺師の姓名を、紙面に明記す るものは、普通よりは一段念入りの作品に限つて居つたやうに思はれる。 (は)嘉永後の彫工、嘉永後の錦絵面に、彫工の名を署する時は、頭名の一字を、左の数例の誰の字の 位置におくのが常であつた、即ち 彫工誰 雕誰 ホリ誰 刻師誰 誰刻刀 誰刻 そして、其の名がはりを挙げて見ると、嘉永年間 柳太、乃げん 廉吉 安政年間 竹、駒、佐七、庄治、安、宗二、友 万延年間 安、巳の、竹、長、小泉彫兼、小兼九オ、松島彫政 小兼は、木宗版の菅原伝授手習等に見えて居る、幾らか胴ぼりでもやらせた自分の伜を、世間へ紹介したのであつ たらう 文久年間 竹、政、小兼、朝倉彫長、千之助、二代竹、小金、駒改雕多七、秀勝 (に)彫己(ママ)の 彫駒曾ていふ、私は午年生れなので駒といふ名なのだが、己のは己生んだから、私 よりは一つ兄きな筈だ 役者東海道五十三次(豊国画)の白須賀の猫婆を彫つたのは己のゝ十八の時だ つた、あの白髪婆の長い髪の毛がちやんと毛筋通り、本はこまかで末広がり、しかもフラリとして一本 も乱れてゐない手際、あの百枚あまりの続きものゝ中、第一等の出来で、当時大に評判されたものだつ たと。此の白須賀の一枚は、今日之を見るも、西洋小口版にも勝る出来なることが知られる。 万延元年四月 若与版、豊国筆 立(ママ)合「端唄尽」などにも彫己のゝ名が見える、この時代の名工 であつたらしい。東海道五十三次之内 白須賀 猫塚 歌川豊国(三世)画 「彫巳の」住吉屋政五郎板 嘉永五年(1852)刊(東京都立図書館蔵) 恋合 端唄尽 小むらさき 権八 歌川豊国(三世)画 「彫巳の」若松屋与四郎板 万延元年(1860)刊(国立国会図書館デジタルコレクション) ◯『錦絵』第廿九号所収 大正八年八月刊(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝柳と娘こきまぜる楊子店 (お藤) 笠森の団子は七日母が売り(お仙) 耳もそこねあしもくじけてもろともに 世にふる机なれも老たり 山東庵京伝〈文化14年、山東京山が亡兄・山東京伝を偲んで建立した「京伝机塚の碑」にあり〉 栄之翁 の書画会ありける時 桜のかた画たるに 隅田堤老木も時におくれずて いつもお若い花の顔ばせ 三馬〈文化14年3月10日、両国柏屋において鳥文斎栄之六十寿筵の書画会あり。三馬の賛はこの時のものか〉 以上 2025/03/31 ◯「錦絵の印刷(一)」石井研堂著(『錦絵』第三十一号所収 大正八年十一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み 〝 錦絵の印刷は、之約言すれば、水に溶いた絵ノ具を、刷毛にて版面に塗り、紙を其の上に伏せ、バレ ンといふ小具を手にし、紙背より力を入れて摺り、出来上りとなるのである、併し、錦を摺る紙には紙 の選択と処理法ごあり、絵ノ具に原色間色金銀あり、摺具に刷毛バレン等の大小良否あり、摺り方亦甚 だ多様である、こゝを以て、以下、用紙、絵ノ具、用具、摺方、摺師の数項に分けて述べ、成るべく其 の要領を尽さうと思ふ。 甲 錦絵用の紙 〔一〕紙質 錦絵を印刷する紙は、其の質強きを良しとす、其の肉ふうわりと柔なるを良とし、其の面平滑なるを 良しとす、故に若し之に反し、其の質堅硬に過ぎ、或いは粗糙なる時は、絵ノ具の着きが思はしくなく、 其の質脆弱なるは、五遍十遍摺り重ねる間に破れ易くて亦適しない。種類の多い紙の中、前記諸條件を 具備したる紙は、柾、及び奉書に限る、古来錦絵と言へば、必ずこれ等の紙を使用するを常としてあつ た。 〔二〕柾と奉書紙 柾は奉書の一種で、伊予国新居郡の産を良とし、本西柾、三国一、天龍堂などの銘を最良とし、其の 他国安まさ小松柾等、其の製造者や産地に因て名を異にし等級を異にした、武州保土ヶ谷・神奈川、市 下音羽より、所謂地漉柾を産するは、至つて近年のことで、其の形似て其の質異なり、安物の印刷に使 用するに過ぎない。 五分広の奉書といふものがある、奉書は概して小形の摺物が、最上等の特製錦絵を摺るに止めてあつ た。 柾も奉書も、其の紙の寸は同一である、之を二つ切りにして普通錦絵判である、之を大錦といふ、大 錦を二つ切にしたるを中錦いひ、四つ切を四丁張といひ、又六つ切にしたる色紙形、二つ切三つ切の短 冊形あり、安ものには糊入紙を用ひ、判は多種類である。 浮世絵に引いた桂翁雑記に「役者の一枚絵、天明の頃までは三つ切なり、今は二つ切なり、三つ切の 節、新板は一枚八文、古板は一枚六文なり、又糊入三つ切にて一枚二文三文に売りたるもあり、一枚絵 絵草紙類、例年正月元日より売来りしが、寛政の中頃までにて来らずなりぬ」とある、三つ切二つ切の 紙の名を掲げて無いが、今日現在の錦絵より推せば、柾の代取り大差無いやうに思はれる。〈「桂翁雑記」とは山田桂翁著『宝暦現来集』(天保二年序)・『続日本随筆大成』別巻所収〉 〔三〕礬水(だうさ)引 錦絵を印刷する紙は、先づ礬水を引き、然る後に用ひることになつて居る、礬水引きでなければ水分 の多い淡彩ものは、紙ににじむ恐れがある、又、絵ノ具が紙背に透つては、摺りやうが無いからである。 礬水は膠と明礬の稀(ウス)い溶液で、之を紙面に引き、陰干にするのが礬水引きである。奉書に明礬 (ミョウバン)を引けば、紙面に多少赤みを帯び、且つ硬ばりで手ざわりが面白くない、で、なるべくは袱紗 (フクサ)紙--どうさなしの奉書--に摺りたいのである。が、線画の分は左程でも無いが、地潰しの部 分を摺る時、版面に紙の繊維が付着して浮上り易く、一難事である、で已(ヤム)を得ず、地潰しの版だけ を製して、礬水を摺りおき、其の上に望みの色で潰しを摺ることがある、左すれば、全部にどうさを引 かずとも間に合ひ、袱紗紙に摺つたも同様、しなやかに、ふッくりしたる上品を得らるゝのである。 〔四〕しとりを与ふ〈湿(しと)り、しめりに同じ〉 錦絵以外のものでも、素人の摺つた摺物の、概して墨つきの悪いのは、紙に湿りをくれることを知ら ないからである、木版を手摺にするには、其の用紙に湿りをくれ、版面の絵ノ具と親しまなければ、鮮 明に平に摺れるもので無い、で、錦絵を摺るにも、礬水引の紙に、一旦湿りを与へて然る後用ひること になつて居る、其の法、あて紙--柾紙の外を包んであつた厚紙--或いは布をぬらしたるを、用紙の 上下に当て、其の上に裁板(タチイタ)など圧(オモ)しを載せ、少時間其のまゝおく時は、百枚二百枚の紙は、 直ぐ摺りごろになるものである。或いは、用紙十枚に一枚位づゝ、水にぬらしたるを夾み、圧をかけて 四五時間おいても、同様の結果となる、摺師の仕事場に、風通しの好いのを嫌ふのは、唯紙を吹き飛ば されて仕事の仕にくいばかりでなく、この湿りの乾き易いのを忌むのである。 〔五〕裁ち物 裁ち板、定木、裁物包丁、此の三種は、木版摺工の必要品である、柾紙を両断するや、紙の原形が正 しくなかつた為めに、歪形の錦絵を成した時などは、摺上りの後に、少しく紙の端を裁つて、形を正す こともあり、此の三種は必要である。 乙 錦絵印刷の絵ノ具 錦絵印刷用の絵ノ具は、植物性有り、硫物性有り、又原始時代より近代の爛熟時代に下る程、其の種 類多きを加へ、種々の使用法さへ発明されてある、以下、各色につき、代表的絵ノ具を挙げておかう。 〔一〕黒色 黒は、之を用ひない錦絵は無い位で、最も利きものである。 墨汁は、漬け墨とて、使ひ古した屑墨を、摺鉢に入れ、水をさして数昼夜おいたもので製す、其の法 よくうるけて柔になつた時、擂棒にて良く之をすり潰し、之を布ごしにして使ふのである。墨は其の用 途が多いので、一度に稍多く作りおく、又、上等摺物用の墨汁は、漬け墨を使はず、上等墨を硯ですり、 以て之を用ひることもある。 〔二〕赤 赤の絵ノ具としては、紅、朱、紅殻、丹、等の数種有る。 (イ)紅 (記事省略) (ロ)朱 (記事省略) (ハ)紅殻 (記事省略) (ニ)丹 (記事省略) 〔三〕黄 黄の絵ノ具としては、鬱金(うこん)、雌黄(きおう)、籐黄(きわう)等を用ひた (イ)鬱金 (記事省略) (ロ)雌黄 (記事省略) (ハ)籐黄 (記事省略) 〔四〕青 青は藍、ベロ藍を用ひる (イ)藍 (記事省略) (ロ)ベロ藍(記事省略)ベロリン(ベロ藍) 『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧311〈ここで引用されている青葱堂冬圃の『真佐喜のかつら』記事〉 〔五〕白 白はつちといふ、胡粉のことである、これは、単に白色として用ひるばかりでなく、各種 の色に混用する、たとへば、生黄に土を合せて黄土となし、薄藍に土を合せておなんど色とする 類である。 〔六〕金銀 金粉銀粉を主とし、上等ものは箔を用ひる、天保改革後、錦絵に金銀を用ひること禁制で あつたが、笑本や発句の摺物などは、元より出板無届のものなので、金銀摺もあつた。 〔七〕姫糊 何色に限らず、其の絵ノ具の質を濃厚にし、且つ版面と紙面とを襯着せしむる媒とし、絵 ノ具姫糊を加へて摺ること普通である〟 ◯「天保七年の飢饉と浮世絵師 ―北斎の一計― 」(『錦絵』第三十二号所収 大正八年十二月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み 〝 天保七年、諸国飢饉で、江戸市中でも飢えて路傍に倒れる者、数知れぬほどあつた。随つて凡べての 商売は殆ど休業の有様で、難儀をせぬものはない位であつたが、其の中にも錦絵、画双紙の類は固々玩 物であつたから、誰一人買ふものもなければ新しい絵を発行する版元もなかつた。困つたのは浮世絵師 で、其の困窮は全く言語に絶するほどであつた。が一人北斎は此時に方り一計を案出した。夫れは唐紙、 奉書、半紙など、紙と云ふ紙は何紙たるかを問はず推(タタ?)く机の辺りに積み重ね、昼と云はず夜と云 はず、腕を揮つて山水人物、花鳥草木など、筆の走るまゝに任せて描き捲つた。而してこれを裱して画 帖となし、所々の画草紙屋の店に出したが、北斎は既に当時名を知られて居た為め、大いに好評を博し た。然し画帖のみでは尚ほ三度の食を得るに物足りないので、更に絵直しとて、絵直しを請ふ者、先づ 筆に墨をつけ、其の面に点或いは線を引き、これに米一升を添へて、翁の許に送ると、翁は其の線或い は点をもととして筆を添えて、種々のものを画いて与ふる妙案を案出した。これを投米会と云つたが、 依頼者陸続として集り、一日に二斗三斗の大米を得、飢餓を免れたと云ふ〟 ☆ 大正九年(1920) ◯「錦絵の印刷(二)」石井研堂著(『錦絵』第三十五号所収 大正九年九月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み 〝 丙 錦絵印刷の要具 錦絵印刷の要具としては、大小刷子、絵具はこび、バレン、雑巾、当てぎれ、摺鉢、油皿、定規、裁 物具、製版具等である、一見多種多数の器具を要するやうであるが、刷子とバレンの外は、家庭用品の 一部を流用しても間に合ひ、或いは自ら製作しても用うべく、左程一定した成品の有る訳でもない。 我が国特有の錦絵、花の如く、五彩絢爛の錦絵が、斯く僅かばかりの器具で刷り成されるものなるこ とは、欧米人などの予想とは、大に相違して居るのである、先年米国ボストンの東洋博物館で、日本錦 絵印刷の器具一切を陳列したいといふて、わが岡倉覚三氏に交渉し、岡倉氏は、之を本邦に求め、墨版、 用紙、絵ノ具と前記諸品を併せ、之を彼の国に送つたことがあつた。然るに其の附色具としては寸許の 刷子数個、加圧器としてはバレンの一二個に過ぎず、其の他はぼろ雑巾、欠け猪口に茶碗の数個有るの みであつたので、米人は腑に落ちず、此の粗具粗品で、此の精緻妍麗の錦絵の印刷の出来る筈は無い、 日本人は、其の国技の秘を盗まれるのを恐れ、真正の印刷具類を、国外に出さないのではあるまいかと 疑つて(ママ)程であつたさうである。輪転機で幾色版の彩画を摺り成す程に、機械的進歩著しく、一から 十まで機械づくめの習慣になつて居る彼国人から見れば、わが錦絵印刷器具の粗末にして貧弱なるには、 必ず一驚を吃すべく、豈たゞボストン人ばかりではあるまい。 実に、錦絵印刷は簡単である。僅々上記の数品さへ調達すれば、予等之を試みても、錦絵に似よつた ものを摺り得ることは、予輩の実験で明である。併し、各件の使用方の精通、或いは掌裡の熟練等、文 字以外所謂コツを得るもので無ければ、たとひこれだけの器具を提供せられた所で、真の錦絵は出来な いこと、素より言ひまでも無い、以下、各具に、略解を施さうが、其の形態図は、既に公になつてゐる ものも有るから、重ねて之を本誌上に掲げて、紙面を塞ぐことを避ける。 〔一〕刷子 刷子は絵ノ具を、版面に着ける器具で、大小数種を用ひる、又、一旦或る色に用ひたる刷子は、如何 に洗ひても、他の色に流用すること六ヶしいので、色版の異るだけ、刷子をも異にしなければならず、 総ては、可なり多数の刷子を要する。 版に大小有り、絵に精粗有り、従つて刷子亦大小各其用を異にし、大なるは幅二寸五分位、小なるは 五分ゐ以下のものもあり、大者は墨板を刷るに用ひ、小なるは一文字目隅等細小の色分を摺るに用ひる、 特に金銀粉泥の摺込等には、小なるを用ふ、墨摺に用ひるを摺込刷ともいふ、刷子の、手に執る部分は、 檜の柾で作るを常とし、摺込刷子は、竹の栖(ママ柄?)なるも有り、毛は馬毛に限る。筆の新らしきは使 ひにくゝ、暫く用ひて後に使ひ心地好きと同じく、刷子おろしの法を施す、刷子おろしとは、先づ好く 洗ひて灰を(あく)を去り、次に剪刀にて角を去り、蝋燭火にて、周囲の角張りたる部分の毛を焼き切り て、蒲公英の花の形に似たる形を作り、次に鮫の皮にあてるのである、目の細密な鮫の皮を柔にし、之 を板に釘づけしてヤスリ様になし、前の刷子の毛さきをこの鮫皮上にこするのである、各部平均にこす るを好しとするのだが、慣れない間は、或る一部分だけ当たりて、出来にくいものである。斯くすれば、 毛さき細く柔くなり、元は強く、絵ノ具の心のまゝに版に付くこと、好き筆の転回抑揚意の如くなるに 同じい、若し、かゝる手数をかけなかれば、毛さきに浸せる絵ノ具汁、版面に平均に付かず、刷り成し た錦絵は必ず醜いものとなる。 木又は竹を柄とし、歯磨ブラシ様に作つた一種の小刷子あり、之を鉑刷、櫛刷などといひ、共に鉑を 摺る時の要具である。〈鉑は箔〉 〔二〕はこび これは、刷子の補助を為す小具である、刷子さきを、絵ノ具皿、又は鉢の内におろして、絵ノ具を吸 はせたのでは、一時に多量に付き過ぎる恐れがある、よつて、絵ノ具皿と刷子の間を、この物にて媒す るのである、竹の皮を細く糸の如く裂き、之を一寸程の長さに切り、箸のさきに之を結び付けて箒の如 き形となせるもの即ちこれで、亦絵ノ具一色一本づゝを要する。 このハコビのさきを絵ノ具皿の中に一寸浸し、刷毛の毛先に塗り付けるのである、此のハコビと刷毛 とを、今日の活版印刷機で言へば、肉出しロール、肉移しロール、肉錬りロールの役をつとめるので、 版面に付くる色料の調節とねりを全からしむる。 〔三〕バレン バレンは、板面に絵ノ具を塗り、紙を其の上に当てたる時、手に持ちて紙背を擦り、圧を与へて絵を 刷り成すもので、刷工唯一の財産である。バレンは、三種の物件にて成る、(イ)心、(ロ)当て皮、 (ハ)竹の皮これである。 (イ)バレンの心(シン)は、竹の皮の線で円座の形に作つたものである。 竹の皮を細く裂き、それを四子に撚り、之を亦撚り合せて八子の線となし、之を平めの渦形に巻き固 め、其の中心より外円に向つて、五ヶ所或いは八ヶ所、元結で結み、形の崩れぬやうになす、特に上等 の密画を摺るバレンは、菅糸十二子よりに、柿渋を塗りたるを用ひ、又粗雑のバレンは、美濃紙又は雁 皮紙の紙撚を八子に撚合せ、これに渋を塗りて用ふ、其の製作法は何れも同じい。〈「四子(ヨッコ)に撚る」とは四本の糸を撚って一本にすること。「菅糸(スガイト)」とは撚りをかけない糸。紙撚は「コヨリ」〉 (ロ)当て皮 挽地の神の鉢に似た形で、バレン心を其の内に納め、其の形を保たしむる為めのもので ある、張りぬき製を上等とするが、今日の品は脆弱のマヤカシ製ばかり多い、円い模型に、西の内紙を 幾枚も重ねて渋糊で貼り固め、中央部は二分厚さ、周辺は一分厚さ、下面に向かつた縁を二分厚さ程に し、而る後其の面には紗又は絽の切を貼りつけ、蝋色漆で塗り上げたものである、之を模型より脱き去 れば、即ち当て皮である。〈「神の鉢」とはお供え物用の器。「蝋色漆(ロイロウルシ)」とは鏡面のように平らで、艶やかな光沢を出すための漆〉 (ハ)竹の皮 心(シン)を当て皮内に納め、其の外を竹の皮にて包み、上に結びて手に執るに便し、こゝ にバレンは成るのである。 竹の皮は、バレン用とて売り物にあり、すべて竹の皮の表は、筋立ちて平でないので、めこすりとい ふことをして、平ならしめ、紙の上を摺る時に、成るべく軽く紙と密着するを図る、めこすりは、竹皮 の目をこすり殺すの謂で剪刀の尻か、猪の牙でも好し、水にて柔軟にしたる竹皮の筋立ちたるを、横に こすりて皮を舒(ノ)ばし、平にするのである。 白皮を内にし、斑面(おもて)を外にしてバレンを包み、皮の両端を中辺にて交へ結びて余分を剪りす て、其の結び目を、広さ一寸七八分の木綿布にて巻き、手に持つに便ならしめる、この包み結ぶこと稍 熟練を要し、摺師の巧者不巧者は、大抵その包み結び方にて推測が出来ると言ひ伝ふる程で、これが満 足に出来れば、一人前の摺師といふても差し支え無い位である。 〔四〕雑巾 摺色をぼかしに出さうとする時は、ぼかし雑巾を用ひる、ぼかし雑巾は、版面へ刷毛にて絵ノ具を塗 り、其の或る部分をぼかしに摺り上げやうとする時、此の雑巾で二三回軽く拭いて絵ノ具を去り、然る 後に摺り成す故に、其の拭き去られたる部分は、有る如く無き如く、薄いぼかしに摺れるのである。尚 ぼかしのことは摺法の條下に之を述べる。 此の雑巾は、二寸巾に一尺五六寸の木綿きれを三つに畳み、其の両端より内に向けて巻き合せたもの を、麻にて結び束ねただけのものである、或いは竹製の小刷子で、間に合せることも有る。 〔五〕あてぎれ これは、版を摺る時、版木のがたついたり、移動したりするを防ぐもので、古い拭巾(フキン)などを折 り畳み、版の四隅の下、摺台との間におく枕である。 〔六〕摺鉢 従来、墨板用の墨汁は、漬墨(シボク)を摺り潰して用ひ、普通硯にて磨りたるを用ひない、そは、濃色 を要するからである、この他、絵ノ具を細末にする乳棒乳鉢、色料の粉末汁液の差別なく之を貯へおく 色鉢などは、何れも普通の陶製鉢類などで、殊に述ぶるほどのことは無い。 〔七〕油皿 バレンを使ふ時、其の下面に油気を与へ、滑りを好くす、胡麻油などを、巾に含ませ、小皿に入れて 座右におき、其の巾にて時々バレン面を擦り、以て油気を移す。 〔八〕摺り台 錦絵を摺る時、版木をのせる台で、版より周囲一寸位づゝ大ぶりの板の、一方だけ一寸程の脚を付く、 其の高き方を、摺師の前に据ゑ、向ふのめりの位置において使ふのである。 〔九〕紙裁具 曲尺(カネジャク)、定規、裁板(タチイタ)、この三者は無ければならぬ、先づ錦絵用の紙を改め、正角でない 場合にhあ、其の四辺を裁ちて角を正すべく、其の他、絵の大小に応じて、紙を裁つ必要は、時々起る、 それに備ふるのである。普通の裁具でよい。 〔十〕あて板 錦絵用の紙に湿りをくれたる時、この板二枚を上下に当て、数時間圧をくれておくものである。 〔十一〕整版具 始めて摺る板おろしの版なる時は、鋤、浚ひの尚残りて、ケツのツクもあり、又、紙の下辺を当てる 見当は、墨板色板とも、正しく符合するやうに出来て居る筈ではあるが、実際摺り合せて見れば、多少 の狂ひの有ること常である、で、精密に其の摺合せを検し、毫厘の且吾なきやうに、見当を修正しなけ ればならない、これ等の整版は摺師の仕事で、大小二挺の角鑿--見当鑿、又しのぎ鑿といふ--や、 小刀、小鋸、丸鑿の大小三挺位は、用意しておく。〈「且吾」は齟齬、食い違いの意味〉 摺師の用具は、大抵右に挙げただけで尽きて居る。僅かにこの数品で、彼の驚くべき作品を成すのである〟2025/04/30